どんなときに「自由度」といいたくなるのか

経緯

もともとこういう語の使いかたには興味があったし、だからディスコエリジウムをだしにロールプレイについてうだうだしたときにもすこし触れてはいた。そのうえで、上野「ゲームにおける自由について」1およびそれに対する松永さんのコメント、あるいはシカール『プレイ・マターズ』あたりを読んでよけいに気になっていた2。そしてそうこうしているうち、こないだ「自由度」をキーワードにしたTotKのレビューを読むにいたって、せっかくだから書きながら考えてみようとおもったわけだ。自分はけっきょく、ビデオゲームについて考えるときに出てきがちな「自由度」という語をどうとらえてるんだっけ、と。

省みる前に

とはいえ一般的なとらえられかたでいえば、先述の松永コメントにあるとおり「あるゲーム(のある場面)におけるプレイヤーの選択肢の幅の広さ、あるいはプレイヤーに対する指令の少なさ」でよさそうだ。(しっかり用例採集したわけではないけれど)ある種のスラングとしてこのように使われている3のはそのとおりにみえるし、これからはじめる反省に先立って考えてみるにつけても、まずここが出発点にできそうにおもえる。

また、これをかんがみつつ、以下の二点についても念のため確認しておきたい。

  • 「○○についての自由度」といった形で議論の領域が限られていれば、とくに理解しづらくなるような語ではない
  • (なんらかのいみでの)「自由度」の高低がゲーム全体の評価に直結することはない

こうしたことは先のTotKレビューでも明記されていたけれど、そうでなくともあたりまえの話ではあるはず。前者についていえば、選択肢というからにはその領域を限定しないとわからないよねという話だし、後者についていえば、(なんらかのいみでの)「自由度」のみが評価基準ですよと明示するなり正当化するなりしていないかぎりそうにきまっているだろう。

ただ、そのうえで、それにもかかわらず、なにもつけずに「自由度」を使いたくなる4、さらには評価に短絡しそうになることが、なぜだかある。そんなときの自分の傾向性を省みてみたい、という感じです。自分はどうやら「自由度」の3文字に(文字通りには解せない)意味を載せすぎているらしく、それを取り外すにせよなんにせよ、まずはそれがなんなのかわかりたいんよ。

使ってみる

まずは、「自由度が高い」という句をてきとうに使ってみて、自分の直観に合うかどうかを判定してみることにする。○はとくに違和感がない、△はなんらかの限定がないと受け入れづらい、×は限定をつけても違和感が大きい、程度。

  • ×ポケモンは自由度の高いゲームだ。なぜなら、バグを利用して任意コード実行が可能だから
    • バグはダメなんよ
  • ×ニーアオートマタは自由度が高いゲームだ。なぜならエンディングの数がたいへん多いから
    • 選択肢があればいいというものではないらしい。ニーアオートマタの「エンディングの多さ」は特殊なゲームオーバーを含む点で特殊に感じられるかもしれないけれど、とはいえほかのマルチエンディングかつその種類がある程度あるゲームを想像してみても、やっぱりしっくりこない
  • â–³Minecraftは自由度の高いゲームだ
    • 複数の場面で「指令が少ない」に該当しうるため一般には〇になりそうなんだけど、自分にとっては△なんですよね。ちなみに、マイクラではエンダードラゴンの討伐がいちおうの「エンディング」を見るための条件になっているのだが、それについての「ゲーム側からの要求」(ってなんだろうね)がかなり低くみえるのもポイントかもしれない
  • △ディスコエリジウムは自由度が高いゲームだ
    • ある種の「幅の広さ」があるのは間違いないんだけど、それが「ロールプレイの幅」でないことは先の記事にも書いた(もちろん「ロールプレイ」っていうよくわからない語のとりかたも関わってくるところで、むしろそれを考えたいのが先の記事だったというのもある)。そのうえで、なにも限定しないときの「自由度」としてもしっくりこない。ただ、まあ△くらいだな
  • ○ティアーズオブザキングダムは自由度の高いゲームだ
  • â—‹Divinity: Original Sin 2は自由度が高いゲームだ5
    • このへんはいい。なお、TotKはエンディングが1種類だが、D:OS2はいちおう最後の最後で分岐がある(がまあ、これは「マルチエンディング」というか、最終的な目標が複数あるとは言わないだろう)

とりあえず、まじもんのバグによる「できることの多さ」は考慮されないようにみえる。開発者の意図なのか、そのゲームのルール(?)なのか、そういったなにかしらを気にしているらしい。いっぽうで、目的(ここではかなりざっくりと「ゲームオーバー/ゲームクリア」くらいで)と手段あたりの扱いはちょっと微妙でわかりづらい。

で、結局のところ、ここでつい挙げてしまったのがTotKやDivinityであり、一方でマイクラが△になっているあたりを鑑みると、「なんらかの目的(ここは「ゲームオーバー/ゲームクリア」よりミクロなもの)にたいし『正当』ではない手段(力技)が許容されている」というあたりが、自分のなかではコアな意味になっているのではないか。

これを上野論文にならって「プレイヤーがゲーム内での自らの行為の創造者が自分であると実感できること」(の度合い)と表現しても、それほど違和感はない。これと「あるゲーム(のある場面)におけるプレイヤーの選択肢の幅の広さ、あるいはプレイヤーに対する指令の少なさ」をなんらかのかたちであわせることで、それなりに自分のニュアンスに近付ける気はする。のだけれど……実際のところ、結果として出てきた表現からそうも読みとれるという話でしかない6。

掘り下げてみる

というわけで、先の松永コメントにある以下の腑分け(上野論文で触れられていないとされた非義務性も0として付番した)を使いつつ、上野論文を参照してもうすこし掘り下げてみたい。

  • 0: ゲーム参加の非義務性(伝統的な遊戯論における「自己目的性」と強く関連する)
  • 1: 規則からの逸脱やその転覆(シカールの「流用」が近い)
  • 2: ゲームメカニクスを自分のものにしていると感じる経験(プレイしているときに感じる「自在さ」のようなもの)
  • 3: あるゲーム(のある場面)におけるプレイヤーの選択肢の幅の広さ、あるいはプレイヤーに対する指令の少なさ(俗にいう「自由度」の一般的な使われかた)
  • 4: ゲーム上の事柄を自分事として(あるいは自分の行為に「意味」を与えるものとして)感じられること(「没入」が近い)

これにそくしていえば、上野論文の第4節では、1を除外しつつ、4をメインに据え、2をその前提条件としてとらえつつ「プレイヤーがゲーム内での自らの行為の創造者が自分であると実感できること」(がゲームにおける「自由」である)を導いているようにみえる(たぶん)。3は明示的に扱っていないけれど、2や4を感じられることのさらに前提としてとうぜん必要ではある。

ひるがえって今回問題にしたい自分のなかの「自由度」についていえばまず、バグを除外するといいつつも、1の影響がどうしても無視できないようにおもえる(そのいみで、RTAの扱いがやや微妙なものになってくる)。ただ、(そもそもシカールの「流用」あたりをどうとらえたらよいのかまだよくわかっていないところもあるので自信がないのだけれど)どちらかというと「アポロン的なものとデュオニソス的なものとの緊張関係」云々の流れで挙げられていた「カーニバル的であること」のほうが近いのかもしれない7。というか、1における「規則」と、ここで指向の方向性を決めるものとして考えた「王道/邪道」というのは実質的にはかなり異なる概念でもあろうし。やっぱり過剰につなげすぎないほうがいいのかもしれない。でも、あえてそこを連続的にとらえ、その境界を攻めようとするのは、ある種のゲーマーのもちうる心性のひとつのようにもおもえるんだよな。規範とは……。

で、「開発者の意図」みたいなものを想定するかぎりでは、そこからの外しのために2の「ゲームメカニクスを自分のものにしている」ような状態、つまり「開発者よりもおれのほうがメカニクスをよく知っていて、自在に操れる」感覚が必要になってくるという意味で、上野論文のロジックを相似的にもってこられそう。また、4も絡めようとすれば絡められて、けっきょく没入するには、「開発者の手の上である」というのを一時的にでも忘れられなきゃね、というのがあるんじゃないだろうか。もちろん結局許容されているという意味では(さらにいえば、変なバグが起こらないであろうというちょっとレイヤが上の信頼さえあるという意味では)まさにお釈迦さま的な「手の上」ではあるにせよ。そしてそれでも、「没入」のためのさまざまな手管のうちには、このいみでの「自由度」を逆に疎外するものがふんだんにあることにも注意しておきたい。

……うわ、しまった、気力が切れて突然ダラっと2段落書き下してしまった。うーん、ようやっとスタート地点の一歩手前くらいまでしか来てないんだが……。ぜんぜん整理できてないんですけど、もうすこし用例採集してみたり、『プレイ・マターズ』をちゃんと読み返してみたり、ほかの文献(脚注にも書いたけど、とりあえずグエン“The Right Way to Play a Game.”が気になる)とか読んだりしたほうがいいのかもしれないな。まあブログの記事いっぽんぶんとしてはいったんこんなもんで。

みなさんにとっての「自由度」ってなんすかね?


  1. ちなみに、「ゲームにおける自由について」そのものとは別に、もとになったとおもわれる上野さんの修士論文「ビデオゲームにおけるプレイの失敗について」の概要も紀要に載ってる。「〜自由について」でちょっとだけ触れられているグエン(Nguyen, C. Thi. 2019. “The Right Way to Play a Game.” Game Studies 19 (1).)の主張について掘り下げられているらしいあたりがとくに気になるな……。
  2. そのへんが出たのがこのへんだろうか。ただ、同じく挙げている「ナラティブ」や「ゲーム性」みたいないかにもまずそうな語についてはそれらに関する議論をいろんなところで見たことがある(なので、いまどき「ゲーム性」を素で使ってる人ってそんなにいないとは思う)のに比べると、「自由度」については最近までまとまったものをあんまり見たことがなかったんですよね。いずれも松永さんのブログからになってしまうのだけど、ナラティブについてはこれ、「ゲーム性」についてはこれとか。「リアリティ」もたしかにそういう系の語だな……。/それにしても、こういう話をしようと思うと松永さん関連のものしか引っぱってこれないのはどうにかならんもんだろうか。ありがたいんだけど、一方で自分がうまく探せていない感が強いし、あまりに引き合いに出しまくって雑なこと言ってるせいでムカつかれるんじゃないかという気もする。
  3. 文字通りにとらえれば「自由」の程度が「自由度」であるはずなので、「自由度が高い」を「(より)自由である」ないしもっと端的に「自由な」等と置き換えても通じるはず。なのだけど、後述するような限定をつけるときにはそれらのバリエーションがみられる一方、限定をつけないときにはもっぱら「自由度」が使われているようにもみえる。ちょっとおもしろい。日本語としての通りのよさというのはあるにせよ、いかにもスラングって感じだ。/なお、辞書的な定義としては「規則にしばられた中で、もちうるゆとりの程度」といったものとされている(ここで引いているのは精選版日国だが、ほかの辞書でもだいたい同じ)。
  4. さきの脚注でも触れたとおり一般にもある傾向にはみえるのだけど、ここで扱いたいのは自分のなかの話です。
  5. 自分はこのシリーズをなにかと引き合いに出しがちというか、このあとすぐ説明するような点で自分にとっての「自由度の高いゲーム」のプロトタイプなんだと思う。
  6. 後述するとおり導くための過程が被ってこないので当然なのだが。そしていうまでもなく、おれのかってな言語使用の内実をとりこぼしていたからといってなんだという話である。/あと、上野論文では第5章で「なにを/どのように」と「目的/手段」を区別していて、前者の話にフォーカスしているんだけど、「正当」云々が出てくるには、ややミクロではあれやはり「目的/手段」で捉えたほうが、ここの話には合ってるみたいな話もあるか。
  7. ただ、今回これを書くにあたっては第1章をざっと見返しただけなんだよな(不誠実!)。「流用」じたいはそんな転覆一辺倒の強さをもってるかというとそうではないようにもおもわれる。全体的には「正当」どうのこうのとは関係ない手放しの自由を押し出す論調な印象だったのだけど、よく考えてみると、ルールそのものを転覆するかどうかは置いといて、「反抗」みたいなもののほうが重視されていたんじゃないかという気もしてきた。「遊び心」ってそういう。いやまあもういっぺん読むか……。