マジでちょー寝たよ

昨日

記憶がないくらい寝た。昨日は大学から帰ってきて、ご飯を食べて横になって寝た。0時くらいに起きた。だいたい6時間くらいか。最近は悪夢をよく見ているが、睡眠時間はたくさん取れている。ここ数日は2,3時間ほど寝て、起きて活動をして追加で6時間くらい寝ている気がする。


講義

文化人類学の講義でP・シンガーの動物解放うんぬんを学んだ。というか、大体知っているというか、聞いたことはある。そもそもこちらで受ける大学の講義ってもともと知っていたことばかりだ。興味ある講義ばかり取っているからか。知っている、情報として耳を通したことあるということは、実際に悪や善を知ることと意味は異なるが、そういったことを考える以前に疲れてしまい、様々な物が止まった。毎度毎度だが、こういうことを聞いてしまうから社会適性が無い。自分事である(言い切り)と論者は言うが、本当にそうであるのか、ということについて熱心に語られないために私は留保をつけて話を聞いている気がする。有るはずだが語られない物の予感が私に判断を止めている。レポートでは人間と動物との関係を講義の内容を踏まえて語るようだ。言うて1200字なので日頃書いているブログより短いくらい。まぁちゃんと講義の内容を踏まえて、なので種類は全く異なるが。さっさと終わらせたい一方で、無意識下で処理し続けていること、動物を工場的に扱う虐待・搾取の空間がリソースを食っていてまだ書けない。


今

キーボードを前に30分くらい止まってしまった。一旦ここで終わりだ。こういったことを考えていると、自分の内部で巡っている分には無意味だからせめて何かの作業に取り掛かれと自分の中で号令がかかる。放漫に生きていて、無知で無力であるから、せめて強者に寄りかかり、争いから逃れられることを祈るしかない。不愉快で何もかも許せないが、積極的に忘れさせて欲しいとも思っている。昨日は脂肪やその輪郭を描くモルフォをやっていたが、思いめぐらせている頭では上手く線を引くことに集中できなかった。本、白紙、ペンと私だけで線を引いていたかったが、どうも頭がうるさい。基礎練習は忘我にあるときがある、モノがどう見えるのかというのを線で知る作業をずっと繰り返して誰も居ないところに行きたいとよく思う。

横になっていた

昨日の振り返り
昨日は体調が悪かったので横になっていた。シャニのコミュを見たり、音楽を聞いたり、ボイトレ動画を見たり…。少しだけ絵を描いたが、上手く線が引けないし、私にとって絵を描くときに大事な姿勢である、このまま良くなって行けるみたいな姿勢がもはや取れない精神状況だったので無理に描くのは止めた。その、ラフ→線→塗りみたいなので描くときもあれば、ラフ→色のときもあるけど、いずれにしても、自分にとって良い絵が描けるときは、今どの段階であっても遡って良い絵に変えることができる。その気持ちが大事で、これはある種の勇気だ。今の段階で良さを目指すことができ、より良くなる部分を見つけて遡って良くすることができる。飯を買う気力が無かったのでUberを頼み、食い、適当に数時間寝て、大学の講義を受け、ゼミの同期と飯を食って帰ってきて寝た。もうゼミが無いので会うことは数回だろうか。

 

今日の目標

今日はまず少し基礎練習をしよう。
そういえばこの前は人間の顔の筋肉の支点~筋膜をちょっと書いた。顔面に存在する筋肉がどこから始まり、どういう表情の時にどこの筋肉が引っ張られて…みたいな。解剖的に顔を見ると、一つの工場をみているような、ベルトコンベアやコンテナを吊り下げる縄みたいな筋肉でたくさん支えられているようなそんな感じがする。ちょっと怖いが。そろそろあまり自分が描かないような絵を描きたいなと思っている。そのために前回行ったイラストの分類があり、それを参考にしつつ、基礎練習として形態学の模写をしてそういった身体を描くことへの慣れをもって1枚描きたい。

 

うーーん、腹痛と寒さと風邪気味とでまともに文章も書けない・・・。恢復に専念するべきという意見もあるが、することがないからこういうことしかできないけど、だからといって楽しく出来るわけでもない・・・。

 

自覚の無さ

昨日の反省

昨日は風邪を引いていたみたいで、体と精神の同期が取れていなかった。

そういうとき、家具に体をぶつけたり、ご飯がおいしくなかったり、キーボードでの文字の打ち込みがうまくできなかったりする。

鼻づまりがすごいから呼吸がうまくできない。そんな状態で昨日はカラオケに行ったものの、入室して10分ほどで、いつもよりも発声できる音域が狭かったことに気づいた。喉の調子が悪く、声帯のくっつき具合が弱い。頭で想定する音程の移動に喉がついてこないし、地声→ミックスの推移がぎごちなかった。それなのに3時間も入室してしまい後悔したが、いつもよりキーを8低くにして楽な音域で歌うことで誤魔化した。
ボイトレ講師等がよく言うことがあり、自分の音域で魅力的な部分を生かすように選曲したり、キー変更をするべきだと言う。しかし、最低音~最高音が自分の音域が自分に合うかの確認をしなければならない。また、典型的にはサビに人の感情を揺れ動かすような、自分の高音域で打ちつけられるような音色やピッチで歌うべきとされている。

原曲のキーに固執するあまり、自分の美味しい音域を捨てるのはもったいないが、それはそうと美味しい音域の自覚と、原曲キーの高さの練習が足りてなければ向上することは難しい…。こういう時にキー変更をすることでチェスト~ミックスにある美しさを思い出したりするが、そもそも風邪というデバフがかかっている状態では…休むのが一番よかった・・・。

睡眠不足で風邪を引いたのは仕方がないし、絵が描けたので良かったが、やはり効率が悪い。2日を1.3日分くらいで使った気がする。

まぁけど・・・いいか。

 

星屑テレパス

4話まで見た。主人公は話すのに困難があるようだ。あの(ano)って一言言うにしても、a,n,oのひとつひとつに力み、声帯や筋肉の緊張が感じられる。人と対することの緊張、何かを伝える怖さ、何かを伝えられた嬉しさ、受けいれてくれた嬉しさ、それらが彼女の中では極大になっている。そんな彼女を見ていると、(これは彼女に伝えない態度だが)、赤くなること、緊張することに飽きないな。という気持ちになる。彼女にとって対人という事が常にそれほどの刺激だったり受容であるというだけだろうが、他者にとってはその人が赤くなることの理由が分からないだろうから、私は赤くなっても仕方が無いなと思うだろうと思った。勿論赤くなることは自動的なものだろうが。
3話で出てきた瞬というキャラクターがいる。”興味のある事しかしない”と自称し、ロボット作成のため工学を学んでいる人だ。明確に主人公を拒絶へ振る舞いをし、拒絶を含んだコミュニケーションをしてくれる人だ。彼女の態度に心当たりがある。自分の信念、一般的他者の受け入れがたさ、苛立ち。他者のほとんどの人がそういった態度でいると思っている。主人公らへもまたそう。彼女は主人公に責任を求める。話すことの責任、ここに来たことの責任、あなた自身が行動することの責任。はっきりと彼女に伝え、それを行えない主人公は傷ついて涙を流すものの、フォローする仲間がいる。そして彼女はその責任を果たしてコミュニケーションを行う。

主人公が赤くなること、上手く伝えられ無いこと、はっきりと話せないことは生まれ持ったモノだろうが、その上で彼女がどのような身振りだろうが、伝えようとすることは伝わっている。このような主人公を用意して、彼女に志向、目的を与えて不安と葛藤の中で勇気を出した行動を見ることは、見ても良いものなのかと戸惑うところがあるが、私の思想によるとやはり、キャラクターたちは私たちの世界に訪れる協力者であり、キャラクターたち彼女らは表してくれているのだ。ただひとこと美徳と言って表されるものでは無い。それ以上に豊かで不思議な価値を。こういった彼女たちの姿を盗み見しているような不徳は、感じられなくはない。しかしこのような舞台を見ることは、この話を受け入れる人々に意味を与えていると感じられる。

風邪気味で外は風が強くて隙間風が入ってきて心地よい環境では無い。うっすら不安な心地でいる。このブログも何かテーマを持って文章を書けているわけでは無い。後々で見て何を感じていたかを確認するための書き留めにはなっているか。残り8話を見ながら定期的に感想を書きたいところだ。

 

エルデンリングの魔術プレイが辛かったので、体力を上げて武器を強化するだけのプレイをしていたが、それはそれで何とも言えなかった。ボス戦闘は快適だ。ただ、それ以外のカロリーが高い。マップ移動が疲れる。ゆったりと時間をかけてやりたいものだが、今の自分にはすこし心が追いつかないところがあった。
今日は講義があるので適当に受けて早めに寝よう。

あと、昨日は絵のフォルダを分けていた。適当に、”コンセプト”、”フォルム”、”たたずまい”、”カメラ”、”肉体”、”色”、”位相”、”キャラを描くことへの奉仕”、”キャラクターへの好意”みたいな個人的に感じる良さで分けていた。自分は色んな良さで絵を見ているな~と思った。また、R-18よりのものは、”盲目的”とか”実験的”とか色々な属性があるなと思った。しかし、1枚1枚判断をするのは結構疲れた。

おはこんばんちわ(23:46)/星屑テレパスについて/エルデンリングのプレイ感想

昨日描いた絵

宇宙語(¥3980)

星屑テレパスを見ていた。1話だけだが。もともとDアニメで配信されていなかったが、配信開始したらしい。あがり症の少女が主人公のようだ。”きらら”って銘打って話をしたいわけじゃない。ただ、内気、あがり症の子が主人公の物語というのが、きららが許す土地という感じがする。そういう子って言葉を放さないから、話をどう展開させるって言うんだってはじめ思う。言葉を放すと周りに作用する。周りが関わってくれるか、周りが主人公に触れたり、アクションしたりしなければ画面は動かない。主人公にカメラがついているなら。主人公が何を思っているのか、どうしたいのか、何を想像しているのか、っていうのを絵(イメージ)で見ることは出来るが‥。嫌いと言っているわけじゃなく、主人公が動かない物語の枠で何をどう進めて行って視聴者は何を見れるのかっていうことだ。そもそも主人公が動かないわけじゃない。1話の冒頭の時点で内気な(この子はただ内気というわけでもない)子が、何をどうしていくんだっていうことを思っただけ。今、脳が空回りしてかつ昨日の睡眠負債を背負っていてうまく考えれていない。この話に着いてもっと光をあてたいところがあるはずなのだが。そういえば灯台が自分は好きなのだが、それが作品にもあって嬉しくなった。うみかの髪がかわいい。こういう色合いはとても好きだ。テレパスというように作中にもそれが表れるが、”宇宙”、”コミュニケーション”、”放つ”、”興味”とかそういうのが話の中にある。


星屑テレパスをみて
自分は内気だったというか、吃音とあがり症が小学生1年生くらいまであった気がする。吃音はまだまだ全然あるが、バイト、仕事で困る。発言することで人に注目され硬直する身体感覚が嫌だった、一方で自己愛が高かったので自分が評価されるべきと思い、人前に立つことが多かった。家庭的に行動させられることも多かったし、学校空間では講師や教師への反骨精神が強かったのでアクションを取ることも多かった。私の視界の端では一切行動をしないように見える学生も居た。私は変な人だっただろうが、少なくとも何かどうにかしたくて生きていた気がする。未だ引きずっている自己愛にまつわるが、並行的にずれた私の話を描きたいと思った。行動をするものの実際に何を得たいのかがわからない、それでも自分の座標は変わり続けているっていう話が書きたい。プロットだけでも今度作ろうか。

 


昨日の振り返り

昨日は何をしたんだったか、昨日という区切りがない1日だった気がする。

覚えていなさ過ぎて怖い。自分は大抵のことは、行った順序や行った理由を覚えている気がするのだが・・・。エルデンリングを5時間くらいやった。マックをUberで頼んで食って寝た。ゲームを数日禁止していたが、昨日は寝れなかったから仕方ないんだ。寝ていないとあまりに脳のメモリーがスカスカだ。これが通常の人だっているんだろう。自分はむしろこの脳の引き出しを開けて何かを考えたり人に話したりする子が多すぎて、これは少数派の脳の使い方、会話方法なのかと思った。何かを思い出したり、知識を引き出してきたりして話すことばかりで、今のことについて話すとき、むしろ無理やりその型をエミュして会話することがあるが、コミュ手段としてそちらの方がふつうなのか。そういえば昨日はシャニマスのコミュを読んでいた。薄桃色にこんがらがってとか、三峰notequalのコミュ感想まとめ動画とかを見ていた。人の感想の中にアイドルに対して勝手な態度があってイライラしたのでもう真面目に見ない。動画を見ながら灯織さんの公式イラストを見て模写していた。目つきが鋭い。ツリ目なんだろうが、イラスト、絵における目のツリ、タレみたいなのってあるようで無いから難しい。そのキャラを描くために学びが必要と感じて模写していたがあまり栄養が無かった。ただ線を追うような感じになってしまった。

エルデンリングのプレイ感想
2週目ではなくNEWGAME.
知性を上げて魔術を使っていたが、ステータスが体力等に振れないのでワンミスで死ぬ代わりにたいしたダメージでは無いため、やる意味の無さを感じてしまった。素性は何であれ、体力とスタミナに振って武器を強化して安定した試行を重ねるのが一番いい。魔法は詠唱中の隙が大きすぎる。攻撃を避けて隙を生み出して魔法を生むのなら、武器を振っていた方がいい。FP(マナ)を消費するから、それを回復する分、余計に避ける必要やムーブを考える必要がある。知性があるくらいなら、体力スタミナに振って強い攻撃をある程度受けて相手のダウンを取った方が強いから、魔法を使うことがそもそも賢くないと思うんだが‥?ダクソ、エルデ世界等においては魔法は強い場面が限られる。

何で俺はこんなに魔法や知性に頼るプレイにイライラしているのか・・・。ステータスというのは自分で選んであげるものだが、あえて知性を上げなければ知性は上がらない。知性に頼って勝つしかないという状況では無いのに、知性を上げて戦うことが楽しくない…。


今日の目標について

それはそうと、今日はゲームを先にしない。コピー用紙で絵の練習をしたい。モルフォをルーティン的に30分くらいやること、キャラクター絵を描くためにお気に入りのイラストをいくつか見て構成要素を抽出したりまとめたりしたい。それをある程度行ったらまたエルデの地に赴こうか。

 

 

昨日の深夜にかけて

昨日は、IHクッキングヒーターを洗う、台所を掃除する、洗面台を掃除する、天井を拭く、掃除用品の箱をまとめる、床を拭く、洗濯物を取り込む、洗濯、干す、机の上を整理する、ご飯を食べる…等を深夜に行った。
そうこうをしていると、8時を過ぎていてた。朝カラの時間だと気付くも、疲れた体で10分ちょい歩いてカラオケに行くのも、疲労状態で歌うのも気が引けたから一旦入眠を試みるも寝れないし、歌うことへの執着が切れないので歌いに行った。1時間で帰るつもりが私はカウンターで1時間半と言っていたし、30分延長して2時間歌っていた。

帰宅して寝た。2,3時間弱ほど寝て大学の講義を受けて帰宅した。講義中に横に直線を引いて消失点を二つ用意して床のマスを描いていた。遠近感において全てが”長さ”ではなく”比”なのだが、それを体感的に理解することが出来ない自分の菲才を毎度嘆く。ただ定期的に描いて現象としてそうなっているということだけを知る形で覚えようとしている。帰り道にスーパーに寄ってお菓子とお茶を買った。これで作業をするぞ!と思ったが、帰宅すると腰が疲れていて一旦横になった。洗濯したり、横になってシャニマスのコミュを見たりした。カラオケの録音を一旦全部聞いた。また自分の課題が分かった。行うべき発声練習がまた明らかになった。後、5日も歌っていなかった(発声練習はちょびちょび行っていた)からか、喉が安定していた。それなのにシャニマスのコメティックの新曲(数回聞いただけで全然覚えていない)を熱心に歌って喉が壊れた。全然メロディも覚えていないのに、サビが楽しいから歌ってしまった。それ以降喉が脆くなって細い声しか出なくなって取り返しのつかない(今日において)ことをしてしまったと後悔した。良くなかった。歌うのは楽しかったが。ボイトレ動画でいつも言われているのが、大きい声、力んだ声というのは歌の美しさに対して無力だし、ただ浪費して破壊するだけだ。その一方で漂うような細く薄く、芯のない声というのは虚しい。それでもそこから少しずつ全身で支えて声を出すしかない。楽しくなるのは良いが、喉に対して労わりを持つべきだった。

 

それはそうと今日もゲームを禁じている。しかし、LoLの日本含めアジア~オセアニア地域の大会が今日から始まる。しかも10年弱変わっていなかったルールが大きく変わって始まるからそれをちらっと見ながら文章を書いている。机の上にはお茶とipad以外はマウス、キーボード等の最低限の物しかない。素晴らしい。

 

絵というのは描こうとするものじゃない。(この言葉はかなり恣意的だ)
物(実物、絵)を見ること、見て描くこと、描く中に楽しさを見出していれば、描いているものだ。と、最近の私はそう思う。自分の中に十分な情報や導きみたいなものを取り込むことで自然と絵は描かれるように思う。しかし、その取り込む作業までに整えられなければならない諸々があるため、問題は簡単じゃないのだ。根性論ではなく、ここにある問題を静かに観察するべきだとそう思う。横になれば絵を描けるが、横になると資料がみにくい。一旦PC画面で資料を見ながらコピー用紙に絵を描こうかと思う。いやそれよりも…と他にしたいこともあるが…。

 

そもそも今日は深夜に作業を重ねて、数時間しか寝れていないから疲れていて当然か…。まぁけど精神的な余裕はあるからもう少し作業をしたい。

全てを0に帰して

さすがに仰々しい。タイトル

 

今、机の上にはいろはす2L、コップ、お茶のフタ(色が緑でいろはすのフタと間違えてつけた)、緑茶1,5L、セブンで買ったバゲット、モルフォ、表の4分の1くらい描いたコピー用紙、フェイスケア用品、イヤホン、眼鏡拭き、
机の上の棚には、風邪薬、イヤホン、温度計、貰ったペン(捨てられない)、爪切り、カードケース、名刺入れ、メモ帳…

不愉快でならない。他にもスピーカーとか、今書いているこのキーボードやディスプレイ、オーディオインターフェースとか、PC作業には必須のものがあるが、机というのはそうでは無いはずだ。

机というのは、脚があり、台があり、その上には何もない状態であるべきだ。

 

この机の前に座るたびに、やり残した負債が降り掛かっているがする。実際にそうだ。(何か作業をしたかったらこれらを退かすタスクから始まることになる)
飲み物があったり、コップがあったり、無駄なペンがあったり・・・。本当はこれが許せない。今、描きかけだからといって残したこのコピー用紙も、バゲットも、何もかも元のあるべき位置にあるべきだ。あるべき位置にあるとき、私はその存在を外部から見れない方がいい。それはそうとして今日の反省をしよう。まだ終わっちゃないが。

 

今日はゲームを禁止した。起きて直ぐ大学に行き、少し遅刻して講義を受けた。いつものことだ。音声学と芸術学を学んだ。芸術学ではピカソについて様々なことを知ったが、彼の絵について、毎度どうでも良いという気持ちになる。”どうでも良い”というのは拒絶というより、心が揺り動かされない退屈な気持ちが大きい。勿論拒絶の気持ちもある。才能があり、多作で、評価されていて、私に興味深い絵は無い。全くないわけでは無いが。


講義後すぐにカラオケに向かえば昼料金で歌えたが、ほっともっとで飯を買って帰宅して絵を描こうと思い、止めた。ほっともっとに行くと誰もおらず、ただ店員が私の注文を待っているが、メニューを見ても思った以上に食べたいものが無い。南蛮チキンみたいなものが目に入ったが、肉のフォルムや表面の質感が、大量に作られてラッピングされ冷凍され、それをすぐに解凍して調理した感じがして、想像されたその食感に不愉快な気持ちになって惑った。それはそれとしてこのメニューには何か思い出がある気がするんだが、忘れているような気もした。ほっともっとは少し無骨すぎる感じがして良い。注文をして椅子に座って待っていろ、受け取ったら帰れみたいなスペースの狭さ。それが心地いい。

 

帰宅して飯を食い終わり、少しコピー用紙に描くものの、全然上手くいかず、心が不安定だということに気づいた。媒体をipadに替えて、絵では無くてメモ帳に思考のまとめをしようにも不安定で文字を描くことも不愉快だった。脳がピリついているというか、ざわついているというか、心臓の鼓動が不安定というか。今は安定していてたくさん文章が綴れるが。どうしようもないから落ち着くために横になってエルデンリング小ネタ集の動画を見ていた。最近はこういう検索ワードで出てくる動画も見尽くした気がする。

そんなことをしていると1時間くらい経っていて、音楽を聞いたり、動画を見ていたら数分間の気絶みたいな睡眠に入り、脳がスッキリした。その後もずっと動画を見たりとか、賞味期限か消費期限かが切れそうな(あるいは切れた)パンを食べたりしたら、0時を過ぎていた。今は4:43だが、先ほどコンビニに行った。歩くと少し落ち着く。

 

ゲームを禁止すると途端にすることが無くなる…。というわけでもない。Twitterであれ、ブログを読むことにしろ、飯を作ることにしろ、動画を見る、配信を見る、マンガ、小説を読む…。やることはあるが、ゲームは余暇を0から100あるいは150くらい(明日の余暇を食らって)消費するから、他の趣味は消費されずキープされる。
家事は滞り、ゴミは溜まり、部屋は乱雑に物が置かれる。

 

何かに夢中になっているとき、何かに執着しているときに、唐突にそのタスクを終了させる時の静寂が好きだ。自分のモードが換わる。例えば、今この”文章を書くこと”を終了させるには急にPC電源を落とす…、まではいかずとも、ブラウザを閉じる。スマホ、タブレットを見ているとき、電源を落とす。とか・・・。そうするとここには何もないことがわかる。エアコンや冷蔵庫の排気音だけが流れている。視点が変わる、というと視覚のような感じがするから少し違うような気がしていて…、自己の存在の位置が変わるような感じがする。視覚に限らず感じる音や皮膚感覚、空間の雰囲気の感じ方が変わるから。
特に配信を見ていると誰かの雑談を聞いているモードなのに実際は深夜に部屋で1人であることに気づいてそれが心地いい。

何もすることが無いことに気づく、というわけでもなく、床は汚れているから拭きたいし、丁寧に洗って棚に戻したい調理器具とか、冷蔵庫を掃除したりとか、着ていない服を仕舞ったりとか、布団やマットレスの位置をずらしたり…タスクとしてやりたい、やるべきことはたくさんある。
それが行いたくないからゲームをしているとか、動画を見ているわけではない。ただ、自動的になんとなく疲れていて横になった結果明日になっていて、そのタスクが行われないというだけだ。しかし、これらのタスクをこなさなければ、より精神的に気合の必要なタスクの消化はされない。と自分の体感では思っている。物理的な私のまわり、精神的な私の内部では頓挫した物事や、思考の塵みたいなものが降り積もっていて、ふと体や心が動くたびに自己から舞う埃で咳き込んでいるみたいな状態なように思う。一方で、ひとしぐさのたびに雪が舞うような人も居てくれると良い。

 

でなんなんだ!この文章を書いたからには、何をするって言うんだ!

まずは机のもの、ディスプレイ、スピーカー、マウス、キーボード以外のものをすべて片づけよう。
日用するからイヤホンとかは置くが、良くない。机上の0ベースをもっと下げなければ、何かアクションを起こすときの必要エネルギーが上がってしまう。

その後、服を片付けよう。着ない物はキャリーケースに仕舞おう。

買ってきたご飯を食べて、きちんとゴミを片付けよう。

冷蔵庫の棚が少し汚れていて気になっていたから、それを洗おう。

ペットボトルの収集日は…おお!今調べたが、明日の土曜の朝だった!!危ない!!調べて良かった~!扉の前に置いておこう。

キッチンの壁が少し汚れていたのに毎度嫌な気持ちになっていたから、それを洗おう。

もう引越しまで使わないだろう化粧品箱と掃除グッズをひとまとめにしてタスクを終わらせておこう。

 

こまごまとしたことでイライラしてしまうのに、それに気づかず、気づかずにエネルギーを失って何も為せずに意気消沈して憂鬱に横たわって、なぜ私は…と見当違いな自己嫌悪をしたりするのはさすがに行いすぎてわかる。最近の場合は気づいているのに実際に行うべきタスクの消化をせずに、理由は分からないけど出来ないね~みたいな精神的脂肪のついた、欺瞞的態度で放漫に生きている自己がよく目についている。実際に脂肪が昔よりついてきた。問題だ。

 

精神的なゆとりという言葉は一般的だが、個人的には脳の湿度、潤いみたいなものが体感的で、それが今はある。この一日で体力を使うようなことを一切していないから、自覚していないパラメータがまだ失われておらず、それが文章に変換されている。ゲームにはまっているとそれが無いから文章が書けない。絵を描きたいわけだが、そのためには上にあげたようなタスクがまずこなされることが私の場合必要だと分かった。

じゃあなんですぐに行動しないかって、何か書きたいことがここ数日感じていたことがあった気がするのに、書けないからだ・・・。俺は何を思い出したい?芸術学の講義中に、私がひとつ目的とするイラストの目的を思い出したりとか。ここ5日も!歌えていないが、自分が意識していない喉の疲労が回復したのかいつもとは違う音色が発声から感じ取れることとか・・・。まぁいいさ、また書くときは訪れるが、このエネルギーがまだ余っていて、心地よく湿潤な脳と部屋で何かに集中できる時間、自分自身というのは何よりも貴重だから、まずは掃除をしよう。

せめてゲームは3時まで

久々にモルフォを復習していた。模写というのは毎度おもしろい。他に面白いものがあればやらない程度にはなるが。いくつか描いた後、人体を前から見た図を描いたら思った以上にフォルムが良くて満足して止めた。

タイトルは3時だが、今は3時半で、私はまだゲームをしている。何をしているんだ。
漸く満足した。3時50分だ。

 

今日は講義があったのでちらっと大学に行ったのだが・・・。
ここ最近の毎日が、昼過ぎに起き、大学に行き講義を受け、帰宅、飯を適度に食う、ゲームする、早朝になる、寝る。で、流石に分かって来た。

何がっていうと、せめて絵を描けるタイミングというのが、帰宅してすぐしかないことで、講義が始まるギリギリまで寝ているから、固定セクションみたいなものが起床~帰宅、でそこから飯と家事が適度に入ってそれ以外はずっとゲームしているか動画を見ている。疲れてくると寝る。疲れているから絵は描かない。そんな日々が続いている。

一日が①固定の動き②適度な家事③ゲームの3つで構成されている。シンプルで心地いい気がしてきた。因数分解しやすそうな毎日だ。