時効は必要なのか、残り4.2%の罪、消えないんだよ

日本には殺人事件の時効があります。実は、日本の警察の驚異的な殺人事件検挙率は、時効という制度に支えられているのかもしれません。だとしても、本当に時効はあったほうがいいのでしょうか? 今日は、時効という制度について考えます。

 学生時代に末広厳太郎(いずたろう)先生から民法の講義をきいたとき「時効」という制度について次のように説明されたのを覚えています。金を借りて催促されないのをいいことにして、ネコババをきめこむ不心得者が得をして、気の弱い善人の貸し手が結局損をするという結果になるのはずいぶん非人情な話のように思われるけれども、この規定の根拠には、権利の上に長くねむっている者は民法の保護に値しないという趣旨も含まれている、というお話だったのです。この説明に私はなるほどと思うと同時「権利の上にねむる者」という言葉が妙に強く印象に残りました。いま考えてみると、請求する行為によって時効を中断しない限り、たんに自分は債権者であるという位置に安住していると、ついには債権を喪失するというロジックのなかには、一民法の法理にとどまらないきわめて重大な意味がひそんでいるように思われます。

丸山真男『日本の思想』より

『日本の思想』は高校の教科書にも採用されたことがあります。作者は、政治学者の丸山真男(丸山眞男)。

ここでは、「時効」という制度はなぜあるのか?という問題への一つの答えとして、「法は、権利の上にねむる者を保護しない」という卓抜した比喩による解答が与えられています。うーん、かっこいい言葉ですねえ。ヒーローもののキメ台詞に使えそうなぐらいです。

こういう優れた比喩で説明されたときは、まず眉に唾をつけるのが思考の定跡というものです。まあ、しかし、民法の時効制度に関しては、いろいろな批判はあるものの、なるほど、それなりの根拠があるようです。

現状を尊重し社会生活の安定を図ること。時間の経過とともに難しくなる立証責任を軽減すること。そして、丸山が指摘しているように、「権利の上にねむる」ことを戒めること。

丸山は、憲法十二条を引用します。「この憲法が国民に保障する自由及び権利は、国民の不断の努力によってこれを保持しなければならない」。この条文は、「自由獲得の歴史的なプロセスを、いわば将来に向かって投射したもの」だと、丸山は書きます。

ところで、ふつう我々が「時効」といって連想するものは、刑事事件の時効です。「時効寸前の逮捕劇! 老刑事の執念実る!」といったベタなやつですな。こちらは、「公訴時効」といいます。こいつの存在意義も、民法の時効と同様に考えていいでしょうか?

問題点をはっきりさせるため、ここでは特に、殺人に対する時効を考えましょう。公訴時効については、「権利の上にねむる」という比喩は、当然ながら通用しません。犯人を探しに行かなかった被害者が悪い? そんなわけがありません。キョンシーにでもなって、犯人を襲えということでしょうか? つうか、最近の若いやつはキョンシー知りませんが。

日本では、殺人事件に時効があります。最近、法改正がなされ、以前の15年が25年に延長されました。それでも、例えば、アメリカやイギリスには、殺人の時効はありません。

今年2月にアメリカで「日本は法治国家か」と題する新聞記事が掲載されました。書いたのは、ニューヨークタイムズのオオニシ記者です。……ああ、まだ帰らないでください。記事自体はけっこうまともなものでして、殺人事件が時効になった被害者遺族のやりきれなさを伝えています。

確かに、被害者の家族の悲しみに時効はない、とはよく言われる台詞です。

公訴時効の存在意義はどこにあるのでしょうか? ネットをざくっとめくってみますと、百家争鳴という感じですが、法学的には、次の二つの説が中心のようです。

まずは、時間の経過とともに処罰の必要性がなくなるという説(実体法説)。そして、時間がたつと証拠が散逸し、公正な裁判が難しくなるという説(訴訟法説)。

前者は、時効になるまで逃げまわった犯人は十分罰を受けたはずだ、とか、事件の社会的影響は小さくなっている、とかいう議論ですね。しかし、これは、やはり誰でも反論したくなるところでして、犯人に同情する必要なんかないよ!とか、遺族の悲しみは続くんだよ!などの声があがっています。

後者については、それなりに合理的な話です。例えば、ある日、無実の私のところにお巡りさんが来まして、20年前の殺人事件の容疑をかけてきたとします。このとき、私はどうやって自分のアリバイを証明すればいいのでしょうか? オレは人なんて殺してない! 20年前っつったら、友達の家でウンコもらしたことがあるけど、だれも死んでないよ! なるほど、では、あなたのウンコが致死的な臭さでなかったという証拠は? いや、ないです……。

しかし、この証拠保存の難しさについても、科学捜査の進歩などで状況が変わってきています。例えば、DNA鑑定です。現在のDNA鑑定の精度は、日本人全員の中から一個人を特定できるぐらいの精度まで上がっています。例えば、「DNA 型鑑定による個人識別の歴史・現状・課題(リンク先pdf)」という論文には、DNA鑑定が実質的には「1å„„8000万人に1人」を超える高い識別力をもっていることが述べられています。

ここまでくると、鑑定技術が間違っていることよりも、鑑定した科学者が間違ってる確率のほうが高そうですから、ほとんど十分すぎる精度です。というか、1億8000万分の1を疑うのであれば、自分の記憶が実は間違っていて、ひょっとしてオレ、人殺しちゃったんじゃね?という疑いをもったほうが合理的だ、とすら言えます。

私がネットを巡った印象では、公訴時効の存在意義について疑問をもつ人は非常に多いようでした。

ところで、別役実がその著書『犯罪症候群』の中で面白いことを書いています。いわく、時効という制度は、犯罪者と捜査官に独特の緊張感を与えて、その本分を自覚させるところに意味がある、というのです。

なぜ、死刑の時効がわずか15年(当時)なのか? それは、「法はおとなしく刑に服するよりは、逃げまわる方が労苦が多いと判断したのであり、当然、その労苦に報いなければならないと判断したのである。」「つまり法はここで、犯罪者の逃げまわることを暗に促しているのであり……」

いやあ、この別役の視点はなんともシニカルというか、コミカルというか。

ネット上では、別役と違ってもう少し直截に、警察の怠慢を指摘する声もありました。いわく、時効などは警察が自らの捜査の不手際をごまかすためのものである。連中に時効など与える必要はない、もっと働かせるべきだ。だいたい検挙率だって落ちまくってるじゃないか。なるほど、確かに、ここ10年間で、日本の警察の検挙率は激減しました。

こういった議論を見ていて、ふと心配になったのですが、ひょっとして、日本の警察の殺人事件の検挙率の高さというのは、意外と知られていないのでしょうか? 警察白書によれば、殺人事件の検挙率は、ここ10年、95%前後をキープしています。これは他国と比較して、そうとうな高率です。

ICPO(国際刑事警察機構)の調査を引用したサイトによれば、日本以上の検挙率をあげている国は、ほとんどが人口10万人以下の小国であることが分かります。

時効のないイギリスは検挙率89%です。89%と95%だとあまり違わないような気がしますが、見逃がされる殺人犯の割合が2倍以上違う、というふうに考えればけっこう違います。アメリカは62.4%。ああ、日本人でよかったですねえ。ちなみに、検挙率が日本並みに高いドイツには、殺人の時効があります(30年)。ただ、ナチスの犯罪には時効がありません。

もっとも、「検挙率」というのは、そうとういい加減なデータでして、細かい数字の比較に意味はなさそうです。検挙率とは、その年に認知された事件数と、その年に犯人が検挙された事件数の比なのですが、これはそれぞれ全然別の事件ですので、検挙「率」といいながら、そもそもなんの割合にもなっていません。

ということは、検挙率が100%を超えることも理論にはありえるのではないか、と思った方は鋭いです。「衆議院議員長妻昭君提出全国警察署の検挙率格差に関する質問に対する答弁書」という名前の長ったらしい資料によると、平成14年の徳島鷲敷町警察署の検挙率は、838.5%! 鷲敷町警、優秀すぎです。この町で1回罪を犯すと8.385回逮捕してくれます。

犯罪白書の第2図を見ると、平成元年あたりと平成12年前後に、明らかに不自然な検挙率の落ち込みがあります。これは、検挙率を維持するためだけに軽微な犯罪を検挙するのをやめたことと、被害者の申し出を積極的に受理する方針に変えて認知件数が増加したことが原因と言われています。

ということは、検挙率が落ちたといっても、犯罪が増えたわけでも、警察が無能になったわけでもないということです。ならば、検挙率という数字は意味がほとんどありません。統計データとしては、かなり質の低いものです。まあ、全国のがんばってくれるお巡りさんの汗と涙の結晶ですし、税金でこういうデータを出すのも目をつぶりましょう。

えーと、ちょっと脱線してしまいました。ともかく、検挙率自体はアテにならないとはいえ、殺人の検挙率に限定すれば、数値自体が毎年ほぼ一定ですし、その定義も変動していませんから、十分参考になります。

ここ10年間の年間殺人件数は、平均して約1340件。検挙率の平均のほうは、95.8%です。単純に計算して、毎年、約56件の「未解決事件」が発生します。2000年度の殺人罪の公訴時効の件数は60件だった(法務省『検察統計年表』)そうですから、まあ、だいたいこんなものなのでしょう。

で、時効の話なのでした。

殺人事件の時効をなくすというのは、端的には、この残り4.2%の犯罪をいつまでも追及する、ということです。このとき、検挙率は上がるでしょうか? 単純に考えると、今までやめていた捜査をやめずに続けるわけですから、検挙率は上がるに決まってます。しかし、警察の使えるヒト・モノ・カネが有限であることを考えると、そうはいきません。

例えば、あなたの恋人が殺されたとします。復讐に燃えるあなたに、警察が特別に捜査に参加する許可をくれました。ただし、参加できるのは、次のどちらかの時期に限定されます。すなわち、事件発生直後から1年間、または、事件発生15年後から1年間。さあ、どちらに参加しますか?

いや、しょーもないたとえでした。事件発生直後のほうが、手がかりが残っている可能性が多いに決まってます。要するに、検挙率を上げるためには、捜査員を、「最も新しい未解決事件」にふりわけるのが最善の策なのです。だとすれば、発生後15年(改正前)を経た古い事件など捜査するのは、犯罪者どもを喜ばせるだけです。

4.2%というと、ほんの少しという感じです。しかし、たった4.2%でも、24年分が積み重なれば年間分の件数に匹敵します。ということは、殺人事件の時効を廃止して、過去のすべての事件を真面目に追いかけていると、24年後には、警察が処理すべき事件が今の2倍になってしまう、ということです。

平成16年度の国民一人当たりの警察予算額は約2万8,000円ですが、これが2倍になったらどうでしょうか。もちろん、治安というのは金の話ですむもんじゃないわけです。3億円事件の捜査には、絶対3億円以上かかってるはずですし。でも、まあ、痛い負担増には違いない。

だいたい、100の事件のうち残った4つ、なんてのは、筋金入りの難事件に決まっています。そんなものにリソースを割いて、どれだけの効果があるんでしょうか。アメリカみたいに検挙率70%以下とかいう状態なら、てめえらまだ解ける事件あんだろ!地の果てまでも犯人を追っかけろ!って感じですけど、日本のお巡りさんは十分がんばってますから、これ以上検挙率を上げるのははっきり言って難しいと思います。

で、ですね。私は、ここで「日本警察の殺人検挙率は十分高いので、時効を廃止しても検挙率は上がらない。それどころか、下がる可能性もある」ということを主張してきたわけですが、ちょっといったん、この結論は正しい、と受け入れていただいて、それでも、だとしても、時効はないほうがいい、と思ったりしませんか? 私は、ちょっと思っちゃいます。

でもでも、時効が延びたって実際つかまる犯人なんて、ほとんどいないんですよ。「……でも、時効があるとなんかイヤ」 いや、でもね、新しく発生した事件の捜査員が減るので、検挙率下がるかもしれないんですけど? 「……でも、時効があるとなんかイヤ」 あのね、だいたい厳罰主義で犯罪が減るっていう統計データなんてないんですよ! 「……でも、時効があるとなんかイヤ」

うーむ、困ったな。理屈では分かってるつもりなんだけどな。

川島武宜は名著『日本人の法意識』の中で、次のように論じています。日本人にとって、法律とは「伝家の宝刀」である。それは「人を斬るためのものでなく、『家』のかざり或いはプレスティージ・シンボルにすぎないもの」である。例えば、スピード違反の取り締まりを見よ。制限速度など、だれも守っていないではないか。そして、取締当局も「手心」を加えている。諸外国では、このようなことはない。

「道徳や法の当為と、人間の精神や社会生活の現実とのあいだには、……本来的に両者の間の妥協が予定されている」。

時効をなくしたいと思う私の気持ちも、ひょっとしたら、こういう日本人的な心情なのかもしれません。事件が風化し、犯人を捜査する合理的な意味あいがどんどん薄くなっていくという「現実」は、もちろんどうしようもない。時効という制度は、「法」をその「現実」に一致させる制度です。私は、そこに抵抗を感じているのかもしれない。

ならば、私がほしがっているのは単なる飾りなんでしょうか。「犯人を逮捕できる可能性」という「伝家の宝刀」。「捜査中です」と言いつつ、でもまあ、まず逮捕は無理だろーなーと心のどこかで諦めている状態。「現実」と一致しない「法」。高価な刀を、ただ飾るためにほしがっている。時効廃止を求めるというのは、そういう日本的な考えなんでしょうかねえ。

でも、飾りでいいじゃん、という気持ちもあるんですよね。一定期間が過ぎてしまえば、実質的な捜査なんてしなくてもいい。ただ、犯人に言いたい。「あなたがしたこと、それは消えないんだよ」、と。

人間が生きるって、そういうことなんじゃないのか。

結局なにが言いたいんだオマエは、って感じですな。申し訳ない。時効は必要なのか、それとも、いらないのか。私には正直、よく分かりません。今日は結論なしの方向で。