遠まわしな自分語り
直感を信じる
自分を信じる
好きを貫く
人を褒める
人の粗探ししてる暇があったら自分で何かやる
というわけで梅田氏ネタでもうひとつ書いてみたい。
前回はレノン様のありがたき啓示でオレが自分の道を歩き始めたところまで書いた。別に連載ではありませんが(笑)。
オレが音楽で誰かに何かを伝えたいと思ったとき、その対象はやはり自分に似た人ということになった。彼らは(即ちかつての自分も)他人の言うことなど滅多に聞かない、ということが特徴。正しいのはすべて自分であり、下らんお前の意見など聴く耳持たない、という一貫した態度。こんな人に自分の意見を聴いてもらうのは容易いことではない。しかし伝えたい。
多数の習作、駄作の製作を経て辿り着いた、オレなりの歌詞推敲の方法論。
命令形をつかわない。
必要以上の要求もしない。
押し付けない。
人称代名詞を極力使わない。
そして。自分語りをする。
…だった。
この裏ブログ過去ログで何度か言って来たこととも繋がってくる。読めとか聴けとか言わない。人は自分が何か欲してる時には自然にそれを見つけるものである、とよく言うけれど*1、つまり、普段から目に入っているものでも、それが自分が欲しいものでなければ、その存在に気づかないということ。だからいつ気付いても良い様にさりげなく置いておく。準備も整ってないのに「読め」と言ったところで拒否反応を起こすだけだ。
オレが過去よく使った言い回し「遠くにボールを投げる」もそういう意味。目の前の相手に対しては言わない。今投げておけば将来誰かが受け取るだろう、と。公開された文章はいつでもどこでも閲覧可能状態であるのだから、誰か彼か読むだろう。それで良い。ストレートでなくボディブロウのほうが効くってこと。
そして。
最後の「自分語り」である。
お前の下らんうち明け話など読んでどこが面白いか、という意見もある*2。ブログの日記文章などもその類。
しかし。自分自身の言葉で書かれたものは、ひとこと写真日記でも恋愛日記でも、その人が反映されている、とオレは考えている。受け売りの寄せ集め文章でなく、本当のその人の選択による言葉*3。
くだらん恋愛の歌が多い、とよく嘆く人が居るが、作者は、その恋愛の歌に準えて、実際は自分自身の人間観とか人生観を(知らずのうちに)歌っている。つまり、今この歌の対象は目の前の異性だが、それを友人とか親に置き換えても、多分違和感がないはず。フロイトではないが、何らかの表現物があった場合、そこからすべて読み取ることができるって感じ。もちろんオレの文章も、である。
だから自分語りは面白いのだ。
そこに見えるのは裸の相手の姿なのだ。
さてここで久々のhankakueisuu氏。
梅田望夫を信じるな。梅田望夫を疑え。梅田望夫を罵れ。梅田望夫の荒を探し全身全霊を持って叩け
これを読んで気付いたこと。
「梅田氏も自分語りをしただけなのか!」
梅田氏の言葉はすべて自分自身に対して言っている。そう考えると納得がいく。がしかし、彼が本当に伝えたい相手には受け入れられなかった。
おそらく彼が本当に伝えたい相手は、彼らを賛辞した人々ではなかった。むしろ彼の発言に拒否感を示した人々に対してであったと(オレは勝手に)想像する。
あまりの言い切りっぷりに彼の本音が見えなくなっていたが、hankakueisuu氏の指摘により、幾分見えやすくなった。あのエントリは実は弱音だったと捉えれば、受け入れやすい気がした。オレの父親もそうであったが、実は弱い人間ほど権威的に振舞うものだ。
前掲したオレ独自の方法論。
これで書き直してみたのがトップに書いた文章だ。
直感を信じる
自分を信じる
好きを貫く
人を褒める
人の粗探ししてる暇があったら自分で何かやる
梅田氏を用心棒にしたい向きにはなんだか弱気で頼りないだろうが、オレにとっては、このほうが、なんだか彼の本音が垣間見れた気がして共感できる*4。
本当に相手に伝えたいと思ったら全身全霊でその表現方法を磨くべき。
くわしくないけど、プログラムだって1字の間違いで動かないんじゃないの?
人の感情だって同じなんだよな。
追記と補足
直感を信じたい
自分を信じたい
好きを貫きたい
人を褒めたい
人の粗探ししてる暇があったら何かやりたい
これもおもしろい。より本音っぽい。
でもなんだか似非JPOPみたいで笑えます*5。
やはり最初に書いたほうが、颯爽としてて良いかな。