今にして思うとポスト・ダブステップのバブルが崩壊して以降、インダストリアル/ダブ・テクノやデコンストラクテッド・クラブを経由して静的で抑制的なモードが続いたエレクトロニック・ダンス・ミュージックのシーンに突如としてハッピー・ハードコア的な意匠を召喚し、一気にフロアのピッチを上げたという意味で、Hudson Mohawkeの2022年作「Cry Sugar」は先駆的な作品だった。
直接的な影響の有無は判らないが、本作のM1は正に「Cry Sugar」が無ければ有り得なかったようなトラックで、Caribouらしいセンチメンタルなメロディは維持しつつ、疾走感溢れるBPM140付近のハイ・スピードなビートとチージーな女声ヴォーカルが齎す享楽性はCaribou流のハッピー・ハードコアないしはハイパー・ポップと呼びたくなる。
M2はCharli XCX「Von Dutch」とミックスしたくなるようなゲットー・ハウス風で、テンポは落ちるがM3のテック・ハウス、M4のフューチャー・ガラージと、アルバム前半は寧ろ未だDaphni名義の方が相応しそうなフロア・ライクなダンス・トラックが並んでいる。
Floating Points「Cascade」やJamie XX「In Waves」に続く、男性側から女性主導のダンス・ミュージックのルネサンスを称揚するような作品にも思える。
アルバム後半に入るとダンス・フロアを離れ、Dan Snaith自身による歌も復活し、M8のニューウェイヴ風、M8のフォークトロニカ+インダストリアル・ヒップホップといった感じのM9、ディスコ/シンセ・ポップのM10と、従来のCaribouらしいエレクトロニック・ポップ・ソングが並ぶ。
何れにせよCaribou/Dan Snaith史上最もポップなアルバムだと言えるだろう。
Father John Misty / Mahashmashana
M1は相変わらずFrank Sinatraを連想させるようなオーケストラル・ポップだが、ヴァースは比較的シンプルなフォーク・ロック調で何処となくThe Bandを彷彿とさせる。
M3も冒頭こそThe Bandみたいだが、大仰なストリングスな入ってくるとBeckの「Paper Tiger」やその元ネタであるSerge Gainsbourg「Ballade De Melody Nelson」を思わせたりもする。
M2も意外なブルーズ・ロック風で、比較的ロック色が濃いアルバムだと言えるかも知れない。
ファンク風のAORとムード歌謡が混じったような、80’sジャパニーズ・シティ・ポップ(Shogunとか)みたいなM7はちょっと坂本慎太郎に通じるところもあったりして、大真面目なのかふざけているのか判らない、保守的なようでいて実は一筋縄ではいかない魅力は相変わらず。
タイトルはサンスクリット語で「大いなる火葬場」を意味するそうで、現在の世相を思えば根底にはシリアスなテーマがあるのかも知れない。
まるでMogwaiかMy Bloody Valentineのようなホワイト・ノイズ塗れのメロディアス&ディストーテッドなM5の壮大な抒情性から、強ち的外れな妄想でもないような気がしてくる。
しかし全体的なサウンドとしては前作と較べても一層大らかでオプティミスティックですらあり、本質的にはアイロニカルで捻くれた人なのだろう。
何処か戯画的な作家性や巧みなソングライティングの才能、その割にインディへの拘泥は一切感じさせずコラボレーターも選ばない(故に誤解を受け易そうな)ところは正に男性版のLana Del Reyといった感じ。
Tyler, The Creator / Chromakopia
ソウル/ファンクやジャズを下敷きにした成熟したプロダクションは「Flower Boy」「Igor」「Call Me If You Get Lost」を確実に継承しているが、ノイジーなブレイクビーツやディストーテッドなシンセ・ギターやオペラのような大仰なコーラス等の要素がLil Yachty「Let’s Start Here.」にも通じるプログレッシヴ・ソウル臭を醸し出している。
各トラックがシームレスに繋がりアルバム全体で1つの組曲を形成しているようである一方で、トラック単位では間断やブレイクが過剰に多く、何処から何処までが1曲なのか解らない。
そう簡単には全体像を掴ませてくれないという意味で何処混沌としてサイケデリックで時折ドラッギーですらあり、緩やかにではあるがTyler, The Creatorのフェーズの切り替わりを感じさせる。
まるで不条理で荒唐無稽な夢を見ているような感覚はヒップホップ版の「Pet Sounds」とでも呼びたくなるもので、漸く訪れるしばしの空白の後のラスト・トラックがエンドロール的な効果を齎しているという点で多分に映画的でもある。
エクスペリメンタルな要素と反比例してポップ・アルバムとしてのフレンドリーさは前3作よりもやや抑制された感があるが、アート作品してはTyler, The Creatorの最高傑作かも知れない。
とは言え個人的にはそもそもTyler, The Creatorのメロディ・センスが単純にツボではあるし、M3のザムロックのサンプリングを始めとして断片的にはフックも満載で、メロウネスの一方でM2やSchoolboy QとSantigoldを招聘したM11のナスティさの振れ幅も相変わらず。
しっかりと前進・変容しつつも元来のチャーム・ポイントは失わない、そのバランス感覚は見事だとしか言いようがない。
Ezra Collective / Dance, No One's Watching
プレイヤーとしてJoe Armon-Jonesの名前が突出しているせいでついつい勘違いしそうになるが、Ezra CollectiveのリーダーはドラムのFemi Koleosoであり、本作を聴くと改めて彼のドラムとその兄弟であるTJ KoleosoのベースこそがEzra Collectiveの基盤だという事が良く解る。
レゲエ/ダブ調のM1等からはUK/サウス・ロンドン・ジャズ版のSly & Robbieという表現さえ浮かんでくる。
M2やM5のスピード感溢れる熱狂的なアフロビートから、そして勿論直球のアルバム・タイトルやジャケットからも「ジャズで踊らせる」というバンドの意思表示を強く感じる。
これもまたハイパー・ポップやエレクトロ・ポップとは違ったポスト・コロナに於けるダンス熱の反映の仕方の一つではあるだろう。
アフロビートだけでなく、ブリージーでバレアリックなM4のカリプソやM10のサルサを始めとしたラテン・ジャズの要素も相変わらずで、Joe Armon-Jonesのピアノと二管のユニゾンを中心としたメロディックな要素も引き続き充実している。
特にピアノからホーンへとセンチメンタルな旋律が引き継がれ徐々に熱を帯びていくM15はBonobo「Migration」並みにロマンティックだ。
やはりUK/サウス・ロンドン・ジャズに於けるポップの極としてEzra Collectiveを再認識させられる内容で、その対極に居るのがShabaka Hutchingsだと言えるだろう。
当初はメディア・ハイプだと謗られもしたこのシーンだが、結果毎年のように充実したリリースを継続しフレッシュさを維持している源泉には、ダンス&ポップなEzra Collectiveに実験的なShabaka Hutchings、ダンスと言ってもクラブ寄りのMoses BoydにスピリチュアルなNubya Garciaというように、各々が緩やかに結束しつつも個性を競い合うような多様性があるのではないだろうか。
Kendrick Lamar / GNX
マフィア映画のサントラのようなオープニングこそJay-Zを連想させるが、チープなシンセが飛び交うM2と言い、ブリンブリンのシンセ・ベースが強列なM8と言い、直球のGファンク臭が充満している。
ストリングスやヴォーカル入りの楽曲も多く、これまでとは一風変わった粘着質のメロウネスでアルバム全体が覆われている。
車と共に写ったセルフ・ポートレイトのジャケットからして解り易く象徴的で、差し当たってはKendrick Lamarがギャングスタ・ラップ/ウェストコースト・ヒップホップに( Schoolboy Qのようなメタフィジカルな形ではなく)真正面から取り組んだアルバムだと考えて間違いないように思える。
また珍しく他のラッパーを多数フィーチャーしており、それが殆ど無名の地元の若手のフックアップである事から、LAをレペゼンするアルバムと考えても良いかも知れない。
全体的にメロウな中でも、M10だけは何処か少し雰囲気が異なりネオ・ソウル的な洗練を感じさせる。
個人的にはEPMD「So Wat Cha Sayin’」で認識しているアイコニックなギター・カッティングはThe NeptunesのChad Hugoがプロデュースした90’sのニューヨークの女性ヴォーカル・グループSWVの楽曲からサンプリングされており、更に元ネタを辿ると70’sのニューヨークのファンク・バンドB.T. Expressに行き当たる。
ここで挙げた名前が全て東海岸の出身である事を鑑みると、他の楽曲とは少し成り立ちが違うのかも知れない。
何にしても若干コンセプトがとっ散らかっていた「Mr. Morale & The Big Steppers」よりも簡潔で、ラップ・スキルも言わずもがなではあるが、これがKendrick Lamarの作品ではなかったとして現在のように評価されたかは甚だ疑問が残る。
正直リリックの事は良く判らないが、サウンド面でKendrick Lamarが冒険的だったと言えるのはアルバムとしては実は「Pimp To A Butterfly」だけなのではないかという気さえしてくる。
Kelly Lee Owens / Dreamstate
イントロこそEnyaにインスパイアされたという前作を踏襲するような人声によるアンビエントといった趣きだが、すぐさまアルペジエイターによるトランシーなシンセ・リフに侵食される。
ミニマルな「Inner Song」からも「LP.8」のアンビエントからも落差が激しい余りのチージーさに若干気後れするが、Bicepがバックアップしているというのは納得のサウンドではある。
流石にM2以降は多少ミニマリズムを取り戻すが、クールな印象があった「Inner Song」に較べると大箱志向のテクノが全編に渡って展開されている。
何せ驚く事にあのThe Chemical BrothersのTom Rowlandsが参加しているというのだから単なる冷やかしとも思えない。
と言っても直接的にビッグ・ビート的なロッキンなブレイクビーツが登場する訳ではなく、あくまでシンプルな4/4のビートのテクノ/ハウスで寧ろどちらかと言うとUnderworldに近い。
何れにしても90年代の中頃に人気があった(そして個人的には当時全く肩入れ出来なかった)テクノを連想させるという点では変わりなく、過去30年間殆ど顧みられる事の無かった90年代の遺産が現代に甦るというのは、ロックの場合では例えばFontaines D.C.がSmashing Pumpkinsをリファーするといった現象ともリンクしているように思える。
断片的には過去に何度か90’sリヴァイヴァルの萌芽を嗅ぎ取っては、その度に結局大きな潮流にはならなかった事を思えば、今回もまたどうせ気のせいだろうとは思うが。
一方でリヴァービーなヴォイス/ヴォーカルが齎すアンビエンスもアルバム全体を通底しており、アンビエント・テクノとしての側面も確かにある。
余程リアクションが悪かったのか、本人は冗談めかして8枚目のアルバムのつもりで制作したと語っていた「LP.8」の実験は、実際には決して完全に捨象されたという訳ではなさそうで、作品毎に全く違う表情を見せながらも、実は連続性と蓄積のあるキャリアの進め方には共感を覚える。
Charli XCX / Brat And It's Completely Different But Also Still Brat
「Brat」本体より良いとは全く思わないが、Kamala Harrisの敗北とBrat Summerの終わりを惜しむには丁度良いプレゼントではある。
プロダクションは「Brat」と変わらずA.G. Cookを筆頭とした旧PC Musicクルーが手掛けている事からセルフ・リミックス集的な性格の作品と言え、リミキサーの作家性や個性によって原曲がどう変容するのかを楽しむ一般的なリミックス・アルバムとは大分趣きが異なる。
原曲のメロディやビート・パターンを踏襲したトラックが多く、M10等はLordeが歌っているという事以外に原曲との違いがすぐには解らない。
(思わず「今夜はブギー・バック」の小沢健二のパートを小山田圭吾が歌うだけという、悪意に満ちたCorneliusのリミックスを思い出す。)
当然原曲を超える、若しくは同等の魅力があるトラックは多くないが、中でもCharli XCXの伴侶であるThe 1975のGeorge Danielがハードコア風の原曲をウォブリーなシンセ使いがインパクト大の2ステップ/バブルガム・ベースに仕上げたM2は白眉と言って良い。
他にもYes「Owner Of A Lonely Heart」をマッシュアップしたようなM13もリミックスならではで面白い。
トラック面のサプライズは少ない代わりにほぼ毎曲でゲスト・ヴォーカルをフィーチャーしている点が本作のセールス・ポイントで、Troye SivanやCaroline Polachek、Shygirl等の旧来からの盟友に加えて、Ariana GrandeやLorde、TinasheにBillie Eilishといったポップ・スターとの共演が現在のCharli XCXの求心力を物語っている。
意外なところでは何と言ってもM13でJulian Casablancas、M14ではBon Iverを招聘しており、Charli XCXが単に時代を牽引する存在を超えて、時代やジャンルの点と点を繋ぐ存在になったと言っても過言ではないだろう。