三児の父はスキマ時間でカルチャーライフ

仕事も趣味も育児も妥協しない。週末菜園家が、三児の子どもたちを育てながら、家事と仕事のスキマ時間を創って、映画や農業で心豊かな生活を送るブログ

映画「蜜蜂と遠雷」感想レビュー 音楽映画至上最もストイックな音楽映画

 

蜜蜂と遠雷見ました。

 

タイトルとパッケージだけをみるにユルフワ系の日本映画と思ったんですけど、違いました。

これは思った以上に、硬派といいますか、ストイックな映画作品だと感じました。

ストイックというのは、音楽に対するストイックさ、です。

 

そう、本作は紛れもない音楽映画です。

本格的なピアノの映画です。

 

石川慶さんの監督・脚本作品。

原作は恩田陸さんの小説で、若手ピアニストにとって、登竜門とも言える芳ヶ江国際ピアノコンクールに集った天才ピアニスト4人の戦い、葛藤、成長を描く物語です。

 

 

コンテストを中心に据えたことで分かるピアノへの本気

 

この短いあらすじ自体に音楽映画としてのストイックさが込められているかもしれません。

映画のほとんどを、国際ピアノコンクールに割いているという事ですから。

それはつまり、必然的にピアノ演奏シーンが多くなる事を意味しています。

 

 

確かに、いわゆるこの手の職業系の映画に、コンテストというのは欠かせません。

ただ、大体は、コンテストは映画終盤のクライマックスに持っていきます。コンテストのまでの2時間に、主人公の練習や人間的な葛藤、技術的な葛藤を描く。そして最後クライマックスとしてコンテストを持ってくる、というのはよくある物話の構成です。

 

 

ところが、この映画は、いきなりコンテストからはじまります。

コンテスト期間中の人間模様を中心に描いているのです。

これは、実は結構な挑戦だと思います。

コンテストまでの主人公たちの苦労を描かないことで、主人公たちのバックグラウンドを説明する必要があるからです。

 

ピアノでバックグラウンドを語る凄さ

 

ただ、そんなバックグラウンドを全部背負った役者の演技とピアノの演奏でそれを語ります。

コンクールの課題に取り組む姿そのもので、登場人物のバックグラウンドを語っていくのです。

この映画には、音楽で全てを語らせてる凄さがあるのです。

 

松岡茉優演じる英伝亜夜は、天才少女として今後の活躍を期待されていたのに、7年前突然失踪。

課題に取り組みながら、過去のトラウマを乗り越えていきます。

 

松坂桃季演じる高島明石は、生活者にとっての音楽を目指し、家庭をもち、仕事を持つ者だからこそ奏でられるピアノを目指します。特に、2戦目の課題曲「春と修羅」のカテンツァのシーンでは、家族と四苦八苦する姿に親しみを持ちましたし、実際にそこで奏でられる音楽が、素人でも納得させられる「生活者の音楽」になっている素晴らしいピアノプレイだったと思います。

 

森崎ウィンさん演じるマサルは、人気も実力もピカイチなピアニストとしてその立ち振る舞いから、素晴らしいオーラを放っています。そのオーラが輝かしい分、師匠からのダメ出しや、最終選考で登場する指揮者からのオーダーで悩む姿が辛いです。外から求められる完璧と自分で感じている完璧のギャップに対する悩みを表していると感じました。

 

そして、最後は、鈴鹿央士演じる異端児・風間塵です。

不思議なキャラクターですが、圧倒的な神秘性を持っていて、ちゃんと周囲の一目をひく存在感をキャラクター的にも音楽的ににじみ出ていました。

 

四人の持つキャラクター性と音楽性がぴったりマッチしているのもあり、ピアノシーンそのものが、キャラクターの背景説明やキャラクターの成長を描いています。

 

それは演出力の高さだといえます。

 

 

一番感心を抱いたシーンは、英伝亜夜のピアノシーンです。

ピアノを弾く喜びを忘れてしまっていた英伝が、風間塵との連弾を経て、楽しかったお母さんとの連弾の記憶を呼びおこします。

そこで覚醒した、英伝のピアノプレイはとても高揚感に満ち溢れていて、表情も豊かです。心の底からピアノを弾いていることを喜んでいるのが伝わってきます。

ピアノをなぜ弾くのか、目的を見失った英伝のエピソードが伏線になっている分、より気持ち良さが伝わると感じました。

 

その時、亜夜と母親が一緒に連弾している幼少期の姿が、ピアノのボディの黒に反射しているのです。これは鳥肌ものでした。

 

英伝のこのシーンで見られるように本作では、ピアノコンクールを通じた、ピアニストたちの内なる成長が描かれます。

 

ピアニストたちの内なる成長は大学受験にも似ている

 

そこでは勝ち負けは問題でありません。

順位に意味はないのです。

それは、驚くほどあっさりとした結果発表シーンにも表れていると思います。

 

ラストシーンの頃にはコンテストで一位を取ることは、本人にとっても、観客にとっても、もはや目的ではなくなっています。

ピアノを使って、思いっきり自己表現することが描かれてい久野です。

その高揚感は、同じく音楽映画といっていいでしょう、映画「ブラック・スワン」や映画「セッション」を彷彿とさせました。

 

映画「セッション」では、鬼教官と生徒が戦いの中で、お互いが誰にも到達出来ない高みへと登っていく姿が描かれました。

本作でも、四人しか到達出来ない高みへと登っていきます。

そのアプローチの仕方が、セッションと蜜蜂と遠雷では違うと感じました。

セッションでは対立しながら成長していく。

蜜蜂と遠雷では、4人が共感し、影響しあいながら成長していきます。

 

天才ピアニストたちの高揚感は、凡人な私たちにとっては、わからない世界です。

でも、そんな凡人でもかろうじて共感できる経験があるとすれば、それは受験だと感じています。

 

競争社会の中で、受験生は戦っています。

全国模試で今の順位を確認したり、合格判定を気にします。

同じ高校・大学を受験する同級生たちはライバルです。

 

でも、受験当日は完全に自分との戦いです。そこに順位はありません。勝ち負けではないですが、ライバルとの戦いあるいは切磋琢磨が自分を高みへ昇らせるのです。

 

それは、曲がりなりにも、ピアニストたちが感じた高揚感の一端だと思います。

 

天才ピアニストだと聞くと、私たちには関係のない話だと高を括ってしまう。

もっというと、自分には無い才能をねたんで、その一挙一動がいちいち鼻についてしまう可能性だってあり得ます。

主人公設定として、天才ピアニストとというのは共感を得られにくい設定ではないかと思ってしまいます。

でも、本作では、高レベルなピアニストたちがお互いの力を高めあっていく姿に凡人の私たちでも胸を打たれるわけです。

それはなぜか?

 

紛れもなく、音楽の力だと思います。

それはここで語るよりも、実際に本作を見て、最後の松岡茉優さんの演奏を見ていただくのが一番です。

 

改めていいましょう。

この映画は見かけ以上にストイックなのです。

 

 

蜜蜂と遠雷

蜜蜂と遠雷

  • 発売日: 2020/03/08
  • メディア: Prime Video
 

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