いつか消える文章

本当は、ペンとノートを持ち歩くことにあこがれている。

『眼の隠喩 視線の現象学』を読み終える

『眼の隠喩 視線の現象学』(著:多木浩二)を読み終える。
著者の多岐にわたる"視線"を追う本という印象。だけど、浅学な自分にはその追跡が難しいものであった。
 
自由の女神にはじまり、壮大な舞台装置、肖像写真、都市計画などにいたるまで、その時代の人々の思い描く"まなざし"と呼ばれるものが、本題や世間の評価とは別に含まれていた。その隠れた部分が、それらを作るほうと見るほうにおいて人々の認識がどのように変容するものなのか、当時の社会との関連を示しながら主に西欧の文化を軸にして広く分析している。
ここで「視線」とよんだものは、世界を織っている集合的な経験であって個人の視線ではない。私自身が集合的な視線をとおして世界を生存している。それをあえて「視線」をパラメーターに多種多様な現象を横断的に分析したのが「本書」である
(文庫版あとがきより)
以前読んだ本でもそうだったけれど、文学というものの教養が浅薄な自分にとって、ひとつのテーマを取ってみても関連する知識を前提とする展開である本書は、とにかく見識が広すぎて同じページを二度以上読み返すことが多かった。それでもいくつかは読み慣れない綴られかたをしていて理解できなかったけれど……。
よって、この本の内容に関して横断的に評することができない。へぇーそういうもんなんだぁ、という感じ。
 
ただ、本書の中盤、肖像画と写真の認識に関する部分を読んでいると、昨今流行りのAIによるイラストの描画について考えていることが引っ張り出されてくる。
 
AIによるイラストはなぜ問題とされるのかの一側面に、絵描き側が関与しない利用方法だからじゃないか、というのがある。絵描きに利するものではなく、それ以外の人間が、お金儲けのために有用であることを前面に出して使われている点。
AIの台頭によって、それまでイラストを描いてきた人間がどうなろうと知ったこっちゃない。法整備でなんらかの規制が成されるまでのあいだに稼いで、稼げなくなったらまた別の場所に移るだけ。特にイラストの生成が食い扶持である人間にとって、そういう視線になるのも不思議ではない。法整備か絵を描く環境が焦土と化すか、そのどちらかが先に到来したところで、彼らの関心は無くなって、別の儲け話を探しに行くだけ。AIによる描画そのものというよりも、それを扱う人間のまなざしが明け透けになったことに不快感を覚えるのだろうと思う。
 
他方、AIが生成したイラストを見る側の人間は、そこになにを感じ取るのだろうか。
AIが絵を描く人間のサポートになる部分が進化してゆかず、完成品をそれらしく描画することに長けていく方向に進化するばかりであれば、それが結果として完成したイラストが欲しい側の人間の利に供することになっている。これは、AIもそれを扱う人間も、描かれた絵は単なる記号の集合体で、それを欲する側はそれを消費するものであるという図式のみを捉えられているからだろう。
ただ、少なくとも自分の観測するかぎりでは、そのようにはなっていない。技術的な面でAIから生まれたイラストの質の向上が隆盛を極めていても、AI生成のイラストそれ自体を好んで欲するポーズをとる人間を見かけたことがない。
それはなぜかといえば、本書でいうところの「ブルジョワジーの神話的なイメージ」とか「二次的な意味」みたいなものが、AIの生成物には含まれていないとみなされているからだと思う。唯物論と観念論みたいなものだろうか。見ている人間は、色とりどりの記号から情報を読み取るほかに、それが描かれたバックグラウンドや大きなストーリーとの関連、見る側の人間の内面との関係など、有機的な視線が千差万別ある。AIの生成は、AIの生成であるというまなざしがそれらをすべてスルーし、「絵をエミュレートしたなにか」以上のものが見えてこない。そういう意味では、イラストを見る人間の脳は記号的ともいえる。
 
しかしこれも、今現在だけのことなのかもしれない。AIの生成したイラストにはまだ知覚できていないコードやパースペクティブがあって、それを人間の表現として意味づけられたとき、絵というものが新たな視線を投げかけるものになる可能性はありそう。また、人間のまなざしですらAIが学習して再現できるようになる日がやってくるのかもしれない。
 
終。
 
Â