脚本家・木皿泉さんの「シナリオ講座」
木皿泉さんが脚本を担当したドラマをすべて見たわけではないけど、2005年のドラマ『野ブタ。をプロデュース』を拝見して以来、独特の作風をお持ちのスゴい方だと思い、いつも気になっていた。昨年の『おやじの背中』(第5話)や『昨夜のカレー 明日のパン』も、やっぱり独自の面白さを持ったドラマだった。
で、昨年拝読した月刊シナリオ(2014年8月号)に、木皿さんの公開講義の模様がかなりのページを割いて掲載されており、この内容が「へぇ〜」の連続だった。
その「へぇ〜」と思った、ほんの一部だけを抜粋した。私の理解した範囲で要約していることをご容赦ください。
- キャスティングがあらかじめ決まっているほうが、当て書き(出演する俳優さんを前提にして書く)ができるので楽に執筆できる。
- 画に力がないと、ドラマの視聴率はすぐ下がる。
- 「画に力がある」とは……「作ってる人の情熱・知恵・工夫みたいなものが固まって、それが見ている人の気持ちを捉える」というような意味。
- 「いままでなかったものを作る」のは難しい。「自分が見たいものを作る」ほうがずっと理にかなっている。
- 説明しすぎないほうがよい。観客が考える余地を残す。
- たとえば「スリーJプロダクション」が「じぇじぇじぇ」から来ていることを、『あまちゃん』では説明していない。
- 「視聴者が発見する喜び」みたいな余地を残す。
- 今の世の中と同じものを作っていても売れない時代。
- 今の世の中に揺さぶりをかけられる唯一のものが「物語」だと思う。
- 揺さぶりをかけるためには、各人が持っている「非常識さ」が必要。
- 「自分の中でコントロールできないもの」を使って物語を作らなければダメなのではないか。
- 自分では制御できないものとは……「髪の毛が伸びるような」、あるいは「汗をかくような」もの?
- 東京には、上手くて安いクリエイターが山ほどいる(木皿さんの住まいは東京ではない)。
- となると、(東京のクリエイターと競合するには)自分の考えてるヘンなこととか、非常識さとかを、人と合わせず大事にしていくべきではないか。
- とはいえ「ヘンだな」「イヤだな」は大事にすべきだけど、それだけではダメ。
- そのヘンな部分を「普遍化」するのが、シナリオを書くということ。
- 自分の思っているヘンなことや、おかしいんじゃないかなってずっとこだわっていることがあるなら、それを大事にして、いつか他人に伝えられる、普遍的な言葉に変えて、それをみんなに共感してもらえるような形で発表していくっていうのが、表現なのではないか。
- 木皿さんのドラマの「ヘンな主人公」と「それを受け止めてくれるキャラクター」について。
- 自分(木皿さん)がズレている人間なので、それをそのままドラマにしたい。
- たとえば、王道的なシンデレラ物語でなく、女の子が「ヘン」なまま、みんなに認められるという話にしたい(『野ブタ。をプロデュース』)。
- そのためには、それを受け入れるキャラクターが必然的に必要になる。
- ドラマとは「カタログ」のようなもの。
- 自分(木皿さん)は「こんな価値観、ライフスタイル、ご近所さんはどうですか?」というカタログ、というような意識で書いている。
- トレンディドラマなら「こんな恋愛おしゃれでしょ?」というカタログになる。
- 「こんな人間関係どうだろう?」という発明を、想像しながら書いていくのがシナリオ。
- もしそんな人間関係が世の中になくても、書いてしまえば(テレビドラマの世界の中に)できてしまう。
- そうやって書いたものを誰かが見ることで影響されて、そういう人間関係が現実に生まれるかもしれない。
- 出版社/メーカー: 日本シナリオ作家協会
- 発売日: 2014/07/03
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