無題

しーうーのあらまんちゅ

ラブホテルはひとりで行くところじゃない

今日は就活セミナーがお昼で終わって、午後は暇だったんで、なんか映画観ようかなって思ったけど、田舎のイオンシネマで特に観たいものも無く。銀魂のき○たま編が今日から上映だったので、まああれは頭空っぽで観れるしいっか、ということで、U-NEXTのポイントを消費して無料でチケット購入。昔はさっちゃん(猿飛あやめ)苦手だったんだけど、今は女子キャラの中で結構好きなほうだな。ところで、一人称が「俺」の腐女子?の二人組が後ろの席にいて、明らかな成人女性でこういうタイプいるんだ…って思った。いや、中学生くらいまではよくいるタイプだったけど。日常生活でも「オイィィィィィ」とか言ったりするのかな。わいは女捨ててない感じのオタクの子が好きだから…まあいいや。人の勝手ですね。わいも昔、「女の子なんだから『ワイ』って使うのやめなよ〜」って男の子に言われて、気をつけてたんですけど、今も気を抜いてる時は手癖で使ってしまう。こうやって文字を打ってるときは特に。あと淫夢語録とかさ。人のこと言えないかもね。

 

帰り道、普段通らない郊外の県道を車で走っていたら、林の中にひっそり枝道があって、その枝道の脇に「ショートタイム 〇〇円」と表示されたちっちゃな電子看板があって、おっ!とテンションが上がった。田舎のぽつんとラブホテルが好きなの。入りたくはないけど。人の営みをあまり感じない土地に、性行為というバリバリに人間臭い営みをするための建物がひっそりあるのが、面白くて面白くて。都会じゃ、歓楽街や風俗街とラブホはセットになってるから、商売っ気しか感じなくて味気ないんですよね。歌舞伎町の変な滝?噴水?があるラブホとかさ、あそこに流れてるのは水じゃなくて虚無ですよ、虚無。シンプルにあの辺って、人が死にまくっているせいか空気が悪い。感受性が強い人はあんまり行かないほうが良さそう。悪いものが憑く感じがする。

私は歌舞伎町のバリアンで一人で休憩したことがあるんですが、全然休めなかった。虚しかった。一応バリアンって、ラブホではあるけどおひとり様OKだし、女子会プランも積極的に宣伝していて、比較的「開かれた」ラブホではあるんだけど、やっぱりこういうところは一人で来るもんじゃないと思った。当たり前だけど、空間の何もかもがふたりで楽しむことが前提につくられてるから、無駄に広い部屋やベッドが寂しくて寂しくて。今までビジネスホテルの一人部屋の空間がいちばん寂しい場所だと思ってたけど、ラブホテルにひとりでいる寂しさには敵わないと思った。

別にセックスしたいわけじゃないけど、妙に人の体温が恋しくなるときがある。寒さで心まで凍えてしまいそう。誰かの体温が私のつめたくなった肌に触れたとき、私は世界に繋ぎ止められている感じがする。誰かの中に溶けて、その人の一部になってしまえればいい、とすら思う。

 

この曲落ち着くよね、隣に誰かがいるときのBGM

https://youtu.be/_C1Sv3nFfkA?si=8SzhgW_RtgwMlFsD

 

私は闇をおそれ、光に打ち砕かれる虫

タイラーザクリエイター、平座栗栄太、って思いついたけどTwitterで11年も前に既出だった。

「ナミビアの砂漠」とかいう映画がちょっと前に話題になってたよね。少し興味はあったんだけど、主人公の女の子が躁鬱というか境界性パーソナリティ障害っぽいところがあって、対人関係や感情が非常に不安定なタイプ、という前情報を聞いて、観たら絶対に具合が悪くなりそうだからやめておいた。心が渇いてるのは私も同じだけど。感情爆発させて、暴力振るって、キッツい暴言を吐いても、それでもチヤホヤしてくれる異性がいるなんて、ちょっと信じられないや。「男の子は基本的に本能としてセックスしたいから、女の子には甘くなる」とはよく聞くけど、それでも限度はあるでしょ。

 

重苦しい心を、すこしでも洗い流したかった。昨日と今日、地元の温泉に日帰りで行った。今日は露天風呂にも入った。その露天風呂は渓流沿いにあり、渓流を挟んだ向かいには、黒黒とした山がそびえ立っている。山の上には、いくぶん青を含んだ夜空が広がる。自分は裸体を自然の中に曝している。外気温は3℃ほどしかない。肉体が浸かっているお湯は、おそらく40℃程度。湯気が渓流に向かってのぼっていく、そのまま空へ消えていく。自分の体も熱に溶けて、分解されて粒子になって、そのままつめたい無限の闇に消えていくような気持ちになった。それが急に怖くなって、内湯へ戻った。

梶井基次郎の「闇の絵巻」や「温泉」、「Kの昇天」を思い出していた。あの小説の登場人物たちは、闇の中に己の肉体が隠れていったり、月に向かって精神が昇天していくことを愉しんでいた。けれど私は怖かった。「私」が消えていくのが怖かった。誰かの中にいる「私」が消えていくのが怖い。世界から「私」が存在していた痕跡が消えていくのが怖い。

何度も何度も言うけど、忘れられていってしまうのなら、最初から出逢わないほうがいいし、生まれないほうがいい。

世界に向かって、声を大にして叫びたい。私はここに居ると。私を襤褸布みたいに捨てないで。私は、生きているから。

私という存在を、どうにかして世界に残していきたい。できれば美しく。それがこの苦しい世界に生まれた意味だと思う。

光は向こうから近づき、時に私の身を焼き殺していく。

私は闇をおそれ、光に憧れ、光に打ち砕かれていく虫。

見取り図のモリシみたいな人に抱きしめられたい

今日は完全にだめな日だった。朝から予定が入ってたのに、結局全く体が動かなくて、キャンセルの連絡を入れた。昼まで眠っても、ずっと体が重い、動けない。頭も働かない。突然やってくる鬱は本当に厄介。きっかけさえも分からないもん。改めて、障害等級2級であることの重みを感じる。楽しい時間を過ごしていたのに、突然ガクッと眠くなったりする。ただ日常の活動をするだけで、健康な人の2〜3倍は体力を使っている感じがする。

この前お友達と話したとき、おっっっきな男の人に抱きしめられたいよね〜、弱りたいし甘えたい、みたいな話をした。なんか付き合いたいとかでもないんだよね、私の場合。そりゃあ、ずっと一緒にいてくれるなら嬉しいけど、一旦恋愛関係になったら殆どの場合は必ず終わりがあるから、それが怖くて怖くて。拗らせすぎて、自分から好きになった人とはずっと友人関係でいたほうが安全な気がしている。とにかく見捨てられる不安が深刻すぎるので、しばらくは恋愛とか無理な気がする。まあそりゃ愛したいし愛されたいよ、死ぬまで続くならさ。

見取り図のモリシみたいな、ガタイが良くて歳の離れたお兄ちゃんが欲しい。「よしよし、萌ちゃんはほんまに頑張り屋さんやな〜、ええ子やな〜」って頭撫でられながらハグされたい。体温を感じたい。そしたらたぶん、胸の中で永遠に泣く。自分なりに頑張ってるつもりなのに空回りばっかりして、一つの課題をクリアしたと思ったら、また新たな課題が止めどなく押し寄せてきて。

自分が不健康の極みみたいな状態だからか、生物として強そうな人に甘えたい。雌としての本能なのかな。よく、暴力性を雄としての強さだと思ってる人がいるけど、私は余裕こそが強さだと思う。父性に近いのかな?

最近は男女ともに健康的な人に惹かれる。ピアスとかタトゥーとか、あるよりは無い方が絶対に良い。メイクも、自分自身を覆い隠すようなメイクよりは、自然な魅力を引き立たせるものの方が良い(耽美なアートとして完成されたメイクならアリだけど)。SNSを見てると整形とか豊胸とかの情報が溢れてて吐きそうになる。切開した目は怖いし、豊胸したおっぱいは見てるだけで苦しそうで苦手なんだよ。それでも持ち上げる人達がいるから、売れたい目立ちたい人はやるんだろうけど。

どうでもいいけど、最近ブレイズやコーンロウの魅力に目覚めた。アジア系でやってる人もいるけど、アフリカ系の血が入ってる人のそれは段違いで色気がある。ってか最近気づいたんだけど、アフリカ系の人が好きだ。体つきがまずかっこいい。A$AP Rockyで完全に目覚めた。あのちょっと困ったような眉とか、笑ったときに綺麗な歯が見えるおっきな口とかほんとにセクシー。The sexist man in the worldとして勝手に表彰したい。彼に憧れてusedのラフ・シモンズのアイテムまで買っちゃったんですよね。昔は華奢な美青年タイプにも惹かれたけど、まあ今も好きではあるんだけど、美女を見るときと同じ感覚なんだよね。きれ〜い、憧れる〜、みたいな。徐々に性対象では無くなりつつある気がする。

というわけで、私のセックスシンボルはA$AP Rockyです。

来月23日に片道5000円で神戸に行ける飛行機の便が一席だけ余ってたので、クリスマスシーズンは関西に遊びに行く予定だよ。せっかくのホリデーくらい、鬱を吹っ飛ばしたいね。向こうのお友達のみんな、時間があったら構ってくれると嬉しいな。

 

ささやかな「推し」と呼べる存在ができた

今日は総合病院の職場見学をしてきた。ルーティンワークと、常に電話対応などの刺激がある仕事、どっちが向いてるのかなあ。人事担当の人が、日本人には珍しく?しっかり目を見て話すタイプの人で、自然とこちらもしっかり目を合わせて話していた。アイコンタクトって社会の場ではそれなりに大切な気がする。てか、やっぱりコミュニケーションの基本なんだな、と。

 

いま、「ぼんやりとした鬱」状態であることは自覚しているので、SNSや動画サイトではなるべく刺激的なコンテンツは見ないようにしている。声がでかくてハイテンションなYouTuberも元々嫌いなので、おすすめに出たら手当たり次第に非表示にして(ごめんね)、YouTubeは音楽と、未解決事件の解説と、Creepypasta(海外の都市伝説とか洒落怖みたいなやつ)を垂れ流す媒体となっている。あ、あとUSラップの解説動画系も最近観てる。ディディの件は胸糞だけどどうしても気になるので…もしも2PacとBiggieの死にも絡んでたらやばすぎるよな。ヒップホップを通じてアメリカ社会を知るのは面白い。何が本当なのかよくわからない世界だけどね。ちなみにわたしは一貫してケンドリック信者です。

根暗でしょ!でもこれがわたし!

そんなYouTubeの世界で、最近ひとりの癒しを見つけた。推しってこういう感覚なのかな。

マックスくん。

https://youtube.com/@chikyuusuki?si=fD5hP1Zl7DGldnTk

彼の動画は、時間がゆっくりと流れている。声を張り上げたりしない、ボソボソとした話し方もとても良い。わたしは元々、ローテンションな人が好きなので落ち着く。編集も可愛い。ペイントソフトでササッと描いたような彼の手描きのイラストと、猫の海外ミームみたいなのがいっぱい出てくる。すごくゆったりした雰囲気の方だから、ずっと田舎に住まわれてる方だと思ったら、まさかのブルックリン出身のシティボーイだった。NYって東京以上の競争社会だろうに、それに染まらずに自分自身のペースで生きているのが素敵。内的ヴィジョンがある程度しっかりしている方なんだろうな。もちろん、それを確立するまではきっと大変だっただろうけど。

アメリカを横断する動画は、私の大好きなロードムービー達を想い起こさせる。アメリカの田舎、特にグレートプレーンズの辺りって、何にもない平野(荒野)が続いてる感じがたまらなく良いんだよね。あれは日本の田舎には無い。あの「何処まで行っても誰もいない」静寂感は、私の心象風景そのもの。でも、マックスくんの動画越しだと、そんな風景もどこか温かみがあるね。田舎に友達が遊びに来てくれた動画でも思ったけど、静かな生活の中に、人と人との繋がりを大切にしてる、あったかい感じに癒されるのかな。

これは、マックスくんの公式ページ。アーティスト活動のページかな?彼のバイオグラフィーや、絵画作品、執筆作品が見れるよ。Bandcampでアンビエントやテクノっぽい音楽作品も販売してるみたい。

https://shintaimax.com/

動画内で「滋賀大学にいた」と発言してたけど、バイオグラフィーを見ると、

Having spent extended periods of time in the Kansai region of Japan, Shintai’s artistic process has undoubtedly been shaped through the innumerable hours spent in the art studios of Seika University.

 https://shintaimax.com/bio/

とあるので、いずれ滋賀や京都などの関西地方に留学で滞在したことがあるのは間違いないようだ。確かに、東京よりも関西の古都が似合いそう。

なんか、変に「自己紹介動画!」みたいなのを作らずに、適度に謎を残しておいてほしい感じがある、彼には。ちょこちょこ、気が向いたときに情報をくれる感じでいい。底の見えない人って魅力的だよね。

彼の英語版のチャンネルも貼っておく。

https://youtube.com/@threefingerdrag?si=7BQwUBu6-Qh1AIuB

彼のことは知らないことだらけだし、もちろん赤の他人だし、画面越しでしか会えない人だけど、なんか幸せで居てほしい。ふとしたことで笑って、やりたいことをやって、穏やかに健やかに生きてくれていれば私もちょっぴりハッピー。

「推し」ってこんな感覚なんでしょ?知らんけど。

感性の不感症

やたらと感情が溢れてすぐに涙が出てくるときと、何かを見て、聴いていても、心ここにあらずとなってしまうときが交互に来る。肉体はここにあるけど、私の精神は散らばっている。そういうときは、たとえどんなに過激なアダルトコンテンツやグロテスクなものを見ても、本当に感情が「無」になるのである。何も感じない。感性のインポテンツ、って表現が何かの小説であったよね?無かった?とにかく、あれ。心の不感症。

そういうときは、自然の中に遊びに行く。風景画を鑑賞する。子どもの頃に好きだった絵本を読む。少しは情感が回復してくる。

松本竣介の絵を初めて観たとき、私と同じ色で「街」が見えている人がいたとわかって、嬉しかった。あおくてつめたくて。その中で、線になった人々が生きていて。

 

そらのいろはおさないころとおなじで わたしはそれがさびしかった

 

なにかをえがくあなたのまわりを ただこどものまま とびまわっていたかった

 

この前、通院時に、「誰かが自分から突然離れていくとき、子どもの頃に可愛がってくれたおじいちゃんが双極性の鬱になって、私と遊んでくれなくなってしまった時を思い出してつらくなる」と、診察室で泣いてしまった。全部そこに繋がっているのだと思った、私の見捨てられ不安は。幼少期の私がずっと今も泣いてるから。おじいちゃん、置いてかないでって。萌とまた遊んでよ、また一緒に郊外をドライブしようよ、自転車の練習をしようよ、展覧会を観に行こうよ、森でおじいちゃんは絵を描いて、私はその周りを走り回って遊ぶの。絵本を読み聞かせてよ。どうしてもう何処にも連れて行ってくれないの。どうしてもう絵を描かないの。どうしてずっとベッドに横たわってるの。

どうしてもう、「可愛い」って、大切な宝物みたいに抱きしめてくれないの。

私はひとりぼっちだよ。置いてかないで。

ずっと泣いてる。

 

この前見学した会社から、「ぜひ応募してほしい」との連絡をいただいた。有り難いことだけども。私には、考える時間が必要だ。

 

最近はずっと男の子みたいな格好をしていたい。女の子らしい可愛い下着も付けたくない。自分の奥なる少女性を守るために、少年のふりをしていたい。

 

何か大きなものに守られていたい。ただ抱きしめられて、体温を感じたい。離れていかないよ、ずっと大好きだよ、って言ってほしい。

 

 

 

 

 

 

少しは愛を込めて

胸にぽっかりと空いた穴ぼこみてください

どうでもいいけれど 少しは愛を込めて

 

https://youtu.be/JfBV7shRSNo?si=JHE_6A5pDuTTYv2W

 

11月になってから、楽しいこともいくつかあったけど、基本あまり元気が出ない。

XXXTentacionの“SAD!”は、分離不安障害(Separation anxiety disorder)の頭文字でもあるんだって最近知った。彼が双極性障害に苦しんでいたのは知っていたけど、もしかして私と似た苦しみも持っていたのかな、って。

I fuckin' hate when you leaveの部分で、いつも泣いてしまうよ。同じ気持ちだよ。

 

https://youtu.be/FAzP1WnT8Hk?si=C0jfHLt9lVHcq14Q

 

とりあえず、バイトを辞めたけど、求職活動をしながら失業手当で3月までは生活できるし、有り難いことに障害年金も頂けることになった。勉強も、あと1単位だけ(哲学書を正しく読み取って内容をまとめるという苦手な部類の科目だが、卒論も終わったし頑張るしかない)。趣味でやっている英語と初歩中国語の学習も順調。周囲の人間関係にもとても恵まれていると思う。高校の恩師と久々に会って、何年も会ってなかったのに、昨日会ったばかりのように楽しく、深いお話をできた。就労支援の担当の方には「一人じゃないですよ」と温かく言ってもらえた。友達たちには「好きだよ」「愛してるよ」って言ってもらえる。遠くから私に会いに来ようとしてくれている友達も何人かいる。それでいいじゃない。恵まれてるじゃない。十分なはずなのに、一人で部屋にいると不安が襲ってくる。得体のしれないモヤモヤ。私は愛に対して貪欲すぎるのかな。

 

政治家もエンターテイナーも、自己保身で嘘ばかり言う世の中。神様が本当にいるなら、本当のことだけ見つめられる目を私にください。

誰かと過ごした楽しい時間が、過去のものになっていくのが嫌。忘れられていくのが嫌。離れていくなら、せめて少しは愛を込めて離れて。

あたしはネットの冷たい海に溺れて、沈んで埋もれていきたくない。ちゃんとここに生きている、一人の感情のある人間だから。

あたしを見て。本当の目で。できれば愛を込めて。

本当は死にたくて消えたくて仕方ないよ、誰かが自分から離れていくなんて考えたら

家族+妹の彼氏くんとで、一泊でキャンプに行ってきた。家族がアウトドア好きなので、キャンプは1年に数回の恒例行事なんだけど、私はいろいろ敏感なので、「おじいちゃんと飼ってるうさぎの面倒を見るから」等の理由をつけてここ数年は不参加だった。なぜ急に今回参加する気になったかというと、家にいたくなかったから。家族の温もりを感じたくなったから。

結果的にとても楽しかった!テント張りは苦手だけど、パパと妹が主体的にやってくれて、その手伝いをすれば良いので気楽だった。夕飯時にお酒に酔いすぎて、実の母親に「酔った❤ぎゅーして❤」ムーブをかましたのは笑える。酔うと私は永遠に笑ってて、あとは寝てます。夜はミルキーウェイがくっきり見えるほどの澄んだ星空だった。アンドロメダ銀河に思いを馳せた。

帰り道に、とある場所に寄った。東日本大震災の記録施設である。その周辺にある海鮮丼屋さんがお目当てだったんだけど、食後にふらっと、記録施設に立ち寄ってみた。施設には無料エリアと有料エリアがあって、有料エリアにアート作品があるとのことだったので、自分はひとりだけお金を払って有料エリアに入った。震災の記録映像が流れていた。当時の被災した小学生が残したメモ、日記帳があった。ここで、いろんな人たちの「念」のようなものが自分の中に一気に流れ込んでくる感覚になって、ちょっと体調が悪くなりかけた。奥にあったアート作品もなんだか観ていると苦しくて、あまりじっくり鑑賞できず、そそくさとその場から離れた。今の自分はまだまだ心が弱っている、ということを自覚した。

ソフトクリームを食べて、帰り道は親の車でフランク・オーシャンをかけてもらった。後部座席で何も考えずに眠っていられる時間、なんて心地よいんだろう。子どもの頃を思い出していた。

帰ってきてからは、肉体的な疲労もあるとは思うけど、ずっと沈んでいる。お風呂に入ってご飯は食べてるけど、それ以外はずっとベッドにいる。Tyler, the Creatorの新譜がとても良かったので、過去作品を聴き返していたのだけど、EARFQUAEKでタイラーが消え入りそうな声で“Don't leave, it's my fault”って何度も何度も歌うところでダメになってしまった。タイラーは何も悪くないんですけどね。見捨てられ不安が深刻な私の心情に重なりすぎて、つらくなってしまった。

みんなと過ごした楽しい時間が、全部過去になっていくのがつらくてつらくて仕方ないよ。

ねえ、離れないでよ。

 

心がいま本当につらいので、Playboi CartiとかA$AP ROCKYとか、あまり感傷的な気分にならないようなUS rapで気持ちを誤魔化している。あんまりUSというかHIPHOPは詳しくないのですが、このふたりとTravis Scottはほんとに洒落ててかっこいいと思う。スタイリッシュというか。ロッキーに選ばれたRihanna姐さんが羨ましい。いや、姐さんがロッキーを選んだ、が正しいか。

 

とりあえず、今後の仕事でもプライベートでも、自分が注意すべき人間関係のポイントを考えてみた。

 

「自分の問題」と「相手の問題」を混同しないこと。

 相手が悲しんでいたり、不機嫌をこちらにぶつけてきたとしても、それは最終的には相手自身が解決すべき問題である。「手助け」できることは限られているのである。こちらとしては、「自分のアイデアとしての解決策」を提案したり、あまりにも相手が不安定になっているときはそれ以上刺激しないように見守る、程度のことはできるけど、その人の代わりに解決してあげることは絶対にできないのである。「自分が不機嫌になっているのはお前のせいだ、お前が悪い」という怒りをぶつけてくる人に萎縮しないこと。劣等感が強く心の境界が曖昧な人の中には、勘違いなどの被害妄想で攻撃してくる人もいるので、そういうときには何を言われても動じず、自分の心を守ること(反論しても余計に攻撃されるだけなので)。どんなに親しい大好きな大好きな人でも、最低限の心の境界を引いておくこと。

本当に、これがいちばん難しい。

 

ゼロヒャク、白黒思考が強い人とは一定の距離を置くこと。

 過去の深刻なトラウマなどによる認知の歪みで、「100%好きな人」「100%嫌いな人」という極端な人間関係しか築けない人が存在している。そういう人は私を絶対に無害な人間だと思って肯定的に近づいてくるし、距離感を一気に狭めようとしてくるけど、白黒思考の人は、急に自分を「100%」で嫌って離れていく可能性が高い。本来は、家族や親友といった大切な存在でも100%好きなんてことはなくて、ここは嫌だなって思って喧嘩したりもするけど、それでも「好き」のパーセンテージが圧倒的に高いから付き合いを続けるのである。「嫌い」寄りな人に対しても、「この人のこんなところは良いな」って、部分的に好きだと思えるところはあったりする。それを人は経験的に学んでいくものだけど、若かったり、たとえ大人でも上記のトラウマ等が原因で、そういう考え方ができない人がいるのである。白黒思考の違和感に気づいたとき、その人とは少し距離を置くことにする。それは別に、その人が嫌いだからではない。お互いに心地よい距離感で関わっていくためである。

 

「あなたを助けたい、守りたい」というようなスタンスでこちらに近づいてくる人にも気をつけること。

 残念ながら経験上言えることだが、一見奉仕の精神で近づいてくる人の中には、「弱っている人を助けて笑顔にさせてあげたい」という利他的な動機からではなく「弱っている人を見つけて、手助けをするふりをして、『下』の存在と見ることで自分が安心できる材料として利用したい」人もそれなりにいる。この手の人は、こっち(手助けされた側)が安定してくると、だんだん冷たくなる。幸せを一緒に喜んでくれるわけではない。だってもう、自分にとって「下」の存在ではなくなって、利用できる対象ではなくなったから。しかもタチの悪いことには、こうやって利用してくる人は「自分がなぜこういう行為をしているか」そのことに無自覚なパターンが結構多いのである。利他の精神ってとても難しいものだから、純粋な利他行為は、完全に我欲を捨てた聖者にでもならない限りできないとは思う。「君を助けたい」と誰かに言うとき、少なからず、ほんとうは自分自身が助けてほしい心もあるはずだ。「死なないで、生きようね」「愛してるよ」って言うとき、ほんとうは誰かに言ってほしいんだ、自分自身が。自分の存在意義を他者の救済に求めること自体は、私としては間違っていないと考えている。私は、作家の宮沢賢治作品に登場するキャラクターの自己犠牲的行為や、賢治自身の自己犠牲的な生き方について、倫理学の観点からの卒業論文を書いた。はっきり言って出来の良いものではないのであまり読み返したくはないが、まあとにかく、自分はそういう「利他」「自己犠牲」というワードにものすごく関心がある。人生のひとつのテーマだと思っている。純粋な利他行為は無理だとしても、「なぜ私はこの人を助けたいと思っているのだろう?」という自らへの問いかけは、常に忘れないようにしたい。

 

正直、いま、死にたくて消えたくて仕方ないけど、家族もこれを読んでくれたみんなも悲しませないようにするよ。

 

https://youtu.be/0XCQNpjWmRE?si=tUIkRiPPV0mhGc8m

どうしたら、お金なんかじゃ絶対買えない本当の愛を手に入れられるの?壊れそうだよ

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