1つの流儀を持つこと

流儀を知らないということは、何者にも縛られていない、ということではない。自分の癖に振り回されていることに、無自覚なだけだ。


ってのは、中学時代の部活の恩師の受け売りなんだけど、大人になるにつれ、特にインターネットを眺めるにつれ、無自覚に自分の癖に振り回されている人を見る機会が増えている気がする。


インターネットには反知性主義・反権威主義の皮を被った「怠惰の言い訳」があまりにも多い。
わかり易い例として、2chの哲学系のまとめを見るといいと思う。必ず導入かオチにキャッチーでわかりやすい反知性主義の言い訳があるはずだ。


それはまとめ人の程度を示しているだけとも言えるが、傾向として2ch反知性主義が支配している場であると思う。2chは嫌いではないけど相手の弁をそれによって封殺している流れをみると、僕はイライラする。で、はてブにもそういうのが増えてきた。


何かの視点を獲得することは、自分自身を捉えていた檻を自覚するようになることだ。檻を破壊するも、あるいは居心地の良い檻の中の生活を志向するにも、必ずその檻を自覚することからはじまる。


反知性主義の弁は、ほとんどの人の耳に心地よく、また伝搬しやすい。それを理解するのに必要なものは、なにもないからだ。なにも知らないでいいことの根拠になる。


何かに熱くなることはかっこわるい、みたいな風潮は、真摯に向き合っている人に対して失礼だと思う。専門性の獲得はそこからは生まれない。僕は誰もが何かに精通していて、お互いに何らかの価値を交換しあえたら楽しいなと思っているし、そうであってほしい。