先日行われた某チームのAAR(と名のついた違う催し物、品質活動)の結果の対策のひとつが「命名規則をちゃんと周知させる」でした。チーム開発は他人が書いたソースコードを読んで理解するのが仕事、みたいなところがあるので(長命な製品開発になると特にそうだよね)みんなが誤解しにくい名前をつけるのは大切です。書籍『プログラマが知るべき97のこと』でRubyのパパこと、まつもとゆきひろさんも『名前重要』というタイトルでエッセイを寄稿されてますね。
名前が大切であることは疑いの余地がなく、自分でも納得しているのに「命名規則をちゃんと周知させる」を聞いたときに「なんだそれは…」と思ってしまいました。それでこう言いました。
「次は "命名規則に則った名前だったけど中身が思っていたのとちょっと違いました" とかになるんだから、中身を見ないとだめだよね」
実はこれ、とても言いづらくて、なぜならわたしは仕事ではコードを1バイトも書かない。当然中身も見ない。中身を見ない人に「中身を見ないとだめだよね」と言われたらどう思うかってことですよ。でもその一方で「命名規則のせいにして…」「はっきり言わないと分からない人がいるかもしれない…」が、あたまの中をぐるんぐるんする。
テストもそうだけど「ここは大丈夫」と思っても0.1mmでも不安があるなら試すでしょう。大抵はちゃんと動くんだけどね。だから、わたしがわざわざそんなことを言わなくても、みんなは分かってる。と思うんだけど、やっぱり不安がゼロにはならなくて言っちゃった。
さっき「名前が重要であることは疑いの余地がなく、自分でも納得しているのに」と書いたけど、こういう正しいこと(正しそうなこと、耳あたりのよい言葉)に対して「んん?」と斜に構えてしまうのはなんなんだろうな。年々そういう傾向が強くなってるような気がします。
言いにくいことを言うには練習が必要
わたしが言いにくいことが言えるようになったのは、書籍『エラスティックリーダーシップ ―自己組織化チームの育て方』で、プロの無職 @m_seki が『リードについて』を書いてくれたからなんだよね。
本エッセイでは「リード」とは変化を促す「言いにくいこと」を発信することではないかと仮定してお話を続けます。
今回の「言いにくいこと」が変化を促したかどうかはさておき、言いにくいことを言うには練習が必要です。エッセイを読んだからって突然言えるようになるわけではない。すくなくともわたしはそうでした。
だから、これは言いにくいなって思ったら、まずは「言いにくいことを言う練習だな」と思ってやるといいのではないでしょうか。