â– 

枕詞を考えるのも面倒臭いので、そのまま大学生時分の話をしよう。
午後三時にもかかわらず、天井のない陸上競技場は暗闇に包まれていた。空はぼんやりと明るいものの、夜間になれば点くはずの街灯が消えている事もあって、普段の夜よりも暗い。
競技場周辺も駅前の大通りと同様、ひと気はない。車も通っておらず、まるで街の動脈が止まったかのように静まり返っている。
私と翼は、その入口付近で心細そうにしていた二人と、ようやく合流できた。
すぐさま体重の合言葉を交わした後、鬼神面と髑髏は退治したと告げると、小羽は若干引いていた。
 
「偵察だけしてきましたが、競技場内の式神の数は多くありません。大通りの時と比べると三分の一程度です」
 
入口側の街路樹の下で、鳥居が声を潜めて報告した。
 
「どうする? お姉ちゃん」
 
「……さっきの鬼神面は、追い詰めても別の式神を呼び出すだけだった。本来なら使役できるはずの御子神は使わなかった。はじめこそ、ただ温存しているのだと考えていたけれど、使わないのではなく、使えないだけとなると、ねじれ太夫がこの街に居るかどうかも怪しくなってきたわね。鬼神面や小面、弱法師といった能面を媒介して、遠方から操作しているのかもしれない」
 
「結局、本人はいざなぎ流の里という事ですか」
 
「倒せないじゃん!」
 
小羽が喚いた。
 
「ねじれ太夫の討伐は難しくなった。でも、それはある程度想定していたから大丈夫よ。ひとまず、あのビデオの映像は覚えてきたかしら」
 
「はい」
 
鳥居は真剣な表情で頷いた。
 
「ビデオ?」
 
私が小羽に訊ねると、彼女は小さく唸ってから、「訊かないで」と俯いた。余計に気になるが、翼はさっさと話を進めていく。
 
「ねじれ太夫は、数多の鬼神・妖怪、祖霊の類を御子神として取り込んでいるのに、その力を使ってこない。あの髑髏ですら、ただの式王子…… 式神だったわ。私の憶測も入っているけれど、土地に棲まうカミの力は、その土地から離れたところでは行使できないのでしょう。であれば、私達にとって非常に都合が良い。私達の目的は油注ぎの弓を取り戻す事。かつて、ねじれ太夫に御子神として取り込まれてしまった鳥居ちゃんの母親と、その弓は、この街と深く関係している。ねじれ太夫が最後の最後に御子神に頼るとしたら、油注ぎの弓。そして、それを扱える鳥居ちゃんの母親。だから、徹底的に相手を追い詰めるのよ。御子神に頼らざるを得ない状況になるまで」
 
「できるかなぁ」
 
小羽が不安そうに言うと、鳥居は、「こっちへ」と私達を競技場の案内板まで誘導した。
普段は“陸上競技場”と呼ばれているが、ここは元々、国体を誘致する為に作られた総合運動場であり、トラック種目以外にも複数の競技ができるような造りとなっていた。
 
「偵察の結果、小面はここに居るようです」
 
鳥居は、案内板の中央付近…… ソフトボール場を指さした。
 
「場内の式神は四足歩行のものばかりですが、ソフトボール場に囲まれた林に紛れて進めば、ほぼ見つからずに小面の傍らまで接近できます」
 
私は改めて制服姿の鳥居を見つめた。彼女はまさに水を得た魚のように、この状況で活躍を見せている。辛く厳しい鍛錬によって培ってきた己が能力を発揮できる事に、大きな喜びを感じているようだった。
 
「やってみましょう。鳥居ちゃん、先導をお願い」
 
全員が顔を見合わせる。武器の入ったゴルフバッグは大通りのビルに置いてきたままなので、今ある道具で戦うしかないが、鳥居の短刀も、小羽の木刀も、特に破損してはいない。私が持っているナイフにしても、使ったのは一度切り。それも蛇の式神に対して突き刺しただけ。本当の人間や獣が相手だったなら、こうはいかなかっただろう。
 
「では、出発」
 
翼の声で、全員が移動を始める。荒事に慣れている鳥居は勿論、後半は見守っていただけの私も体力的には余裕がある。小羽も、二手に分かれて以降は多少休息を取っていたのか、比較的元気そうだった。問題は翼だ。
私は、横目で翼の表情を窺った。足取りこそしっかりしているものの、疲労の色が見え隠れしている。彼女が使った、稗苗一族の秘術とやらは只事ではない。常識を捻じ曲げるような恐ろしいものだった。それは、彼女の身体を蝕んで然るべきものなのだろう。
 
『なるべく彼女に力を使わせないように』
 
不意に葛西の言葉を思い出した。
期待に応えるつもりが…… 情けない。
私は走りながら、自分自身の両手を見つめた。
鳥居の先導で、私達は暗い競技場の林の中を駆け抜けた。言っていた通り、ほとんど式神と遭遇する事なかった。土公らしき影と出くわした事は何度かあったが、制圧は容易だった。数が少なければ大した事はない。
 
「もう少しです」
 
公衆トイレの裏側に身を潜めて、一息ついた。壁の陰から顔を出すと、広々とした道の向こうで光るものが見えた。
 
「明かり?」
 
私が目を凝らしていると、鳥居がぼそりと呟く。
 
「火、ですね」
 
火だと? 紙の式神が火を使っている? 私は信じられない思いだったが、赤く揺らめくそれは、確かに、篝火のようだった。
 
「行きましょう」
 
翼はそう宣言した。
 
「ここから先は茂みがありません。ギリギリまで物陰に隠れて進みますが、その後は運否天賦となります」
 
鳥居の言葉に、全員が頷いた。
私達は小走りで駆け出した。道の向こうに、幾つかの人影が見える。すべて式神だろう。
 
「急襲を掛けます!」
 
鳥居が叫んだ。もう後戻りはできない。全員、均されたソフトボール場の敷地に足を踏み入れた。
たちまち、周囲の式神がこちらを補足した。
 
「もう遠慮しないから」
 
翼は低い声でそう言うと、左手を向けて狐火を撃ち放った。遠くの式神が一瞬で燃え上がる。
 
「取り巻きは私が片付けるわ。あなた達は小面を」
 
翼に背中を押されて、さらに加速する。襲い掛かってくる式神には目もくれず、篝火の下で跪いている小面だけを目指した。
小面の周囲には四つの柱が建てられていて、さらに注連縄が張り巡らされている。その内側に、篝火と、見覚えのある藤色の着物…… 彼女は祈りを捧げるように頭を垂れていた。
儀式。
心臓の音が大きくなる。
同じく、祭壇のようなものが設けられていた大通りでは巨大な髑髏が出現したが、あれとて式神。紛い物だった。
しかし、今度のそれは違う。そんな直感が全身を駆け巡った。
早々に仕留めないとならない。
私はさらに足を速めて、立ち塞がろうとする式神には体当たりで吹き飛ばしつつ、一直線に小面に向かった。
ドロドロと、辺りに黒煙が立ち込めるや否や、猪、蛇、鳥…… 多種多様な式神が現れて行く手を阻もうとする。が、それも大した問題ではない。牙や嘴によって肌が裂かれようと一切立ち止まらず、その防御線を突破した。
視界が開けた先に、小面の背中が見えた。
 
「死ね」
 
私は自分自身の速度をそのままぶつけるように、一発でその頭部を砕くつもりで、遠慮のない前蹴りを放った。
しかし、すぐそばの篝火から大気を震わせるような悲鳴があがった。かと思うと、火の中から巨大な人間の顔が伸びてきた。今度は髑髏ではない。瘤だらけの老人の顔だった。
その顔は、真横に裂けた口を広げて、私の右腕に噛みついた。
 
「うおっ」
 
そして力任せに振り回されて、地面に叩きつけられた。痛みは少ない。すぐに態勢を整えると、老人の顔は嘲笑うように口元を歪めた。
 
「山爺……」
 
咄嗟に思い浮かんだ。なにかの絵巻物で見た覚えがある。だが、その首から下は蛇の胴体だった。鈍色の鱗が篝火に照らされて光っている。
小面が、横向きのまま顔だけをこちらに向けた。微笑みを浮かべた女性の面。
 
『――待ち侘びたぞ、この時を』
 
被っている小面の下から、幾重にも重なったような声が響いてくる。そして再び篝火の中から、先程とは別の首がずるずると伸びてきた。今度は老婆の顔だ。
 
「山姥? 式神、ではないな」
 
その異様、その雰囲気…… 間違いなく、それらはここに存在している。紙で作った紛い物ではない。
瞬く間に篝火が大きくなった。その中から巨大な影がゆっくり現れる。やがて八つの首を持つ、巨大な蛇が地上に這い出てきた。
古内裏と呼ばれた髑髏ほどではないが、全長は六メートルくらいあるだろう。
蛇の胴体から、七股に分かれた八つの首にはそれぞれの頭部が付いていた。山爺、山姥もあれば、赤子のような顔もある。血走った目の鬼の顔もあった。
 
「ひょっとして八面王(ヤツラオ)か? だとすれば、瀧夜叉よりもさらに古い祟り神になるが……」
 
「狐火が効かない!」
 
前進も後退もできずに化物と対峙していると、遠くから翼が叫んだ。彼女による狐火は発火こそしているものの、まるで意に介していないようだった。
考えてみれば、篝火の中から現れたのである。火が通用するわけがない。しかもこいつは式神ではない。
 
「皆、一度退いて!」
 
翼の呼び掛けに再度私達は一塊となった。
翼が燃やし尽くした式神の炎が、私達を円形に囲んでいる。それが一種の結界となって、他の式神達の接近を阻んでた。
 
「どーすんの、お姉ちゃん! 一体なんなのさ!」
 
小羽が喚くと、翼は苦虫を噛み潰したような顔で答えた。
 
「八面王っていう正真正銘の御子神よ…… この街まで呼べるはずがないと高を括っていたわ。この為の準備で、ひたすら時間稼ぎに徹していたのね」
 
私は、その八面王を観察した。祟り神と恐れられているものの、目の前のそれは、神としての神々しさからかけ離れている。それぞれの頭部に統一的な意思など一切感じられず、それぞれが、怒り、笑い、嘲っていた。
 
「……翼。恐らく、あの八面王の活動時間には限界がある」
 
「根拠は?」
 
「タイミングが良過ぎる。御子神として呼び出せたのが偶然今だった、とは考え難い。小面は私達を引き付けてから呼び出した。そう考えるのが自然だ。つまり、使役できる時間が限られている事の証左」
 
翼は曖昧に頷いた。
 
「確かに…… でも、それを悠長に待っていられないわ」
 
火の結界の向こうに、八面王の巨大な蛇体が迫りつつあった。式神ではない八面王にとっては結界も意味を為さないだろう。その傍らで、小面が舞を踊るように楽し気に歩いている。
近づいてくるにつれて、まるで建物のような大きさのそれに、全員が息を呑んだ。とても正攻法が通用するような相手ではない。
 
「蟲を、使う」
 
翼がそう言って、ハンドバッグに伸ばそうとした手を、私は掴んだ。
 
「あれは一度きりだ」
 
「でも」
 
「大丈夫」
 
私は覚悟を決めて八面王と向かい合った。
妙に心が静かだった。
そうして私が火の結界から出ようとした時だった。私達の背後…… ちょうど、八面王の反対側から、無数の悲鳴があがった。
振り返ると、暗がりの先から、般若のような白い顔が突き出された。
地上から数メートルの高さだ。やがて、その顔に繋がる鈍色の鱗が見えた。次いで、牛のような顔も、その横に現れる。
幾つもの顔が、暗闇から出現した。
 
「まだ、居たのか……」
 
私は力なく呟いた。
八面王と同等の大きさの化物が、私達を挟撃するように現れたのである。
 
「九面王(クツラオ)…… 八面王と同じく、いざなぎ流の里の最悪の祟り神よ」
 
翼も絶句して、放心している。
その九面王のすぐそばに、白い顔の人物が居た。鳥居が見たという、若者の能面。琴似川の河原のコロニーに居たという、弱法師だった。
 
「いよいよ、仕留めに来たようですね」
 
鳥居も青ざめた顔をしている。
司令塔である能面の式神が二人。御子神が二柱…… 短期決戦を仕掛けてきているのは明白だった。御子神の活動時間に制限があるという私の仮説を補強する展開となったものの、考え得る限りの最悪の状況。
 
「ど、どうなっちゃうの」
 
小羽が木刀を胸に抱えて、涙を流しながら言った。普段から気丈に振る舞う小羽の弱々しい姿は、私の目にも辛く映った。
 
「私ひとりで時間を稼ぐ。その間に、翼達は逃げてくれ」
 
「なに言ってんのさ糾! こんなのを相手に一人なんて無理に決まってんじゃんっ!」
 
「そんなに信用ないか? これでも丁の無茶苦茶な修行から生還してきたというのに」
 
「そ、そういうコトじゃなくて!」
 
小羽が泣き喚く。
 
「大丈夫だ、小羽。ひとまず皆で逃げて、体制を立て直すべきだ。ドクターと連絡を取るのも悪くない。充分に解決策を練って、それから助けに来てくれれば良いさ」
 
私はそれぞれの顔を順番に見た。そして、最後に涙をこぼしている小羽の頭を撫でた。
 
「私は死なないよ。信じてほしい」
 
小羽は頬に伝う涙を拭いながら、頷いた。
 
「では、また後で」
 
私は笑ってから、火の結界を飛び出した。すると先程の声が再度聞こえてくる。
 
『みすみす逃がすと思うか?』
 
「思うさ。既に一度逃がしたのだろう? お前はどうせ、同じ轍を踏む」
 
私が挑発的な言葉を吐くと、二柱の御子神はその十七もある頭部を、こちらに向けた。向こうも二手に分かれるつもりらしい。
 
「さあ、行くわよ」
 
翼の声で三人は一斉に結界から出て、駆け出した。行く手を阻もうと伸ばしてくる式神の手を、翼が燃やして退路を広げた。
逃げていく三人を、小面と弱法師が追いかけ始めた。できる事なら能面ともども足止めしたいが、御子神と違って紙で作られているのなら、彼女達でも多少は足掻けるはず…… 私は、御子神だけを相手にすれば良い。
 
「あの時は右手だけだったが、結構痛かったな…… それに、すぐ莇が退治してくれた。今回は助けもない。逃げ道もない。一体どうなる事やら」
 
私は“あの時”と同様に白い巨岩を思い浮かべながら、両手を広げて、前後から迫り来る御子神――八面王と九面王に、左右の人差し指をそれぞれ向けた。
その瞬間に、周囲の空気が一変した。空間に充満する物質の性質が変わったかのようだった。
 
『ア、ア、ア、アアアアアッ!』
 
八面王と九面王の十七の首が吼えた。
 
「殺してやる」
 
トリガーとなる呪言を吐いて、崩壊していくイメージする。
その日本の人差し指は、稗苗の里で身に付けさせられた、殺生石の呪指だった。稗苗丁から半年使うなと厳命されて、赤い紐によって封印されたはずのものである。
しかし先日、翼に両手で祈るように包まれた時、その封印が解かれていくのを感じていた。彼女の胸元が微かに碧く光っていたのを思い出す。あれは、恐らく解呪する力があるのだ。
 
「はは、は」
 
思わず笑ってしまった。
全身を襲う激痛に耐えていると、脳裏に翼の澄ました顔が過ぎった。これは、彼女からの指示も同然だった。解呪した時、「やれ」と言外に訴えてきたのである。こういう事態すら想定して。
二柱の御子神は苦しむような叫び声を上げ続けている。逃れようとしていたが、指をさされて動けないのだ。怪異には、示された一点を見つめる習性がある。丁の教え通りだった。どこまでも、丁の教えは正しかった。
呪いが、指を向けられた相手と、私自身に流れ込んでいた。
 
「不用意に使えば己に向かうというのは、こういう事か……」
 
指先から逆流する呪いが、私の身体を蝕んでいく。生あるものを例外なく腐らせ、死滅させる、稗苗の里に伝わる殺生石の呪いが。
 
「くそ、が、ああっ」
 
叫ぼうとした声に、血液が混じり始めた。喉の奥からゴボゴボと音を立てて、呼吸を阻害してくる。
何かの式神が吠えながら噛みついてきたが、その牙が私に触れるや否や、砂のように崩れた。足元で威嚇していた式神も、私の血を浴びて溶けていく。
もはや、痛みは感じなかった。ただただ、寒かった。
ぐるりと眼球を動かすと、八面王の山爺の顔が苦痛に呻きながら、隣の山姥を喰った。それによって顔を半分失った山姥も、怒りのままに己の胴体を喰い千切る。
他の首達も、錯乱して恐慌状態に陥っている。
 
「絶景、ぜっけい」
 
共食いと呼べるかどうかも分からない事態を目の当たりにして、私は強がりを口にした。
八面王、九面王は苦痛にその巨躯を捩らせている。間違いなく効果はある。だが、我慢比べとなれば、分が悪い。
もっと…… もっと強い呪い…… 毒が、ほしい。
 
『この直径九百億光年以上にも及ぶ観測可能宇宙の中に存在するすべての生命を絶滅させる、たったひとつの、純粋な毒。The Just Higt Venomu Humanity(ジャスト・ハイ・ヴェノム・ヒューマニティ)…… JHVH(ヤハウェ)。それが、お前の正体だ』
 
かつて、気味の悪い研究所で兄――花塚全環(はなづか うつわ)に言われた言葉が、私の中で蘇った。
私は怒涛のように押し寄せてくる呪いの奔流に耐えながら、首だけを動かして、自分自身の腰の辺りを見た。そこには、翼から預かっているナイフがあった。
 
「  」
 
私は、薄れつつある意識の中で、ある女性の名前を呟いた。

â– 

枕詞を考えるのも面倒臭いので、そのまま大学生時分の話をしよう。
残された私は、隣の翼を見た。巨大な髑髏という脅威は未だ解決されていない。
 
「どうする?」
 
翼の事だ。私が幾つかの切り札を隠し持っているのは解っているだろう。その上で、訊ねた。彼女もまた、この場を切り抜けられる程度の手段を幾つも用意しているはず。
 
「当然、倒すしかないわ」
 
翼は髑髏の足元を厳しく睨みつけながら言った。
そこには、未空の偽物の姿があった。髑髏に気を取られて失念していたが、逃げたわけではないらしい。偽物は勝利を確信しているのか、悠然と佇んでいる。
 
「ばあん」
 
翼が無造作に突き出した左手の人差し指から、なにか見えないものが発射された。一瞬にして、眼前まで迫っていた髑髏に穴が開いて、その穴から炎が噴き上げる。
髑髏は黒い煙を巻き上げながら、赤々と燃える炎に包まれ、悶え苦しんだ。
 
「ばあん、ばあん」
 
その間にも翼は間髪入れずに火の弾丸を撃ち続けた。次々と髑髏は貫かれ、燃え上がり、他の式神達にも飛び火していく。
 
「呪指…… 葛西の狐火を宿らせたのか」
 
私は、稗苗丁から聞かされていた。天見翼の左手の五指すべてが呪指であると。
 
「本物の十分の一くらいの火力しか出ないけれどね」
 
そんな事を言いながら、髑髏ごと周囲の式神をことごとく炎上させる。
 
「はじめから使えば良かったじゃないか、とか思ってない?」
 
「まあ」
 
ふ、と翼が口角を吊り上げて笑う。
 
「色々と制限があるのよ。まず、この指を標的に視認させないと効果は発揮できないの。最初は鳥居ちゃんが一番目立っていたし、その後は小羽ちゃんが鬼神面と対峙した。注目させるのって、意外と難しいんだから」
 
ガラガラと音を立てて、巨大な髑髏が炎の中に崩れ落ちていくのを見届けながら、翼は説明を続けた。
 
「御子神を降ろされていたら危なったけど、紙なら大した事ないわね。それにいくらねじれ太夫でも、千年前の、平将門の時代の怪異を取り込むなんて離れ業は無理だったみたいね」
 
「簡単に言ってのけるが……」
 
私は半ば呆れながら、髑髏の残骸を見つめた。不意に葛西の言葉が脳裏に蘇る。
 
『彼女は爪を隠してきた。力を過小評価させて、ねじれ太夫をおびき寄せる為に。君達は、本当の天見翼を知らない』
 
本当の天見翼。恐らく、これでもまだ全力ではないのだろう。鳥居が修めた退魔の術にも目を見張るものがあったが、翼のそれは比較にならない。力に対して、力で捻じ伏せるような…… 恐ろしい能力だった。
 
「やっぱり、呪指だけじゃ心許ないわね」
 
翼は、溜息を吐いて左手を下ろした。私達の周囲には依然として無数の式神が存在しており、未空の偽物も健在だ。しかし翼を警戒しているようで、一定の距離を保ったまま、襲い掛かってくる事はない。
 
「あまり見られたくなかったんだけど」
 
そう言うと翼は、肩から提げているハンドバッグから小さな壺のようなものを取り出した。私はそれを見た事があった。
丁が莇に持たせて、翼に手渡したやつだ。手渡す時に莇が何か言っていた覚えがある…… 確か、この世代は前のものより強力だとか。
 
「糾君。少しだけ離れていてね」
 
翼に言われて、数歩だけ下がる。壺からはただならない気配が溢れ出ていた。
翼が何事か唱えてから、壺の蓋を取ると、その中から羽音と共に何かが飛び出てきた。
小さな虫のようだった。それは、翼が目の前に翳した右手の人差し指の先に止まった。
 
「稗苗一族が受け継いできた陰陽道の秘術に、蟲毒と呼ばれるものがあるわ。名前は知っているでしょう? 無数の毒虫を壺などの容器に閉じ込めて、最後の一匹になるまで食い合わせて、極めて強い毒性を有する個体を誕生させる。これは蟲毒を応用したものなの」
 
翼は人差し指に顔を近づけて、小虫を見つめた。
 
「小虫の中でも普通ではない個体…… 狂った個体を集めるの。そしてそれら同士を配合させて、その性質を遺伝させる。ひたすらに。狂気は凝縮して、伝染する。そんな狂気に支配された虫達を狭い空間で飼い続けると、さらに狂気は深化していく」
 
「う……」
 
私は目を疑った。指先に止まっている虫が、大きくなったり小さくなったりを繰り返しているような錯覚を抱いたのである。
 
「稗苗一族は何百年にも渡って、そんな虫の配合を重ね続けているの。この小さな身体に、一体どれだけの狂気を孕んでいるのか…… 想像できるかしら。その狂気は、虫自身と、周囲の空間を蝕んで、現実を侵食する」
 
私の目の前で、虫が様々な色に変化し始めた。
細長い触角が、小刻みに動いている。その動きに合わせて、こちらの三半規管が不協和音を鳴らしている。ぐらりと、地面が傾いたような気がして、両足に力を込めた。
 
「稗苗流陰陽道では、この秘術を、こう呼んでいる」
 
翼が再び呪文を唱えると、小虫は飛び立って、口元の辺りを舞う。彼女はそれを躊躇なく喰らった。
 
「狂蟲落禍(きょうちゅうらっか)」
 
次の瞬間、翼の身体に変化が生じた。
全身から、墨のように黒々とした瘴気が溢れ出した。髪の毛や目、口、胸元…… あらゆる場所から粘性のある瘴気が立ち込める。
 
『もうすこし、はなれて』
 
翼の声が、ゴボゴボと、水中で発したもののように聞こえる。隅のような瘴気が、シュノーケリング中に漏れ出る空気のようにも感じた。
 
『■■■■■■』
 
翼がなにか言ったのは分かった。しかしもう、言葉ではなく、音だった。代わりに、彼女の口から漏れ出た瘴気が空中に文字を形作る。
 
『涅』
 
そんな文字が見えた気がした。すると、翼の前方に居た動物型の式神が、甲高い音と共に破裂した。
触れてもいないというのに、音ひとつで式神を倒したのだ。
 
『■■■■■■■■■』
 
続けざまに瘴気が文字を形作る。瞬く間に、ありとあらゆる式神が破裂し、或いは粉砕されていく。
翼が未空の偽物に向かって歩き始めた。私はさらに後ずさる。瘴気はさらに色濃くなり、もはやその顔を確認する事も叶わない。
式神達は恐慌を来した。百鬼夜行さながらの群れが、たった一人の人間に恐れ戦いているのである。
もう唱えるまでもなく、式神は一瞬で塵になった。ダメ押しとばかりに翼は左手の指を突き出す。
空を飛ぶ式神が炎に焼かれて、無残にも落ちていく。
 
「呪指まで……」
 
翼が歩く先で、死が暴風のように荒れ狂っていた。
さらに、私は幾つかの式神が地面に吸い込まれるようにして消滅していくのを見た。見間違いではなかった。翼が右手の中指を中指を突き出している、その先で、式神が地面に消えていくのだ。
 
『“四ツ足峠の人穴”と呼ばれる霊道で作った呪指よ』
 
私の周囲に、墨絵のような文字が浮かんで、それが脳内で翼の声として再生された。そして、すぐにそれは空中に溶けていく。
式神達を霊道に落としているのだと、私は理解した。
この世のものとは思えない光景だった。それも、右手の指。
 
「丁…… 左手だけではなかったよ。しっかり把握しておいてくれ」
 
稗苗丁の知らないところで、翼は独自に呪指を身に付けていた。
数え切れないほど存在していたはずの式神達も、あとわずか。表情の読めない未空の偽物の前に、翼は歩み出た。
偽物は両手で印を作って何事か唱えたが、何も起こらない。無駄と判断して、再び黒い木刀を上段に構えると、翼に斬りかかっていった。その剣先が翼に触れる直前、火山のように足元から噴き上げた炎によって、偽物は大きな火柱となった。
呪詛の声を上げながら、偽物は崩れ落ちた。その瞬間に、残りの式神も消滅した。
 
「翼!」
 
駆け寄ると、翼から溢れ出ていた瘴気は見る見るうちに霧散していき、元の姿に戻っていった。
ゴクリと、翼が口の中のものを嚥下したのが見えた。あの小虫を飲みこんだようだ。
 
「大丈夫か」
 
ふらついた翼の身体を抱きとめる。
 
「……しきがみ、は?」
 
意識が混濁しているのか、息も絶え絶えといった様子の翼が問い掛けてくる。
 
「翼が倒したよ。鬼神面の、あの親玉の式神も」
 
私はそう言ってから、腕の中の翼の身体が現実であるという実感を得ていた。すべて幻だったような気さえしていたからである。
 
「ちゃんと重いから、本物だな」
 
軽口を叩くと、翼は笑った。
 
「ちゃんと抱きとめられるなら、あなたも本物ね。でも、女の子に言わないほうが良いわ」
 
翼は私の腕から離れて、立ち上がった。偽物が崩れ落ちた場所には、札のようなものだけが落ちていた。翼が煤で黒ずんだそれを拾い上げて、眺める。
 
「四百年前のものね。ご丁寧に、日付も記してある」
 
そして、私に手渡してくる。
 
「破って。こればかりは私の呪指でも燃やせないから」
 
「歴史的価値が高そうだが」
 
「敵に取り戻されたら面倒でしょう」
 
それもそうだ、と札を受け取って両手で引き裂いた。何の手応えもない。それを見届けた後で、翼は空を仰いで呟いた。
 
「日食が解けない」
 
私も空を見上げた。未だ暗いままだ。腕時計の文字盤を見たが、午後二時過ぎ…… 日没の時間ですらない。
私達は片側三車線の道路から離れて、ビルの一角に近づいた。翼が一階エントランスの玄関ドアに触れたが、微動だにしなかった。
 
「開かないわ」
 
私も試してみるが、押しても引いても意味がなかった。
 
「解除の条件を満たしていない、とか?」
 
「恐らく…… 他にもコロニーがあるって話だったわね。残りも退治しないと駄目なのよ」
 
翼は携帯電話を取り出した。
 
「あ、小羽ちゃん? 良かった。電波は生きているのね。今どこなの?」
 
小羽達も無事らしい。
 
「そう。じゃあ、陸上競技場のほうで集合しましょう」
 
翼は電話を切ると、私に、「行きましょう」と言った。
 
「河原ではなく、競技場を選んだ理由は?」
 
「そこを率いているのが小面だと思うから」
 
「河原に居るのは、まだ接触した事のない弱法師。しかし、小面のほうが優先度が高いと」
 
「ええ。小面の正体は、幸生哲学。高校生の頃のあなたと因縁のある、彼女よ」
 
「何故そこまで把握しているのか、というのは横に置くとして…… 確かに一度は哲学と似ていると思っていたが、別物だよ。部室に現れた時に確信した」
 
「そこは単なる調査不足でしょうね。情報が少なくて本物まで似せられなかった。そして、恐らく弱法師の面を被っているのは山中美鈴(やまなか みすず)の偽物。説明は要る?」
 
「いや、結構…… 当てつけもここまで徹底されていると、むしろ清々しい」
 
「ストーカーばかりで大変ね」
 
「翼も大概だ」
 
私達は陸上競技場のほうへと足を向けて、歩き出した。
昼過ぎだというのに暗い空の下で、誰も居ない駅前の大通りを歩くという体験は不思議の一言だった。私は、足元がふわふわするような感覚を味わいながら、翼と並んでいた。
 
「そういえば、翼の左手の人差し指。葛西の狐火が宿った呪指のようだが、どうやって?」
 
問い掛けると、翼は自分自身の左手に目を落とした。
 
「葛西君本人を指さして作ったの」
 
「本人を? へえ。それでも作れるのなら、早いうちに作っておけば良かった」
 
私も掌を広げて眺めると、翼はかぶりを振って、「駄目よ」と言った。
 
「何故?」
 
「先約があるから」
 
訳の分からない事を言って翼は左手の薬指を立てた。
 
「この左の薬指も狐火の呪指にしてあるの。一本だと火力が足りないと思って。でも、無駄に終わった。人差し指の呪指と被ってしまったからよ」
 
「同じ呪指は作れない?」
 
「そのようね。あなたも作ったから感覚で解ると思うけれど、呪指は毒手と似たような作り方をする。呪いを溜め込んで、その呪いで己が害されないように祓いながら、徐々に作り上げていくの。その過程で、言わば免疫のようなものが生じるみたい。だから、一度作った呪指と似たような呪指を作っても、その免疫が邪魔をして役立たずになる」
 
「……嫌な予感がする」
 
先約、と翼は言っていた。
 
「糾君。あなたには、葛西君の狐火とは違う、別の火の呪いを習得してほしいの」
 
翼は歩く足を止めずにこちらを見上げた。妖しい微笑みを浮かべながら。
 
「かつて九尾の狐が花嚴葦牙に授けた呪術であり、今は葛西宗家の秘所に隠されているという…… 飾火(カザリビ)を、奪ってきて」
 
私は、葛西宗家が葛西党(カザイトウ)と呼ばれていた頃の話を、ドクターから聞かされたばかりだった。
火のように振る舞う、火ではない、まったく別のなにか。かつて、それが敵対勢力に放たれたと言う。燃えているはずなのに、熱く感じず、消す事もできない。絶命するまで細胞が炭化していく様子を眺めるしかない…… 想像するだけで身の毛がよだつ、禁忌の力だった。武士勢力としての葛西党はその力の使い方を誤り、自ら滅んだのである。
 
「たぶん、それは、あなたにしかできない」
 
翼が囁き掛けてくる。彼女にとって、必要なのだろう。今後に控えているという強大な敵と対峙する為に。
その時、目の前の暗がりから小羽が飛び出してきた。
 
「お姉ちゃん! 遅い!」
 
「花塚さん、こちらに」
 
鳥居も居る。酷く焦った様子だった。陸上競技場まではまだ先のはず。
私が鳥居に引っ張られそうになった時、翼が鋭く声をあげた。
 
「私の今朝の体重は?」
 
「え? 今はそれどころじゃ」
 
私は、瞬時に目の前の鳥居の顔面に鉄槌を打ち込んだ。音もなく、拳の当たった場所が陥没する。
次いで、小羽の全身が燃え上がった。翼が左手の人差し指を突き出しているのが見えた。
 
「あー…… さすがに、だめね…… この手は…… もう」
 
炎に包まれながら、小羽は笑っていた。
沈黙した二つの式神を見て、翼は溜息を吐いた。
 
「急ぎましょう」
 
駆け出しながら、私は先程の話が一旦うやむやになった事に、わずかな安堵を覚えていた。

â– 

枕詞を考えるのも面倒臭いので、そのまま大学生時分の話をしよう。
私の声に反応したのは未空ではなく、翼と小羽だった。
 
「違う、糾!」
 
「違うわ、糾君」
 
同時に否定されて、私は反応に窮した。翼がすぐに補足するように説明した。
 
「あれもまた仮面。似せただけの、偽物。ねじれ太夫の当てつけよ。よほど、糾君に執着しているんでしょう。でも、これで少しだけ理解できたわ。彼女を捕まえて」
 
偽物? なら、目の前の式神と同じようなものか?
私は自分自身でもはっきり自覚できるくらいに混乱していた。しかし、再び乱戦となって、敵味方が入り乱れる。
未空の偽物は薄っすらと笑うと、いつの間にか、その手に黒い木刀が握られていた。
 
「今度こそ」
 
鳥居は短刀を構えながら突進しようとしたが、それを小羽が制して前に出た。
 
「アタシがやる」
 
白い木刀の小羽と、黒い木刀の未空が向かい合う。私は、それを横目で見ていたが、翼や窪に殺到してくる式神の対処に追われて、加勢する余裕は微塵もなかった。
 
「いやあッ!」
 
空気を裂くような怒声と共に、小羽が袈裟切りで飛び掛かった。未空は悠々と正面から受ける。硬い木刀同士がぶつかり、甲高い音が響いた。
 
「小羽ちゃん、相手は雑魚とは違う。勝てるの?」
 
翼が心配そうに声を掛けると、小羽は激しく木刀の腹を合わせながら、叫び返した。
 
「本人なら絶対無理! でも、偽物なら紙なんでしょ!」
 
「そうだけど……」
 
「だったら平気! それに、なんか、すっごいムカつくから!」
 
喧嘩のような大振りの蹴りが未空に見舞われる。未空は一瞬だが、宙に浮いた。やはり軽いようだ。だが、それをむしろ活かしたような立ち回りをしている。場数を踏んだ武術家のような雰囲気。
 
「本人の身体能力も模倣しているようね」
 
「本人…… そういえば、翼は未空さんと知り合いだったか。合気道の」
 
「ええ。彼女は合気道以外にも、色々な武術を修めているわ」
 
今もなお式神が大量に押し寄せてきており、会話などしている余裕はなかったが、それでも私は話を続けた。
 
「紙で作っただけのものに、身体能力まで付加できるのか? しかも、こいつらを操っているのは、あの偽物だろう。式神が式神を使役するのは割りと狡いな」
 
「たぶん、他の式神とは違う、特別な素体を使っているんでしょうね。さらに鬼神面…… 太夫が使用する能面を着けさせて、司令塔に仕立て上げた。だけど、その能面は私が砕いたわ。力は弱まっているはず」
 
言われてみれば、迫ってくる式神の動きは遅く、単調になっている気がした。これなら隙を見て小羽の加勢に行けるやもしれない。
 
「でも、ここまでしっかりと代役を立てているのなら、ねじれ太夫本人はどこかに隠れている可能性が高い……」
 
「本人は隠れて高みの見物か」
 
私は苛立ちながら、目の前を素通りしようとした子供の頭を掴み上げて、胴体と切り離した。そして、その頭部を未空の偽物に向かって投げつけた。所詮は紙だが、丸められているおかげで思いのほか、勢い良く飛んだ。それが鍔迫り合いをしている偽物の背中に当たり、わずかに揺れる。
その隙を見逃さず、小羽が素早く木刀を突き出すと、偽物の喉元に穴を開けた。人間なら致命傷だ。それでも、偽物は木刀を手放さずに応戦の構えを見せた。
 
「お姉ちゃん。もう勝てそうだけど、どーする」
 
小羽に油断はないが、翼は生け捕りを希望していた。
 
「小面のように喋られるはずなのに、心理戦を仕掛けてこない…… やっぱり、能面がなくなったから、あれも弱くなっている。捕まえて!」
 
「おっけー」
 
翼の言葉に反応して、小羽がもう一度突きを繰り出すも、偽物は木刀で受けたりせず、ふわりと跳んで距離を取った。戦意の感じられない動きだった。
小羽が構えを解いて追いかけるが、偽物のほうが速い。そして偽物が逃げ込んだ先には、注連縄のようなものがあった。
 
「祭壇?」
 
と翼が呟くと同時に、空に異変が起こった。
あっという間に空が光を失い、周囲が暗くなっているのだ。
 
「日月隠し(じつげつかくし)……!」
 
翼は絶句した。
 
「な、なんなのよ、これ」
 
「花嚴葦牙…… 葛西君や稗苗さんの祖先が使っていたとされる秘術よ。一体どこでこんなものを」
 
「現実離れもここまでくると、もう夢の中と言っても差し支えないな。日食予報で勝負していた渋川春海の時代でもないというのに」
 
私は溜息を吐いて、周囲を観察した。式神の動きがぴたりと止んで、襲ってこなくなった。その代わり、街は暗闇に覆われた。日食など自在に起こせるものではない。街灯も点いていない夜の街に、なにか恐ろしいものが忍び寄ってきている。そんな予感がした。
 
「もう生け捕りじゃなくても構わないわ! 糾君も追い掛けて!」
 
翼にも予感があったのだろう。すぐに指示が飛んで、私は駆け出した。その行く手を、人間の大きさほどもある巨大な骨の手が遮った。形状からして人間の右手の骨。
 
「いやいや…… そういうのは反則だろう」
 
私は項垂れながら、感覚だけで後方に跳び下がった。今度は左手の巨大な骨が先程まで私が居た場所を殴りつけた。ガガンッ、という重々しい音が響き、アスファルトを陥没させた。
ビルが建ち並ぶ街に、巨大な瘴気の柱が立ち昇った。そのどす黒い煙の中から、ビルよりも大きな髑髏が現れる。
 
「人間サイズの式神とやり合ってたのがバカみたいじゃん!」
 
小羽が悲鳴に近い抗議の声をあげた。まったくもってその通りと言う他ない。髑髏は上半身だけでも二十メートル以上ある。
 
「相馬の古内裏!」
 
翼には見覚えがあるようだった。
 
「あの鬼神面は、瀧夜叉姫のようね」
 
「瀧夜叉と言うと、平将門の娘だったか? 将門本人が現れるよりはマシだと思うべきかな」
 
「そうね。現代にまで名を轟かせる大怨霊を相手にしていたら命が幾つあっても足りないわ」
 
私と翼は軽口を叩き合った。現実感がなさ過ぎて、どこかおかしくなってきているのやもしれない。
その時、突風が吹いた。髑髏が再び右手を振り上げたのである。そしてすぐさま振り下ろされる。
鳥居と小羽がそれを避けて、二人はビルの隙間に逃げ込んだ。
 
「一度撤退するわ! 二手に分かれて! あとで合流!」
 
翼が叫ぶと、骨の手の向こう側から、「了解!」と二人の声が重なって聞こえてきた。
 
「そう簡単に逃がしてくれると良いが、なっ」
 
そう言い終えるのを待たず、真横から黒い蛇の首が私に向かってきた。
 
「ふざけるなよ」
 
咄嗟にベルトの隙間に忍ばせていたナイフを取り出して、その頭部を突き刺した。空に太陽はなかったが、真っ暗闇というほどでもない。大通りは既に、人間の式神は居らず、得体の知れない影が無数に蠢いている。
髑髏はこちらを標的と定めたようだ。一目散に逃げてしまいたかったが、翼と窪のフォローをしなければならない。
 
「どうしようか」
 
私はナイフを鞘に戻して、独り言ちた。
これが向こうの切り札と信じて、こちらも切り札を出すべきか…… いや、そんなはずがない。まだ河原と競技場に一人ずつ居るという話だ。考えたくもない事だが、そこの式神がここ以上に強かったら? 切り札は、まだ出せない。
 
「うわぁああああ」
 
窪がバットを振り回しているが、目を瞑っている為に牽制にもなっていない。
だが次の瞬間、眩いばかりの光と一緒にアスファルトを擦るような音が耳を劈いて、窪に集っていた式神を吹き飛ばした。
車だった。真っ白なスポーツカー…… その窓から身を乗り出した女性がテンション高く叫んだ。
 
「どうなってんだ、翼ぁ! さっさと片付けろよ!」
 
「ドクター!」
 
独語研究会の顧問である佐伯十子――ドクターが車で現れたのだった。
 
「私は関係ねえし、って研究室に籠ってたら襲われたんだよ! 何なんだよマジで! ホントメンドくせぇ!」
 
相変わらずの白衣姿で、ボサボサの長髪を掻きむしっている。
いや、ドクターが偽物ではない保証はあるのか?
私が訝しく思っていると、翼は迫り来る髑髏を見てからドクターに向き直った。
 
「窪君はもう限界ね。彼を乗せてください」
 
「乗せるのは構わねえが、全員は無理だぞ」
 
「翼部長、ボクは」
 
この場に残ると言いたげだったが、窪は滝のような汗をかいており、膝が笑っている。
 
「時間がないの。部長命令です」
 
「でも」
 
「厚意には甘えるものだ」
 
私は、近づいてくる真っ黒な式神を蹴り飛ばしながら、助手席のドアを開けた。そして無理やり窪を押し込むと、ドアを閉める。運転席のドクターは平然としている。窪が身に着けている魔除けがまだ通じるなら、何かしらの反応があるだろう。
 
「では、行ってください」
 
「お前らはどうすんだ」
 
「大丈夫。とりあえず、市外まで走れば安全のはずですから、また後ほど連絡します」
 
「そうか」
 
ドクターはそう言い置いて、車を急発進させた。そして周囲の式神をわざと轢いていく。
 
「……やけに楽しそうなハンドル捌きだな」
 
「どう見ても楽しんでいるわね」
 
私達は小声で会話したつもりだった。たとえ大声でも、走行中のドクターには聞こえないだろう。なのに、ドクターは運転席側の窓を開け放って、「アハハッ」と笑った。
 
「覚えとけ! 車編にぃ、楽しいって書いてぇ、轢くって言うんだよ!」
 
それを最後に、真っ白なスポーツカーは途轍もない速さで私達の前から消えていった。

â– 

枕詞を考えるのも面倒臭いので、そのまま大学生時分の話をしよう。
駅前の大通りは異様な光景に満ちていた。まるで異なる空間に迷い込んでしまったかのようだ。
数えられる程度しか人間が居ないのである。駅の中心部は疎らながらも存在しているが、そこから五十メートルと離れれば無人。大学からここへ至るまでの道も同様で、寒気がするくらい閑散としていた。異常にも程がある。
鳥居は、待ち合わせたビルの陰に居た。学生服だ。窪のように、着替える余裕もなかったのだろう。彼女は、しーっ、と口元に人差し指を当てながら手招きしている。なるべく足音を立てないように近づいた。
 
「あ、ちゃんと本物か確認しないと」
 
翼が開口一番そう言ったので、私は窪のほうを見た。カラ人間なら声が聞こえないはず…… だったのだが、肩に担いだゴルフバッグが相当負担になっているらしく、呼吸を整えるのもやっとの状態となっていた。仕方なく、私は鳥居を担ぎ上げた。
 
「良し。重い」
 
「なっ、なっ」
 
突然の事に言葉を失っている鳥居を下ろすと、翼は、「で、一体何があったの」と問い掛けた。
 
「へ…… あ、えと、この先のブロックにカラ人間の、式神の群れが居ました」
 
無数のビル群の隙間から顔を出して、見渡す。
居た。駅周辺のひと気のなさが嘘のように、片側三車線の広い道路に無数の人影。老若男女もバラバラで、夢遊病患者さながらに目的もなく徘徊しているという雰囲気だった。
 
「カラ人間もいーけどさ、お姉ちゃん。なんで生身の人間がこんなに少ないの?」
 
小羽が薄気味悪そうに自分自身の肩を抱いて、訊ねた。
 
「言ったでしょう。この街の住人は、強大な怪異が出現すると、無意識にそれを避けるのよ。あなた達が月曳之縄を解決した時だって、不自然なくらい周囲に人間が居なかったでしょう?」
 
「そういえば…… でもさ、住人の全員が無意識にーって有り得るの?」
 
「勿論、一人ひとりの事情は様々よ。今日は体調が悪いから寝ていよう、とか。家に籠って家事に専念しないと、とか。全員が何かしらの理由で外出を避けているの」
 
「それが、毒に感染した結果というわけか」
 
「まさに。だからこそチャンスだと思ったのよ。誰が敵かも分からない状況に追い込まれたら大変な事になっていた。誰彼構わず攻撃するわけにもいかないから。でも、この街特有の毒による防御作用が働いてくれたら、むしろ式神が目立つようになる」
 
その時、ビルの警備員と思しき男性が歩み寄ってきた。青い作業着に黄色いベスト。誘導灯の類は持っていない。
 
「あのー、どうかされました? そのお荷物は?」
 
「おっと、も、申し訳ないっ」
 
私達の最後尾に居た窪が慌てふためきながら、担いでいたゴルフバッグを地面に置いた。その一連のやり取りを見ていた私に、翼が耳打ちをしてくる。
 
「糾君」
 
「わかった」
 
私は窪を庇うように下がらせつつ、警備員の腹部を蹴り込んだ。すると、大した手応えもなく腹に穴が開いて、不自然な角度で地面に倒れ込んだ。しかしそれは、なおも平然と立ち上がろうと手足を小刻みに動かしていた。その顔面を、鳥居がいつの間にか取り出していた短刀で切り裂く。パッと紙の繊維が散って、今度こそ動かなくなった。
 
「ひ、人じゃなかったのだね」
 
窪は首から提げたペンダントを握り締めながら、怯えた声を出す。
 
「どうして判ったんだい、翼部長」
 
「私達に接触してきて、且つ、探るような質問をしてきたら」
 
「それだけでっ」
 
「それだけではないわ。窪君の前で、立ち止まった。魔除けを忌み嫌ったのよ」
 
「う、ううむ……」
 
暴力沙汰に慣れていないだろう窪は、それでも何か言い募ろうとしていた。気持ちは解らない事もない。
短刀を手に持っている鳥居を横目に見た。あまり他人の事は言えないが、人間を模しているだけと理解していても、刃物を、しかも急所である顔面に向かって躊躇なく振り抜くというのは、生半可な肝の座り方ではない。退魔師の末裔として、あの恐ろしい祖父に鍛え上げられた鳥居の、尋常ではない人生の片鱗に触れた気がした。
 
「兎に角、今ので私達の位置がバレたかもしれない。窪君、そのバッグを開けて」
 
窪が、翼に言われるままにゴルフバッグを開け放つと、何振りもの木刀が現れた。金属バットもある。さらには、刃物の類も。鳥居が振り回していた短刀の半分ほどの刃渡りだが、刃引きなどはされていない、本物のナイフ。
 
「鳥居ちゃんはもう武器があるわね。他の三人はどうする?」
 
「ボ、ボクはバットでいいかな」
 
「アタシも、この白い木刀にしておく……」
 
窪、小羽がそれぞれにゴルフバッグから武器を取り出して、確かめるように柄を握り込む。
 
「糾君は?」
 
翼に訊ねられて、少しだけ考えてからナイフを手に取った。これまでの経験から撲殺も可能らしいが、鳥居のように切り裂くほうが早そうだ。だが、素人が振り回しても危険なだけ。基本的には自前の手足を頼ろう。
 
「まさかこんな駅前で大立ち回りを演じる事になろうとは」
 
思わず自嘲すると、翼は笑顔を作って、「大丈夫よ」と言った。
 
「目撃者は居ない。ストレス発散だと思って、存分に暴れて」
 
「あの、すみません」
 
鳥居が早口で会話に割って入ってくる。
 
「式神の群れ…… コロニーは現時点で三つ。それぞれに、それらを率いている親玉が居ます。すべて能面を被っていました。ひとつ目は、ここ。ふたつ目は琴似川の河原。そして陸上運動場。運動場のほうは確認できていませんが、河原には目を閉じている若者っぽい能面が居ました」
 
「弱法師(よろぼし)ね」
 
と翼が頷く。
 
「この先の道路に居るのは、牙の生えた鬼のような能面です」
 
「鬼神面のどれか。となると、運動場には部室に現れたっていう小面かしら」
 
「そのうちのどれかが、ねじ太夫本人?」
 
小羽が訊ねると、翼は自信なさそうに小首を傾げた。
 
「だったら良いのだけど…… 三という数が引っ掛かるのよね」
 
「引っ掛かるって?」
 
「……ちょっと嫌な予感がするの。街から住人が消えていっている事は向こうも気づいたはず。なのに、攻撃に転じてこない。焦っていない。念の為に切れるカードは残しているけど、向こうもまだ切り札を隠し持っている……?」
 
嫌な予感は、私にもあった。
こちらにとっても、敵にとっても、誤算と成り得る存在を否定できない。
今のところ、根拠となるようなものはない。気持ちの悪い感覚だ。
 
「どうであれ、全部倒すだけです」
 
そう言って鳥居が短刀を握り込む。翼も考えるのは止めたようだ。
 
「そうね。早く片付けてしまいましょう。でも、能面だけは生け捕りにして。なるべくね」
 
ゴルフバッグをビルの陰に隠して、私達は顔を見合わせた。
 
「さあ、戦闘開始よ」
 
そうして、大通りに躍り出た。
 
「もし途中でバラけた場合、合流時には合言葉を忘れないように。連絡手段を封じられたら、部室に集合。それから、窪君は私の側を離れないで」
 
「い、いやっ、ボクもその気になれば」
 
「無理をしない」
 
「……わかったよ、翼部長」
 
翼の判断は的確だった。独会のメンバーで最も暴力沙汰に慣れていないのは窪だ。小羽も慣れているわけではないが、ある程度は護身術の心得がある。翼は今も道場に通っているそうだし、鳥居に関しては何の心配も要らない。仮に、今の指示がなければ私は窪と共に行動するつもりだった。
 
「皆、気をつけてね」
 
翼の、その言葉が合図となった。
見慣れた大通りの景色。昼間なのに車は一台も走っていない。助かる。ねじれ太夫と言えども、使役する式神の行動には制限があるのだろう。車を運転させて突っ込んでこられたらひとたまりもない。
とは言え、油断はできない。そういう可能性も念頭には置いておこう。
カラ人間の群れが目と鼻の先まで迫った時、「キャッ」と小羽が悲鳴をあげた。上空に、蝙蝠の式神が見える。それがいきなり急降下して、襲い掛かってきた。
最初は面食らったが、動きは極めて直線的。本物の蝙蝠のようには動かせないらしい。
顔や首元を目掛けて飛んでくる蝙蝠を引っ掴み、力任せに千切る。見た目より脆いが、頭上を自由に行き来されるのは気が散って仕方ない。
 
「動物型は面倒臭いな。人間型のほうが楽で良い」
 
「そんなコトいわない! 飛んでくる式神ばっかりになったらどーすんのさ!」
 
小羽は私の愚痴に反応しながらも、木刀を鋭く振り抜いて、器用に蝙蝠を撃ち落としていた。鳥居に至っては一振りで何羽も切り裂いている。
だが、やはり窪は苦戦してた。懸命にバットを振り回しているものの、仕留められないでいる。
 
「窪君は人間に模したやつだけに集中して!」
 
「あ、ああ!」
 
蝙蝠の襲撃を凌いでいると、突如としてラフな恰好の男が拳を振り回してきた。速度だけで言えば、蝙蝠のほうが早い。避けるのも体力を使うので、繰り出された拳を右手で受け止めつつ、左手で男の喉元を握り潰した。それだけで男は動かなくなる。人間にとって致命傷なら式神にも通用するという考えは間違いではないようだ。
私のすぐ横を鳥居が駆け抜けて、手にしている短刀を振った。すると目の前に居たスーツの女性は首筋から繊維を噴き上げて、ゆらゆらと倒れ込んだ。
 
「木刀でも人を叩くのは抵抗あるかも」
 
などと言った側から、小羽は襲い来る人々の胴体を立て続けに貫いていく。刃のない木刀では、振り回すより突き刺したほうが効率が良いのやもしれない。
前方は鳥居と小羽だけで充分だった。問題は後方…… 恐怖に顔を歪めた窪がバットを振るが、当たり所が良くないのか、たった一発では式神は倒れない。一対一でギリギリという状態だ。その窪の見えない角度から別の式神が迫っているのが見えた。セーターを着た老人の姿をしている。
私はすぐに駆け出して、老人の頭部を蹴り上げた。首から上が弾け飛ぶ。ついでに窪が相手をしていた男の両肩を掴んで、二つに千切った。
不謹慎だが、生身の相手にはできない事ができて、少しだけ楽しかった。
 
「助かるよ、花塚君…… 人じゃないって頭では解っていても、結構キツいね」
 
「ああ、私もそう思う」
 
私の軽口に、窪が苦く笑った。楽しんでいる事が聞こえてしまったか。
そんな激闘の最中に、翼はじっと前方の集団を見つめていた。
 
「……居た。皆、鬼神面が居るわ。一番奥!」
 
全員の視線が一箇所に集まる。確かに、鬼の如き面を着けた人物が居た。白い着物に袴という出で立ち。
 
「わたしが!」
 
鳥居が鋭く言い放つと、式神の群れの間隙を縫って一瞬で距離を詰めた。が、急に地面から白煙が噴き出した。
 
「なっ」
 
鳥居は転がりながら後退した。白煙の中から、四足歩行の動物らしきものが幾つも現れた。黒く、丸みを帯びている。
 
「土公(どっこう)よ!」
 
翼が叫ぶ。
 
「猪の式神。向こうはいよいよ、本来の太夫の力を使い始めたようね」
 
土公と呼ばれる式神の突進を、鳥居は避けると同時に短刀で切り刻んだ。
 
「手応えが軽い…… この猪も紙です! しかし牙には注意を!」
 
鳥居は端的に情報を伝えて、次々と土公を切っていく。
簡単にやってのけているが、元より人間は小型犬にも苦戦すると聞いた事がある。土公の体躯は大型犬を優に超えていた。乾いた笑いが込み上げてくる。
 
「私のせいだったりするか?」
 
動物型は面倒だと言った矢先に、これである。
 
「八割くらい糾のせいでしょ」
 
小羽も今までのように前へと出られなくなっていた。
 
「八割も?」
 
「んじゃ、七割…… って、マジ?」
 
最前線で戦う鳥居と、私達の間にまた別の式神が出現した。
蜘蛛だ。サイズとしては土公よりも大きい。
 
「虫か…… 虫は、流石にな」
 
大きくなっても生理的不快感が強い。だが、やらなければやられてしまうのだ。私は空気を読まずに突っ込んできた人間の式神の足を掴み、式神ごと蜘蛛に叩きつけた。有り難い事に体液が飛び散るような惨事は起こらず、簡単に潰れた。
 
「数が多い! お姉ちゃん! これじゃ、合宿の時と同じじゃん!」
 
「いやむしろ、合宿の時より……」
 
青ざめた表情の窪がバットで式神を殴打している。いつの間にか、傍らに翼の姿はなかった。
 
「でも、居るわ。これなら、本体が」
 
翼は、小羽の側まで近づいていた。
 
「小羽ちゃん。あの鬼神面の下の、顔を見て」
 
「え」
 
鬼神面の人物は、最前線の鳥居よりもさらに先のほうで悠然と構えている。
 
「む、無理だって、お姉ちゃん。遠いし、なにより想像が邪魔で」
 
私は天見姉妹に襲い掛かってくる式神に応戦しながら、吼えた。
 
「小羽! やってみろ!」
 
「で、でも」
 
「言っただろう! お前が必要だ! お前ならできる!」
 
「そうよ、小羽ちゃん」
 
翼がその肩に手を置くと、「わかったよ」と言って、小羽は正面を見据えた。木刀を固く握り締めている。
 
「……違う ……違う。これじゃない。もっと、奥。剥ぎ取って、剥ぎ取って剥ぎ取って……」
 
小羽は両目を血走らせながら、ぶつぶつと呟いた。
 
「大丈夫。あなたならできるわ」
 
「もうちょっと…… もう、ちょっとだけ…… ああっ」
 
一瞬、羽が生えているように見えた。小羽の背中に。
 
「女の顔だった!」
 
小羽が叫んだ。私は改めて目を凝らす。白い着物の鬼神面は、背格好だけ見ると男のように見えた。あれが女性だとすると、相当背が高い。
 
「女…… でも、弓はない。離脱すべき?」
 
翼は独り言のように呟いている。だが次の瞬間、目を見開いて、声を張り上げた。
 
「やっぱり、あの鬼神面を捕まえて! なんとしてでも!」
 
「そうしたいのは山々ですが!」
 
土公と人間型の式神に間断なく襲撃されて、鳥居でさえも近づくに近づけない状況だった。
私も、自分自身と窪のサポートで前進もできない。
火…… 火がほしい。
私は心の中で呻いた。脳裏を過ぎるのは、葛西の憎たらしい顔。次いで浮かんだのは、莇の可愛らしい顔だった。
ちくしょう。無い物ねだりをしても仕方がない。
 
「翼!」
 
私は煮え切らない思いで翼に振り向いた。目が合うと、彼女は頷いた。
 
「私がいきます。小羽ちゃんは窪君を。糾君は、私の露払いをお願いね」
 
翼が力強い足取りで前方へと歩いていく。鞄を肩から提げているものの、手には何も持っていない。私は、彼女の行く手を阻むように出てくる式神を見境なく潰し、引き裂いた。自然と鳥居も一旦退いて、翼を守るような動きになった。
やがて、鬼神面の人物と翼が対峙した。距離はまだある。しかし、何故か向こうも式神を操る事を止めた。
 
「私達の街で、随分と好き放題やってくれたわね」
 
翼は胸を張り、鬼神面を見上げながら言った。そして、左手でピストルを撃つような形を作って、その人差し指を相手に向ける。
瞬く間に、周囲の温度が下がったような感覚があった。夏の昼間だというのに、肌寒い。
呪指だ。
そう思い至った時、鬼神面も両手で印を結ぼうとした。防御の為か、迎撃の為か…… 分からないが、それが成就する事はなかった。
 
「Say hello to my little friend」
 
突然の英語。
 
「ばあん」
 
ピストルに見立てたその左手の人差し指が、弾丸を発射した反動のように跳ね上がった。
バキンッ。
その一撃が、鬼神面を捉えて、ひび割れた。破片が散って、ボロボロと崩れていく。
 
「うっ」
 
白い着物の人物は咄嗟に失われた部分を右手で隠したが、見る見るうちに亀裂は全体に行き割ったって、その顔が晒された。
 
「は?」
 
私は驚いていた。何故彼女がここに居るのか理解できずに、立ち尽くした。
未空。桐生未空だ。私は、肌を合わせた記憶も新しいその女性を、見つめた。
 
「未空さん?」

â– 

枕詞を考えるのも面倒臭いので、そのまま大学生時分の話をしよう。
 
「そう。そんな事があったの」
 
ようやく落ち着きを取り戻した部室に翼がやってきた。
 
「仲間でも敵が化けている可能性があるのなら、なにか合言葉でも決めておくというのはどうだろう」
 
窪が提案する。
 
「確かにそうね。何が良いかしら」
 
「でもさ、お姉ちゃん。今まさに仲間の誰かに化けていたら合言葉も意味ないんじゃないの。お互いに顔を抓るとか、そーいうほうが判り易くない?」
 
「悪くないけれど、危険だわ。その隙に攻撃されてしまう」
 
「じゃあ、この魔除けは? 結構嫌がってたよ」
 
「撃退とまではいかなかったけどね」
 
窪は苦く笑って、手元のペンダントを眺めた。
 
「稗苗丁さんの特製でも、魔除けは魔除け。祓えるわけではないのよ」
 
翼はそう言ってから、一度だけ柏手を打った。
 
「こうしましょう。合言葉は毎日変えられるものが良いから、私が朝に計った体重を皆にメールで送るわ。それを誰も居ないところで、ひとりでこっそり確認して。ちなみに今日は四十九ジャストです」
 
「お姉ちゃん、その身長で五十ないの……? うそでしょ? 嫌味?」
 
小羽が俯いて恨めしそうに呟いている。
 
「兎に角、今は鳥居ちゃんとの合流が先決よ。なにか判明したみたいだから」
 
翼がそう締め括ると、特等席から立ち上がる。
 
「窪君。荷物持ちを頼めるかしら」
 
翼が指さしたのは、壁に立て掛けられていた大きな鞄だった。ゴルフバッグに近い形状をしている。
 
「勿論だとも! おお…… これは、なかなか」
 
見た目以上に重かったようで、持ち上げた拍子に窪の身体がわずかに傾く。中身が気になるところだが、恐らく確認するまでもない。大変物騒なものだろう。
そうして全員で部室を出た後、私は閉ざされたドアの前に立って言った。
 
「悪いが、少し用事を思い出した。先に行っててくれないか」
 
「あまりバラけるのは感心しないわ。いつ入れ替わられるか分からないんだから」
 
「その為の合言葉でしょう。大丈夫だから、私の事は気にせずに」
 
「……仕方ないわね。早く来るのよ」
 
全員が去ったひと気のない廊下で、私は部室のドアを見つめた。
 
「葛西、話がある」
 
そう言ってからドアを開く。いつもと変わらない感触。だが、予感がする。
一気に開け放つと、部室の奥…… 窓際の椅子に葛西真一が腰掛けていた。
 
「やあ。何の用だい」
 
葛西は読んでいた文庫本を閉じて、こちらに振り向いた。
 
「念の為に訊いておきたい。先日、稗苗の里に行ってきた」
 
「ああうん、知っているよ。稗苗丁さんの一人息子…… 莇君? が部室まで来てたしね。それで?」
 
「そこで“葛西真一”という名前の入った、丑の刻参りのような儀式を目の当たりにした。稗苗丁は言っていたよ。『死者を、死なせ続ける為の儀式』だと」
 
「…………」
 
「何故、葛西宗家の長男である葛西真一が死なせ続けられないといけないのか…… 心当たりは?」
 
葛西は深呼吸をしてから、ゆっくりと答えた。
 
「それについては、答えたくない。今はまだ」
 
「心当たり自体はあるわけか」
 
「まあ、現にこうして死んだままの状態で維持されているからね」
 
「翼は? それを知っているのか」
 
「さあ」
 
部室に沈黙が降りる。が、今度は葛西のほうから話を切り出した。時間に余裕がない事を把握しているらしい。
 
「独語研究会には、敵が多い。今だって厄介なものに絡まれている最中じゃないか。これ以上、増やしたくないだろう?」
 
「葛西宗家を敵に回しかねない、と」
 
葛西は薄く笑った。少なくとも、否定はしなかった。
 
「なら、一旦その件は終わりにしよう。葛西宗家については丁にも警告を受けている」
 
「それが賢明だと思うな」
 
「石橋でも渡らないのがモットーなのでね。で、今回のねじれ太夫の件、葛西は傍観を貫くのか」
 
「そのつもり」
 
「何故」
 
「君はこの間、外から要求をしてきたよね? 強火がどうのって」
 
「ああ」
 
「あの時は…… まあ、君の身に何かあったら困るから強引に出てきたんだけど、ああいうのは良くない。知っての通り、僕の曖昧な状態は独語研究会の記憶を改竄した上で成り立っている」
 
「葛西が死んでいる世界線と、生きている世界線だろう」
 
「思考実験みたいな表現だなあ…… 別に良いけどね。君の想定は概ね当たっている。君達が全員、外に居る時は、基本的に僕が死んでいる世界線にある。そして僕が部室に居る時、同じ部室内に居る人間は僕が生きている世界線を共有している。しかし同時刻、部室に居ない人間にとっては、僕が死んでいる世界線を生きている」
 
「へえ。そういう理屈だったのか」
 
「君は特別だけど、他の皆はそうなんだ。だから、その二つの世界線を繋げられると非常に困る。たとえ電話越しだろうともね」
 
葛西は両手の人差し指を交差させて、バツ印を作る。
 
「繋いでしまうと、僕が生きている世界線に無理やり統合される。これが良くない」
 
「どのように?」
 
「脳にダメージが残る」
 
「下手な怪奇現象より怖いな」
 
「それだけ不自然な現象だって事だよ。今回は、独語研究会同士で頻繁に連絡を取り合う事になると思う。だから僕は居ないほうが良い」
 
「その発火能力を抜きにしても?」
 
「残念だけどね。僕はそういう“現象”なんだ」
 
「どうしてもか?」
 
葛西はかぶりを振った。
 
「翼を…… 彼女を信じてやってくれ。彼女はこの時の向けて準備をしてきた。斥候の式神が周囲をうろつき始めてからずっと、彼女は爪を隠してきた。力を過小評価させて、ねじれ太夫をおびき寄せる為に。君達は、本当の天見翼を知らない」
 
「そう言われると、どちらが怪人なのか分からなくなってくるな」
 
「そうだね。きっと君達は、今回の件で彼女の業の深さを垣間見るだろう。そもそも、ねじれ太夫をおびき寄せたのは、御子神として取り込まれている油注ぎの弓をを手に入れる為だ。善意で戦おうってわけじゃないし、取り込まれた鳥居君の母親を助けたいとか思っているわけでもない。すべては油注ぎの弓の為…… そしてその呪物は、いずれ訪れる、さらに強大な敵との戦いに備えてのもの」
 
「気が遠くなりそうだ…… ところで、その油注ぎの弓とやらは、葛西が持っていた油絶ちの剣と」
 
「うん。君が考えている通りだよ」
 
葛西は、もう話す事などないと言うように文庫本を開いた。
 
「さあ、決着をつけてきてくれ。そして、できる事なら翼を助けてあげてほしい。なるべく彼女に力を使わせないように」
 
「強大な敵が控えているから?」
 
葛西は悲しそうな顔をした。
 
「なにもできない僕が、つらいからだ」