みかんねこの不器用なのら~

不器用な人間が不器用なりに感じたことを語ってみるブログ

障害者施設での事件記事に思う「間違えない正しさ」

この被告についての記事から「想像」をしてみました。

WEB特集 “さとくん”が19人を殺害するまで | NHKニュース

仮に、被告は優しく真面目な性格で、そんな被告は「大学生活で汚れてしまった自分」を必要としてくれる「障害者への福祉」に携わり、喜びを覚えたとします。また、虐待が日常化されている*1障害者施設で働いていたとします。

  • 自分自身を正しい存在だと思っている。
    • 少なとも他人を平等に扱うべきと本来は思っている。
  • にも関わらず障害者の虐待に加担している。
    • もしくは、障害者に対してきちんと接することができない自分に苛立っている。

矛盾です。人間は、自身のアイデンティティーに近いところで矛盾を感じると、自己正当化をしてしまうことがあります。この場合の自己正当化として考えられるものは何でしょうか。

  • 障害者は人間ではない。
  • 障害者は生きていることが正しくない。

仮定どおりとすれば、そんなに無理のない理論だと思うのです。もちろん、とんでもない結論ですが、自己正当化という呪いにかかると導かれても不思議はありません。

加えて挫折の経験があり、その雪辱を晴らすためにも何か名を残したい(何者かになりたい)と思っていたのだとすれば……。

「間違えない」と思うのはとても恐ろしい

誰しも生きれいれば失敗もするし、間違えもたくさん起こします。大切なのは失敗や間違え、つまり間違ってしまったという事実を認めることです。反省して次に生かすことができたら言うことなしですが、間違えた事実を認められるか、認められないかは大きな分岐点になります。

この世の中で恐ろしいのは、自分は間違えないと思っている人間です。

よく小さな嘘をついたために、その後も嘘に嘘を重ねてやがて嘘だらけになってしまうなんて話はよくありますが、自分が正しいと思っている人間は、最初の間違えを認められないがために、最後には無茶苦茶な屁理屈をこじつけてとんでもない結論に到達することがあります。これが、会社の社長や偉い人だったりすると、まわりの人間はとてつもなく迷惑します。

他人に騙されやすいのもこのタイプです。自分は騙されるかもしれないと思っているタイプは、何かあっても「自分の認識が間違ってるかもしれない」と不安になり、騙されることに気づきやすい。自分は騙されないと思っているタイプは、なにかのアクシデントで騙されそうになったときに「自分が認識を間違えるはずがない」と思っているので、そのまま止まらずに騙されてしまいます。

扇動や洗脳されやすいのもこのタイプです。どんなに卑怯な手段を使っててでも、一度認識を崩してしまえば、二度と崩れない強固な信者に生まれ変わってくれるわけですから(他人を利用しようとする他者から見れば)これほど心強い相手はいません。


もし「自分は間違えない」と思っている人が居たら、どうしてそう思い込んでしまっているのか、そう思い込まないと不安で不安でしょうがなく感じてしまう原因は何か考えてみてください。そこには必ず理由があるはずです。理由を解決しなくて良いから、理由を認識することが大切です。

「どうせ間違えてしまうのだから正しく居ようなんて思わない」というのは極端ですが、「間違えてしまうこともあるけれど、それでも正しく居よう」と思えるぐらいがちょうど良いのかもしれませんね。

*1:同会社の他施設での虐待事件が判明していることからの想像

武田双雲さんのストリート書道家時代の話が面白かった

先日、TBSラジオを聞いていたら武田双雲さんがゲストとして出られていました。

放送によれば武田さんはすぐに書道家になったわけではなく、理工系の大学で暗号を研究し、NTTに就職したそうです。情報科学を専攻しながらコンピューターに興味が沸かなかった武田さんはシステム職を断り営業職になりました。

そんなNTT時代にメモ書きで人の名前を墨をすって筆で書いてたら、女子社員に噂が広がり「私の名前を書いてください」と言われるようになりました。そうして名前を書いているとある女性が泣き出したという。

「私、名前が嫌いで、初めて自分の名前が好きになった。両親と仲悪かったけどもう一回向き合ってみる」

武田さんはもらい泣きをし、その場で辞表を書いたそうです。

「これは辞めないと間に合わない。全員分書かないといけないから」
「思ったより人類って居るんだな。それを美しく書くなんてそんな素敵なことをするには、時間が足りない」

これが書道家になったきっかけだそうです。もうすでに滅茶苦茶で面白いんですが、この先が素敵でした。

辞めてはみたものの、知名度もない人に誰も名前を書いてほしいなんてオーダーしないので、武田さんは路上に出て「あなたの名前書きます」とストリート書道家をはじめます。しかし、誰も止まってはくれませんでした。

「お金もっとくれとか、なんで止まらないんだとか、足を止めろと思ってるときってぜんぜんうまくいかないんです」

「自分の中が諦めて、この人なんで悲しい顔してるんくだろうとか、なんかつらそうだなとか思ってると、なんかふと話しかけてくれて。で、聞くじゃないですか、話を。興味持つじゃないですか相手に。この人こうやったら喜ぶかなって字を書くわけです。そしたら突然涙を流してくれたり、お金を入れてくれたり」

そして「それから世界が変わった」と武田さんは続けました。

内面を変えることで、世界が変わる。

武田双雲さんがこんなに楽しい人だとは思わなかった。9/26までラジオクラウドで無料配信されていますので、よかったら聞いてみてください。

Twitterとブロック化する社会と独裁スイッチ(TBSラジオLife感想)

TBSラジオLifeの 「ブロック化する社会をどう生きるか(8/30放送)」が面白かった。以下引用部は当該放送から。

「仲良くなれるかどうか分かる前にFacebookやLINEでつながったりして、コミュニケーションをしていく中から『ちゃうわ』って言って引き算していくっていうのがブロック化する社会」

ブロック化は別にSNSのことだけを指しているわけではないのですが、それでもラジオ内での議論の中心はSNSやネットのお話に。

ネットが今ほど普及する前の時代は、そもそも他人と繋がることのコストが高く、自らいろいろなコミュニティに出向いて相手を探し、その中かから繋がる相手を懸命に見つけていきました。ネットがあっても、気にいるページや掲示板を自ら見つけて、そこに交流を求めた時代だった。繋がる相手を探して選択する時代だった。

それに対して、今ではSNSやLINEのグループを介して簡単に大勢の人と繋がることができる。そのような状況になって、たくさんの相手の中から要らない人を切り捨てていく、ブロックしていく社会になっている。そんな社会の中でどうやって生き抜いて行こうかというのが番組テーマの趣旨です。

ここで言う「ブロック」とは「中傷してくる人をブロックする」といった話(もしくはSNSの機能としてのブロック)とは違う意味であることに注意してください。

「今20代の人がいきなりブロックから始まるのって葛藤を経験してないんですよね。(中略)今の若い人って分かり合えない=はいブロックってなってる」

相手と徹底的に討論して喧嘩して、こいつとは分かり合えないという結果としてのブロックじゃなくて、もっとお手軽になっているのが今の時代だという。番組の中ではフォローしている人を全員ブロック(ミュート)して、タイムラインに自分しか居なくなったという人の投稿が紹介されたりしていました。

過剰に、場合によってむしろ積極的に相手の気に入らないところを見つけてブロックしていく社会になっているのではないでしょうか。SNSの発達によって、本来なら見えないはずの相手のバックボーンも見えるようになってしまって、その部分でどうしても合わない所を見つけてしまうこともあります。

「ブロックというのが共生の作法になっている。ブロックすることによってお互い傷つかないよね、みたいな。それが衝突してしまうよりいいんじゃないかという」

避けて衝突しないことが絶対的正義になっているなと、私自身も強く感じています。例えば意見や考え方、例えば社会的立場。どんなに親しい人でもそういうところで食い違うことは往々にしてあります。しかし、ちょっとばっかり意見の咬み合わない部分があるだけで、ブロックっていう状況には違和感を感じてしまうのですよね。

そもそもどうしてSNSをしているのでしょうか? どうして他人とつながろうとしたのでしょうか。自分とは異なる色々な人と接するために、色々な考えを得るために、世界を広げるためにやっているのではないでしょうか。広げる世界に対して「これは違う」「それも違う」「違う違う」とやっていたら、広がるものも広がらなくなってしまいます。

「僕らに必要なのはブロックすることではなく、絶対に相容れないものに対して時にはスルーする力を身につけることではないかと思うのです」

ブロック化することで王国を作る人も居るし、社会での生存や他人とのつながりを全て忘れてひたすらに居心地の良い環境だけを求めてる人も居るし、究極自分の身の回りのことしか関心のないセカイ系として使う人も居ます。どれが正しい使い方というものでもありません。*1


ただもし、少なくとも誰かとつながろうと思って、世界に広がりを持とうとしているのなら、相容れない部分に対してはなるべく触れないようにして考え方の違いや多様性を許容する。関係を断つのではなくお互いが満足できる部分で接して行けばいいと思うのです。

最近思うのですが「是々非々」でいいと思うのですよ。共感できる部分で共感していけばいいじゃないですか。一緒になれる部分で一緒になればいいじゃないですか。相手を自分色に染め上げなくたっていいじゃないですか。身の回りの世界を自分色に染め上げなくたっていいじゃないですか。


番組内で一番興味深かった投稿を引用してこの記事を終わります。この番組はpodcastで配信されてるので、よかったら聞いてみてください。

「とあるゲームでインターネット対戦をしているときに相手をブロックすることがあります。(略)煽りや迷惑行為と感じるとやはり面白くないのでブロックしてしまいます。気軽にブロックできてしまうので一時期ちょっとしたことでブロックしていたら、限られた人としかマッチングしないようになってしまい狭い世界になってしまったなあと複雑な気持ちなりました。
 そこで思い出したのが、ドラえもんの『どくさいスイッチ』です。この道具はこの世から消したい人が消すことができるという恐ろしい道具です。まわりの嫌な人を次々と消していくのび太は、最終的にあれこれ考えるのが嫌になりすべての人を消してしまいます。初めのうちは一人きりの世界を満喫するものの、すぐに飽きてしまいます。孤独に襲われ泣き出したところでドラえもんが現れ、『これは独裁者を懲らしめるための道具なんだ』と言って元の世界に戻り話は終わります。
 ブロックという行為がそこまで重たいことだとは思いませんが、軽い気持ちでブロックしてしまうのも考えものなのかなと思いました。とはいえ心の健康のためにどうしても耐えられないものはブロックしてしまうのが一番な気がします」

*1:この番組ではそういうやり方を否定するのではなくて、そういう人がいるこの社会でどうやって生き抜いていこうかというテーマについて迫ろうとしていました。

アニメ「響け!ユーフォニアム」の感想(むしろ違和感)

良くも悪くも京都アニメーションだし、良くも悪くも「花田十輝」大先生だった。

吹奏楽部モノで全国目指す話って言われたら、そりゃ青春群像劇を期待するじゃないですか。それにしてはストーリーが雑だし、人物やエピソードが薄っぺらい。

やる気のない吹奏楽部へちょっと力のある先生がやってきました。先生のおかげで、少し乗せられて本気になって、コンクールに取り組んでみました。そうしたら府大会をなんとか突破できました。

あれ? 自分たちで何も解決してなくない?

要するに「スーパーな先生がやってきて勝手に救われてしまった吹奏楽部員たち」の物語なんで、メインのストーリーが陳腐なんです。先生と感情的交流があったわけでもない。主人公たちの過去のエピソードも掘り下げが甘くて、ストーリーラインに必要なので取ってつけた感すらしてしまう。

少し具体的に。後半の山場ともいうべき、麗奈と中世古がトランペットソロパートをかけて再オーデションをするお話。中世古さんはなんでそんなにソロパートやりたかったの? 麗奈だってどうしてそんなにソロパートやりたかったの? ってよくよく考えると本人たちほとんど何も語ってないんです。周りが説明するだけですが、それも「こういう状況ならこう思うよねきっと」ってだけ。キャラが生きてない。

再オーデションだって、部員たち結局選んでないじゃん。部員たちの気持ちを察して先生が選んだだけじゃん。流れに身を任せてただけじゃん。最初の「なんとなく流れで全国大会出場」を目標にした時から何も成長してないじゃん。

誰だかわからない状態で演奏だけ聞いて選ばせるとか、演奏の差を見せつけて拍手のシーンは無くして中世古に辞退させる流れをもっと丁寧に描くとか(そのためには中世古の気持ちをもっと描写する必要あり)、いくらでもやりようはあったと思うんですけどね・・・。

久美子の成長物語としてみても、滝先生と麗奈によって成長させられたのであって、自ら成長したわけではない。8話でお祭りに麗奈を誘ったのだって偶然であってそれ以上ではない。中の登場人物が、自ら獲得したものが本当に希薄なのです。

もう一つ難しかったところは、声ではなく楽器を演奏となると(よっぽど音響や作画に注意しないと)リアリティが薄くなってしまうんですよね。録音した演奏が流れるわけですから、その人物が演奏した感じがしないんです。

優れた青春群像劇のSHIROBAKOや、優れた成長物語のラブライブとかとも思い出したんですが、そんなに話題にならなかったP.A.WORKSの2012年制作「TARI TARI」っていう合唱部を舞台とした作品を一番連想しました。TARI TARIは別にコンクールを目指すお話ではないですけども、その中の人物たちはちゃんと葛藤していましたし成長もしてました。

まとめ

青春群像劇ではなくて「けいおん!」や「ハルヒ」とかの京アニのキャラアニメ、無限ループ日常アニメの延長でみると結構すんなり腑に落ちます。キャラを立たせるための吹奏楽部(舞台装置)で、そのキャラを魅力的に見せるための物語って考えると、本当によくできてる。それには、背景のある人物像や芯のある心理劇は余計なんですね。

青春モノとしてみるなら、元ネタのテレビ番組「笑ってこらえて 吹奏楽部の旅」のほうがよっぽど面白いかも。

吹奏楽ってもっと良いお話が作れる題材だと思うんだけどなあと勿体無く感じてしまいましたが、ユーフォニアムはキャラアニメなので、ニーズ(私の期待)が間違ってたと反省してるところです。

追加

とはいっても腑に落ちないので、色々検索してみたら「『響け!ユーフォニアム』アニメが描いていたものを原作小説から読み解く」という記事がとても参考になりました。

原作ではあまり重点的には描かれなかった「久美子の成長」を、アニメ版では軸にして描くために「最初はユーフォを辞めさせようとして」「最終的にユーフォが好きだと言わせる」までの過程に再構成した

思えば、『響け!ユーフォニアム』という作品は、この「周りの空気に流されること」と「それに反発すること」を描いていた作品だった

原作にあった「多面性」というか「深み」を削ってでも、アニメ版は分かりやすい王道エンタメ「成長物語」な青春作品に徹したと言えるのかも知れません。

アニメ全体から漂ったちぐはぐ感の原因はそれか!

つまりエピソードや登場人物の性格が成長物語として的外れなのは「周りの空気に流されること」と「それに反発すること」をテーマとした原作に引きずられているからなのですね。

言葉ではなく、映像で久美子の成長を伝えようという気概は分かるんです。映像で登場人物の心理を説明していたこともすごくよく分かるんです。分かるんですが、その映像が表現している久美子の成長(や人物像)自体がすでに述べたとおり陳腐なのです。

成長物語である以上は自ら獲得して成長しなきゃいけないのに、実際には成長とは名ばかりの「受動的に得たもの」しか描かれていないから陳腐なのです。どうして受動的な成長しか獲得できなかったのか、それは原作が「周りの空気に流されること」(受動的であること)自体を物語の主題としているから。

本当に成長物語に再構成したかったなら、もっと徹底的に改変して微に入り細に入り隙なく物語と人物を再構成しなきゃダメでしょう。そこを映像表現で押し切ったってしょうがない。受動的な人物である限り成長物語にはならない。

といったことは当然作ってる側は気づいてたはずで、結局は「キャラアニメの枠」は外したくなかったんだろうなあ、脱皮する気はないんだろうなあ、第2のけいおん!を作りたかったんだろうなあという感想に行き着くのでした。



言い忘れてた。主役の久美子のの声(黒沢ともよさん)が小西寛子さんの声に似てる!

追記(コメントへの返信代わりに)

「自分たちで何も解決していない」、とあるが、練習頑張っていたではないか。それ以外に何を描写すればいいのか。中瀬古香織と麗奈がなぜソロパートをやりたかったかわからないならば、残念ながらこのアニメは楽しめない。何かに本気になったことがないならば、彼女らの気持ちはわからない。

(中略)しかしこのような読解力のない、見当違いの意見を見ると悲しくなるな。

私から見れば、あなたこそ名前も名乗る自信もないような見当違い君なのですが。

この作品を心底楽しめるのは「私たち練習頑張ったんですよ(テヘペロ)」みたいな適当描写から、勝手に「すげー頑張ったんだ、えらいぞ」みたいな親視点なのか分かりませんが、そういう脳内補完ができる人だけです。同様に「練習してるシーンを映せば頑張ったと伝わる」という思考は表現として下の下です。まわりがそう語ってるから、きっと彼女はこういう感情を抱いているに違いないと観客に投げっぱなしにするのは表現として下の下です。

感情や想いはエピソードで語るべきです。断片的なシーンや情報では語ったことになりません。感情を表現すべき適切なエピソードを配置して、それに絡めてうまく映像表現すべきです。本作ではそれがまるでできていません。その理由は、主題を変えたにもかかわらず原作のエピソードをほぼそのまま使用しているからです。

例えばソロパートオーディションでの中世古は、麗奈を描くための道具としての最低限の描写しかされておらず、結果としてリアリティが欠如しています。中世古がソロにこだわる断片情報はでてきますが、深みもなく、エピソードもないので、リアリティがありません。

あなたはその部分を断片情報から勝手に補完しているようですが、それはただの妄想に過ぎません。その「妄想を観客に強要する作品」は表現として下の下です。登場人物全般に対し、容姿や声や断片情報から「脳内補完による共感を一方的に期待する作品」は表現として下の下です。

逆に言えば、この作品はキャラクター(登場人物)に対する(妄想を引き起こすような)過剰な感情移入を前提に作られており、そのためのキャラクター描写に重きが置かれています。「お前ら、こいういうの好きだろ!」とでも言わんばかりに。普通、感情移入というのは、エピソードと描写の積み重ねで生み出すものなのですが、この作品はそれを半ば放棄しています。

だから違和感がある(違和感だらけだ)と言っているのですが。

しかしながら、アニメに限らずTV局絡みの邦画とかそんなのが溢れているし、世の中概ねそんなものなのかも知れません。描写を積み重ねなくても観る側が勝手に共感してくれるなら、それほど効率的なことはありません。残念ながら。

「俺ガイル。続」最終回の感想 ~八幡の答えとその意味~

やはり俺の青春ラブコメはまちがっている。続の13話感想です。後半の、行間で会話するのもうなんというか凄いね。早く続き観たいw 原作通りで原作刊行の最新刊の内容とのことなのでこの先も続くとのことで、続きが単行本でたら買います!

後半の台詞のやり取りについてはすでにされているサイトがあるのでそちらに譲ります。

第1期も好きでしたが「続」はとても気合の入った作りで、心理描写を丁寧に丁寧に紡いでいてとても楽しむことができました。行間の会話だらけですよね。例えば、最終回のこれから言おうとしてること、やろうとしていることに足が震えてるガハマさん(結衣)の様子とか、結衣の提案を受け入れようとする雪乃をとても残酷な目で見つめる結衣とか、ほんとすごかった。

八幡の答えとその意味

最終回後半、結衣は「自分の恋心や雪乃の恋心」をすべて分かった上で、それでもそれをすべて封印して3人の関係をこのまま続けようと提案しました。

何かを決めることが難しい、決断することが難しい雪乃にはとてもありがたい提案です。その提案を飲んでしまえば3人の当分このまま関係は継続され、雪乃の唯一の居場所である奉仕部はこのままの状態で残り、これまでと変わらない楽しい日常が続いていくのです。しかも、そうしてしまえば雪乃自身の抱える難しい問題からは、当分の間開放されることになります。

八幡にとっても別に悪い提案ではありません。生徒会選挙で一色いろはを勝たせてまで守った奉仕部。その奉仕部をそのまま続けていこうって結衣は言っているのです。だから結衣は、これは3人とって最も望まれた答えである「正解なんだ」と訴えかけます。それは八幡も認めています。

(由比ヶ浜はたぶん間違えない。彼女だけはずっと正しい答えを見ていた気がする)

間違え続ける八幡に対するアンチテーゼとして結衣は正解を提示したのです。ここでの正解とは、修学旅行での海老名と同じ選択をすること。それぞれを多少のわだかまりを抱えながらも、それでも3人が誰も傷つかないおそらく3人とって幸せだろう道を行くこと。大人として常識的な選択すること。それが正解であることにはおそらく雪乃にも分かったことでしょう。

だから雪乃はそれを受け入れようとした。しかし八幡はそれを否定します。

「それに、そんなのただの欺瞞だろ。曖昧な答えとか慣れ合いの関係とか、そういうのはいらない」

(バカなヤツだと思う。そんなのないって知っているのに、突き詰めてしまったら何も手に入らないと分かっているのに)

「それでもちゃんと考えて、苦しんで、あがいて、俺は……」

八幡はそんなものはホンモノではないと言うのです。「それでも俺はホンモノが欲しい」と言うのです。

お互いが隠し事をせずちゃんと自分をさらけ出して、それでも一緒にやっていける関係。相手の本音、相手のすべでき知りたい。本音を突き詰めてしまったら、絶対にどこかで合わないところが出てくる。出てきて一緒に居ることができなくなってしまう。ホンモノを求めたところでホンモノを手に入れることなんて絶対にできない、そんなことは八幡は分かっている。

それでもホンモノを手に入れることを最初から諦めるなんてできないのです。だから結衣の提案に乗ることはできないのてす。

俺ガイルのこれまでの感想

こういった世の中の(人間関係の)常識とそれに疑問を持つ八幡という構図は全編を通して一貫しています。それは八幡の良さでもありますが、未熟さでもあります。例え間違え続けてもいい、間違えたら問い直せばいい、それでも自分の信じる道を進んでみたい八幡。

個人的なことなんだけども、八幡みてるとすごく心を動かされる。

日常生活の中で、曖昧にしておくことで維持できる関係、あえて触れないことで保たれるもの、誰かが(みんなが)我慢することで継続される関係ってあるんだよね。そうやって関係を維持するのが常識だし大人なんですよ。大人として当たり前のことなんですよ。深く考える必要なんてないんですよ、それが世の中のルールなんですよ。

ってやってるところに八幡が突きつけてくるのです。

「そんなものは欺瞞だ」と「ホンモノではない」と。

「ホンモノが欲しくはないのか」と。

物語がどういう結末に向かうのか、それはこれからのお楽しみですが、みなさんはこの問いにどんな答えを出しますか?

あなたを大切にできない人のパーソナリティー考察

この記事昔から好きだったのですが、最近よく読み返しています。

そういう人はグッと距離を縮めてくるのも上手いんですが、そのぶん「使い棄て」のように突然関係を切られたり、わたしが嫌がることを平気でしてショックを与えられたり、なんかこう、突然「お前もういいや」って扱いを受ける瞬間が来て、「切られる」ことがあるんですよ。

実際これに近い人(以下Aさん)を見たからなのですけども、なんでそういうことをするのかなって。

Aさんの場合

  • Aさんは相手が嫌がることを平気でする。気を損ねる程度は日常茶飯事で、常識的に考えて対人関係でやってはいけないことを度々する。
  • Aさんは自分の気分がよくなることをひたすら要求する。
  • Aさんは相手の望みは、ほとんど無視する。
  • Aさんは自分に都合が悪いことは徹底的に誤魔化す。
  • Aさんは冗談で許されないようなことを普段から言うのに、相手からチクリと言われるとすぐ怒る。

あまりに自分の希望ばかり通して相手の気持ちを無視するのでAさん。さすがに腹に据えかねた相手から「少しはこっちの希望も聞け」と怒られたことがあります。そうしたら、しぶしぶ納得した、フリをしてすぐに狸寝入りで誤魔化しました。もちろん翌朝も眠かったからしょうがないの一点張りだったそうです。Aさんは誤魔化したりワザとの時は悪いと思ってないので絶対に謝らない。


またAさんは他人をよく観察・分析していて、他人に対しての辛口を通り越して悪口のような発言をよくしています。もちろんみんなの前では決して口にしませんが、「思ってること全部言ったら大変なことになる(大きなトラブルになる)」ってAさん自身がいってるぐらいに、「えっそんなこと言うと?」という発言をよくしていました。

  • 「Bはペットだもんペット。なんでも言うこと聞くペット」
  • 「Cさんは嗜好品だよ嗜好品」
  • 「Dさんは理屈で言っても通用しないから、体験させれば説得できる」
  • 「Dさんからの(自分の)信頼度が超高い」

そして相手の過去10年分ぐらいのSNSのログをすべて読み返すなど(本人談)、相手に対する調査や分析を徹底して行う傾向がありました。Aさんはどうやら対人スキルが高い人のようです。

しかしその対人スキルは、大切にしたい相手や親しくない相手に対しては発揮されますが、より親しいけども大切にしたくない相手に対しては好き放題に振舞っていました。さらに言えば、Aさんはそういった対人スキルを使って自分がやりたい放題ふるまっても大丈夫な相手(素を見せてもいい相手)を見極めている節があります。

つまり、Aさんはほとんどの人に対して聖人(常識人)のように振る舞いますが、一部の人間に対し道具のように扱う傾向があります。そしてそのような「好き放題できそうな相手」を見つけると、グッと距離を縮めていきます。しかしその相手を大切にすることは決してありません。

ある時、Cさんに強い好意を持たれたAさん。一時期2人はとても仲良くしていました。CさんがAさんを振り回す感じで、Aさんは振り回されることにいつも迷惑しグチをこぼしながらも頻繁に2人で遊んでいました。まわりからは「振り回されて嫌なのになんで一緒に居るんだろう?」と不思議に思われながらも、その関係は続いていきました。 そしてAさんの誕生日、Cさんが泊まりで遊びに行きちょっとした問題が起こります。Aさんにお熱だったCさんは、ちょっとしたきっかけで一時的に熱が冷めてしまいAさんのあるお願いを断ってしまいました。

翌朝、Cさんは今までと同じように「日曜空いてる? 一緒に遊びに行こう」と言いました。しかし態度がいつもと違ったようです。Cさんはいつもどおり約束を取り付けたものと思っていましたが、後日Aさんと「日曜空いてる?と聞かれただけで、行くとは言ってない」という調子で喧嘩になりました。Aさんはそれまで許していたのに唐突に振り回されることを拒否し始めました。つまり、Cさんの視点に立てば突然「お前もういいや」って扱いを受け「切られ」ました。

Cさんは相当困惑しただろうと思いますし、何か悪いことをしてしまったのかと不思議でしょうがなかったと思います。まわりの人間も「今まで許してたのになんで急に怒ったんだろう?」と不思議でした。あくまで仮説ですが、AさんのCさんに対するメリットは自身に対する全幅の好意を寄せてくれるところにありました。そんなCさんの好意をうまく誘導して、自分が思い通りに動く道具になってほしかった。でもそれが拒否されてしまい、Cさんをすべて思い通りに動かせないと分かってしまった。だから要らなくなった。要らなくなったからポイって捨てた。


Aさんには相手をコントールし支配下に置こうとする傾向があります。それは別に直接的なマインドコントロール・・・ではないのですが、相手の気持ちや考えを言葉巧みに誘導することで、自分の思い通りに動いてもらおうとします。相手のことを調べたり敏感に感じ取ったりする能力は、そのために生かされています。

Cさんとの事件のあと、AさんはCさんから嫌われるように仕向けた後で「従順で反抗もしないで・・・なんてできない」と捨て台詞を言ったことがありますが、Aさんこそが相手に対し「反抗もしない」ことを常に要求しています。そんなこんなで、先のブログの言葉を使えば「うわ、こいつひっでえことするな」という光景を頻繁に見かけるようになりました。そうなると普通は引きますよね・・・。

そして引いて拒否しようものなら、相手はCさんと同じようにお前もういいやって切られることになります。しかし切られるとはいっても、無愛想になったり、相手から嫌われたり興味を失われるように仕向けるだけで、対外的に「切る」ことはしないのです。そういう状況で、相手から「どうするの?」と問いかけられても、Aさんは全く答えを出す気がありません。曖昧にしておくことでAさんにとって都合のよい状態、例えば「Aさんは自分の都合で他人を切り捨てるような人ではない」という評価を維持できます。それ以上にうまく行かなかった現実と向き合いたくないのかもしれませんけども。

見事なまでに首尾一貫して自己の都合で振る舞うAさん。それにほとほと呆れた相手から詰め寄られ「(関係を終わりにすると)まわりに事情を説明せざる得ないけどいいのね?」と言われたことがあります。そのとき布団に突っ伏しながら投げやりに「好きにすれば」と言い放つ姿はまるで駄々っ子のようだったそうです。

まとめ

  • Aさんは自分の望みをひたすら要求し、相手の望みはほとんど無視する。
  • Aさんは自分の都合が悪いことは徹底的に誤魔化す。
  • Aさんはほとんどの人に対して聖人のように振る舞い、素性を隠す。
  • しかし、実際は支配願望がとても強く、他人を「駒」だと思っている。
  • Aさんは相手を支配できないと分かると「もう要らない」と切り捨てる。
  • その際、あくまで相手から嫌われるように仕向け、その後に相手を否定する。
  • Aさんは都合の悪い現実と向き合うことを避ける。現実に対し考えることを拒否する。

他人を大切にすることができないとどうなる?

前置きが長くなってしまいましたが、ここからが本題。Aさんのエピソードを参考に「あなたを大切にしない人のことを、あなたが大切にする必要はない」で述べられている、他人を大切にしない人を考察してみたいと思います。(以下引用はリンク先の記事から)

前提として、「ひどいことをされてもつい後ろめたさから相手に尽くしてしまう」みたいなわたしの悪しきパーソナリティがあるのですが、

私の場合は概ね他人に尽くしたいし、多少ひどいことされても信じてみたいって気持ちがあります。

友達との友情の破綻は「自分が相手の痰壺になった」と感じるときに来ることが多いんですよね。
どういうことかというと、お互いの辛かったことや汚い感情など、いろんなことを吐き出しあって、その開陳を親愛や友情の証と捉える人というのが一定数いるんです。

痰壺というのは日常のストレス(グチ)の捌け口を意味しているようです。おそらく「都合よく話を聞かされる存在」として見られてるって意味ではないでしょうか。私はAさんの痰壺だったわけではありませんが、都合のよい存在であることは常に要求されていました。


世の中には、支配願望が強く、あらゆる他人を自分に都合よく動かしたいと思っている人が居ます。あらゆる他人は自分が気持ちよくなるための道具に過ぎないとすら思っている人も中には居ます。自分が可愛くて可愛くてしょうがないので、そんな自分を肯定し、賛美することを要求し、その証として精神的服従を求めます。引用部の「その開陳を親愛や友情の証と捉える人」は言い換えれば、自分にとって都合のよい存在であることを友情の証として捉えるということです。

ただ全てにおいてそういう態度では社会生活を営むことはできません。ですのでこのような人(以下A'さん)は「素を見せてもいい相手」と「常識人として接する相手」を見極めます。おそらく「素を見せること」による失敗を繰り返してきた結果の生存本能と思われるので、その見極め能力がとても長けています。

一方で「相手に尽くしてしまう」パーソナリティの持ち主は(Oさん)、普段から「素に近い状態」で社会生活を営んでいます(引用元ブログの別の記事からもそれを感じ取ることができます)。素性を隠すことが生きぬく手段であるA'さんと反対に、Oさんは素性をそのまま出すことが生きていく手段なのです。


さてA'さんとOさんが出会うとはたしてどうなるでしょうか?

A'さんは社会性のあるとても立派な振る舞いをします。Oさんは好感を持つでしょう。一方で、A'さんはいずれOさんが相手に尽くすパーソナリティであることを見抜きます(もしくは自身に好意を寄せていることを見抜きます)。そのことに気づくとA'さんは距離を詰め、どの程度まで自分を許容してもらえるか、自分に尽くしてもらえるかを見極めようとします。

OさんはA'さんのことを社会性のある立派な人だと思っていますので、接近してきた本来の目的に気づくのが遅れます。もしくは人によっては気づかないこともあるでしょう。時には気づいても「そういう弱い部分も持っている人なんだ」と受け入れるかも知れません。そうやってOさんの苦悩は続きます。

しかし一方が他方に寄りかかるような人間関係が長く続くはずもありません。いずれOさんは気づきます。もしくは、A'さんが別の(より都合の良い)餌食を見つけてOさんが不要になります。そこで起こるのが「お前もういいや」なのです。

どうして他人を大切にすることができない?

それはすでに述べたとおり「支配願望が強くあらゆる他人を自分に都合よく動かしたい、他人は自分が気持ちよくなるための道具に過ぎない」と思っているからです。優れた人になると、常識人として振る舞いながらも、その中で相手を(なるべく)自分に都合よく動かすために、いろいろな手段を講じます。ただそれは相手に優しくすることだったり、相手を大切にすることだったりするので、何ら悪いことではありませんし、むしろ周りの人はみんな気持ちよく感じます。

ただ、中にはそれだけでは生きて行けず、チャンスがあれば素を見せたいと思ってる人が結構な割合で存在します。「自分の持つ黒い部分を含め、ちゃんと肯定して認めてほしい!」って願望がものすごく強いのです。ですから、そんな相手を見つけては接近しようとします。ただ相手の気持ちも相当に壊れていて共依存にでもならない限りうまく行きません。失敗すれば「お前もういいや」です。

「お前もういいや」は対外的に不利益のある(評判の下がる)諸刃の剣なのですが、すでに述べたとおり他の人に対しては社会性があり常識人なので、その特定の相手以外からの評価は高く対人スキルも高い。つまりさほど不利益を被らず「お前もういいや」を繰り返していても社会生活が成り立ってしまう。社会生活が成り立ってしまうので、自身の振る舞いについて振り返る機会を得ない。だから同じことを繰り返す。


そもそも、どうして「支配願望が強い」のかというと結局自己肯定ができていなのが一番の問題のような気がします。他人が自分自身に従うことで自己肯定感を補おうとする。他人を自分の心の穴を埋める道具として利用しようとする。その結果、支配願望が強くなる。そういう人って自分は間違ってないみたいに振る舞ってることが多いんですけど、それインチキ自己肯定というやつです。

インチキ自己肯定とは、社会や仲間内が許してくれることで、「自分自身に深い疑問を持たないでいられる状態」のことだと言ってもいいかもしれません。(中略)
自信満々で他人を支配しようとしてる人を見たら「この人は、本当は自己肯定できてないんだな~」と思って間違いない。そういう人は、支配できなくなると今度は相手を徹底的に否定し始める。

Aさんの場合も、何も最初から周囲を見下すような態度だったわけではありません。当初はすべてに対しておっかなびっくりで自信なさげでした。それが2012年頃になるとAさんは自分自身がモテる(他人より優れ好感を持たれる)ということを認識し始め、それを境に大きく態度が変わっていきました。今にして思えばそれこそが「自分自身に深い疑問を持たないでいられる状態」になる大きな要因だったのかも知れません。

私も長い間勘違いしていたのですが「素の自分を全部見せてそれを受け入れて欲しい」なんていうのはあり得ないんですよね。それをやっている限り幸せにはなれません。素の自分とちゃんと向き合って、それを隠すわけでもなく、甘やかすわけでもなく、かと言って逃げるわけでもなく、それを踏まえた上で(肯定した上で)自分の在り方を考える。大変でもそうするしかないのです。

こればっかりは人に言われてもダメ。自分で気づくしかない。

平凡な結論ですけど、やっぱりどうしたって、自分を大切にできない人は他人を大切になんてできないですよね。

おまけ

多くの人には「こういう人が居るのか」という感じだと思いますが、最近Twitterで話してたら同じような経験のある人と話が合ったので、世の中それなりにいるみたいです。

現実問題として、あなたを大切にしない友人や恋人がいる場合どうしたらいいかという話ですが、それはもう引用したブログにある「静かに拒絶する」のがよいと思います。深手を負う前に距離を取る。相手が優しく距離をつめてきても、無言で距離を取る。深手を負ってたら全力疾走しかないかもしれないですね。静かにってのは、人間関係に波風を立てることなく、仲違いすることもなく、単に「距離を取る」ってことなんじゃないかと思います。本当は最初から関わらないのがベストとは思いますが、すでに述べたとおり接近された後でないと分からないので難しいですね。

それにA'さんばかりが問題というわけでもなく、Oさんが自分に自信がなかったり(ちゃんと自己肯定できていなかたっり)居場所がなかったりするせいでA'さんの「酷い行いを許してしまう(甘やかしてしまう)」ということも同じぐらい問題なのです。許して甘やかし続けている限りは立派に共依存が成立しています。ちゃんと強い意志で拒絶してあげてください。

もし自分はA'さんタイプだなと思ったなら、素の自分とちゃんと向き合ってみてください・・・って言いたいのですか、これを読んだぐらいで気づける人はとっくに気づいてるはずなので難しいかも知れませんね。

アニメ「SHIROBAKO」の感想(ネタバレなし)

昨年10月から3月末まで放送していたTVアニメです。ここ1週間ぐらいでようやく全話みることができました。


オリジナルTVアニメーション『SHIROBAKO』PV - YouTube

高校のアニメ同好会で短編アニメを作った5人が、それから何年かして実際のアニメ現場で奮闘するお話です。

単純に面白いし見てない人にはオススメしたいけども、アニメに関わらず創作や表現に関わったことのある(関わっている)もしくは創作や表現に関わりたい志のある人には、また違った強い印象の残る作品だったなーと思います。

「正直、えぐられるよね」

眩しいって言ってもいいのかな。

「綺麗事かもしれないけど、熱意とかやる気とか努力とか、絶対映像に現れると思う」(20話より)

この台詞、ものすごく唸った。

  • 本気で取り組んでることは、その本気さが絶対に伝わる。
  • 手抜きで取り組んでることは、その手抜きが絶対に伝わる。

これ表現全部に言えることだよね。それどころか生き方そのものにも言えることかも知れない。


私は結構やりたいことが沢山あるタイプの人間なんだけど、ちゃんと本気で取り組めてるのかなって思ってしまった。趣味にしても何にしても、取り組み始めるのが遅くていっつも後悔ばかりしてました。現状の中でできることはするけども、与えられた環境をぶち壊してまで進む突破力がなかった。本気さがぜんぜん足りなかったなって。


SHIROBAKOの少女たちは、皆、目標に向かって突き進んでいきます。主人公の宮森は、明確な目標はないんだけどもそれでも「アニメに関わりたい」という一心でガムシャラに今を進んでいます。

そんな作品を通して「真剣に表現(アニメ制作)に取り組むことの大切さ」を制作者たちは本気で伝えようとしているんです。しかもそれを、きちんとエンターテインメントとして成立させ表現している。


これを読んでるあなたは今でも夢を持っていますか? それと向き合ってますか?

「ちゃんと真剣に生きていますか?」

そのこと、きちんと考えたいなって、そう思わせてくれるすばらしい作品でした。