憂うべきは「カリフォルニアの教育」か「日本のアニメ産業」か

日本のアニメ産業の将来を憂う記事がいろいろ出ているが、このところ、私も少々考えたことがあった。

http://business.nikkeibp.co.jp/article/manage/20090901/203914/
「僕にとってゲームは悪」だが……富野由悠季氏、ゲーム開発者を鼓舞 (1/6) - ITmedia NEWS

我が家の息子は、アメリカでいうMiddle School在学、7年生(日本式でいうと中学1年)になる。アメリカの中学では、科目ごとに異なる先生が教え、それぞれの先生が「自分のオフィス=教室」を持っていて、生徒は時間割ごとに教室を移動する。同じクラス全員で同じ科目を履修するのではなく、個人ごとに作られた時間割表があるので、休み時間の廊下はラッシュ時の新宿駅状態。その中で、毎朝一番最初に集合する教室(=ホームルーム)が決まっていて、その教室を持つ先生が担任となる。*1ウチの学区では*26年生からmiddle schoolになり、6年では選択科目が一つ、今年7年生では二つに増える。

先週学校が始まったので、初日に息子に「で、homeroomは何になったの?」と聞いたところ、なんと「アニメ!」と答えやがった。「え?」と聞き返したら「だから、選択科目がアニメになったんだよ。で、その先生の教室がホームルームなの。毎日、アニメの授業をやるんだよ。」との御託。

げげっ、ほんと?

いや、決してアニメをバカにしているわけではない。なんせカリフォルニアは超財政危機で、公教育が崩壊の危機にさらされている。英語・数学・科学・社会・体育は必修だが、美術も音楽も外国語も選択科目にしかないし、日本ってやたらにたくさん科目があったけど、そういえばなんだったっけ・・・?と遠い目になっちゃうほど、科目がなんだか少ない。

そんな状態の中で、「アニメ」の授業毎日って、そんな悠長なことやってていいのかぁ???という疑問の嵐にまず襲われたのだ。

ちなみに、選択科目二つのうち、一つが「年間選択科目」で、もう一つが「学期選択科目」。前者は年間を通じて履修するもので、アニメのほか、音楽(バンド・オーケストラ・教会音楽)・外国語(スペイン語・中国語)・イヤーブック(ジャーナリズム)が選択肢。学期選択のほうは、「美術」「料理」「演劇」「陶芸」「産業技術」「空間デザイン」などなど、いろいろバラエティがあって、一学期一科目x4つをやる。なんか、お気楽な感じがして、どれもこれも心配だぁ・・だいたい、教会音楽って、超意味不明・・・(長嘆息・・・)

しかし、中身を聞いてちょっと安心した。「アニメ」といっても、当然いまどきはコンピューターで描く。パソコンにつなげたパッドにペンで描くそうで、今はまだソフト(フラッシュ)の使い方を習っているところだ、という。ある意味では、変動費格安の「美術」(画材の費用はバカにならない)と、コンピューターの使い方という「技術」を、まとめて習うことができるお得なパッケージともいえる。

もちろん、当節子供たちは、ワードとパワポと、少々のお絵かきソフト程度は誰でも使えるのだが、こういったアニメ制作やゲームデザインなどはいわば次の「中級コース」。単に子供が興味を持つから、というだけでなく、前に息子が夏休み教室で習った「ゲームデザイン」でも、それを題材に例えば「難易度と達成感のバランスをどうとるか」「ステージごとの全体構成をどうするか」「ビジュアル・キューをどう使うか」といった、かなり体系的なコンセプトを習っていたので、アニメでもこういった「コンピューターを道具として、コンセプトをどう構築するか」という部分を教えてもらえるならば「なかなかいいじゃん」と今は思っている。

そう思い至ると、今度は「カリフォルニアでは中学からアニメを学校で体系的に習うらしい、一方日本では人材が疲弊しているとも聞いている、これで日本のアニメ産業は大丈夫なのか?」というのが心配になった。

もちろん上記の説明のように、必修科目ではないし、またウチの学区がたまたまヘンなだけで、他ではやっていないことかもしれない。でも、少なくともそういうことを「義務教育」の中で教える資格を持つ先生が存在しているということは、その先生を養成するなんらかのアカデミックな仕組みが存在するということだ。それに、たとえこれを習った子供たちが、直接「アニメ産業」に従事することにならなくても、コンピューターや種々のソフトへの「入り口」となるだろう。

日本のアニメ産業をどうすべきかは私にはよくわからないが、上記の記事にもある「アニメの殿堂」は素人の私が聞いてもアホだと思っていた。ハコモノを作ってどうする。過去の日本のアニメ資産をきちんと体系的に集め、研究し、展示するならば、例えば以前ご紹介した慶応大学での桃屋CMの試みのように、「ネット動画美術館」でもいいじゃないかと思う。それにそんなささやかな企画ですら、実際には障害がいろいろあったと聞いているので、そういう「ソフト」の部分(「フェアユース」のコンセプトなど)が整備されていないんだから、ハコモノ作ったってダメに決まっているじゃん。と思ってしまう。だいたい、政府なんぞがこういうものをやって、うまく行くはずは全然ない。

ちなみに、上記で少々触れた「夏休み教室」(普通に利益目的の「企業」がやっている)は、ゲームデザインだけでなく、アニメーション、映画編集、プログラミング基礎、ロボティックスなど、あらゆるテクノロジー分野の教室がある。ウチはたまたま近いのでスタンフォード大学キャンパスに行くのだが、集合場所のサッカー場がいっぱいになるほどの人数の子供たち(小学校高学年〜高校)が集まる。それが、スタンフォードだけでなく、全米各地のあまたの大学キャンパスで、長い夏休みの間、毎週毎週繰り返されている。いったい、どれだけの数の「オタク」なアメリカ人の子供たちが、目を輝かせてここに集まり、同じ興味を持つほかの子供たちや指導員のお兄さん・お姉さんたちと出会い、「コンセプト」の重要性を習い、「いつかスタンフォードでソフトの勉強をして、ベンチャー起こして成功するぞ」という希望を胸にして全米に散っていくことか。そして、小学校高学年から、これらの「異業種間の人脈」が始まっているということなのだ。ゲームもアニメも映画もソフトウェアもロボットも、どこかで人材やノウハウやアイディアが、融合したり相互触発されたりしていくんだろうという予感がする。

なんだか、気が遠くなるほどのスケール。

上記の記事などを読むと、確かにきっと、日本で「個人の努力」レベルで頑張っている方々は優秀なのだろうが、相変わらず「長期的に産業として成り立たせる仕組み」「新しいアイディアを生み出す仕組み」「人材を供給する仕組み」「グランドデザイン」といったものは、アメリカのほうがなんだかしっかりしているような気がしてしまう。悪いけど、「竹槍・・・」という言葉が頭をかすめてしまう。

中国・アジアに気をとられている間にアメリカにまで負けちゃう・・・なんてことにならなきゃいいけど。ドラえもんの絵を教科書に載せて安心している場合じゃない気がするけど。「テレビ局が悪い」とか「政府が悪い」とか、犯人探ししている場合じゃない気がするんだけど。

*1:・・という仕組みを知って、初めて「home room」という意味が腑に落ちた。

*2:全国一律ではなく、学区ごとに小学校と中学校の年数が異なる