「男の子は自動車がすき」という自明の前提が崩れているとしたら

先日、日本語補習校で一年生の国語の授業を見ていた。「お店やさんごっこ」をする単元で、子供達が自分の好きなお店になる。まず、子供達が何になりたいか、発言を先生が黒板に書きとめていくのだが、ひととおり出たところで先生がちょっと首をかしげた。「薬屋さんとか、家具屋さんとか、なんだか珍しいものが多いわねぇ。普通、男の子は乗り物、女の子は洋服が必ず出るのに、このクラスは誰もやりたい人いないの?」・・・子供達は反応なしだった。

ふむ。確かに。我が家は男の子二人。女の子のことは実感としてわからないのでここでは省くとして、男の子には2-3歳頃に「きかんしゃトーマス」という通過儀礼があり、その前後、電車と自動車にはまる時期が、どういうわけか必ずある。知り合いの男の子は、家の近くにある電車の踏み切りが大好きで大好きで、おかあさんに「大きくなったら、何になりたいの?」と聞かれると、ためらうことなく「ふみきり!」と答えた、という話があるぐらい。日本の子供もアメリカの子供もこの点は似ている。しばらくするとその熱は冷めるのだが、中にはそのまま「鉄ちゃん」に育つ子もいるし、自動車がそのまま好きな子もいるし、他のメカに興味が移る子もいるし、全く消えてしまう子もいる。しかし、これだけ広範で生まれも育ちも違う男の子の間で、これだけ「乗り物」にはまる子供が多いというのは、何かDNAのしわざか、と思ってしまう。

しかし、機関車や自動車や飛行機が登場する前の時代、男の子の間で「馬車マニア」とか「駕籠マニア」とかがいたかというと、どうも違う気がする。例えば女の子が人形遊びをするのは、子供を育てるという生物的な必然から来ているだろうが、男の子の乗り物マニアは、それほどの蓋然性はないような気がする。

私自身も、女ながら結構乗り物が好きだが、その原因は「どこか違うところに行かれる」とういう自由のための手段だったり、また「自分の力よりもはるかに大きな力のものを操っている」という不思議な快感だったりする。男の子が乗り物好きな理由がそれと同じかどうかわからないが、もしこういった「根底」にある欲求が他の方法で満たされるようになったとしたら、「動力機関の時代」の男の子達が共通に感じていた、乗り物への憧れ衝動が弱まっている、ということがありえるのかもしれない。

たとえば、ゲームやパソコンなどの仮想的な仕掛けで、こういった「自由」へのドライブや、「操作の快感」が代替され、子供のときに脳の中に植えつけられるべき(というか、ここ数十年の間そうであったような)「乗り物への憧れ衝動」が弱まっているとしたら・・・?(ちなみに、上記の国語の授業で、「ゲーム屋さん」はやりたい子が多かった。)

もちろん、上の一つの事例だけでそうだと断言するわけではなく、これは思考実験に過ぎない。でも「クルマ離れ」は、最近の「若年層貧困」が問題となる日本だけでなく、アメリカでもあるようなので(プリウスがミームになっている、という話もあるけれど)、自動車産業で意思決定する立場にある人は、そういう可能性を念頭に置いておくほうがいいのかもしれない、と思う。

輸送手段としての自動車が、いまだに重要であることは論を俟たない。しかし、日本やアメリカのような先進国では、すでにひととおりの普及は済んでいるので、自動車が単なる「輸送手段」に過ぎないとしたら、今の産業規模ではなかっただろう。「新車が買いたい」「最新の自動車が欲しい」という「憧れ」の衝動と、それに基づく「ステータスシンボル」としての意味づけがなければ、ここまでの買換え需要はない。

「クルマ離れの原因は若年層購買力の減少である」という記事が出ている。この記事にも「原因は他にもいろいろある」と断っているけれど、それでは若者が豊かになればクルマを買うか、というと、上記のように考えると、必ずしもそうでもないような気がしてならない。

私の古巣ホンダでは、もう何十年も前に、「バイク」でこうした「他の製品との競合」「当たり前と思われていたその製品への憧れが弱まっていく」というフェーズをすでに経験している。ホンダの人たちは、今クルマ離れ現象を目の当たりにして、このときの経験を思い出しているのかもしれないな、とふと思う。