世界のはて

『はてな非モテ論壇』の一角だった場所

現代社会では、誰もが他者に萌え、また、萌えられている


「他人の属性を見て勝手な願望を投げかけている/投げかけられている」というキャラ消費の構図自体は、黒髪少女も茶髪少女も金髪少女も、それを見る客体も同じだと思う。

黒髪少女は黒髪少女として、茶髪少女は茶髪少女として、金髪少女は金髪少女としての「キャラ」をアニメのように割り振られ、他者から勝手な願望を投げかけられ、そういうキャラとして振舞うよう、明に暗に要求されたりもする。

問題は、その結果がどのように表れてくるかということだと思うんだけど。

こういうことを考えたときに僕がよく思うのは、他人を「属性」以外で判断するということなんて、果たして可能なのか?どこまでが「属性」でどこからがその人の「地」なのか?ということなんだけど…

これは多分「時間」がポイントになるんじゃないかと思う。

長い間時間をかけて付き合った相手からは、その人の「属性」を超えた「地」の部分も、なんとなく見えてくる。「属性」を超えて他者を理解するためには、長い時間をかけてその人と付き合い続ける以外にはないのではないだろうか。自分の経験を振り返ってみても、そうして「地」を理解できたと感じる(数少ない)相手は、「属性」がどうであろうと、僕にとってはなにも関係なくなっているように思う。

属性を通じた「キャラ」として他者を理解することは、この「時間」をショートカットして、人間関係のコストを抑えることだ。

人々が村から都市へと進出し、人間関係の規模が桁外れに大きくなり、流動性も高まった現代社会において、「キャラ」を通じた低コストの人間関係が幅を利かせることは、必然だとは思う。すべての人間と時間をかけて「属性」を超えた関係を結ぶには、都市での生活はあまりにも複雑すぎる*1。

「萌え」もそうした「キャラ的人間関係」の一つの形態だ。そうした意味で現代社会では、誰もが他者に萌え、また、萌えられているのである。アニメのキャラクターのように*2。

*1:かつての村社会では、少数の村の仲間と、時間をかけた人間関係を構築することが普通だった。僕はそれが必ずしも良いことばかりだったとは思わないけど。

*2:誰もが他者を「キャラ」として判断し、願望を投影しているという意味で。