世界のはて

『はてな非モテ論壇』の一角だった場所

マイナスをゼロにする努力や才能と、ゼロをプラスにする努力や才能はまったく違うよね、という話

ここでいう「マイナス」は、劣等感とか抑圧とか差別とか、「人生の障害」的なもの。「プラス」は、「人生を楽しむ」とかそういうことなんだけど。

「マイナス」を持っている人間にとって、それを解消しようとすることは、人生の大きな「動機」になる。「動機」は「行動」を産み、「行動」は「充実」を産む。その意味で、「マイナス」を持っている人間の人生は、ある意味では充実しているということができると思う。

しかし「マイナス」が解決されたとき、その人はその後、何を「動機」にして人生を送ればよいのだろう?いま特に「マイナス」を持たない人間は、何を生き甲斐にすれば「充実感」を得ることができるのだろう?

僕は「ゼロをプラスにする」とは、要は「人生の楽しみ方を知っている」ということなのだと思う。しかしその努力や才能は、マイナスをゼロにする努力や才能とは、まったく異なるもののような気がする。

そしてこれまで「マイナスをゼロにする」ことで人生の充実感を得て来た人間は、「ゼロをプラスにする」ことがどういうことなのか、理解できないのではないか。そうして自分や外部の中に、未だ解決されていない「マイナス」を無理矢理にでも見つけ出そうとし、それを解決しようとすることで「充実感」を得ようとしてしまうのではないか。


かつて「マイナスをゼロにする」動機で脱オタしていたとき、僕は確かにもの凄い充実感を感じていた。劣等感を克服して成長していくことは、強いカタルシスを僕に与えてくれた。

しかしいま、かつて程の「マイナス」を感じていない僕は、同時にかつてない程の人生の「虚しさ」に直面している。正社員で、生活に困窮するほどに貧乏なわけでもなく、未だ非コミュとはいえ*1そんな自分を愛してくれる彼女もいて、いま特に「困ったこと」がない僕は、人生における「動機」を今後どのように調達していけばよいのだろう?

思春期の頃から劣等感が強く、「マイナスをゼロにする」ことに動機づけられ、「人生を楽しむ」ための修行をこれまで積んでこなかった僕はいま、残された人生をどう扱えば良いのか、深く悩むわけでもなく、苦しんでいるわけでもなく、ゆるく途方に暮れている。

「マイナスをゼロにする」ことは多くの人間に強い動機と生き甲斐を与えるが、「ゼロをプラスにする」ことに動機を持ち、なおかつそれを実行することが出来る人間は、それほど多くはない気がする。しかしだからこそ、そういう人間は多くの人間に「魅力」を感じさせ、愛されるということなのかも知れない。