雑種路線でいこう

ぼちぼち再開しようか

Twitterに「ぶっ殺す」とか書き込ませない情報リテラシー教育

次男が5歳になった。相変わらず長男との喧嘩が酷くて、時にどちらからともなく「ぶっ殺す」とかいう。まあ、そういう台詞って中学生くらいまで、よくあることという気もするのだが、昨今の世情をみるに早めにいい聞かせて、控えさせておいた方がよさげな気もする。
子どもたちのネットでの活動に不安があるっていうか、長男次男とも適当にMiiを量産し、気づいたらPS3の「いつでもいっしょ」でアイテムを買うために僕の口座から勝手に2万円もデポジットされた時は本当に驚いた。
問題は、子どもに何を教えるかなのである。僕だって小学生の頃は「ぶっ殺す」とか面と向かっていっていたかも知れない。いまブログとかTwitterとかあれば、同じことをやっているだろう。もちろん面と向かって「ぶっ殺す」というのも十分にヤバい訳だし、そういう物言いを聞けば注意する訳だが、それをブログやTwitterに書くかどうかって、桁違いに人生にとって重要となってしまうのだろう。
公園でおもちゃを取り上げられたことに激昂して「ぶっ殺してやる」とかいうのと、ネットで激昂して「ぶっ殺してやる」とか書き込むのと、僕個人はさしたる違いを感じないのだが、たぶん世の中的には違う営為として扱われるのだろう。理由はよく分からない。どこかで誰かが「ぶっ殺してやる」といったところで哀しいし、仮に録音していたところで、真面目に取り合ってもらえる気がしない。それは社会の理屈として、それなりに合理的ではある。誰がやったか分からないことだし、脅迫といったところで脅威は具体的じゃないからだ。
ことブログとか掲示板、Twitterに書き込まれた場合、呟きと違って誰もが参照できる証拠が残っているし、令状ベースでサイトに対する書き込み日時やIPアドレスを照会できる。管理のいい加減なネットカフェとかでなければ、身許を割ることができるのである。そうなると、いったかいわないか水掛け論となりがちなコトバと違って、それなりの責任が出てくるのだろう。
そういった意味で、ブログとか掲示板、Twitterに書き込むって、子どもにとって非常にリスクがある訳だが、なかなか教育する機会がないのである。小2の長男はよくWii Fitで走ったり適当にゲームを遊んでいるようだが、まだ掲示板に自分の意見らしきものを書き込んでいる気配はない。最近5歳になった次男も、VoDでお気に入りのポケモンをみているが、CGMを使いこなすには至っていないようである。けれども長男次男ともに、古い携帯に動画とか音声を吹き込んで遊んでいるところをみると、何をするにも時間の問題という気もしないでもない。それ故、リアルに喧嘩していて「ぶっ殺す」とかコトバが出てくる度に過敏になる訳だ。
数週間前、フィルタリングベンダの方に話を聞いてなるほどと思わされたのは、子どもに有害コンテンツとかフィルタリングの話をしても仕方ないのであって、ひとつだけ教えるべきは「ネットで何をやってもみているひとがいるよ」ということを伝えることなのだという。これは正しい気がする。ネット上で無法なことをできる背景に、自分が匿名の何者かであるという安心感があるのだろう。実際問題として、その期待は決して正しくない。
だからといって必ずお縄にする訳でもないし、民事で処罰意識があったりなかったりする問題もある訳だが、ともかく自分がいったこと、やったことの足跡は残っているんだよ、それはあなた自身のものなんだよ、という現実感は持ってもらった方がいいんじゃないだろうか。
世知辛い話ではあるが、早めに世界に触れる機会を得る代償でもあるのだろう。ちょっと寂しいが、若い時期にそういう機会を与えられること自体、それ以上に羨ましい。少しずつ時代が良くなっていく気がするのは素晴らしいことだが、逆の思いを持っている人々と問題意識を共有することも、時には重要なのだろう。