フェミニズムって二つの顔があるんじゃなかろうか

フェミニズムに「弱者男性解放」(ってあんまりピンと来ない言葉だが)も盛り込むべきという意見があって、それに対して、いくつか反論が出ているようだ。

kmizusawaの日記 - 順番が違う

フェミニズムは世の中のあり方に対して「女性にとってどうか」ってのを第一に考える思想・運動なんだから、自分は不当な目に遭っている、世の中おかしいと感じる男性は、まずはフェミニズムの働きを当てにせず自分たちで世の中のあり方を問い直す思想や運動を立ち上げたほうが利益にもなるだろうし、面白いような気がする。

これに対し、再反論も起きている。

純粋なココロ 2.0: 本当に抑圧されているのは誰か 〜「フェミニズム」と「ジェンダーフリー」は別物なの?〜

もしフェミニズムが「ジェンダーフリー」なり「男女平等」なりをを実践しようという運動なのだとしたら、弱者男性のジェンダー問題も、当然視野に入ってくるんじゃない?っていうのが僕の考え

こういうすれ違いは、フェミニズムってのをどう捉えているかによるのではなかろうか。

フェミニズムってのは、学問、思想という側面と、政治運動としての側面があると思う。
学問、思想であるとすると、そこには普遍性が要求される。誰かの利益ために構築された学問や思想なんてナンセンスだからだ。それに、もしもフェミニズムが「女」のための学問ということになってしまったら、その「女」ってのは一体何なのかと言う問題にぶつかって自己矛盾に陥ってしまうはずだ。それは戸籍上の女なのか。自分は女だと思う、戸籍上の男性はフェミニズムの対象にないのか。自分は男だと思っている戸籍上の女は?トランスジェンダーは特別に「仲間に入れてあげる」なら、一体どの程度のレベルからが「仲間入りの資格があるトランスジェンダー」なのか。結局、対象を全体へと広げていくほかなくなってしまうだろう。

ところが、政治運動ってのには、そういう整合性は不要である。とりあえず、利害関係さえ一致していりゃ、あとはもう、どーでも良いのだ。運動というのは、要求を飲ませるのが目的なんだから。思想的バックボーンなんてものは、あくまで「カッコつける」ために存在する。だいたい下手に、厳格に理論化してしまうと、政治運動としてのパワーは落ちてしまう。都合の良い、曖昧さがちょうど良いのである。
そういうわけで、確かに政治運動としてのフェミニズムにとっては、「弱者男性」なんてどうでも良いこととなる。目的から外れているから。しかし、学問としてみるなら、男VS女という構造そのものを持ち出すこと自体が自己矛盾になってしまうわけで、個々の研究者が興味を覚えるかは別にして、「弱者男性」もまた、視点のひとつとしてフェミニズムの枠組みに入り込むことができる。

フェミニズムは、どうも、このあたりの学問的側面と政治的側面が、よくごっちゃになっているのを見かける。これが胡散臭く思われてしまう原因のひとつじゃなかろうか。すくなくとも、学問的側面の方は名前を変えたほうが良いかもな。たまに見かける「ジェンダー論」とかの呼び名のほうが良いよ。
kmizusawaさんにとって、フェミニズムは政治運動なのだろう。Masaoさんにとっては学問。だから見解が食い違ってくるのだ。

なお、「弱者男性」というものが、政治的運動を起こそうとするならば、フェミニズム(の、都合のいい部分)を思想的バックボーンにするのは正しい判断だ。理論として完成度が高いし、参考資料が山ほどあり、時流にも乗っている。うまくすれば女性の支持も集められるかもしれん。
この場合「フェミニズムは女性のものですっ!!」なーんて主張は、知ったこっちゃない。利用できるものは何でも利用すればいい。政治運動ってのは、勝ちゃいいのだから。
そういうわけで「弱者男性」解放運動家は、「フェミニストは弱者男性について考えろー!」とシュプレヒコールをすりゃよいんじゃなかろうか。で、女性解放運動支持者は「私たちの利益を守るためのフェミニズムを男どもの勝手にさせるものかー!」と叫ぶ。
いやぁ、実に素晴らしい、きわめて民主的光景ですなぁ。俺はどっちにも参加する気はないけど。