善福寺公園めぐり

善福寺公園を散歩しての発見や、旅や観劇、ワインの話など

西アフリカ4カ国の旅 その14

西アフリカの旅、9日目(2月15日・土)の続きで、トーゴを出国し、ベナンに入る。

ベナンは東にナイジェリア、西にトーゴに挟まれた国だ。

面積11万2622㎢で日本の約3分の1の広さ。人口1335万人(2022年世銀)。

首都はギニア湾に近いポルトノボだが、実質的首都機能は最大都市コトヌが果たしている。

民族はフォン族、ヨルバ族(南部)、アジャ族(モノ、クフォ川流域)、バリタ族、プール族(北部)、ソンバ族(アタコラ山地、トーゴ間)など46部族。

言語はフランス語(公用語)。宗教はイスラム教(27・7%)、カトリック(25・5%)、プロテスタント(13・5%)、ブードゥー教(11・6%)、その他キリスト教(9・5%)、その他伝統的宗教(2・6%)とされていて、主要産業は農業(綿花、パームオイル)、サービス業(港湾業)など。

 

トーゴのタンバルマと同じような塔状の伝統的家屋が立ち並ぶナティティンゴへ向かう。

ベナンで最も標高が高いアタコラ山脈付近にあるが、それでも標高は440m。

ナティティンゴは人口7万人程度で、盆地の町。隣国ブルキナファソへの通過地点でもあり、サファリが楽しめる北部国立公園への玄関口の役割も担っているのだとか。

この地域独特の住居群があるナティティンゴのタタソンバ郷を訪ねる。

タタソンバの「タタ」とは元々「要塞」を意味する言葉だったが、そこから転じて「住居」を示すようになったという。ソンバはこの地域の民族であるソンバ族のこと。

タンバルマと同じようにタタソンバの住居は分厚い泥の壁でできていて、基本的に2階部分が住居スペースになっており、野生動物から身を守ると同時に敵の襲来を上から確認することができる。

また、各居住部分の上に備え付けられている屋根を外すとトウモロコシなどの穀物を保存できるようになっており、ネズミや害虫、外気から穀物を守ることができるという。

屋上では保存用のキャッサバを干していた。

住居の内部。台所のようだ。

泥でつくられた塔状の建物はタキエンタと呼ばれるが、土台に注目してみた。

何と、タキエンタは地面と直接つながっていて、まるで地中から生えたようになっているではないか。

普通、建物とは、地面とは隔絶する土台があって、その上に建物がある。

ところが、タキエンタは地面と直接つながっている。それは何を意味するかというと、タキエンタは自然がつくり出した生き物のような建物だということなのだ。

タキエンタはもともとタンバルマ人が住んでいたバオバブの大木を模したものといわれているが、蟻塚を参考につくったとの説もある。

蟻塚はシロアリがつくった“アリの家”で、地下にまでトンネルが縦横に張り巡らされ、数十万匹が暮らすいわば小さな都市みたいなもの。タキエンタと同じ塔のような形をしていて、材料は泥である。それに落ち葉とか、あるいはアリたちの分泌物などで塗り固められ、頑丈につくられている。

しかも、蟻塚は内部の温度をほぼ一定に保つ仕組みまで備わっていて、自然がつくりだす空調完備の住宅ともいわれている。

蟻塚から学んだ建築は実際につくられていて、アフリカ南部のジンバブエでは1996年、シロアリの知恵を空調に応用したビルが建設されている。また、首都ハラレにある複合商業施設イーストゲートセンター(Eastgate Centre)は、蟻塚の構造を取り入れた工法で建設されたという。

タンバルマ人はすでに何世紀も前に、シロアリの知恵から学んで自分たちの家づくりに生かしている。まさしく彼らこそ「地球の真の建築家たち」(バタマリバ族の名前の由来)なのだ。

 

村の子どもたち。

 

タキエンタは、温暖化防止など気候変動対策について話し合う2021年の第26回国連気候変動会議(COP26)で、グリーンソリューション賞を受賞した。

この賞は、持続可能な建物やインフラのためのコンペティションであり、炭素排出量の削減を加速することに貢献した世界各地の団体や組織などが選ばれる。

泥の家であるタキエンタは、有機材料の使用と自然の冷却効果により、現代の気候問題の解決策として有効であると高く評価されたのだ。

 

今、世界で泥の家が見直されているという。

2022年、建築界のノーベル賞ともいわれるプリツカー賞に輝いたのは、土や泥、石など自然の素材を積極的に建築に取り入れる西アフリカ・ブルキナファソ出身の建築家、ディエベド・フランシス・ケレ(Diébédo Francis Kéré)だった。彼はアフリカ出身で初めてプリツカー賞を受賞した人物になった。

今回の受賞では、伝統と先進技術の融合を可能にしていることなどが高く評価された。

ケレは語っている。

「鉄筋やコンクリートを大量に使う近現代の建築は、比較的寒冷な西洋の文化圏で生み出されたものです。にもかかわらずアフリカでも広がってきました。土や泥といった地元の素材を使ったアフリカの気候に適した建築法が古くから存在してきたにもかかわらず、西洋式を模倣してきたのです。適材適所でないこの方法は間違っています。私は土や石など自然の素材を好んで使います。重要なのは、その土地の気候や土壌、地盤など環境に合わせて素材を選び、構造をつくりあげることなのです」

「気候変動の解決策として、西洋のコピーではない、伝統的な素材や建築を再評価する新しい動きがアフリカのあちこちで起きています。大地に戻るときが来た。そう考えます」

 

本日の宿は、タタソンバにあるその名も「ホテル・タタソンバ」。

夕食はホテルのプールサイドで、ビールに、野菜のスープやグリルチキン、デザートはマンゴー。

(西アフリカの旅その15に続く)

エナガに教えられ、コブシ咲く

木曜日朝の善福寺公園は曇り。気温高め、吹く風も冷たくない。

きのう5日は「啓蟄」だったが、まだ這い出してくる虫をみない。

 

ミツマタの花が満開になっていた。

 

池のほとりのユキヤナギが咲き出した。

 

上池をめぐっていると、盛んに鳴くカワセミの声。

ヤエちゃんらしいメスのカワセミが飛んできて、とまった。

オスのマルちゃんを探しにきたのかな?

 

上池を半周して下池に向かっていると、途中の小川(遅野井川)でジョウビタキが鳴く声。

「ジョビちゃ~ん」と声をかけると、オスのジョウビタキが姿をあらわした。

もう北の国に帰っちゃったかと思ったら、まだいてくれたようだ。

 

小川にはカワセミもやってきていた。

下池方面からきた若いオスのようだ。

 

下池を1周してふたたび小川に差しかかると、先ほどのジョウビタキが葉っぱの陰にいた。

休憩中かな?

 

上池に戻ると、池のほとりをエナガが飛んでいる。

フヨウの枝にとまったとたろ。

コブシの木にもやってきて、エサを探している。

すると、コブシの花が咲いているのを発見。

枝にとまったエナガのかわいいポーズ。

「コブシが咲いたよ~。春がきたよ~」とエナガが教えてくれた。

 

満開の河津ザクラには甘いもの好きのメジロ。

蜜を吸いにやってきたようだ。

花に囲まれ、うれしそう。

隣のウメの花の蜜も吸っていて、大満足のメジロだった。

西アフリカ4カ国の旅 その13

西アフリカの旅9日目の続き。

 

実は、塔状の泥の家タキエンタに住むトーゴ北部からベナンにかけてのアタコラ山地のバタマリバ族の人たちは、かつて裸で暮していた裸族だったという。

そのあたりのことは元国立民族学博物館教授で文化人類学者である和田正平氏の「裸体人類学・裸族からみた西欧文化」(中公新書)に詳しいが、同書によれば、アタコラ山地に住むタンベルマの人々は男女ともほぼ全裸で暮していて、それは彼らだけでなく、1950年代まではトーゴ北部諸族の常態だったと考えられるという。

今回の旅に同行してくれたガイドさんも、ここの人々は西暦2000年近くまでほぼ裸で生活していたと解説してくれた。

彼らこそが人類最後の裸族、との説もあるほどだ。

アフリカ大陸では、サバンナで牛の群れを飼育している遊牧民も、田畑を耕す農耕民も、長い裸族時代があったが、トーゴやベナンの辺境地帯ではつい最近まで裸で暮らすスタイルが当たり前だったようだ。

さすがに今は、大人はみんな衣服を着ているが、子どもは裸が多い。

 

なぜ裸かといえば、そのほうが暮しやすいからにほかならない。

なぜ人は衣服を着るかといえば、冬の寒さとか、気候や環境への適応のために衣服を着るようになったのだろう。だが、熱帯に住んでいる人にとって衣服は必要ない。

サハラ以南のアフリカ人が衣服を着用するようになったのはそれほど昔のことではなく、綿花がアフリカに伝えられるようになった11世紀以降との説がある。

キリスト教やイスラム教の影響もあるようだ。

東アフリカではキリスト教の強い影響を受けて衣服の着用が始まったが、西アフリカの場合はイスラム教の影響が強いといわれる。

裸を非常に忌み嫌う宗教がイスラム教であり、とくに女性は、素顔を公衆にさらすことさえタブー視される。このため、裸族文化の世界だったアフリカにおいて、イスラム化とは、まず何よりも衣服の着用を意味していた、と説く学者もいる。

やがて黒人諸王国の王侯貴族が綿織物で着飾るようになったが、それでも当初は、衣服の着用は権威をあらわすためのものであり、しかも綿布は貴重だったので宮廷に伺候する者でもせいぜい腰布を巻くぐらいで、ましてや一般の人は裸であり、いわんや王国と無縁な森林やサバンナに住む大多数の部族民は長い間、完全な裸族だったといわれる。

何しろ熱帯の住民たちは、衣服がなくても自分たちは「太陽と空気を着ている」という意識を持っていた。同じ熱帯のニューギニアには、そういった意味の常套句があるという。

「自分たちは決して何も着てないのではない。自然を着ている」と思っているのかもしれない。

 

アフリカの王様が権威の象徴として身にまとうようになったのも、もともとはまじないから始まったのではないだろうか。きらびやかな衣服は、相手をひざまずかせる魔力を持っていたのだ。

性器を丸出しにしている裸族でも、まったくの素っ裸かというとそうではなく、頭飾りとか耳飾りとか体のどこかに飾りをつけたり、あるいは腰に紐を巻いたりしていたという。衣服の起源とは、実はそのあたりにあるのかもしれない。

インドの先住民ヴェッダ族は、結婚期に入ると男は未来の妻の腰に紐を結びつけるという。これは結びののろいであって、相手を縛りつけるために行うという。結びとは本来、呪術の一方法であり、そこから衣服が始まったとの説もあるらしい。

(そういえば日本でも、紐は男と女の間を結んでいるというので呪術的意味で使われていて、万葉集などにも紐で結ばれた男女の恋が多く歌われている)

 

飾りではなくても、体に傷をつけてそれを装飾というか身分を示す代わりにすることもあったらしい。

今回の旅では、体に傷痕模様を残している人を見た。

ベナンのタタソンバで出会った少年の顔。

よく見ると、まるで畳で昼寝したあとのような細い線の模様が施されていた。

これはどこの種族かを表す意味があるという。

生まれるとすぐにつけられるらしいが、裸で暮らす彼らだからこそ、すぐにわかる標識として施されたものなのだろう。

 

このように見ていくと、アフリカの人々が派手な原色の衣服を着る理由も、何だかわかるような気がしてくる。

寒いところで暮らす人々が、寒さをしのぐため、必要に迫られて着るのが衣服であり、そこからだんだんファッションとしての美しさに目覚めていったのと違って、別に衣服など必要としない地域で人々が衣服を着るのは、最初から自分を着飾り、アピールするためのファッションとして始まったのかもしれない。

だからなのか、今回の旅で目を奪われたのが、女も男も、着ている服の色鮮やかさだった。

しかも、デザインがまた、どれもすばらしい。

 

ところで、アフリカへの衣服の伝播については興味深い話がある。

東アフリカの布と西アフリカの布とではルーツが違うというのだ。

東アフリカのタンザニアやケニアなどで使われている民族衣装や生活用の綿布に「カンガ」がある。もともとインドから伝わったもので、植民地時代にポルトガルやフランスがもたらした布を、東アフリカの女性たちが創意工夫してつくり上げたのがカンガだった。

一方、西アフリカには伝統的なろうけつ染めの技法を使ったワックス・プリントがもたらされた。これは、遠く離れたインドネシアの伝統的な染物の手法をオランダが持ち込んだことが由来とされている。

17世紀中ごろ、オランダは東インド会社を通じて南アフリカや東南アジアに進出していった。その過程で、オランダは植民地であったインドネシアのジャワ島で発達していた伝統工芸品の更紗(ジャワ更紗)のろうけつ染め技法に目をつけ、オランダ独自のろうけつ染め技術を開発。植民地であった西アフリカ諸国にろうけつ染めの生地を輸出するとたちまち人気となり、今日のアフリカン・プリントに至ったのだという。

ジャワ更紗はバティックともいわれ、どちらも同じ意味だが、バティックはジャワ語でろうけつ染めを意味する。

更紗とは一般的に、鮮やかな色彩で繊細な模様が描かれた木綿の染色布のことをいう。その起源は古く、紀元前3世紀ごろにはインドで木綿の栽培および染織が始められていたといわれている。インドで生まれた更紗は西へ東へ、世界中に運ばれてそれぞれの地域で独自の更紗を生むことになる。

インドネシアではバティックの名前で知られるジャワ更紗となり、中国では中国更紗、日本では和更紗、沖縄に伝わって紅型となった。

紅型とアフリカン・プリントの色合い・デザインの何と似ていることか!

 

ジャワで生まれたろうけつ染めが、東は日本にまで、西はアフリカにまで伝わって、女性たち(男性も)のファッションに貢献している。

文化とはこうして伝播していくものだと思うと感慨深い。

西アフリカ4カ国の旅 その12

西アフリカの旅9日目の2月15日(土)、トーゴ中部への町ソコデを出発し、北上してベナンとの国境に向かう。

途中、17世紀につくられた要塞のような泥の家が点在するタンバルマ(Tamberma)郷を訪れ、国境を越えてベナンへと入り、やはり泥の家が点在するタタソンバ郷の中心地ナティティンゴへ。1日で約220㎞を走る旅。

 

朝食前にホテルの前を散歩、と思って外に出るが、何もない。

朝6時すぎで、人々はまだ寝てるようだ。

ホテル前の道路を隔てた今はだれも住んでない住宅の敷地に、巨大な蟻塚があった。

 

美容院の看板が並んでいた。

 

ランニングする人が駆け抜けていく。

トーゴでも健康志向のランニングがブームなんだろうか。

 

朝食にはフランスパン。

ただし、スカスカのパンで、味はイマイチ。

たしかにフランスパンは気泡が特徴で、皮はパリパリで中はふんわりのバケットがおいしいが、トーゴ人は気泡だけを真似たのか、まるでお麸を食べてるみたいだった。

 

それはまあいいとして、一路、タンバルマをめざす。

トーゴ北東部のアタコラ山脈の麓に位置するクタマク地方にはバタマリバ族の人々が住んでいて、われわれがめざしているのは、そのうちのタンバルマという渓谷にある集落。

クタマクは隣国のベナンまで伸びていて、そこでは人々はソンバ族と呼ばれている。

最初、トーゴではバタマリンバと呼ばれ、ベナンではソンバと呼ばれるから違う民族かと思ったら、実は同じ民族をさしていた。

クタマク地方の人たちが住むのがタキエンタと呼ばれる泥でつくった家であり、2004年、「タクマク、バタマリバ人の土地」という名称で世界文化遺産に登録された。その後、ベナン側でも同じタキエンタに住む人がいるというので、2023年開催の第45回世界遺産委員会において登録範囲がベナンにも拡張されている。

 

バオバブの木が生えている。

村に入ると、タキエンタが見えてきた。

泥でつくられた筒状の建物で、人々はここに住んでいる。

2階建てで、1階では家畜を飼い、キッチンが設けられ、2階は住居スペース。

2階上部には穀物を乾燥するための屋上中庭がある。

木製の階段で昇り降りする。

建物はもともと要塞化されたもので、1階の壁には敵に弓矢を射る銃眼や、2階には1階に侵入された敵に弓矢を射る防御穴もある。

今は1階に玄関があるが、もともとは敵の侵入を防ぐため2階の狭い空間が入口だったという。

クタマク全体では、こうしたタキエンタと呼ばれる搭状の住居が数千もあることが確認されており、トーゴでは 1716 軒、ベナンでは 1400 軒が今も住んでいるという。

 

泥でできたという壁を触ってみると、実に頑丈そうだ。

タキエンタの壁の建設には、土、木材、ネレやシアの実、わら、ラフィア、ケナフ、キビの茎、牛糞など、地元で入手可能なエコ材料がふんだんに使われているのだとか。

バタマリバ族の名前の由来を聞いて驚いた。

「地球の真の建築家たち」を意味するのだそうだ。

この名前の通り、タキエンタの建設にはコミュニティ全体が関わり、男性は壁を建てる役割を担い、女性は壁を覆う土の漆喰の準備、塗布、装飾を担当する。

 

ここに住む人たちは、もともと農耕牧畜民だったという。

泥の家に住む以前はバオバブの中にある空洞で生活をしていたが、夜間に襲ってくる猛獣や、さらには奴隷狩りに対抗するため、バオバブを模した要塞のような建物をつくり、そこに住むようになったのだといわれる。

彼らが信仰するのは太陽神であり、入口は南面し、一説によれば、冬至の日の日没時に太陽が地平線を横切る地点に合わせて配置されているという。

太陽信仰にとって冬至は1年の重要な節目にあたる。

冬至の日は太陽の力が1年で一番弱まる日であり、その一方で、これから強さが増していく日でもある。太陽の復活や再生を象徴する日であり、キリスト教がクリスマスを祝うのも、日本では五穀豊穣を感謝する新嘗祭が行われるのも、もとはいずれも太陽信仰にもとづく冬至の行事だったといわれている。

 

村の女性たちが歌と踊りを披露してくれた。

頭にかぶっているのは結婚式のときの儀式用帽子で、頭から牛の角が伸びている。

お尻を突き出して向かい合って踊る様子が実に独特だった。

村の子どもたちも集まってくれた。

どこに行っても子どもが多い。

長老のおばあさんが立派な角の帽子をかぶって、パイプタバコをプカリ。

帽子や腕には「富」を象徴する子安貝(タカラガイ)が散りばめられていた。

 

村のまわりはバオバブの木が繁っている。

そのうちの1本の大木。

人1人が横になってやっと通れるだけの空洞があった。

ちょっと見ただけでは入口かどうかわからない仕組みになっている。

中は広い空間になっていて、昔は人々はここに隠れ住んでいたのだろうか。

 

昼は街道沿いのレストランでイワシとツナのサンドイッチ。

デザートはマンゴーにパイナップル。

 

トーゴからベナンへの国境越えは、青空オフィスでの簡素手続きですんだ。

「WELCOME TO BENIN」の看板がお出迎え。

いよいよ、最後の訪問国ベナンだ。

(その13に続く)

エナガの尾が曲がってるワケは?

火曜日朝の善福寺公園は曇り。きのうは朝から雨で散歩に行けなかったが、けさは冬に逆戻りした寒さの中、公園1周。

 

まずは上池をめぐる。

キンクロハジロが何羽も、水の上でバシャバシャやっている。

羽繕いにしては元気がよすぎる。

羽を広げてパタパタパタ!

ふたたび羽繕いに余念がなかった。

 

上池を半周して下池に向かう。

途中の小川(遅野井川)にはキセキレイ。

するとその上をピューッとカワセミが飛んでいって、枝にとまった。

エサを探しにきたのかな?と思ったら飛び去っていった。

 

下池をめぐっていると、ヒイラギナンテンの花にメジロがやってきた。

葉はヒイラギに、実はナンテンに似ているというのでヒイラギナンテン(柊南天)。

早春に穂状の花を咲かせ、蜜を吸いにメジロがやってくる。

 

ヨシの林の中から姿を見せたのはウグイス。

遠くでホーホケキョと鳴く声が聞こえるから、メスが顔を出したのか?

それとも水を飲みにきたのかな?

 

エナガが梢をめぐっていく。

 

エサを探して幹をのぼっていくのはコゲラだ。

 

ウメの花にはまたまたメジロ。

ホントにメジロは花の蜜が好き。

何だかうれしそうにしてるし・・・。

口いっぱいに巣の材料を頬張ったエナガが枝にとまった。

よく見ると長い尾っぽが曲がっている。

これはエナガの子づくりのサインでもある。

エナガは丸いドーム型の巣をつくる。

尾っぽが曲がっているということは、狭い巣の中で長時間卵を温め続けたからと考えられる。

それとも、巣の材料をほおばっているから、巣の本体は出来上がって、内装工事に取りかかるので巣の中にいて、それで曲がっちゃったのかな?

いずれにしても子づくりは本格化しているようだ。

西アフリカ4カ国の旅 その11

西アフリカの旅8日日目の続き。

 

トーゴの首都ロメを出て一路北上。

南から北へとトーゴを縦断し、340㎞離れた中部の町、ソコデをめざす。

トーゴは、お隣のガーナと比べると気候からして違う。

ガーナ(特に南部)は熱帯雨林気候だが、トーゴはサバンナ気候。

その証拠に、道路脇には蟻塚があり、遠くにはバオバブの木が生えている。

蟻塚とは、シロアリがつくる巣のことで、地中に巣をつくるために運び出した土が詰み上がって塚状になっていて、高いものでは高さ3mぐらいにもなる。

バオバブは徳利みたいに太い幹を持つ樹木で、伝説によれば、その姿かたちから、まるで悪魔が巨木を引き抜いて逆さまに突っ込んだような木だ、なんていわれている。

蟻塚もバオバブも、アフリカのサバンナ地帯に特有のものだ。

ということは森の中に入ると、サバンナを徘徊する猛獣もあらわれるかも?

ちなみにトーゴの国獣はカバだそうだ。

 

道中で多く見るのはオートバイ。

ガーナでは移動手段として小型のワゴン車を使ったミニ乗合バスのトロトロや三輪タクシーのツクツクが多かったが、トーゴではそれがオートバイに取って代わる。

後ろに1人、ときには2人、3人の客を乗せたバイクが次々とやってくる。

 

蟻塚が幹線道路のすぐわきにあった。

 

道端で営業中のヘアサロンも多い。

アフリカの人たちはヘアスタイルにこだわる人が多いようだ。

それには理由があり、暑い日差しから体とくに頭を守るため、頭髪はどうしたって縮れ毛や天然パーマが多くなる。

そこで人々はいろんなヘアスタイルにチャレンジしておしゃれを楽しんでいるようだ。

 

学校帰りの子どもたち。着ているのは制服か。

 

立派なお墓が並ぶ墓地があった。

 

ここにも蟻塚がそびえている。

 

フフを売っているのは頭をスカーフで覆ったムスリムの女性だろうか。

 

ローカルレストランでの昼食で飲んだのは「DJAMA PILSNER」というドイツビール。

 

ガソリンスタンドで出会った子どもたち。

ソコデ到着後、金曜日に開いているという市場を見学。

野菜から魚、肉、いろんなものを売っていて、大賑わい。

市場の真ん中に、男たちでにぎわっている小屋があった。

酒を売っているバーで、ほろ酔いかげんの男たちが談笑中。

市場で物を売って働くのは女性で、男たちは昼間からイッパイ、というわけか。

彼らが飲んでいるのはミレットビールという酒で、一杯100フラン、25円ぐらいだとか。

ミレットと呼ばれる雑穀を原料にアルコール発酵させた醸造酒。

試飲してみたらアルコール度1、2%ぐらいしかない感じで、これならいくらでも飲める。

 

これがミレットビールの原料。

 

ヤカンまでがハデハデ模様。

 

本日宿泊のホテルに向かう途中、農家のお宅を訪問。

家の前に立派なバオバブの木があった。

土でできた昔ながらの住宅。

大家族の家のようで、中庭があり、まわりを取り囲むようにしている。

小さな子どもが、おやつを食べているところかな?

まだ夕方前だったので、これから料理をつくるところのようだ。

軒先にぶら下がっている動物の骨はブードゥー教のおまじないだろうか。

この家に住む子どもたちが集まってくれた。

やはりトーゴは子だくさんの国。

おじいさんだけが留守番していて男や女たちは働きに出ているようだ。

 

宿はセントラルホテル。

荷物を預け、夕食前に近くのパラタロ村というところに、17世紀ごろから伝わるという「炎の儀式」を見に行く。

この村は昔、戦いで負け知らずの村として有名だった。ところが初めての敗戦を経験。相手は火を扱う部族だった。負けじと村人たちはブードゥーの神に祈り、炎の精霊を宿せるようになった彼らは、ふたたび無敵の部族になったという。

燃える炎を体に押しつけても平気。

中には火を食べちゃう人もいる。

子どもだって火を恐れない。

刃物にも強くなって、カミソリや刀で切りつけようとしてもこの通り無傷。

炎の精霊を宿すワザは、父から子へと一子相伝で伝わっているようだ。

 

夕食には、ガーナではなかったパンが出た。

やはり元の宗主国フランスの影響か。

西アフリカ4カ国の旅 その10

西アフリカの旅の第8日、2月14日(金)。

人口170万人を擁するトーゴの首都ロメの朝。

泊まったのが海外近くのリゾートホテルっぽいからか、ホテルのまわりは至って静か。

朝、海岸に向かうと朝日が昇ったところだった。

何か野菜をつくっている畑かな?

案山子か?いや、そうではなく、何しろここは万物に神が宿る精霊信仰の国。

おそらく畑を守ってくれる神様を祀っているのだろう。

朝は野菜たっぷりの食事にヨーグルト。

 

ホテルを出発して、まず向かったのは、ロメの中心地から少し離れたアコデセワ地区にある「ブードゥーマーケット」。

ブードゥー教はトーゴの隣のベナン発祥の精霊信仰だが、トーゴでも盛んに信じられていて、世界最大といわれるブードゥー教の“グッズ”を売る市場。

猿の頭や頭蓋骨、死んだ鳥、ワニの皮、その他の死んだ動物など、ブードゥー教の儀式で使われる呪物がところ狭しと並んでいて、売られている。

 

体中に釘が打ち込まれてハリネズミみたいになっ人形があった。

これとそっくりのものにコンゴのヨンベ族の呪術人形「ミンキシ」があるが、ミンキシは呪術による医療を施す人形であり、呪医が体の痛いところに薬草を入れた釘を打つことで薬の効果が発揮されるというもの。

それと似たような効用がこの“釘人形”にもあるのだろうか。

この“釘人形”を見ると、日本と西アフリカの意識の違いが如実にあらわれている気がする。

日本では藁人形に五寸釘というと、相手を呪いで苦しめるためのもので、鉄の釘は恐ろしいイメージだけれど、ブードゥーにおける釘は願いを叶えるための捧げ物になっている。

アフリカにおける鉄とは、あるいは鉄でできた釘とは、一種の魔物であり、もともとその意味するところは日本と変わらないはずだ。

鉄は自然の産物ではなく(大昔の隕石はあるとしても)、鉄鉱石とか砂鉄とかからできた人工の産物であり、鉄をつくる技術つまり鍛冶師の仕事は神秘そのものであり、魔術みたいだと思ったに違いない。

日本でも昔は、鉄をつくる技術者である鍛冶師は魔術師であり、彼らががつくる鉄は邪悪なものを取り除く魔力を持っていたと考えられていた。

柳田国男がまとめた「遠野物語」には、怪力で襲ってくるカッパを鉄の針で退治する話が出てくる。ほかにも、山中で身の危険を感じた猟師が、魔除けに持っていた鉄の弾を撃つというエピソードがある。

それなのに、いつの間にか鉄の釘は気に入らない相手をやっつける呪いの武器に変じてしまった。

しかし、ブードゥー教の世界では、魔術への素朴な畏怖は残っていて、鉄は人を守る働きをしてくれているようだ。

 

子安貝を身にまとっているのは金持ち願望の神様か。

子安貝はブードゥー教の故郷ベナンでは貨幣として使われた。

子安貝をたくさん身にまとっているということは財力のあらわれなのだろう。

 

立派なイチモツを持つ豊穣の神様。

 

シャーマン(呪術師)の男性が常駐していて、観光客のわれわれに道中安全の祈祷をしてくれた。

 

ブードゥー教については少し説明が必要だろう。

ブードゥー教はカリブ海のハイチ発祥の宗教と勘違いしている人も多い。

たしかにハイチではブードゥー教が盛んに信じられているが、ブードゥー(Voodoo)とは元をたどればベナンに住むフォン人の言葉で「精霊」を意味するヴォドォン(Vodun)が語源となっている。

もともとヴォドゥン信仰は、西アフリカにおける太鼓を使った歌舞音曲や動物の生贄、シャーマンによる降霊などの儀式を伴う精霊信仰がその原型だったと考えられていて、ベナンのフォン人のみならず、ナイジェリアのヨルバ人、トーゴのミナ人・カブイェ人、トーゴおよびガーナのエウェ人などの間で広く信仰を集めていたという。
現在のベナン国家のルーツにあたる旧ダホメ王国は、まわりの住民を捕まえては奴隷としてヨーロッパ商人に売りつける奴隷貿易で繁栄を築いていたが、奴隷としてカリブ海地域へ送られたフォン人伝来の精霊信仰がカトリックと習合する過程で、ヴォドゥンはブードゥーに転訛し、この名称が世界的に定着することになったというわけなのだ。

ヴォドゥンの信仰や文化は、西アフリカの自然や生活の中から生まれたもので、統一的な教義や教典はなく、組織化された教団もない。それでもベナンでは、ヴォドゥンを国教に指定している。

全世界でヴォドゥンおよびこれに類似の信仰を有している人口は5000万人以上と推定されている。その規模は約3000万人といわれるチベット仏教をはるかに凌駕しているのだとか。