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John 8:32 Then you will know the truth, and the truth will set you free."  複数ブログの過去記事を移管し、管理の委託を受けています/※場合により、語る対象の「ネタバレ」も在ります。ご了承ください 報道、記録、文化のために

1995年に裁判官(倉田卓次)が書いた「戸籍は不要か」という文章が面白いので紹介したい

1、2週間ほど前ぐらいだったか?なんか有名人が一斉に「戸籍制度」の議論に加わって、話題沸騰だったことがあるじゃござんせんか。

その時に投稿すればよかったけど、多忙にまぎれそこまで手が届かなかった。




自分が「戸籍(制度)」について考えると、必ず思い出す資料があるーーーーーーというか、ここで読んだきり、戸籍制度についていいも悪いもほとんど考えたことが無かった。
これから紹介する記事を読んで、へー、そんなことがあるんだ、と印象に残った、というだけ。
ただ、それを数十年忘れなかったのだからやはり重要なのだろう。


ただ、今、簡単に読めるという文章ではない・・・・
2011年に亡くなった「倉田卓次」というかただ。実はこの人、当時は超貴重、いや、いまでもぜんぜん稀なんだが、現役の裁判官でありながら筆まめかつ趣味の多い大教養人で、その趣味の分野で沢山の文章を書き(主に書評)、それが1980年代~1990年代に、単行本になったら大好評を受けてシリーズ化された、という人なんだ。
お堅い分野に本職で基盤を置きつつ、趣味で書いた文章が好評で商業的にも成功(だけど別に転職もせずそのまま)、というのは「ネット以前」には、非常にまれな現象でもあり、そういう点でも注目と憧れを浴びた人だった。
同時に、ちょっと面白いんだけど、匿名作家が書いた謎の小説「家畜人ヤプー」作者ではないか?とも模され、ある時期は「ほぼ間違いない」と言われてたぞ!
というか自分はいまウィキペディア見るまでそう思ってた。変なことでも知名度を上げてたな…
ja.wikipedia.org
※この件について後述



そのエッセイ系の著書は

で、戸籍のエッセイは「続々々」に収録。
この勁草書房ってところが、旧作の電子書籍化なんて薬にしたくてもできねーような溶岩石なカテエ出版社で、へいきで「品切れ・重版未定」のままにしくさる。



この文章を探すのはかなり困難だと思うので、紹介する。形式が「久米宏のニュースステーション」のキャスターによるコメントへの批判だというのがいかにも時代。時代という事でいえばこの頃「デジタル化」という概念もほんのわずかな黎明期で、そこから変わったものもあるだろう(逆にいうと「何が変わったのか」の分析が、全体のヒントになると思う。)

戸籍は不要か

秋も深い頃のある夜、久米宏のニュース・ステーションを見ていた。夫婦別姓問題がらみで、外国人と結婚した場合の戸籍上の処置が問題になっていた。日本の戸籍制度の特殊性を批判するという姿勢で・・・・(略)を明らかにしてゆく。
婚姻が市町村長への届出によって成立することは、日本人同士の結婚でも日本人と外国人との場合でも、同じであるが、日本人同士の場合には、夫婦が称する氏をどう協議したかの記載がないと受理されない。しかし、外国人と結婚するときは、その記載は不要だ。(略)外国人と結婚した日本人の戸籍に「何国人何某と婚姻」と記載されるだけで、氏や戸籍の変更はない。つまり夫婦別姓のままということになる。普通の日本人なみに、夫婦同姓で、と願っても、かなえられないわけだ。
子供ができて母の戸籍に入っても、父である男の名は身分事項欄に子の父として出てくるだけであり、外国人登録で管理される関係から住民票にも記載されない。
日本の戸籍は「氏」中心だから、外国人は入ってこられないのである。こんな細かい規制のある戸籍は、日本の他には台湾や韓国にあるだけで、欧米先進国にはみられない・・・・・・


欧米にはない制度と判らせてから、とうとう「日本も戸籍なんてなくてもいいんじゃないですか」といった発言が飛び出したのには、少々驚いた。久米氏の人気は、アドリブ的なコメントの発言が庶民の心情を代弁する率直なものと受け取られていることにあるようだ。私は放言と受け取った(略)、視聴者の中にも、「戸籍なんて要らないのでは」という意見に賛成する人がたくさんいたかも知れない。
それでは困る。戸籍が日本の法制度を支えていると言えるほどたいせつなものであることを説いて、久米氏の認識不足を解消させるのに、この欄の一回分を捧げても惜しくない、そんな気になった。


十年前公証人になった時、仕事が公正証書作成だけでなく、米国その他に外国に出す文書に作成者が署名すると、運転免許などで本人と確認の上「何某の署名であることに間違いない」とやる「認証」の仕事があることを知った。(その延長上に「宣誓供述書」がある。供述を書き取った上「何某は本職面前で宣誓の上かくかくのことを述べ署名した」という公証人の証明文言が入る文書である。)認証がないと、本人の作成かどうか不明ということで外国の役所は受け付けてくれないのだ。日本なら、印鑑証明付きの実印が押捺してあればいいのに、と思った。(米国の公証人は、この署名認証をするだけで、公正証書は作れない、つまり法曹資格など不要なのである。)


日本では土地を買う場合果たして売主の所有かどうか登記簿で確認できるし、売買が終われば、登記簿に載せる。日本の不動産登記の特質は一筆毎の(物的編成)連鎖登録たるところにあり、これによって土地毎にその権利関係の現状が明示されるのだが、米国ではこのような不動産登記簿の制度がない。登記所というのは単に不動産売買証書を受理編綴する役所である。その当事者名の索引がある(人的編成)から、売主が現在の所有権者であるかどうかを弁護士に頼んで調査するが、リスクが大きいので不動産取引保険を掛けるのが普通だという。制度的にも土地所有権確認訴訟など許されない。不動産登記簿がないからである。


初めて米国の会社の書類を扱ったとき、日本の会社の場合当然の、取締役であることを証明する法人登記書類がなく、単に取締役選任の議事録が出ただけなのにまごついた。商号や資本金や役員などのその時々の変更を登記して会社の現状を示す法人登記の制度は米国にはないと知って、人の戸籍に当たる法人登記なしによくやって行けるな、と感じたことを憶えている。
いやその戸籍もないのだった。ある者の親が誰か兄弟が誰か配偶者があるか子があるか何人あるか、日本なら戸籍で直ぐ判るが、米国にはそういう親族登記は存在しない。


という意味はこうである。人が生まれれば医師が出生届けをする。出生地の役所ではそれをそのまま受理編綴する。それが出生登録になる。結婚を届ければ婚姻登録されるし、離婚の判決も裁判所でファイルされるが、婚姻庁との連絡はない。子が生まれれば、その出生地での出生登録があるだけ。要するに、ある人の身分関係の登録を集中して、その親族関係の現状を一覧させる登録制度がないのである。だから、ある人が死亡したとして、日本では遺言で遺産の処分をしてなくても戸籍で法定相続人が決まるが、米国では子が何人いるか、正確に知っているのは死んだ本人だけである。遺言書が日本より遥かに重要視されるのはそのためである。重婚が多いとか、認知や父子関係存否確認訴訟が許されないというのも、みな戸籍がないせいである。
不動産登記簿がないのも、法人登記がないのも、帰するところは戸籍がないため本人証明ができないからであるらしい。


登記官は登記申請者が登記上の所有者本人であることを確認できなければならないが、日本ではその証明は印鑑登録証明でなされる。戸籍のコピーを住所地に送ることで住民登録ができ、市町村役場はこの住民登録に基づいて印鑑登録証明事務を行える。会社の場合も、法人登記の代表者の印鑑登録証明ができるから、自然人についても法人についても、本人証明が可能である。公証人のサイン証明より確実度も高い。これがあって初めて不動産登記が制度的に可能になる...占有でなく登記あっての土地所有権という日本の法律常識は登記制度に支えられているのだが、その元は戸籍簿に基づく本人証明なのである。ここでは米国と比較したが、フランスやドイツといった大陸法系国では戸籍・登記の制度がある。しかし、日本の程完備していない。

朝鮮半島と台湾には同程度のものがあるが、それは植民地時代の名残だ。
なお、以上の叙述は、法務省で、会社登記、国籍、戸籍等の事務を主管された経歴ある日本大学教授田代有嗣氏の名著『登記と法と社会生活「法律風土」日米較差の根源』(テイハン)に教えられたところが多いことをお断りしておく。


(後略)

戸籍は不要か 倉田卓次

再読しての感想
けっきょく戸籍にしても住民登録にしても、結局は「誰々はまちがいなく、この誰々である」ということをどこで証明できるか、という事に最終的にはなっていく。
それが、行政機構にかっちりと記録しているか、していないか、どういう形式かであるが、まさにデジタル的になった以上、この当時と比べると、どんな複雑であっても対応できるようになったのでは?と思うのだ。


そしておそらく、個々人がまちがいなくどこの誰だれである、の確認は指紋かDNA、あと今では顔認証やら静脈やらであろうか。
指紋登録は、北朝鮮の潜入者による「なりすまし」が実際に頻発する韓国で採用されてるぐらいで強い。ただ、今さら全国民の指紋を登録し、個体認証確認につかうなんてできそうもない。



逆に言えば米国流になりすまし・入れ替わり、身元不明の続発があっても、「それもまあいいや、そういうこともある」ぐらいにふわっと受け止めておけばゆるやかな登録制度も可能だろう。

というかむしろ一番印象に残って、記憶していたのは
超先進国アメリカは制度上「他人になりすます」ようなことは、むしろたやすい、そんな不備があって鷹揚だ、ということだった。


いや、米国は鷹揚というより、そういう弊害が有っても「政府行政が、お前はどこの誰であるをがっちりつかむ」という事に対して拒否反応がある、という面が多いのではないか??そこはリバタリアンとサバイバリスト、反連邦主義者の国だ。



でも逆に、「個々人がどこの誰かを最終的にはがっちり確認できる」システムが確立すれば、名前なんて上の姓も下の名も自由に変えていいのでは?と思ってる。というか自分、いわゆる「号」、一刀斎とか不識庵とかそういう名乗り、号に憧れててね、できればそういうのを4年に一度ぐらい変更してみたいものだ。そして戸籍上もそれに変更できればなおいいんだが(笑)



そういうシステム(誰が誰の子か、も含めた)が構築されるのなら、それは戸籍であっても、それが廃止改訂されて個々の住民登録でもかまやしない、と思っております。

※そんな考え方が「テクノリバタリアン」的だ、というなら、多分そうなんだろうと思う。


ただ「どんなふうに変更するのか」「そうするとどの程度便利になるのか」は
それこそデジタル庁あたりが試算でもしてくれればいいのだが。


倉田卓次=家畜人ヤプー著者、は「一時唱えられた説」でなく、「それで間違いない」という論者もいるらしい


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ヤプー論 正体は

これ、ウィキペディアには一方の論とはいえ反映されていないな…