追記:カルデロン一家への支援と処分をつなぐもの

 「村野瀬玲奈の秘書課広報室」から前回の記事に対するトラックバックをいただきました。ありがとうございます。以下は追記ということで。

在留特別許可はそんなにありがたいか?

 何度でも確認しておきたいことは、私たちがナショナリズムや「国益」の論理に乗っかっている限り、外国人の人権が守られることはない、ということです。「いや、ナショナリズムや「国益」の観点からもカルデロン一家の在留は正当化できるんだよ。だって、一家の長女は「日本人」みたいなものだし、父親だって真面目に働いてるし、税金だってちゃんと収めてるじゃん。かれらが日本に住み続けても日本人は損をしない、っていうか、むしろ得してるくらいなんだから、安心して一家を受け入れようよ」という主張は、日本社会に適応できない(しようとしない)外国人には権利を認めない排外主義と表裏一体です。

 実際、カルデロン一家が法廷闘争を通じて主張してきたのは、「子どもの権利条約*1という世界中でほぼ普遍的に批准された国際法を日本政府が遵守することでした。ところが、日本の行政・司法は、一家の主張を認めず、最高裁で処分が確定した2008年9月以降は、退去強制を避けるためには在留特別許可を求めるしかない状態になりました。

当秘書課広報室の今までのスタンスは、「在留特別許可」という法制度の存在や意義を大勢の人にアピールすること、カルデロン一家の現状は人道的に見て「在留特別許可」に値するものであると判断できる、ということを示すことでした。

 「カルデロン一家への支援と処分をつなぐもの」 (by media debuggerさん)
 http://muranoserena.blog91.fc2.com/blog-entry-1151.html

 在留特別許可はあくまで法務大臣の裁量によって下されるもので、在日外国人を恣意的に管理しようという日本の入管行政において、強制退去条項(「ムチ」)と対になっている「アメ」に当たります「出入国管理及び難民認定法」では、外国人に対する在留特別許可も強制退去も、法務大臣の裁量で行えることが定められている)。

 カルデロン一家が在留特別許可を求めざるをえなかったことと、在留特別許可のあり方に象徴される外国人の無権利状態が密接につながっている以上、「「在留特別許可」という法制度の存在や意義」を語るだけでは十分ではありません。カルデロン一家への在留特別許可を求めながら、同時に在留特別許可に象徴される日本の入管行政の排他性を問い直す作業が不可欠だと思います。不法入国の問題に関しても、日本と第三世界の間に圧倒的な経済格差がありながら、外国人にとって就労可能な在留資格は制限も多く期間も短いこと―つまり日本側の問題点―こそを、まず指摘するべきだと考えます。

人権は国家の「寛容」を必要としない

 確かに、日本側の責任として(「寛容」からではなく)、カルデロン一家の日本社会への同化の程度を問わず、かれらの人権を保障しようという主張は、控え目に言っても支持されにくいでしょう。なぜなら、こうした主張に従えば、現在無権利状態に置かれている―あまりにも多くの―外国人に対しても、人権を保障せざるをえなくなるからです。ああ、「古き良き日本」(by のすたるじじい)はどこへ?というわけです。ちなみに、「古き良き日本」というのは、一部の日本人の脳内にしか存在しない妄想ですが。

 こうした主張に比べたら、ナショナリズムや「国益」の観点から外国人を受け入れようとする意見の方が、はるかに世論に適合的だと言えます。3月14日付の読売新聞(38面)に掲載された「比一家 長女だけ残留 両親は強制送還」という記事などは、その典型的な例でしょう。

在留特別許可 基準明確化を
 強制退去処分を受けた外国人への在留特別許可は、「法相の裁量」によって決まる。法務省は2006年、許可の判断材料として「人道的配慮が必要なとき」などをあげた指針を公表したが、これはあくまで目安で「明確な基準はなく個別事情で判断する」というのが同省の見解だ。
 今回、一家3人での在留が認められなかった背景には「単なる不法残留と異なり、不法入国だった点や、自主申告でなく摘発によって発覚し、有罪判決を受けた点」(入管幹部)があるとみられる。
 ただ、一家には入管難民法違反以外の法令違反はなく、中京女子大の駒井洋教授(国際社会学)は「日本でまじめに生きている現状をもっと重視してもよいのではないか」と指摘する。
 欧米では、不法在留者でも滞在期間が長いなど一定条件を満たせば、定住を認めてきた歴史がある。近年、こうした措置を見直す動きも出ているが、わが国の場合、在留特別許可の明確な基準がないことが、今回の問題の一因になったことは間違いない。国内の不法残留者は約11万人に上る。基準さえ作れば、残留が認められるケースも出てくるとみられ、不法残留の自主申告を促すことにもつながるはずだ。(中村亜貴)

 こうした提言に対しては、それがナショナリズムや「国益」によるものだとしても、それによって「救済」される外国人がいる以上は一定程度評価できるのではないか、という意見が現にあると思います。けれども、それは気のせいです。繰り返しますが、ナショナリズムや「国益」の論理によって、日本で生きていくことを「寛容」される外国人と、「寛容」されない外国人が選別されるような制度的・社会的差別こそが問われるべきなのです。人権には、国家や国民の「寛容」も「非寛容」も必要ありません。というか、むしろ、それこそが人権の敵です。

やはり日本政府としては、外国人一般の再入国規制緩和と、在日朝鮮人に対する再入国規制を何とか両立させたいと考えていたといえる・・・「有効な旅券を所持するもの」という規定をいれたことにより、民主党案よりも明確に狙いを定めたかたちで、外国人一般に対する再入国規制緩和と、朝鮮人に対する再入国規制を両立させた・・・

 日朝国交「正常化」と植民地支配責任:「入管法・入管特例法改悪案と「有効な旅券」」
 http://kscykscy.exblog.jp/10460530/

外国人の人権を保障しても国益にはならない

 最後に。はっきり言って、外国人の人権を保障しても国益にはならないと思います。なぜなら、日本人の既得権を撤廃することなしに、在日外国人への差別的な待遇をなくすことはできないからです。それなら、どうして外国人の人権を保障しなければならないのか?それに対しては、人権が国家に所属する権利ではなく、人間としての権利だから、と答えることができるし、また、そう答えることしかできないように思います。

 以下は、こうした問題を考えるためにも、とてもお勧めの文章です。ぜひご一読ください。

 日朝国交「正常化」と植民地支配責任:「植民地支配の清算こそ国益、という発想の危険性」
 http://kscykscy.exblog.jp/10303296/

*1:第3条:1.児童に関するすべての措置をとるに当たっては、公的若しくは私的な社会福祉施設、裁判所、行政当局又は立法機関のいずれかによって行われるものであっても、児童の最善の利益が主として考慮されるものとする。