江藤淳『閉された言語空間――占領軍の検閲と戦後日本』

 「検閲」をめぐる1982〜86年初出の論。保守主義者の江藤さんに対し、私は「右」か「左」のどっちかと言ったら極左なんで、同意できない点は多々あったのだけれど、まあおもしろく読めました。



 この著書における江藤の問題意識がどこにあるのか。私はそこのところが、十分にはつかめない。ただ、冒頭のつぎのような一節を読むと、なにか江藤にとって痛切な問題意識があっただろうことは感じとることができる。

……私たちは、自分が信じていると信じるものを、本当に信じているのだろうか? 信じているとすればどういう手続きでそれを信じ、信じていないとすればその代りにいったいなにを信じてこれまで生きて来たのだろうか。
 こう自問したとき、私は、『忘れたことと忘れさせられたこと』を書いたときよりずっと以前から、自分が何度も同じ問を繰り返して来ていることに気がついた。昭和44年の暮から昭和53年の晩秋まで、私は毎月「毎日新聞」に文芸時評を書いていた。それは三島由紀夫の自裁にはじまり、"繁栄"のなかに文学が陥没し、荒廃していった9年間だったが、来る月も来る月も、その月に発表された文芸作品を読みながら、私は、自分たちがそのなかで呼吸しているはずの言語空間が、奇妙に閉され、かつ奇妙に拘束されているというもどかしさを感じないわけにはいかなかった。
 いわば作家たちは、虚構のなかでもう一つの虚構を作ることに専念していた。そう感じるたびに、私は、自分たちを閉じ込め、拘束しているこの虚構の正体を知りたいと思った*1。


 引用したひとつめのパラグラフでくり返される問いは、奇妙といえば奇妙だ。
「自分が信じていると信じるもの」を「本当に信じている」ような人は、そもそもこんな問いを発するはずはない。なにごとかを「本当に信じている」人にとっては、その「信じている」ということは疑う余地のない事実であるはずで、よしんばそれをすこしでも「疑う」ことがあるとしたら、それは「不信」を意味するにほかならないからである。
 反対に、「自分が信じていると信じるもの」を疑っている者ならば、ふつうこんな問いを大まじめに投げかけたりはしないだろう。「信じること」に疑いをもってしまった人にとって、自分が「本当に信じている」かどうか、などということはもはや真剣に検討すべき問題ではありえないはずだからだ。
 だから、上のような問いを真剣に立ててしまう江藤淳という人の自己意識のありようは、じつにややこしい。彼が「自分が信じていると信じるもの」を疑っているのは、明白だ。しかし他方で、彼はそれを疑わざるをえないということ、それを信じられずにいるということを、なにか痛切に真剣に受け止めているようである。いわば、本気になれないことを本気で気にやんでいるのである。私はこれを笑ったらよいのだろうか。それとも泣いたらよいのだろうか。
 ともかく、高度成長をへたもろもろの文学作品が「虚構のなか」の「もう一つの虚構」にすぎぬと見る江藤は、彼が考えるところの「現実」、占領下での GHQ による検閲という歴史にその「正体」を見つけようとする。そこで彼がみいだしてしまった「現実」というのが、私にはそれ自体が虚構としか思えないものだが、その点については後述する。まずは江藤淳の検閲論の核心と思われるところをみていく。
 江藤は、日米開戦を機にに確立された合州国の検閲体制――江藤によるとこれがのちの日本敗戦後、占領政策において日本に移植されることになる――の特殊性を、明らかにしていく。ルーズヴェルトの大統領令によって敷かれることになる米国内メディア向けの検閲体制が従来までの検閲体制に対し大きく異なっていたのは、検閲部隊をプロパガンダの任務にあたる部署から切り離した点にある。江藤はそう述べている。

 ここで注目すべき事実は、こうして公然と設置された検閲局が、それにもかかわらずいっさいの情報宣伝活動を行おうとせず、実際にはいわば終始影の存在に徹して、プロパガンダの側面はすべて昭和17年(1942)6月13日、大統領令9182号によって新たに設置された戦時情報局(The Office of War Information)に委ねたという事実である。
 その点で、戦時情報局と検閲局が車の両輪となり、その間の職務分掌が確立していた米国の報道管理体制は、内閣情報局が検閲機能をも兼ねていた日本の戦時体制と好対照を成している。さらに興味深い事実は、プロパガンダは戦時情報局、検閲は検閲局という米国内の組織図が、そのまま GHQ 内の民間情報教育局(CI&E)と民間検閲支隊(CCD)との関係に、ほぼ正確に投影されているという事実である*2。


 こうした「職務分掌」によって、検閲局が「影の存在」に徹しうるようになったこと、その存在は公然のものでありながらも、その活動が秘匿され、タブー化されるという点に、江藤は注意をうながしている。
 さらに、こうして合州国において検閲という事実そのものがタブー化される背景に、江藤は、言論の自由をうたった合州国憲法の理念と戦時下における検閲の必要性という事実のあいだの葛藤・矛盾をみている。そこで彼は、字義どおりに受け取るかぎりでは無制限の「自由」を保障しているようにみえる合州国憲法と、「安寧秩序ヲ妨ケス及臣民タルノ義務ニ背カサル限リニ於テ」といった限定句つきの「自由」しか認めていない大日本帝国憲法を《対比》してみせたうえでつぎのように言う。

 しかし、もし万一「戦時」または「国家事変ノ場合」において、無制限に保障されているはずの「自由」に制限を加えなければならないような状況が生じたら、アメリカ人はどうすればよいか。換言すれば、合衆国憲法修正第一条が臨時に再修正されて、あたかもそこに「安寧秩序ヲ妨ケス」、「臣民タルノ義務ニ背カサル限リニ於テ」、「法律ノ範囲内ニ於テ」等々の文言が附加されたに等しい状況が、現実に生じたらどうか。
 その場合には、おそらく、現実には制限され、侵害されている「自由」が一転してタブー化され、あたかも何等の侵害も行われていないかのような擬制が形成されなければならぬはずである。つまり、この場合、検閲は全く行われていないかのごとく行われなければならず、その他一切の報道管制もまた、あたかも存在しないかのごとくに実施されなければならない。
 ここで注目すべきことは、「戦時」または「国家事変ノ場合」、合衆国憲法修正第一条の下では、まさにこの擬制の形式が不可欠であるが故に、検閲も報道管制も、それ自体が逆に言及し、公言することの憚られるタブーと化していく、というメカニズムができ上がってしまうことである*3。


 まことに的確に、検閲というものの本質が指摘されていると思う。いわばそれは、「自由」という理念のもとでこそ、はじめてその効力を発揮しうるのである。あからさまな検閲は、抵抗と軋轢を生む。だから、検閲が有効に機能するためには、検閲されているという事実が検閲される者の意識において抑圧されなければならない。
 したがって、こうも言えるだろう。すなわち、実際のところは公的な組織としての検閲機関が「存在しない」ことが、検閲が効果的にはたらくためには理想的なのだ、と。
 ともかく、検閲がみえないこと、あるいは、みえていてもそれがみえていないかのように私たちがふるまうことによって、検閲は機能する。とすると、検閲を問題化する、あるいは可視化するという作業は、とてつもなく困難なことに思えてくる。
 どこに検閲がおこなわれており、またそれが「検閲」だと呼べるのだとしたら、それはなぜ問題というべきなのか。そのことを明らかにするためには、江藤自身がしているように、「人為」と「自然」の二分法でものを考えなければならないだろう。彼はこの著書をつぎの言葉でしめくくっている。

 言語をして、国語をして、ただ自然の儘にあらしめよ。CCD の実施した民間検閲を、一次史料によって検討しはじめて以来6年有余、ここにいたって私はいささかの感慨なしとしない。今日の日本に、あるいは "平和" もあり "民主主義" も "国民主権" もあるといっていいのかも知れない。しかし、今日の日本に、"自由" は依然としてない。言語をして、国語をして、ただ自然の儘にあらしめ、息づかしめよ。このことが実現できない言語空間に、"自由" はあり得ないからである*4。


 まずは、「検閲」を可視化あるいは対象化するには、「自然」な言語というものを措定したうえで、この「自然」に対する「人為」の介入として「検閲」を問題化するという手順をふむ以外におそらく方法はないだろう、ということを確認しておく。
 しかし、この手順はとりあえずよいとして、問題は「自然」の内容としてなにを割りふるのか、と言う点にある。江藤のいう「自然」は「自然」だろうか。「言語」はともかくとして、いったいぜんたい「国語」が「自然」などということがあるのだろうか。ここに、私は江藤の恣意をみてしまう。言いかえるなら、彼は自身が「検閲」とみたい検閲を「検閲」と呼んで問題にする一方、自身が「検閲」とみなしたくない検閲は、彼の考える「自然」の領域に投げこむことで故意にみのがしているのではないか。そんな印象を私は受けてしまう。
 たとえば、以下に引用するくだり。彼はまず GHQ の占領下にて、検閲する側とされる側の「一種の共犯関係」を指摘する。つまりは、そこでの両者は検閲者とジャーナリストとして表向き対立関係にあるにもかかわらず、検閲という事実を秘匿しあうことで結託しているのだという。こうした暗黙の了解、表立っては語られることのない談合が、検閲が効果的に機能するための重要な条件であることは、そのとおりだと思うけれども、つぎのような《対比》は、はたして有効なのだろうか。

 重要なことは、検閲の存在をあくまでも秘匿するという CCD の検閲の構造そのもののなかに、被検閲者にタブーを伝染させる最も有効な装置が仕掛けられていた、ということである。この点で、CCD の実施した占領下の検閲は、従来日本で国家権力がおこなったどのような検閲と比較しても、全く異質なものだったといわなければならない。「出版法」「新聞紙法」「言論集会結社等臨時取締法」等による検閲は、いずれも法律によって明示された検閲であり、被検閲者も国民もともに検閲者が誰であるかを知っていた。そこで要求されたのは、タブーに触れることではなくて、むしろそれに触れないことであった。検閲者は、たとえば天皇の尊厳を冒涜しないというような価値観の共有を要求したからである。
 つまり、戦前戦中の日本の国家権力による検閲は、接触を禁止するための検閲であったということができる。天皇、国体、あるいは危険思想等々は、それとの接触が共同体に「危険」と「汚染」をもたらすタブーとして、厳重に隔離されなければならなかった。被検閲者と国民は、いわば国家権力によって目かくしをされたのである。
 これに対して、CCD の検閲は、接触を不可避にするための検閲であった。それは検閲の秘匿を媒介にして被検閲者を敢えてタブーに接触させ、共犯関係に誘い込むことを目的としていた。いったんタブーに触れた被検閲者たちが、「新たな汚染の中心」となり、「邪悪」な日本の「共同体」にとっての「新たな危険の源泉」となることこそ、検閲者の意図したところであった。要するに占領軍当局の究極の目的は、いわば日本人にわれとわが目を刳り貫かせ、肉眼のかわりにアメリカ製の義眼を嵌めこむことにあった*5。


 2点、問題にできると思う。
 第1点。ここでなぜ江藤は、占領下日本における検閲者・被検閲者間の「共犯関係」を問題にする一方で、戦前戦中の日本におけるタブーを「価値観の共有」などと称して、そこに「共犯関係」をみないのか。もし、天皇や国体についての「価値観」が国民たちにとって自明であり、まったく自然に「共有」されていたならば、そもそも「出版法」や「新聞紙法」といった国家による立法など不必要であったはず。実際には、それが「共有」などされておらず、侵犯者を罰する必要があったからこそ、それら法律が要請されたのではないのか。
 第2の問題点は、戦前戦中の「接触を禁止するための検閲」に対し、戦後占領下の「接触を不可避にするための検閲」という、江藤の示す二分法である。この2つの検閲のあり方は、別々のものとして《対立》させてとらえるべきものではなく、タブーにおいて《同時に》働く2つの側面というべきではないだろうか。
 タブーというのは、「接触を禁止する」ことであると同時に、「接触を不可避に」させる仕組みにおいて、はじめて機能する。まず、タブーが接触の禁止である以上、それは人々の目の届かないところに追いやられなければならない。つまり、タブーは大っぴらに語られてはならない。しかし、こうした暗黙の禁止としての「価値観の共有」が《自然に》形成されるわけはないし、またそのままで《自然に》維持されるわけもない。暗黙のタブーは、これに対する侵犯をつうじて再生産されなければならない。つまり、タブーは、侵犯者をとおして「なにが禁止事項なのか?」ということをときに共同体のメンバーに明示する機会をもたなければ、「共有」された「価値観」として維持されてゆかないのである。そういうわけで、タブーは接触の「禁止」でありながら、その接触を「不可避」なものとして要請する、という二律背反する方向付けを《同時に》ふくんでいると言える。
 江藤はこの2つの方向を、ばらばらに分解してしまったうえで、GHQ による検閲にのみ、「隠微」な「共犯関係」をみている。だが、米軍が進駐する以前の日本にも、同様の「隠微」なものとしての検閲は存在し、また政府と臣民たちの「共犯関係」によってタブーが形成されていたということは言えるのではないのか。
 たしかに、占領軍による検閲がとりわけて巧妙であり、それゆえに破壊的な効力をいまも有している、という江藤の指摘にはうなずけるところは大きい。しかし、その点を強調するあまり、日本という国家もまた「われわれ」にとって占領者であり、破壊者であるという事実をおおい隠してしまっているのではないか、と私は思う。

……内務省当局が行った明治44年当時の検閲と、CCD の行った国際的な検閲とは、決して同質のものではあり得ない。況んや、国内の大逆罪裁判にかかわる言論統制と、極東国際軍事裁判の是非に関する検閲、ないしは宣伝計画とを同列に置いて論じることもできない。なぜなら、前者が防衛的であり、既存秩序と体制の維持を意図していたのに対して、後者の意図は明らかに攻撃的かつ破壊的なものだったからである。
(中略)
 そればかりではない。いったんこの検閲と宣伝計画の構造が、日本の言論機関と教育体制に定着され、維持されるようになれば、CCD が消滅し、占領が終了したのちになっても、日本人のアイデンティティと歴史への信頼は、いつまでも内部崩壊をつづけ、また同時にいつ何時でも国際的検閲の脅威に曝され得る。それこそまさに昭和57年(1982)夏の、教科書問題のときに起った事態であることは、あらためでここで指摘するまでもない*6。


 国内的な検閲が「防衛的」であるのに対し、国際的な検閲は「攻撃的かつ破壊的」。ここでも、《対比》の二分法によって戦前戦中の検閲が免罪される、というロジックをみてとることができる。
 しかし、われわれはこう言うべきである。すなわち、「日本人のアイデンティティと歴史」なるものこそが、われわれに対する「攻撃」であり「破壊」なのである、と。
 さきに、江藤が「国語」を「自然」と位置づけていることをみた。だが、江藤が言うのに反し、「国語」こそ、まさに「言論機関と教育体制」をつうじて、私たちの母語(≠日本語)を「訛った恥ずかしい言葉」と認識させることで破壊し、祖父母と孫のあいだを引き裂いてきたのではないか。「国語」はアイヌやウチナンチューの語る言葉を「少数言語」へとおとしめ、「日本人のアイデンティティと歴史」はいまだ「日本人」ならざる者のアイデンティティと歴史を攻撃し破壊することをくわだててきたのではないのか。
 「防衛的」か「攻撃的」か。それが問題なのではない。「防衛」はつねに「攻撃」をふくんでいる。他国からの自国の「防衛」は、「国民」である以前の私たちにむけての「攻撃」であり「破壊」である。

*1:10頁。強調はわたくし。

*2:55-56頁。

*3:58-59頁。

*4:365-366頁。

*5:222-223頁。強調は筆者。

*6:344-345頁。強調はわたくし。