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松の間に着て行く<おべべ>を購へぬゆゑ詠進歌など詠まずも吾は

「『題詠2012』投稿歌を切り裂く(其の13)」 鳥羽省三

一首を切り裂く(001:今)
2012å¹´05月14æ—¥ 

(浅草大将)
〇  きのふ今日冬の眺めもあすか川待てば早瀬の春に会ふべし
 ã€€ã€Žå¤ä»Šå’Œæ­Œé›†ã€ã®ï¼œå·»ç¬¬åå…«ãƒ»é›‘歌下>に「世の中はなにか常なる飛鳥川昨日の淵ぞ今日は瀬になる」という<詠み人知らず>の歌が収録されているが、その意は「この世の輪廻転生は果てし無いものであり、今、私たちが目前にしている、この飛鳥川でさえも、昨日まで淵であったものが今日は瀬になったものかも知れない」というものであり、一首の中に「昨日・今日・明日」、即ち「過去・現在・未来」の三世を詠み込んだだけが取り柄の極めてつまらない歌である。
 世俗的教訓を含んだ和歌(=短歌)を「道歌」と云うが、この道歌が流行したのは<中世>であるが、中世以降近世まで、更には、明治以降現在に至るまで、世人に対して世俗的教訓を垂れようとする<似非歌人>たちに依って、同じような趣向の和歌が滔々と詠み続けられ歌い継がれて来たのである。
 私が、「『題詠blog2012』鑑賞」の劈頭に採り上げようとしている本作も亦、その流れを汲むものとして鑑賞するべきであり、現代短歌と云うよりは、「中近世好みの世俗的教訓を諭した道歌」と云うのが、この作品の本質でありましょう。
〔返〕 昨日今日、チャゲ&飛鳥は「ひとり咲き」ミリオンセラーを連発してる 鳥羽省三
 四半世紀以上も前に『ひとり咲き』でデビューした「チャゲ&飛鳥」を採り上げたならば、本作の作者・浅草大将さんと一緒に私も亦、「飛鳥原人みたい!」と、讃岐国は粟島住民の“喜多さん”を肇とした、本ブログの読者諸氏の失笑を買うこと必定でありましょう。
 〔返〕  森恵が「いきものがかり」を歌うとき東天紅さえ顔を赤らむ
 浅草を中心とした大道芸人として、現在、「東京大衆歌謡楽団」が世の人々から注目され、間もなくメジャーデビューするような勢いであるが、プロ歌手を目指す者の路上コンサートとして私にとって忘れられない存在は、森恵という歌唱力抜群の女性歌手である。
 彼女は、一応はメジャーデビューしたような形となっており、『世界』という御大層なミニアルバムなども発売されているのであるが、彼女の実力を以ってすれば、同じように路上コンサートをしてメジャーデビューを果たした「あさみちゆき」と同様に、もう少し世間の人々から注目されて然るべきである。

(アンタレス)
〇  今まさに見知らぬ小鳥万両の朱実食わえて飛び立つを撮る
 不自由なお身体にも関わらず、飽くなきご研鑽を重ねられた結果と思われ、昨年までの作品とは異なり、決して表現上に大きな破綻が見られる作品ではありません。
 とは言え、このままでは、恐らくは本作を通じて作者のアンタレスさんが表そうとしている内容、「作中の小鳥及び作者ご自身の一瞬間の素早い動き」、即ち、「万両の朱実を咥えて見知らぬ小鳥が素早く飛び立とうとした瞬間を狙って、作者自身もカメラのシャッターを素早く押した」といった感じが、私たち読者にあまりよく伝わらない嫌いがあります。
 着眼点には頗る新味が在りますから、それを生かす為に、この際は潔く、「今まさに見知らぬ小鳥」という詠い出しの五七句を捨て、作中の「小鳥」の素早い動作と、それに負けない作者ご自身の素早い動作だけを追いましょう。
 作中の一方の主人公たる「小鳥」も、ただ単に「見知らぬ小鳥」などとしないで、例えば、お腹を空かせばそこいら中の木の実や赤ちゃんが口に咥えているお菓子までも素早く掠め取ってしまう鳥、具体的には「鵯」となさったらいかがでありましょうか?
 〔返〕 万両の朱実咥へて飛び立てる鵯(ひよどり)に向けシャッターを切る   鳥羽省三

(原田 町)
〇  今年また詠い走らん早蕨の萌えいづる春に心はずませ
 「一難去ってまた一難」といった慣用句が在りますが、本作の作者・原田町さんの場合は、それとは真逆に「一興去ってまた一興」というところでありましょう。
 『万葉集』の「巻第八」に「志貴皇子の懽の御歌一首」という詞書と共に収録されている「石走る垂水の上のさわらびの萌え出づる春になりにけるかも」という和歌が収録されている。
 本作は、それを本歌にして「題詠blog2012」にチャレンジなさる、ご自身の気持ちを素直に述べようとした作品であると思われ、歌人・原田町さんのここ数年間の詠歌上のご精進の賜物とも言えよう佳作である。
 〔返〕  今年また共に走らん葉桜の下に手を取り老耄同士   鳥羽省三
 

(蓮野 唯)
〇  愛してと告げる勇気を今一度持てないままで寝たふりをする
 本作の鑑賞に先立って、過日、作者の蓮野唯様より、拙ブログのコメントスペースに宛てて、下記のような真にご丁重なるコメントを賜りましたので、先ずは、それをそのまま転載させていただき、本鑑賞文の枕詞とさせて頂きますので、発信者の蓮野様に於かれましては、曲げてお許し下さいますように、伏してお願い申し上げます。

  「こっそりと。。。。」 (蓮野唯)/2012-05-10 01:07:35/
 「うちのブログへのコメントありがとうございました。お返事してありますんで。  えっと、くれぐれもお手柔らかにお願いします。 é³¥ç¾½ã•ã‚“の切り込み方鋭角だから、私、今年は変な縛り入ってますんで、そこらへんも考慮していたければとwwww/ではではまた。」

 上掲のコメントに拠ると、本年の蓮野唯さんのご投稿作には、「今年は変な縛り入ってますんで」とのこと。
 その「変な縛り」とやらは、一体全体どんな「縛り」であり、作者の蓮野さんは、どのような意味で「変な」と言っているのでありましょうか?
 「変な」評者の私としては、真に興味深々たるものがあります。
 ところで、コメント中の「縛り」という、隠逸なる単語に関連して申し上げますと、私好みの画家の一人に、「伊藤晴雨」という変な画家が居る。
 彼・伊藤晴雨は、いわゆる「縛り絵」の大家として天下に遍く知られた存在であり、彼が描く画中に於いては、老若美醜に関わらず、凡そいかなる女性でも、真っ赤な絹糸の扱きで以って手足身体が雁字搦めにきつく縛られて登場するのである。
 前置きはこれくらいにして、そろそろ作品の鑑賞に掛らせていただきますが、その内容は蓮野唯さんのお申し出通りに、極めて鋭角的な切口の鑑賞文になるかも知れません。
 本作は、一首全体が「愛してと告げる勇気を今一度持てないままで寝たふりをする」と、閉経間近かの女性の独白のようなスタイルの語り口から成り立っている。 
 で、作中の語句「愛して」とは、ずばりそのまま<性行為への願望>そのものであり、本作の意は、「私は彼に向って、『私を赤い扱きで縛ってもいいから、ぐりぐりと遣ってね!私をきつく抱いてね!』と言いたいような気分になっているのであるが、今夜はそれを口にする勇気を持てないままに寝たふりをしている」ということでありましょう。
 だとすれば、実に大胆不敵、鳥羽省三好みのネタ短歌であり、数年ぶりにリメイク成った蓮野唯さんの今年の投稿作は、私に期待させる所が真に大であり、「変な縛り」の具体的な内容も、凡そ見当が付くような気もします。
 〔返〕「抱いてね!」と言えないままにふて寝する今夜のわたし依怙地な私 鳥羽省三

(紗都子)
〇  今更と思うこころのゆらめきをひきずっている夜なのだろう
 本作の作者・紗都子さんも亦、直前の作品の作者・蓮野唯さんと同様に何かに縛られ、「今更と思うこころのゆらめきをひきずっ」たままに、孤閨を託って一夜を過ごして居られる女性でありましょうか?
 とまで、冗談半分に述べてしまったのであるが、本作の作者・紗都子さんが「題詠2011」にご投稿なさった慎ましやかな歌風を鑑みるに、作中の「今更と思うこころのゆらめき」とは、「メナード化粧品のセールスレディーに十万円の美肌クリームを買うように薦められたけれど、今更十万円の美肌クリームを付けたところで無駄な抵抗のようにも思われるし、買おうかしら、買わないでおこうかしらと、心が揺れ動く」といった程度のことであろうとも思われる。
 〔返〕 今更と思う心が邪魔をして孤閨を託つ秋の夜長し   鳥羽省三
     今更と思う気持ちもあるけれど満更でもないとも思う私だ

(村田馨) 
〇  気動車が静かに宙を通り過ぐ今は新しき餘部橋梁   宙=そら
 本作の作者にとっての「縛り」は、百首全体を「日本の百の名橋」シリーズにしようという「縛り」であり、本作は「其の一」として、西日本旅客鉄道(JR西日本)の山陰本線鎧駅~餘部駅間に架かっている「餘部橋梁」に取材した作品である。
 作中の「餘部橋梁」のみならず、「橋」を渡る際には、突風とか地震とか不測の事態に見舞われることが多いので、そうした点については、何卒、十二分にご注意なさり、本年こそは百首完走なさって下さい。
 「日本の百の名橋」シリーズが途中で途絶えでもしたら、昨年同様、世間の笑い者になってしまうばかりではなく、人様に迷惑を掛けることにもなってしまいましょう。
 〔返〕  忽然と一陣の風が通り過ぎ粉雪舞い散る餘部橋梁   鳥羽省三

(矢野理々座)
〇  「今に見ていろよいつかは俺だって」誰に見ていて欲しいんだろう
 いかにも矢野理々座さんらしい着想卓抜な作品であり、奥村晃作氏謂うところの「気付き短歌・発見の歌・認識の歌」であるとも言えましょう。
 寄る年波の所為なのか、近頃の私は、殆ど口にしないようになってしまいましたが、俗世間には、「今に見ていろ俺だって」と歌ったり言ったりして、「ドスコイ、ドスコイ」とやらかしている若者が居たりするが、「一体全体、その若者は、誰に向って『今に見ていろ』と言っているのだろう?」と、ささやかな疑問を呈したのが本作の意である。
 〔返〕  一念は天知る地知る人も知る「今に見ていろ檜になるぞ!」  鳥羽省三 

(髭彦)
〇  われら今いづこに向ひ生きをらむ列島深く傷つき病みて
 父祖の地を被災地・福島とする作者にとっては、当然なことではありましょうが、あの知性派歌人・髭彦さんが未だに“原発憎悪”“東電呪詛の想い”から解放されていないのは、あまりにも傷ましいことであり、ネット歌壇にとっても極めて重大な痛手である。
 〔返〕  我ら今滅びの道に向ひ居む列島不覚傷つき病みて   鳥羽省三
 返歌中の四句目「列島不覚」の「不覚」は変換ミスではありません。

(柴田匡志)
〇  今という泡沫に生きるわたくしはコップにビールを注いでおりぬ
 「つまらない人生」の比喩としての「泡沫」と、「コップ」に注がれた「ビール」の「泡沫」とを組み合わせた作品。
 人生の中の「今」を「泡沫」として捉えながら生きて居る「わたくし」が、その「泡沫」の「今」を無為に過ごすために、「泡沫」を容れる容器でしかない「コップにビールを注いで」いる様が、何とも傷ましく皮肉なのである。
 〔返〕  一瓶の恵比寿ビールの泡のごと苦くてならぬ人生である   鳥羽省三
      一杯のキリンラガーの苦さこそ我が一日の救ひなりけり

(今泉洋子)
〇  東風吹きて梅の香匂ひ今様の韻(ひび)きかそけし春のあけぼの
 まるで三歳児の如く、目に入るものには何にでも手を伸ばし、欲しがってみせる作者ではある。
 「東風吹きて梅の香匂ひ」と、『小倉百人一首』中の菅家の歌「東風吹かばにほひおこせよ梅の花主なしとて春ぞ忘るな」から掠め取って来たような語句を並べた“五七句”を発語として、途中に「今様の韻(ひび)きかそけし」という、まるで旧制女学校の優等生が詠んだ下手な短歌から摘んで来たような語句を並べ、挙句の果てには「春のあけぼの」という、凡そ“逃げ”としか思えないような常套的な七音を置いて締め括った遣り方は、百円ショップで買って来た玩具ばかりが入ったダンボール箱をひっくり返したような猥雑さである。
 本作の作者・今泉洋子さんに対して私たち鑑賞者が常日頃期待しているのは、決して出来損ないの和菓子のような短歌ではありません。

 質問Ⅰ 作中の「今様の韻き」とは、あの“後白河法皇”撰するところの『梁塵秘抄』に盛られた、平安末期から鎌倉期に流行した、中世歌謡の「今様」を指して言うのでありましょうか?
 だとしたら、本作は、作者ご自身の衒学趣味を満足させ、俄仕込みの知性をひけらかしただけのアナクロい作品として評価される懼れ無しとはしません。
 質問Ⅱ 作中の「今様の韻き」とは、「東風吹きて梅の香」が匂う「春のあけぼの」に、たまたま作者の耳に入って来たナウい流行歌の類、つまり“現代音楽”を指して言うのでありましょうか?
 本作を現代短歌として評価するに当たっては、作中の「今様の韻き」を、前者よりも後者として解する方が望ましいのであるが、「題詠blog2012」に参加なさって居られる歌人たちの中に、ただ単に「今様の韻き」と言われて、それを“現代音楽”だと解することが可能な人物が、一体、どの程度存在するのでありましょうか?
 参加者の殆どは、そもそも「今様」という語自体に対する認識が浅く、ましてや、これを作者が洒落て“現代音楽”を指して言ったのだとは、気付かないに違いないと思われるのである。
 私が申すのも何ではありますが、無用な気取りは身構えは止めましょう。

 〇 影ふみのつよい人にはたくさんの影をあたえて踏ませればよい
 〇 空と陸のつっかい棒を蹴飛ばしてあらゆるひとのこころをゆるす
 〇 吊り革に救えなかった人の手が五本の指で巻き付いている
 〇 運河へとわたしのえびが脱皮する いろんなひとを傷つけました
 〇 ねむらないただ一本の樹となってあなたのワンピースに実を落とす
 〇 わたがしであったことなど知る由もなく海岸に流れ着く棒
 〇 ゆっくりと上がっていってかまいません くれない色をして待っています
 〇 ふわふわを、つかんだことのかなしみの あれはおそらくしあわせでした
 〇 水びたしの灰色猫が現れて流星の尾に噛みつくところ
 〇 ウエディングケーキのうえでつつがなく蝿が挙式をすませて帰る
 〇 この森で軍手を売って暮らしたい まちがえて図書館を建てたい
 〇 それは世界中のデッキチェアがたたまれてしまうほどのあかるさでした
 〇 影だって踏まれたからには痛かろう しかし黙っている影として
 〇 こん、という正しい音を響かせてあなたは笹の舟から降りる
 〇 手のひらにみずうみのある青年が今日も魚を売りにきている
 上掲の十五首は、いずれも今泉洋子さんのかつての若き歌友・笹井宏之さんの第一歌集『ひとさらい』から抜粋したものである。
 これらの作品の良さは、いずれも、振り仮名を施したり、語釈を施したりする必要が無い点に在ると思われるのであるが、今泉洋子さんに於かれましては、いかがでありましょうか?
 それにしても、今泉洋子さんは良き歌友をお持ちになって居られたものである。
 歌人・笹井宏之さんの夭折がしみじみと惜しまれるこの頃である。
 〔返〕 御仏は常にこの世に居まさねどお布施次第で出没自在 鳥羽省三    
 
(磯野カヅオ)
〇  引鳥の大きく空を漕ぐやうに飛び立ちて今シャッターを押す
 昨日取り上げたアンタレスさんの作品、即ち「今まさに見知らぬ小鳥万両の朱実食わえて飛び立つを撮る」と同じような趣向の作品であるが、「大きく空を漕ぐやうに飛び立ちて」という、撮影対象とする「引鳥」への、大胆でスピーディーな迫り方、掴まえ方、切り取り方が手慣れていて頗る宜しい。
 アンタレスさんも大いに見習うべきでありましょう。
 〔返〕 次々と空に飛び立つ引鳥の引きがありての就任ならむ 鳥羽省三

(鳥羽省三)
〇  金色にキタキツネの尾の黄昏て今日一日の道北の旅   ※金色(こんじき)
 「金色」を「こんじき」と読むようにとの配慮は無用とは思われましたが、敢えてそうさせていただきました。
 〔返〕 鈍色に焼けた尻尾を引きずって「OKストアー」へと庄野坂往く  鳥羽省三
 この記事の執筆を終えた後、私は、昨日に続いて今日も亦、往復徒歩一時間を費やして「OKストアー生田店」まで食料品の買い出しに出掛けます。
 その行き帰りには、今は亡き小説家の庄野潤三氏宅の前を通るのですが、庄野潤三氏宅は、多摩丘陵の一廓の小高い丘の頂点に在るので、如何に健康保持の為の散歩とは言え、庄野潤三氏宅に至る二つの急坂を上り下りするのはなかなか難儀なことである。
 しかしながら、庄野潤三氏の晩年の随想風の作品に拠ると、庄野潤三氏ご夫妻も亦、傘寿過ぎまであの急坂を往復して、毎日、一万歩以上の散歩を欠かさなかったということである。
 そこで、庄野潤三氏に私淑している私も亦、妻に叱咤激励されながら、痛む足を引きずりつつも、あの二つの急坂を越えて往復一時間の散歩をしようとするのである。
 私は、庄野潤三氏宅に至る二つの坂を、自分勝手に「庄野前坂」「庄野後坂」と名付けて、まるで歌枕巡りでもするような気分で、これからも往復したいものと思っております。
 ところで、私たち日本人の下半身から「尻尾」という手足以上に大切で便利な器官が失われてしまったのは、一体どんな理由で、一体何時頃からのことでありましょうか?
 半世紀前に亡くなった私の父の話に拠ると、「私たち日本人が失ってしまった尻尾という便利な道具を、南米アマゾン川奥地の原住民たちは未だに後生大事に抱えていて、釣りをする時や、大蛇と戦う時などに使っている」ということである。
 四半世紀前に行われたソフトボールの試合で滑り込みをした際に痛めたままの右足を引きずり乍ら庄野坂を往復する際などは、私は、私自身の下半身から失われて久しい「尻尾」という器官に対する愛着をしみじみと感じるのである。


一首を切り裂く(002:隣)
2012å¹´05月15æ—¥ 

(太田槙子)
〇  置き去りのバイクの隣最果ての入口としての電話ボックス 
 山寄りの草原に無ナンバーの「バイク」が置かれ、その隣りの崖の端に、利用者がいるとも思えないような感じの、或いは何かの怨念に遭って、NTTドコモが撤去し損ねたような感じの「電話ボックス」がぽつんと建っている風景を、私は東北地方や山陰地方や九州地方などの旅先で再三見掛けたことがある。
 携帯電話が遍く普及した現在では、その内部に蜘蛛の巣が架かっていたり、山カガシが蜷局を巻いていたりするような感じの「電話ボックス」の在る風景は、其処がこの地上の最果ての地であることを象徴するようなイメージを醸し出し、また、何者かの悪意と呪詛で以って、村の人々の心身が呪縛されているようなイメージを醸し出すものである。
 因みに申し上げますと、私の手元には現在数十枚の未使用のテレフォンカードが在るのだが、それを使おうとしても、我が家の周辺には公衆電話ボックスも赤電話を置いている煙草屋も無いので使うことが出来ないのである。
 この思ってもみなかったような不自由な事態、このテイタラクの始末を、NTTドコモの社長殿はどのように決着させ、私の損害をどのように補償して呉れると言うのでありましょうか?
 そうした意味では、本作の後半の「最果ての入口としての電話ボックス」という三句は、極めて優れた感覚的な表現と申せましょう。
 欲を言うならば、お題「隣」に送り仮名を施し、「置き去りのバイクの隣り最果ての入口としての電話ボックス」、或いは「置き去りのバイクの隣り最果てへのマジック扉としての電話ボックス」として欲しかったような気もします。
 「創意余りて言葉足らず」とは、本作のような作品を指して言うものでありましょうか?
 〔返〕  硝子戸は海猫の糞で汚れゐて蕪島行きのバスは未だ来ず   鳥羽省三

(星和佐方)
〇  病みあがりのふらつく足に温き風「春隣(はるとなり)」とぞ口にしてみる
 「『春隣』とぞ口にしてみる」という“七七句”が、何とも言いようもない微妙な趣きを醸し出している。
 「息々たる命への愛しさ」と言いましょうか?
 それとも、「逼塞した暮らしの侘しさ」と言いましょうか?
 寒さ盛りに病床に臥していたのであるが、どうやらこうやら快復の兆しが見えてきたので「ふらつく足」を進ませて庭に出で、やっと春の訪れらしき光景に出逢ったのでありましょうか?
 〔返〕  藁屋根に沁み入る風の冷たくて東成瀬の春まだ浅し  鳥羽省三
                                                               
(ラヴェンダの風)
〇  隣室の夫の起き出す気配して寒の極みの一日(ひとひ)始まる
 結婚生活十余年、未だお子様にも恵まれない「ラヴェンダの風」さんご夫妻の間には、今やまさしくも「倦怠期の砂嵐」が吹き荒れているのでありましょうか?
 〔返〕  ヴェランダでしはぶく祖父を一瞥し鬱の極みの一日を終ふ   鳥羽省三
 返歌中の「ヴェランダでしはぶく祖父」とは、半月後に七十二歳の誕生日を迎えなければならない私・鳥羽省三自身である。
 
(西中眞二郎)
〇  音もなく雨降りたるか街灯に隣の屋根の光りておりぬ
 春未だ浅い、東京の住宅街の夕景色でありましょうか?
 言い得て妙なる一首と拝察し、これ以上付け加える言葉はありません。
 〔返〕  音もなく忍び寄りたる宵闇に紛れて鼠小僧推参   鳥羽省三

(珠弾)
〇  11番燃える男の隣には物干し竿の10番がいる
 作中の「11番燃える男」とは、往年の阪神タイガースのエース・村山実投手を指して言い、「物干し竿の10番」とは、草創期の阪神タイガースの不動の四番打者・藤村富美男三塁手を指して言うのでありましょう。
 然しながら、藤村富美男と村山実とでは、同じ阪神タイガースの屋台骨を支えた名選手という共通点は在っても、選手として活躍した時代が異なっておりますから、本作は、作者・珠弾さんの知識の程を披歴しただけのものに終わってしまう嫌いがある。
 〔返〕  11番燃える男に対するは背番号3の長嶋茂雄   鳥羽省三

(蓮野 唯)
〇  主たる貴方の隣立つために騎士道という言い訳をする
 因みに申せば、初稿は「主たる貴方のそばにいるために騎士道という言い訳をする」となっている。
 解り易さから言ったら、「主たる貴方の隣立つために騎士道という言い訳をする」とした決定稿よりも、「主たる貴方のそばにいるために騎士道という言い訳をする」とした初稿の方が幾分かマシのようにも思われるのであるが、作者の蓮野唯さんに於かれましては、いかなる必要(或いは、縛り)があって再投稿なさったのでありましょうか?
 と、ここまで書いて、例によって昼寝をしていたところ、作者ご本人から当ブログ宛てに「お題入ってなかったの!」というタイトルのコメントが寄せられたのである。
 上記の未完成の鑑賞文の後半を、私は、当初「いかなる必要があって再投稿なさったのでありましょうか?」としようとしたのであるが、その途中、ふと思いついて、悪戯半分に(括弧書きの部分)を入れ、「いかなる必要(或いは、縛り)があって再投稿なさったのでありましょうか?」と書き改めた次第でありました。
 「題詠」とは“お題”に縛られての歌詠であり、「題詠blog2012」の参加者である以上、いかなる権威者と言えども、決して“お題”という「縛り」を忘れてはいけません。
 ところが、先般、私宛てに「私、今年は変な縛り入ってますんで、そこらへんも考慮していたければとwwww」という、変な文面を伴ったコメントをお寄せになった作者が、何と驚いたことに、肝心かなめの「縛り」を忘れてご投稿なさった訳である。
 これを“喜劇”と言わないで、私たち日本人はどんな滑稽な芝居を“喜劇”と言うのでありましょうか?
 閑話休題。
 上掲の再投稿作は「主たる貴方の隣立つために騎士道という言い訳をする」となっておりますが、これに拠って、お題「隣」を詠み込むことにはなりましたが、しかしながら、このままでは歌意が全く通りません。
 この際は恥を忍んで、“再々投稿”なさったらいかがでありましょうか?
 〔返〕 騎士道は「美女の隣りで立てること!」何を立てるか考えなさい?  鳥羽省三
 
(矢野理々座)
〇  長崎の隣接県は佐賀ひとつ 長野県には8つもあるのに
 「同じ『長』の字が付く県名なのに、全く不公平だわ!一体全体、薩長政府は、長崎県を何と心得ているのかしらん?」という思いが溢れ、さすがの矢野理々座さんも、ついうっかり、理性を失い、このような恨みがましい作品をお詠みになったのでありましょうか?
 〔返〕  長崎はオランダ国まで海続き隣接県などほっときなさい   鳥羽省三

(今泉洋子)
〇  木花開耶姫御用達なる花おしろい隣のポチの糞を覆へり
 本作の作者・今泉洋子さんは、矢野理々座さんが「長崎の隣接県は佐賀ひとつ」と恨めしそうに仰った、その佐賀県の県庁所在地・佐賀市にお住いの熟年女性である。
 この際、矢野理々座さんに申し上げておきますが、長崎県の隣接県が「佐賀ひとつ」であることは、必ずしも恥ずかしいことでも、貧乏たらしいことでもありませんよ。
 何故ならば、佐賀県は玄海原発こそ抱えて居りますが、蜜柑も苺もお米も美味しい実り豊かな農業県であり、日本海及び有明海に面した水産県でありますから、食糧の自給率が問題となり、飢餓時代の到来が懸念されている現在、隣接県としては何一つ問題がありませんし、むしろ誇りにするべきでありましょう。
 ところで、本作の表現に、「花おしろい」を称して「木花開耶姫」の「御用達なる」とありますが、それは如何なる根拠に基づいての表現でありましょうか?
 私は不勉強にも、「木花開耶姫」をお祀りした神社が佐賀市内に在り、その境内に「花おしろい」が咲いているので、本作の作者・今泉洋子さんは、「木花開耶姫御用達なる花おしろい隣のポチの糞を覆へり」と、お詠みになったのかとばかり思っていたのでありましたが、インターネットで「木花開耶姫」を検索してみたところ、あるホームページに「薩摩半島中央部に位置する鹿児島県の金峰町に木花咲耶姫の銅像が建てられている。金峰町は、神代の時代にまつわる地名が残る『神話のふるさと』として知られ、南薩の霊峰・金峰山を主峰とする山々が南北に連なっている。木花咲耶姫の銅像は、第5回『金峰山フェスタ』を記念して建てられたもので、平成10年10月24日に除幕式が行われた。像の高さは180cmで部分的に金箔がはられている。制作は日本芸術会員の中村晋也氏」と記載されていて、これ以外に、「木花開耶姫」と九州の関わりを示す記事は、何一つ見受けられませんでした。
 思うに、本作の作者は、「『木花開耶姫』と称するからには女性に違いない。女性であるからには、私同様にお化粧もするに違いない。お化粧といったら『おしろい』であり、『花おしろい』は『おしろい』という形容語句を伴っているから、『木花開耶姫』の『御用達なる花おしろい』としても宜しいだろう」といったような、極めて安易な考えに基づいて、本作をお詠みになったと思われるのである。
 だとしたら、本作も亦、勝手な推測に基づいてお詠みになった作品であり、作中に「木花開耶姫御用達なる」という気の利いた言葉を使ってみたかっただけの一念でお詠みになった作品である、とも申せましょう。
 貶してばかりいると、当ブログが、善意ある読者諸氏から見限られられる懼れがありますから、以下、一転して本作の優れた点について申し上げます。
 「おしろい」という形容語句付きの草花「花おしろい(=白粉花)」が、その可憐なる名前にも関わらず(或いは、可憐なる名前に相応しく)「隣のポチの糞を覆へり」という、目新しい光景の発見(乃至は、見立て)には卓越したものが感じられる。
 ならば、その発見の感動をそのまま一首の歌として詠み、「木花開耶姫御用達なる」といったような、余計な夾雑物を介在させないことである。
 それを承知していながら、敢えて余計なことをしてしまうところが、本作の作者・今泉洋子さんの、歌人としての個性とも申せましょうが?
 〔返〕  狭庭なる花白粉の一輪の隣家のポチの糞を覆へり   鳥羽省三
 松尾芭蕉謂うところの俳諧境とは、本作のような作風を指して言うのでありましょうか?
 自分で言うのも何ですが、このような穏かな作品を詠んだならば、何方からも一言も文句を付けられませんよ。
 貶してばかりいる、あの鳥羽省三だって、一言半句も口にすることが出来ませんよ。
 衒学趣味を満足させようとしたり、ご自身の知性をひけらかそうとしてはいけません。
 仮に、「花おしろい」と「木花開耶姫」との間に何らかの関わりがあったとしても、それは別次元の事象であり、それを理由にして「木花開耶姫」⇒「御用達なる花」⇒「花おしろい」⇒「隣のポチの糞を覆へり」というところまで持って行くのは、牽強付会というものでありましょう。
 因みに申し上げますが、「花おしろい=白粉花」は南アメリカ原産の植物であり、我が国には江戸時代始め頃に渡来して帰化したとされているのである。


一首を切り裂く(003:散)
2012å¹´05月17æ—¥ 

 お題「003:散」だけに限られた事ではありませんが、主催者・五十嵐きよみさんのご苦労も虚しく、好みの問題とは言え、今回は実にくだらない作品、東北の被災地の瓦礫と一緒に東京都杉並区の生活ゴミ処理工場に運んで来て、どれもこれも一緒くたにして焼却してしまいたくなるような作品ばかりでありました。
 したがって、今回は思い切って「鑑賞対象とするに値する作品無し」という措置にしようとも思ったのですが、辛うじて松木秀さんの御作だけを秀作として選ばせて頂き、拙い自作と共に「一首を切り裂く」の俎上に載せることになりました。
 「鬼才・松木秀さんの作品を採り上げると言って、この作品を採り上げる馬鹿も居ないだろう」とも思うのですが、これは私の好みの問題であり、他の方々の作品と比較しての問題でもありますから、その点については、松木秀さんには勘弁して頂かなければなりません。

(松木秀)
〇  なんてことないわたくしの悩みなど太田胃散をひと匙飲めば
 「太田胃散をひと匙飲めば」解消する「悩み」ならば、確かに「なんてことない」「悩み」でありましょう。
 だが、もっと根本的なことについて申すならば、そんなくだらない「悩み」を「悩み」として詠まなければならない本作こそ「なんてことない」作品であり、こんなくだらない作品をご投稿なさった作者の松木秀さんや、こんなくだらない作品を秀作として採り上げ論じている鳥羽省三こそ、「なんてことない」人生を歩む人間として蔑むべきでありましょうか?
 〔返〕  ひと匙の龍角散に咽び泣く人生ならず蔑むなかれ     鳥羽省三
      太田胃酸飲むと飲まぬに関わらずなんてことない僕らの悩み

(鳥羽省三)
〇  葉桜の村一軒の散髪屋 五人目の胎児を孕めると言ふ   ※胎児(こ)
 北東北の村々の春は、梅も桜も桃も李も林檎も梨もアカシヤも薔薇もカタクリもシラネアオイも一斉に花咲き、渓谷の雪解け水が谷川にどっと溢れて下って来るように、一挙に遣って来るのである。
 そして、それらの花が瞬く間に散り、鎮守の森が葉桜の緑に染まる頃、「村一軒」の「散髪屋」の店先には、出稼ぎ帰りのぐうたらな中年独身男たちが集まり、「何処其処の嫁の胎には五人目の児が入っているそうだ!亭主の信作もあれでなかなかの遣り手なのだ!」などと言った、くだらない噂話に花を咲かせ、田植え後の暇な一日を費やすのである。
 実を言うと、彼らが日がな一日くだらない噂話に花を咲かせ、憂き身を晒している「村一軒」の「散髪屋」の経営者・紀美子は、三年前に亭主を失くした寡婦であり、紀美子の胎の中には、父親知らずの胎児が入って居るという噂である。
 〔返〕 葉桜の村一軒の散髪屋 寡婦の紀美子の胎の中の児   鳥羽省三
 ところで、これはたった今知ったばかりのことですが、上記返歌中に登場する散髪屋の経営者の紀美子さんにそっくりの女性が、現在、私が加入している「gooブログ」のCM画面に登場します。
 恐らくは、サプリメントか何かの宣伝でありましょうが、「接近してもカワイイ。そのハリツヤ、私も欲しい」というコピーを伴ったSUNTORY社のCM画面に登場しているんですよ。
 興味を感じたらあなたもご覧なさい。
 〔返〕 サントリーのサプリの宣伝する時は赤抜けた顔だ寡婦の紀美子は
 <追伸>  本日のノルマを果たしたような気分になって居りましたところ、先刻、「通りすがりの者」と称する方から、下記のようなご丁重なるコメントを賜りましたので、篤く御礼申し上げると共に、少しく弁解させていただきとう存じ上げます。
 通りすがりの方から、本ブログに寄せられた御コメントの全文「鳥羽のアホ、覚悟しておけ! (通りすがりの者)/2012-05-17 06:04:40/お前に受賞作家の松木秀さんの作品を誹謗する資格があるとでも言うのか!松木秀さんの友達として俺は本当に怒り捲っているんだぞ!俺はお前の顔を知り、家も知っているんだぞ!覚悟しておけ!」

 通りすがりの者 様
 私・鳥羽省三は、あなたさまのお「友達」の松木秀さんの御作を誹謗しようとして、上掲の記事を書いたのではありません。
 いや、むしろ、私は日頃から、歌人としての松木秀さんを深くご敬愛申し上げ、短歌道の良き先輩として、折につけ、何かを学ばせて頂きたい一心で以って、松木秀さんの御作に接しているからこそ、今回も亦、彼の御作を唯一の鑑賞対象作として選ばせて頂き、上記のような鑑賞文を記させて頂いた次第でありました。
 鑑賞文中に、誤解を産むような文面が見られたことは、一重にお詫び申し上げますが、何卒、私の意とするところをご斟酌下さいますようにお願い申し上げます。
 なお、不肖、私には、格別な「覚悟」と言えるようなものはありませんが、それなりの想いを抱きながら、これからも「一首を切り裂く」の執筆を続けさせて頂きますから、あなた様も何卒、ご承知おき下さい。
 私は、何よりも、あなた様が私の拙い文章をお読み頂きましたことを大変嬉しく存じ上げて居ります。
 なお、今後、当ブログにコメントをお寄せになられる際には、必ずお名前とブログアドレスをご明記なさった上でお寄せ賜りたくお願い申し上げます。
 〔返〕 わたくしの醜い顔もあばら家もご存じでかつ通りすがりの方  鳥羽省三  


一首を切り裂く(004:果)
2012å¹´05月18æ—¥ 

(西中眞二郎)
〇  あらかたは我より若き人なりて歴代局長の宴(うたげ)は果てぬ
 短歌鑑賞の目的は、当該作品の作者の学歴や職歴といった身上調査をすることではないが、本作の作者・西中眞二郎氏は通産官僚OBということである。
 「通商産業省」即ち「(通称)通産省」は、平成13年1月6日の中央省庁再編に於いて「経済産業省」に改組され、経済立て直しが急務の「日本株式会社」の総司令塔として新たなスタートを切ることになったのであるが、その内部に「経済産業政策局・通商政策局・貿易経済協力局・産業技術環境局・製造産業局・商務情報政策局」という六個の部局を抱えている。
 作中に「歴代局長の宴」とあるが、それは、上記六個の部局の中のいずれかの部局の「歴代局長」が一堂に会し、国家の未来を憂慮したり、お互いの懇親の度合を深めたりすることを目的とした、私的な集まりであろうと思われ、本作の作者・西中眞二郎氏も亦、「歴代局長」の一人としてその華やかな宴席にご列席なさったのでありましょう。
 とき恰も、行政改革の嵐が吹き荒れている折りだけに、当日の宴席は必ずしも盛会であったとも思われず、また、当夜、ご列席の方々の間で交わされた話題が、それぞれの方々の華やかな手柄話を自慢し合うといったような性質のものではなかったとも思われるのであるが、その有様が、それとなく一首全体の穏かな表現から伺われるのである。
 察するに、本作の作者・西中眞二郎さんは、元官僚として、歌人として、極めて醒めた目で以って、当夜の「宴」に名を連ねたのでありましょう。
 「そうした彼の醒めた目、即ち、冷徹な考え方のあらましが、作中の『あらかたは我より若き人なりて』という上の句の表現、及び『歴代局長の宴は果てぬ』という下の句の表現に、それとなく伺われる」などと、私如き若輩が申し上げたとしても、歌人としての西中眞二郎さんは一笑に伏されるに違いありません。
 〔返〕 過ぎ去れば浪花のことも夢のまた夢に酔ひ痴れ演歌を歌ふ 鳥羽省三
 私たち読者は、詠い出しを「おほかたは」とせずに、敢えて「あらかたは」とした、作者のきめ細やかな配慮にも注意する必要がありましょう。
 「あらかた」と「おほかた」とは、副詞として、必ずしも“等号”で結ばれる関係にはありません。

(蓮野 唯)
〇  明日を見ぬ見ぬようにした胸の内果てるときには明かして良いか
 本作の作者・蓮野唯さんの「胸の中」は、「不倫で以って結ばれた彼との睦言の最中は、『明日を見ぬ見ぬよう』に努めよう。今の今の瞬間だけを大切にして、彼の厚くかつ熱い胸の下に敷かれて居よう」というような、切ない思いに囚われていたのでありましょう。
 だが、その反面「彼が発射し、事が『果てるときには』、この私の、熱く切ない思いを『明かして良いか』」とも、お思いになったのでありましょうか?
 だとしたら、彼女は、賢明にして大丈夫なる男性が不倫の相手とするに値しないバクレン女である。
 彼のバクレン女の濃艶な色香に幻惑されて、彼女と一夜を共にしたならば、そのうちに必ずや、『週刊体臭』誌に、「私の腹上を通り過ぎて行った“ホモ・タレント”矢追翼氏の性と真実?」などと掲載され、ばっさりと斬られるに決まってますから、私たち紳士はお互いによく注意しましょう。
〔返〕 明日は無し!あしたは無くて今だけが私のすべて!縋り付くだけ! 鳥羽省三

(五十嵐きよみ)
〇  果物は銀の器に載せるよりたわわに実ったさまを描きたい
 五十嵐きよみさんらしくも無く、何やら意味深な作品である。
 思うに、作中の「果物」とは美しい女性の隠喩であり、また、「銀の器に載せる」とは、「床上に置いて抱く」の意であり、更に申せば、「たわわに実ったさまを描きたい」とは、「熟れ切った姿態をただうっとりと眺めてゐたい」といった意でありましょう。
 〔返〕 白桃はボーンチャイナに盛るよりは入れ歯を外して啜るが宜しい 鳥羽省三
 つい、うっかり、返歌として消耗するには惜しいような傑作を詠んでしまいました。
 自分で言うのも何であるが、私・鳥羽省三は、ほんの戯れといった感じで返歌を詠んでいるのであるが、元来、類い稀なる歌才を有しているので、まかり間違えば、時折りこのような佳作を詠んでしまうのである。

(紗都子)
〇  果樹であることを証明できるまで偏西風にこの身をさらす
 「果樹」に限らず、私たち俗人の間には、「〇〇であることを証明できるまで×××にこの身をさらす」といった試みをする者が居たりするのである。
 だが、そうした場合は、「〇〇」や「×××」に相当するものの違いに因って、その結果がかなり違って来る事も在り得ましょう。
 例えば、これはごく最近、私の周辺に発生した出来事であるが、私の甥の一人に「俺が甲斐性のある亭主であることを証明できるまで部下の女子社員と浮名を流して世間の冷たい風に身を曝そう」として新聞沙汰になり、家庭を壊してしまった馬鹿な男がおりました。
 したがって、世の奥様方は、馬鹿亭主共の顔色をよくよく観察していなければなりません。
 ところで、話が突然変わりますが、蜜柑や林檎、そして梨やさくらんぼ、或いは枇杷や無花果など、私たちの大好きな果物の多くは、「西寄りの風」即ち「偏西風」に吹かれることに因って甘く色づいて完熟し、産地から市場に出荷され、私たち消費者の口に入るのでありましょう。
 したがって、本作は「果樹の成長物語」の「短歌編」として鑑賞するべきでありましょう。
 因みに、「成長物語」について説明すれば、下村湖人作の『次郎物語』や井上靖作の『あすなろ物語』がその一例である。
 〔返〕 間男であること証明できるまで世間の風にこの身を曝そう 鳥羽省三

(壬生キヨム)
〇  果物で出来た女が一人いるそれで充分ではないですか
 壬生キヨムさんの仰る通りでございます。
 私の目前に「果物で出来た女が一人いる」としたら、「それで充分」でございます。
 それ以上の何も望みません。
 〔返〕 老残にまばゆき夜の桃ひとつ酔ひて彷徨ふ我が西東忌
 多忙な折り、数年前にペンネームで発表し、某総合誌に掲載された旧作を以って、返歌に代えさせていただきます。
 作中の「西東忌」とは、私が私淑する俳人・西東三鬼の忌日・四月一日を指して言うのであり、本返歌は、西東三鬼の傑作「 中年や遠くみのれる夜の桃」を下敷きにして詠んだものである。
 何分、“若書き”ですので、今の私ならば、「老残にまばゆき夜の桃一顆酔ひて彷徨ふ我が西東忌」とでもするところでありましょう。 

(今泉洋子)
〇  誰も見ぬ御衣黄桜のまみどりが若葉に溶けていつしか果てぬ
 本作の作者・今泉洋子さんを果物に例えるならば、佐賀名産の苺、即ち「さがほのか」であり、それも、完熟した「さがほのか」でありましょうか?(失礼)
 冗談はこれくらいにして、本作の表現について申し上げましょう。
 作中の「御衣黄桜」とは、サクラの栽培品種の一種であり、花期はソメイヨシノより遅く、花弁全体が淡い緑色をしている為に、葉っぱが生い茂っているものと見間違える人が多いのである。
 作中に「誰も見ぬ御衣黄桜のまみどり」とあるのは、このサクラの花のそうした特質を良く捉え得た表現と言えましょうか?
 また、「御衣黄桜のまみどりが若葉に溶けていつしか果てぬ」と言うのも、若葉の中に咲き紛れて「誰も見ぬ」間に「いつしか」咲き終わってしまう、このサクラの特質をよく観察した上での表現と申せましょう。
 〔返〕 御衣黄と誰が名付けて呼んだのか我が目に入るは若葉ばかりぞ 鳥羽省三

(磯野カヅオ)
〇  春浅し灯油18リットルをたつた5日で使ひ果たせり
 要するに、「早春に対する感じ方にも、人によって、場合によって、いろいろな感じ方が在る」というだけのことである。
 かつての文部省唱歌・『早春賦』の作詞者・吉丸一昌氏は、あの通りのロマンチストでありますから、これを「春は名のみの/風の寒さや/谷の鶯/歌は思えど/時にあらずと/声も立てず/時にあらずと/声も立てず」と感じたのであるが、我が歌友の磯野カヅオさんは、「春浅し灯油18リットルをたつた5日で使ひ果たせり」と、もっと実存的に感得なさったのでありましょう。
 一言付け加えるならば、本作は、いかにも磯野カヅオ作らしい傑作である。
 〔返〕 春深し夜来の雨が上がったら生田薔薇園に出掛けましょうか 鳥羽省三


一首を切り裂く(005:点)
2012å¹´05月20æ—¥ 

(原田 町)
〇  五つ下のわれが九つ年上に点鬼簿のきみ想う如月
 「五つ下のわれが九つ年上に」なった、ということは、「5+9=14」ですから、作中の「きみ」は、今から14年前に亡くなった、ということになるのかな?
 何だか怪しい計算だなあ?
 でも、これで宜しいのかな?
 間違っていたら何方か教えて頂戴ね!
 お願いだからね!
 お年がお年ですから、本作の作者・原田町さんのこの頃の日課の一つに「点鬼簿」の点検が上げられるのである。
 〔返〕 如月は花咲かぬ月 梅もまだ桜もまだで君すでに無く   鳥羽省三

(寒竹茄子夫)
〇  寒燈の点る窓辺に霜響く夜となりぬればチェホフ読み継ぐ
 「寒燈の点る窓辺に」「霜」の降る音が「響く夜となりぬれば」、「読み継ぐ」べき作家は「村上春樹」や「綿矢りさ」では無くて、「チャホフ」という勘定になるのでありましょうか?
 でも、それもお年のせいかも知れませんよ?
 〔返〕 寒竹に茄子の花咲く如月にチェホフ作の『桜の園』読む   鳥羽省三  

(佐藤紀子)
〇  北極点の氷の上に立つ夢を夫はこのごろ口に出さない
 これも亦、いろいろな意味に於いての「お年のせい」かも知れません。
 御年相応に現実的な考え方をするようになったのかも知れませんし、御年相応に物忘れなどなさるようになったのかも知れませんから。
 それはそれとして、夫にしろ妻にしろ、たった一人の連れ合いが「夢」を語らなくなってしまうのは、いささか淋しいことである。
 本作の作者・佐藤紀子さんも、二年前にはお伽話の「浦島太郎」の連作を詠んでいたのであるが、今では、ご自身の身の周りの細々としたことを詠むようになってしまったのである。
〔返〕 古希過ぎし女性ながらもヒマラヤのエベレスト登頂果たしたニュース 鳥羽省三  

(矢野理々座)
〇  大阪府寝屋川市にある地名です。これで「点野」は、知らなきゃ読めん  「点野」=「しめの」
 作中の「点野」(=大阪府寝屋川市点野)は、記紀万葉時代に「皇室や貴人が占有し、一般の者の立ち入りを禁じた野」即ち「禁野」を指す言葉「標野(しめの)」が転じて「点野」となったのでありましょうか?
 なお、万葉集に「天皇の蒲生野に遊猟したまひし時に、額田王の作れる歌」として在る和歌「あかねさす紫野行き標野行き野守は見ずや君が袖振る」(巻二〇)の中の「標野」は、滋賀県蒲生郡の蒲生野を指しているものと思われ、本作中の「点野」を指すものではないと判断される。
〔返〕名にし負ふ矢野理々座氏の理性もて「点野」を「しめの」と読めぬとはなぞ 鳥羽省三

(鳥羽省三)
〇  燭点し夜陰の奥に分け入れば桜降り敷く吉野象谷     ※象谷(きさだに)
 作中の「吉野象谷」とは、現在の「奈良県吉野郡吉野町喜佐谷」の古名である、とされている。
 その昔、この地を訪れた歌人が「昔見し象の小川を今見ればいよよさやけくなりにけるかも」(巻三)と詠み、「わが命も常にあらぬか昔見し象の小河を行きて見むため」(巻三)とも詠んだと伝えられている。
 その歌人の名は大伴旅人であり、本作の作者・鳥羽省三は、三年前の五月にこの地を訪れたのであったが、季節は既に葉桜の時候となっていたのである。
 〔返〕  桜散り人影無くて月澄まず名のみなりけり吉野象谷  鳥羽省三

 
一首を切り裂く(006:時代)
2012å¹´05月21æ—¥ 

(五十嵐きよみ)
〇  あっさりと時代でくくって片づける話に耳を貸そうともせず
 「野坂は“焼け跡派”だから話にならないね!」、「五十嵐さんは“ポスト前衛世代”だから、私の気持ち解ってくださると思うけど!」といった類の話に「耳を貸そう」としなかったのでありましょうか?
 〔返〕  あっさりと廃刊するとは思わぬが『洞』の歌には先が見えない   鳥羽省三

(かげいぬ)
〇  新しい引っ付き方を考案し僕らの時代はまだまだ続く
 影犬的引っ付き方”を「考案し」、この困難な時代を乗り切ろうとしてるんでありましょうか?
 〔返〕 吠え掛けて引っ付いてかつ甘皮を舐める如くに迎合しよう   鳥羽省三

(矢野理々座)
〇  延長の阪神-巨人22時代打男が決着つける
 阪神の「代打男」と言えば、あの川藤幸三選手!
意外なことに、彼・川藤幸三選手は、1968年から1988年までの阪神在籍期間を通じて、僅かに211本の安打しか打っていないのであって、彼を「代打男」と呼んで騒いだのは、多分に阪神ファンのお祭り騒ぎ好きに原因があるようだ。
 その阪神には、もう一人の「代打男」が居て、彼・八木裕選手は、1987年から2004年までの阪神在籍期間を通じて817安打(うち126本はホームラン)しているから、ヒットやホームランの数からすると、こちらの方が「代打男」と言えるような実績を残しているのであるが、お祭り好きな阪神ファンは、未だに川藤幸三選手に「阪神の代打男」というご尊名を奉っているようだ。
 なお、野球気違いの阪神ファンにとって、「代打男」が二人居ては不都合なのか、阪神ファンの多くは八木裕選手のことを「代打の神様」とも呼んでいるそうだ。
 〔返〕「燃える男」「物干し竿」に「代打男」、阪神ファンは仇名が好きだ 鳥羽省三

(鳥羽省三)
〇  雄ごころを熱く燃やせし時代過ぎ石川五右衛門釜茹での刑   ※時代(ときよ)
 「雄ごころを熱く燃やせし」と言うならば、
 〔返〕  雄ごころを熱く燃やせし原節子 卒寿を過ぎて未だ存命   鳥羽省三


一首を切り裂く(007:驚)
2012å¹´05月23æ—¥ 

 「昨日今日採るべき歌のさらになし驚くべきか悲しむべきか」とは、「007:驚」の選歌を終えた後の気持ちを素直に述べた私の即興である。
 自作「老いぬれば驚くこともなかりけり男狂ひの妻女の死さへ」は、元より佳作として本欄で採り上げている訳ではありません。
 したがって、今回の鑑賞対象作品はわずか三首ということになり、しかも、その三首中の佐藤紀子さんの御作および西中眞二郎さんの御作は、お二人の力量から判断した場合、すんなりと流して“お題”を通り過ぎて行ったような感じの作品であり、必ずしも佳作として称揚するべき作品とは思われません。
 ということになると、本日、実質的な意味で佳作として採り上げ、鑑賞するべき作品は“さとうはなさん”の御作だけとなってしまうのである。
 重ねて言いましょう。
 「今日もまた採るべき作の少なくて手持ち無沙汰に驚いてをり」と。
 「瓦礫また瓦礫の山を前にして歩みもならず吐息つくのみ」と。
 数年前、「題詠マラソン」に参加中の歌人・某氏が、お題「袖」に寄せて「袖掏るも多少の縁も欲しからずこんだけへたのうたの羅列に」という作品を投稿し、「これが、他の参加者の作品を誹謗した作品であるとか、無いとか」といろいろ物議を醸し、結局は某氏ご自身が、題詠マラソンをリタイヤせざるを得ない場面に追い込まれたことがありました。
 私は、不勉強にして、その当時の状況については知りませんが、あれから回を重ねた今年「題詠2012」の現状は、見るも無残な姿をネット画面に曝しているのである。
 「一首の短歌を傑作と見るか駄作と見るかの判断は、鑑賞者の好みによる」とか、「百人の読者が居れば、百通りの評が成り立つ」とか、いろいろと逃げを打つことは可能でありましょう。
 だが、「題詠2012」のお題「007:驚」の現状はあの通りであり、あの中からは、何方が選んでも、傑作十首を選ぶことは困難なことでありましょう。 
 さて、今回の唯一の傑作・さとうはなさんの御作は、楽しみ乍らじっくりと鑑賞させて頂きましょう。

(さとうはな)
〇  八月の日照雨(そばえ)のごとく通り過く きみの不在に驚かぬ日々
 殊更に「そばえ」との振り仮名を施す必要はありませんが、お題「007:驚」中の唯一無二の傑作と称しても、何方からも文句が出ないと思われる作品である。 
 本作に接して、私たち鑑賞者は、先ず、三句目の五音が「通り過ぐ(トオリスグ)」では無く、「通り過く(トオリスク)」であることに留意しなければなりません。
 口語「過ぎる」に対応する文語は、辞書的、常識的には「過ぐ」であり、高校生などを利用者層に想定して編んだ古語辞典などにも「過く」という動詞は掲載されておりません。
 だが、それとは別に、「急ぐ」に対して「急く」という言い方が在ったと同様に、あるいは、「注ぐ」という言い方に対して「注く」という言い方が在ったと同様に、「過ぐ」に対して「過く」という言い方が在ったのである。
 動詞「過く」のヨミは言うまでも無く「すく」であり、このヨミに留意するならば、これと同じように「すく」というヨミをする動詞として「空く・透く・好く・梳く・漉く・抄く・鋤く」などの語を連想することは、いとも容易いことである。
 話がここまで進むと、私たち本作の読者は、本作の表現から醸し出されるイメージの豊富さと、本作に込めた作者・さとうはなさんの情念の深さや細やかさには驚嘆せざるを得ません。
 即ち、私たち本作の読者は、作者のさとうはなさんが、「きみの不在に驚かぬ日々」を「八月の日照雨のごとく通り過く」と回想して述べる時、そのイメージ豊かな音声と表現から、「八月の日照雨」即ち「狐の嫁入り」が音もなく静かに通り過ぎた後の時間と空間の空白感や、真夏の昼の透明な空気を連想し、更には、一人の男性が美しい女性に対して抱いている好感、その美しい女性が髪を梳く姿態、山間の紙漉き村の真夏の閑散とした情景、白い和紙に墨書された昔物語の大概、整然と耕され植えられた畑の畝をひとしきり濡らして通り過ぎた日照雨なども連想することが可能なのである。
 作中の「きみ」とは、作者・さとうはなさんの“想い人”でありましょうか?
 だとしたら、その“想い人”が亡くなってから、数百日の時間が経過し、彼の「不在」に格別驚くことが無くなってしまった「日々」が、今、目前の風景を僅かに濡らしてひとしきり「通り過く」狐の嫁入りのように、作者の記憶の中を通り過ぎて行くのでありましょう。
〔返〕  空白の私の日々を漉く如き紙漉き村の真昼の希薄   鳥羽省三

(佐藤紀子)
〇  驚きはこと過ぎし後襲ひ来ぬ 家をゆがめて地のゆれし午後
 作中の「驚き」とは申すまでも無く、彼の日の「午後」の「驚き」を指して言うのでありましょうが、「驚きはこと過ぎし後襲ひ来ぬ」という上の句の表現が、あの日の私たちの「驚き」方の在り様を、真に適切に表現し得ている作品である。
 しかしながら、本作は、かなりの詠み手と思われる作者・佐藤紀子さんとしては、表現に格別な趣向を凝らす事も無く、また、推敲に格別な苦労を感じる事も無く、「取り敢えずは“お題”をクリアーしておきましょう!」といったような感じで、極めてお気軽にお詠みになった一首でありましょう。
 「参加者の皆さんの投稿作品の大半が、このレベルの作品であったならば、投稿作品の鑑賞という作業がどんなに楽しい作業となることでありましょう!」などといった思いに囚われながら鑑賞させて頂きました。
 〔返〕  虚しさは選歌の後に襲ひ来ぬ心打つ歌の絶えて無ければ   鳥羽省三

(西中眞二郎)
〇  驚きの感覚次第に薄れるも喜寿近づきし齢(よわい)のゆえか
 本作の作者・西中眞二郎さんと評者・鳥羽省三は、ほぼ同年代でありましょうが、評者の私は、この度、次の示す拙作とほぼ同趣向の作品を鑑賞させていただき、少なからず感動の思いに囚われております。
 尤も、作者の西中眞二郎さんとしては、佐藤紀子さんの場合と同じように、表現に格別な趣向を凝らす事も無く、また、推敲に格別な苦労を感じる事も無く、「取り敢えずは“お題”をクリアーしておきましょう!」といったような感じで、極めてお気軽にお詠みになった一首でありましょうが?
 〔返〕  驚きの感覚次第に薄れるは老耄の故も有り得ましょうか?  鳥羽省三

(鳥羽省三)
〇  老いぬれば驚くこともなかりけり男狂ひの従姉の死さへ
 過日、掛り付けの歯医者の待合室で、たまたま目にした週刊誌の記事に取材した作品である。
 〔返〕  老い行きて女狂ひをすることも無くて虚しき一世なりける   鳥羽省三


一首を切り裂く(008:深)
2012å¹´06月13æ—¥ 

(紫苑)
〇  陽の射さぬ深みにありてスプリットタンの棲む木に薔薇ノ花咲ク
 作中の「スプリットタン」とは、いわゆる「身体改造」の意であり、「文化的背景や習慣、ファッションとして身体の形状を変更すること」を云うのでありましょう。
 だが、本作中の「スプリットタン」とは、「身体改造を為した人間(又は生物)」を指して云うのでありましょう。
 詠い出しの二句に「陽の射さぬ深みにありて」と置き、次いで、その「陽の射さぬ深み」に棲息するに相応しい生物としての「スプリットタン」の止まり木を置き、妖艶で薄気味の悪い彼女の孤独を癒すかの如く、彼女の「棲む木に薔薇ノ花咲ク」と置いて締め括ったお手並みは見事である。
 五句目の七音を「薔薇ノ花咲ク」としたのは、北原白秋の詩『薔薇二曲』の顰に倣ったのでありましょうか?

   薔薇二曲

一  薔薇ノ木ニ
   薔薇ノ花咲ク。
   ナニゴトノ不思議ナケレド。
二  薔薇ノ花。
   ナニゴトノ不思議ナケレド。
   照リ極マレバ木ヨリコボルル。
   光リコボルル。         (北原白秋『白金ノ独楽』より)

 〔返〕 紫苑がさね重ね重ねのマジックに鳥羽省三も敬服感服  鳥羽省三
               
(浅草大将) 
〇  伊勢島や浪に禊ぎてわだつみの深きに海女は真珠採るらむ
 「真珠」を「採る」のに「浪に禊ぎて」「深き」海に潜るのは、「伊勢」の海に漁る「海女」さんだけの風習でありましょうか?
 同じ真珠を採る場合でも、宇和島の海に潜る海女さんの間にはそうした習慣が無い、ということである。
 神様のお膝元の伊勢の海女さんたちは、土地柄か自分自身の穢れ深さを自覚しているので、伊勢の海女さんたちの間に、いつの間にかそうした習俗が定着したのでありましょうか?
 〔返〕 わだつみの深きを恥ぢぬ汝ならで詠み得ぬ和歌の浦波と知れ! 鳥羽省三
 本作の作者・浅草大将さんのブログ「和歌の浦浪」のタイトルをそのまま返歌中に借用させていただきました。

(天国ななお)
〇  きょうからは深緑色好きな人だけとセックスすることにした
 私たち鑑賞者としては、三句目から五句目への「深緑色/好きな人/だけとセックス/することにした」という語句中の“句割れ”及び“句跨り”に留意して鑑賞しなければなりません。
 それ故に、評者は、本作をなかなかに手の込んだ作品として鑑賞させていただきました。
 本作の作者・天国ななおさんのブログのタイトル「お月様は許さない」をお借りして返歌を詠ませていただきました。
 〔返〕 深碧の好きな者とのセックスをお月様なら許すはず無し   鳥羽省三

(今泉洋子)
〇  深刻に先のことなど思ふまじ椿の花は艶めきて散る
 老い先の短い私・鳥羽省三ならばともかくとして、資生堂のキャンペンガールのような今泉洋子さんの場合は、深刻に先のことなど思ふまじ」と仰るのは当然のことでありましょう。
 下の句に「椿の花は艶めきて散る」とあるが、これ亦、「椿の花」の「散る」姿を彷彿とさせる表現と言えましょう。
 本作の作者・今泉洋子さんの御ブログのタイトル「sironeko」の因んで返歌を詠ませていただきましたが、“鍋島の化け猫”は三毛猫か黒猫であったように記憶しているので、その点だけが気がかりになりました。
 〔返〕 深刻ぶる必要はけしてありません「白猫のタンゴ」のリズムで踊れ 鳥羽省三

(新井蜜)
〇  春秋の僕らの生の水面が深くはないが身に沁みるのだ
 本作の作者・新井蜜さんのブログのタイトル「暗黒星雲」に因んで返歌を詠ませていただきました。
 〔返〕  春秋の君らの性の水面には暗黒星雲映っているよ  鳥羽省三

(秋月あまね)
〇  群青は群れなす青というよりも深い青だと思われていたい
 本作の作者・秋月あまねさんの御ブログのタイトル「あさまだ記」を剽窃して返歌を詠ませていただきました。
 〔返〕  朝まだき勝手なこと云う群青に呆れてものが言えない我は   鳥羽省三

(蓮野 唯) 
〇  呪われた我が顔(かんばせ)に魅入られて赤毛の人の堕ちる深淵
 「呪われた我が顔に魅入られて」という三句に、本作の作者・蓮野唯さんの屈折した心理と、それと綯交ぜになってプライドの全てが表現されているのである。
 即ち「呪われた我が顔」とは、女盛りを過ぎて、後は黄泉の坂道を下って行くばかりであるとご自覚なさっている彼女の心理状態を余す所無く表現したものであり、それに続く「魅入られて」という三句目の五音は、それでも尚且つ自恃する所の有る、彼女の複雑な心理をも表現したものである。
 ところで、末尾の二句に「赤毛の人の堕ちる深淵」とありますが、彼女の「深淵」に「堕ちる」者は「赤毛」で無ければならないのでありましょうか?
 私・鳥羽省三は、つい先年までは「黒毛」即ち「黒髪」でありましたが、古稀を過ごしてしまった現在では「白髪」になってしまいました。
 と云うことは、私は既に彼女の「深淵」に「堕ちる」資格さえも失ってしまったのでありましょうか?
 だとしたら、これからの私は、独立独歩、真に寂しい人生を歩まなければならないのである。
 老いて尚、「金髪女」に執着する破産歌手・千昌夫と、中年を過ぎて尚、「赤毛男」に執着する本作の作者とは、一対の雛人形みたいな関係にある。
 〔返〕 呪はれし汝がかんばせに魅入られて赤毛逝きたり万象の奇夜  鳥羽省三
    
(映子)
〇  西小山目黒新宿深大寺   お蕎麦も食べた バラ園も見た
 下の句に「お蕎麦も食べた/バラ園も見た」とありますが、「お蕎麦も食べた」のお蕎麦屋さんはともかくとして、「バラ園も見た」の「バラ園」の所在を明らかにしようと思って、「西小山目黒新宿深大寺」と上の句に在る通り、その所在を検索してみました。
 先ず最初は「西小山」であるが、これは品川区東五反田五丁目に在る「ねむの木の庭」、即ち“皇后陛下のご実家・旧正田邸跡地”に造られた区立公園の「バラ園」を指して言うのでありましょう。
 次の「目黒」は、目黒区駒場一丁目の「駒場ばら園」であり、それに続く「新宿」は、今更言うまでも無く新宿御苑の薔薇園であり、お終いの「深大寺」は、神代植物公園のバラ園を指して言うのでありましょう。
 作中の「お蕎麦も食べた」のお蕎麦屋さんの方は、何卒、私以上にお暇な方がいらっしゃいましたならば、どうぞご自由にご検索なさるなり、現地にお出掛けになられ、“薔薇園蕎麦食べ歩き”をなさって下さいませ。
 末筆ながら、本作の作者の映子さんに申し上げますが、先般は真にご丁重なるコメントをお寄せになられ、本当に有難うございます。
 申し上げるまでも無く、この広い世間には、ホスピスに居ながら紫煙を燻らせる必要のある方もいらっしゃいましょうが、春秋の「バラ園」見物を初めとして、春になれば、梅や桜や藤や菖蒲の名所地にお出掛けになられ、秋になれば、紅葉狩りやお月見を欠かすことの出来ない方もいらっしゃいましょう。
 で、映子さんご自身に於かれましては、いかがでありましょうか?
 〔返〕  先週は生田緑地の薔薇園でアイスを食べて薔薇を見ました  鳥羽省三
      昨春は神代植物公園に出掛けて薔薇をしみじみ見ました

(南野耕平)
〇  深くまで掘れば何かが出てくると言われましたがここでしたっけ?
 末尾の七音「ここでしたっけ?」がズッコケた趣きを醸し出している作品である。
 本作の作者・南野耕平さんの御ブログのタイトル「ボクといっしょに走りま専科」を、頭の中に入れて返歌を詠ませていただきました。
〔返〕お暇ならボクといっしょに穴掘りを楽しみま専科〈ここ掘れにゃんにゃん〉 鳥羽省三
 五句目が字余りになってしまいましたが、作者の私としては、「ここ掘れにゃんにゃん」の「にゃんにゃん」で以て「穴掘り」の実態をそれと無く示したような気になっております。

(ありくし)
〇  産まれなかった卵らの降り積もる深海底に月は輝く
 「深海底」に「月」の「輝く」光景を実見することが出来たならば、本作中で「深海底」を修飾している、「産まれなかった卵らの降り積もる」という語句の適切さをまざまざと実感することでありましょう。
 〔返〕 ミズクラゲ群れ成し泳ぐ海底に我が水子らの恨み顔なる 鳥羽省三 ※海底(うなそこ) 
                  
(葵の助)
〇  暗闇の奥深くまで沈められアンクレットがきつく煌く
 たまたま検索してみたところ、あるサイトに「足首に飾る装身具のことをアンクレット(anklet)といいますが、足首までの長さの靴下のこともアンクレットと呼ばれていますので、足首の周りに付けるアクセサリーや、関係しているものは、アンクレットと覚えておくと良いと思います。装身具としてのアンクレットの特徴は、足首より少し輪っかが広い(円周が長い)ヒモやチェーンなどを足首に付けるので、くるぶしに乗っかり、少し上下に揺れます。しかし、キツくなってしまうと、歩きづらかったり、切れてしまったりするので注意が必要です」とありましたので、それをそのまま此処に転載させていただきました。
 本作の作者・葵の助さんは、「アンクレット」を足首に装着した女性を、どっかから誘拐して来て、深海底の「暗闇の奥深くまで沈め」たのでありましょうか?
 だとしたら、我は世に希なるサディストであり、殺人鬼でもある。
 それとは別に、「暗闇の奥深くまで沈められ」ながらも「きつく煌く」ところに、「アンクレット」で装飾された女性の哀れな自負心と自己主張を感じることが可能でありましょう。
 〔返〕  海原の底深くまで沈められアンクレットの螺旋浮遊す   鳥羽省三
 尚、本作の作者・葵の助さんのブログのタイトルは「螺旋浮遊」である。

(ミカノ)
〇  眠る子の深く沈んでいくようで 何度も寝息確かめている
 本作の作者・ミカノさんの御ブログのタイトル「日々、つづれ織り」に因んで返歌を詠ませていただきました。
 〔返〕  眠る子の深く沈んで行くような在り様見つつ日々つづれ織り   鳥羽省三
 粉雪舞い散る真冬に、我が子を嬰詰と呼ぶ藁で造った丸い嬰児用のベット状の入れ物に入れて、自分自身はその傍に置いた“いざり機”で以て「つづり織り」をしている母親像をスケッチしてみたかったのである。

(太田槙子)
〇  暗闇を溶かして空を朝にする白の深さに支配されてる
 「暗闇を溶かして空を朝にする」のは、神様だけが為し得る、偉大なる業でありましょうか?
 だとしても、「朝」になった筈の「空」は尚且つ「白の深さに支配されてる」。
 ということは、あの偉大なる神様でさえも大自然の前では為す術が無い、ということになりましょうか?
  〔返〕 だとしても明日は必ずやって来る希望を捨てずに頑張りましょう。  鳥羽省三
 本作の作者・太田槙子さんのブログのタイトルは「それでも明日はやって来る」である。

(東 徹也)
〇  真夜中に深煎り珈琲飲んでから夢の世界で冴えたまま逝く
 格別な珈琲好きでも珈琲通でもない私には、深入り珈琲とそうでない珈琲との違いが未だに判りません。
 「深入り珈琲」を「飲んだ」場合は、興奮の度合いが高くなり、そのまま死に至ることもあるのでしょうか?
 本作の作者・東徹也さんの御ブログのタイトルは「詩歌句な日々」である。
 事の序でに申し上げますと、詩歌評論を中心とした私の個人誌のタイトルは『詩歌句誌面』である。
 〔返〕 真夜中に深煎り煎茶を飲んだなら四角な日々が丸くなるらむ  鳥羽省三

(アンタレス)
〇  黒髪の白に染まりて久しくば深まる老ひを認むも寂し
 この機会に、接続助詞「ば」の用法について再学習しておきましょう。
 接続助詞の「ば」は活用語の未然形に接続して“順接の仮定条件”を表し、活用語の已然形に接続して「順接の確定条件」を表すのであるが、順接の確定条件を表す已然形に接続する場合は、更に「①原因や理由を表す(~ので・~から)場合」と「②偶然条件(~と・~ところ)を表す場合」と「③恒常条件(~といつも・~と必ず)を表す場合」との三つのケースが在る。
 本作の場合は、三句目「久しくば」の「久しく」が、シク活用の形容詞「久し」の未然形であるから、三句目の「久しくば」の意味が「久しいならば(白く染まってからの時間が長く経過したならば)」ということになる。
 つまり、本作の作者は、接続助詞の「ば」を仮定条件を表す語として用いていることになるのである。
 そうした事を前提として本作の意を述べると、「もしも、私の黒い髪が白く染まって久しい時間が経過したとしたならば、私が私自身の深まる老いを認めなければならないことになってしまい、それも寂しいことである」といった事になるのであり、五句目「認む」の使い方もかなり変則的(“認めること”という意味ならば、連体形“認むる”を使わなければなりません)である。
 案じるに、本作の作者の意図するところは、「私の黒い髪が白く染まって久しい時間が経過したので、私は私自身の深まる老いを認めざるを得ないことになってしまった。この事はとても寂しいことである」といったところでありましょうか?
 ならば、本作は「黒髪の白に染まりて久しければ深まる老ひを認むるも寂し」と改作しなければならないことになるのである。
 にわか知識で以て文語短歌を詠んではいけません。
 〔返〕 指呼するはアンタレスのみ!綺羅星を余計な星を観てはいけない  鳥羽省三

「『題詠2012』投稿歌を切り裂く(其の12)」 鳥羽省三

一首を切り裂く(009:程)
2012å¹´06月19æ—¥ 

(五十嵐きよみ)
〇  楡の木に歌を教えている風の今日は安定しない音程
 私の妻の妹のお姑さんに当たる早稲田瑞穂さんが介護施設に入居してから二箇月余り経つ。
 彼女が入居している介護施設は、自宅から徒歩で二十分足らずの距離に在るので、彼女と同居していた息子の妻である義妹は一日置きに、義妹の夫であり、瑞穂さんの一人息子である孝一郎さんも亦、土・日ごとに見舞いに出掛けていた、との事である。
 ところが、今週の日曜日の午後に見舞った折り、お姑さんの口から「寂しくて寂しくてたまらないの!話掛けてくれる人も居ないし、職員の人たちも何もしてくれないから!」という呟きの声が漏れて来た、という事であり、それ以来、義妹の胸中は乱れに乱れ、ただでさえ繊細極まり無い義妹の神経は、目下、疲労の極に達している、との事。
 私は早稲田家のそうした家庭事情を妻の翔子の話に依ってこの度初めて知った。
 昨日の午前中、妹の運転する車で青葉台に買い物に行く途中、その話を妹の口から直接聞いたということで、翔子は、「孝一郎さんのお母さんの認知症があまりにも進み過ぎているという事で、その世話をしていた妹が云い渋っていたのにも関わらず、ケア・マネージャーの助言もあったが、孝一郎さんの判断一つで、今の施設に入居させたのである。それなのに、今になって、そんなことを言われたって妹も困ることだろう。『寂しい!』なんて言われたってね!」などと、私に向ってたらたらと零すのである。
 翔子の言い分は、かなり身贔屓気味ではあり、いくら認知症の患者とは言え、実の息子さん一家との同居生活から離れ、たった一人で介護施設生活を強いられている瑞穂さんの気持ちは、私にも痛いように解るし、かと言って、お姑さんから「寂しい!」と言われたのを苦にし、悩んでいる義妹の気持ちも、解らない事ではありません。
 義妹のお姑さんは、自分の一人息子夫婦に向かって、現在のご自身の生活の寂しさを訴えて、一人息子の妻の心を困惑させ、その心身を極度の疲労状態に追い込んでいるわけである。
 「寂しい」と言えば、義妹のお姑さんに限らず、人間誰しもなにがしかの「寂しさ」を抱えながら、現代社会の一員として生きているのである。
 かく言う私も亦、外形はともかくとして、その内面は、現代社会に生きている人間の一員であることには違いが無いから、「一抹の寂しさ」否「全幅の寂しさ」を抱えながら七十路の急坂を越えて行かなければならないのである。
 七十二年間の人間生活の間には、さまざまな辛さや寂しさを経験し、時には「死んだ方がまし!」といったような心境に陥ることもあったのである。
 ところで、私は今、読者の皆さんに向って何を語ろうとしているのでありましょうか?
 「題詠短歌」の主催者・五十嵐きよみさんの御作について語ろうとして、ついうっかり、私は、私の連れ合いの妹一家のプライベートな事情についてまで語ってしまい、挙句の果てには、自分の人生の寂しさや辛さについてまで語ってしまったのである。
 これは、老耄ゆえの私の失敗である。
 私は、「楡の木に歌を教えている風の今日は安定しない音程」という、五十嵐きよみさんの傑作に接する機会を得て、そうした機会を得た自分の人生の至福感について語ろうとして、自分自身の不徳の致すところから、つい、うっかりと、かかる不始末を仕出かしてしまったのである。
 私がこんなことを書いている今夜は、六月としては珍しく、台風が本土に上陸した、ということで、私の家の前の石段沿いに植えられている花水木の枝を激しく揺らし、轟々と音を立てて強風が吹き荒れているのである。
 五十嵐きよみ作に、「楡の木に歌を教えている風」とあるが、この作品で以て、作者は、私たち読者の前に、「風」という自然現象についての新鮮にして優しくかつ新たなる定義を提示したのである。
 然り、「風は、時により、楡の木に歌を教える為に吹く」のであり、また、「時には、我が家の裏庭の芭蕉の葉を吹き乱す為にも吹く」のでありましょうが、「楡の木に歌を教え」る為に吹く風も、度が過ぎる程にも激しく吹けば、音程を外してしまい、楽の音を成さなくなってしまうのでありましょう。
 〔返〕 花水木の枝を揺らして吹く風の激し過ぎれば樂の音なさず  鳥羽省三
     花水木に歌を教えて吹く風の今宵はげしく樂の音なさず  

(吉里)
〇  「死ぬ程」と書いたら後には「愛してる」と続けたいが相手がいない
 本作の作者・吉里さんも亦、私・鳥羽省三と同様に本作を通じて、つい、うっかりと、ご自身の人生の寂しさを口にしてしまったのでありましょうか?
〔返〕「死ぬ程に愛しているよ!」と打ったけどメールを受け取る相手が居ない  鳥羽省三

(庭鳥)
〇  うろうろとモニタを睨み来週の日程表を待つ運転手
 本作に詠まれた光景を、「新潟県内のさるバス会社の、さる営業所の、運転手控え室内の、さる土曜日の夕刻の光景である」と仮定して、本作の鑑賞を進めさせていただきます。
 高速観光バスなどの運転事故が再三発生して社会問題となっているが、旅行業界やバス業界が不況を極めている昨今に於いては、首都圏と首都圏外のバス会社間のバス所有台数や需給関係が極端なアンバランス現象を見せ、東京都内の旅行業者の斡旋に拠って、鎌倉に遠足に行く都内の小学生たちを運ぶ為のバスが、東京から数百kmも離れた新潟県内のバス会社のバスであるような場合もそれほど珍しいことではありません。
 そうした場合、当該バスの乗務員たる運転手さんやバスガイドさんたちは、前夜の夜明け前に新潟県内の営業所を出発し、途中の何処かで、僅か一時間足らずの仮眠をした後、翌朝の八時前後から、東京の小学生たちを鎌倉まで運ぶ為のバスの乗務員としての責任を果たさなければならないのである。
 観光バスの運転事故が発生した後の運転手さんの言葉として、「あまりに眠かったので、つい、うっかり居眠り運転をしてしまったのかも知れません!」とは、よく聴く言葉である。
 そうした事情を考えると、今週の厳しい乗務が終わった後の土曜日の夕方の営業所のパソコン画面に、翌週の自分の乗務日程が立ち上がるのを待っている、運転手さんやガイドさんたちの陰鬱なる心境は、自ずから窺われるのである。 
 〔返〕 「皆様方、庭鳥小屋へようこそ!」と妻子連れての観光旅行  鳥羽省三
 本作の作者・庭鳥さんのブログのタイトルは「庭鳥小屋へようこそ」である。

(熊野ぱく) 
〇  究極や至高だなんていう言葉いらないやっぱ程々がいい
 本作の創作動機を成しているのは、雁屋哲原作、花咲アキラ作画の人気漫画『美味しんぼ』の存在でありましょう。
 人気漫画『美味しんぼ』の主人公である東西新聞文化部の記者・山岡士郎は、相棒の栗田ゆう子と一緒に、同社創立100周年記念事業として「究極のメニュー」作りに取り組むことになった。ところが、東西新聞のライバル紙の帝都新聞が、山岡士郎の父であり、美食倶楽部を主宰する料理界の権威者・海原雄山の監修に拠って、「至高のメニュー」という企画を立ち上げることになり、ここに、この人気漫画の最大のテーマである、「『究極』対『至高』の親子料理対決」が幾度も繰り返されることになったのである。
 本作の作者・熊野ぱくさんは、その名に相応しく、真に素朴かつ庶民的な考えの持ち主であり、漫画『美味しんぼ』以来、私たち日本国民の間ですっかりお馴染みとなった、「究極」や「至高」「だなんていう言葉」は「いらない」し、物事は何につけても「やっぱ程々がいい」とまで仰って居られるのである。
 〔返〕 程々の出来でありたき“ぱくたんか”究極や至高は勿論論外!  鳥羽省三
 本作の作者・熊野ぱくさんのブログのタイトルは「ぱくたんか」である。


一首を切り裂く(010:カード)
2012å¹´06月27æ—¥ 

(平和也)
〇  手のうちのカードの心もとなさに十首めにして向き合うことに
 末尾に「なってしまった」という語句を補って鑑賞しましょう。
 〔返〕 役牌はツモ切り、暗刻は崩せ、イチかバチかで平和狙え  鳥羽省三
           
(ひじり純子)
〇  添えられたカードの文字に癖がある カタログ通りの薔薇の花束
 「カタログ通りの薔薇の花束」に添えられた「純子さん♡♡♡33歳のお誕生日おめでとうございます♥♥♥♥♥」と書かれた「カードの文字」が、元カレ独特の癖字だったのでありましょう。
 多分、郵便局の「お誕生日花束プレゼント」の「カタログ」を、純子さんご自身も持っておられるのでありましょう。
 〔返〕 添えられたカードの文字は殴り書きDV亭主と別れたばかり  鳥羽省三

(アンタレス)
〇  旅先ではた珍しと買いためたテレホンカード始末に困る
 作中に見られる「はた珍し」という言い方は、ご年輩の方々がよく口にする言い方ではあるが、案外、口にしているご本人が、その意味をよく知らないままで口にしている場合が多いので、この際、副詞「はた(将)」の意味や用法などを解説させていただきながら、本作を鑑賞させていただきます。
 私の手元に在る辞書『大辞林』には、副詞の「はた(将)」について、次のような解説が為されている。

 「ある物事、特に並立または対立する物事をとりあげて、推理、判断する気持ちを表す。①また。あるいはまた。もしくは。〈雲かはた山か〉〈渠はうれしともはた悲しとも思はぬ様なりし(源おぢ・独歩)〉②もしや。ひょっとしたら。〈さ雄鹿の鳴くなる山を越え行かむ日だにや君がはた逢はざらむ(万葉)〉③そうはいうももの。しかし。さりとて。〈しばし休らふべきに、はた侍らねば(源氏物語・帚木)〉④思っていたとおり。はたして。〈男の御かたち・有様、はたさらにも言はず(源氏・明石)〉⑤やはりそうだなあという気持ちを表す。〈ほとどぎすはつこゑ聞けばあぢきなくぬし定まらぬ恋せらる(古今・夏)〉」  以上

 本作に用いられている「はた」は、上記の解説中の「②」のケースに該当するものと思われ、「旅先」の土産物店などで、それまで目にしたことのない「テレホンカード」に出会った時の、作者・アンタレスさんの「ひょっとしたら、これは世にも珍しいテレカではないかしら?五百円もするのでお金が惜しいとは思うが、将来への投資の為に、この際、清水の舞台から飛び降りるような気持ちになって買っておきましょう」という、切ない気持ちを表したものと思われる。
 〔返〕 それがまあ使う機会も無くなって値上がりもせずタンスの肥やし 鳥羽省三
 かく申す、私・鳥羽省三にも、テレカ蒐集に目の色を変えていた時代がありまして、今となっては、その頃の事が夢・幻のように蘇って来て、日夜悔しい思いをしている次第であります。
 〔返〕 NTTよどうして呉れる!責任の所在を明らかにして損害を補償せよ! 鳥羽省三  

(酒井景二朗)
〇  紛争など無關係さと言ひたげに古いタンカードックに眠る
 海上航行をめぐる国際紛争も、北方領土問題や東シナ海の資源問題などの、我が国と関係国との「紛争」など、数多くの事例が見られ、枚挙に暇が無いほどである。
 一首の意は、「かつては『紛争』地帯の海域を航行して母国に石油を運んでいた『タンカー』が、古くなり、モノの役にも立たなくなって、『紛争など無關係さと言ひたげに』『ドックに眠る』」と云ったところである。
 〔返〕 米価など無関係さと云いたげにナポリタンなど主食にしてる  鳥羽省三

(太田槙子)
〇  捨てられる為に発行されているポイントカードみたいな恋だ
 作中の「捨てられる為に発行されているポイントカード」とは、獲得したポイントを表示するスタンプを指すのか?
 それとも、「スタンプカード」そのもの、即ちスタンプを押す台紙を指すのか?
 それらのいずれを指す場合でも、その大半は「捨てられる為に発行されている」ようなものであるから、表現上の曖昧さはともかくとして、作者の言おうとする内容は解る。
 ところで、私の財布兼用のカード入れにも、行き付けのクリーニング店のやら、洋菓子店のやら、別の洋菓子店のやら、整体治療所のやら、眼鏡屋のやら、カラオケのやら、コンビニのやら、珍しいところでは、仏具店のやら、いろいろな「ポイントカード」が入っているが、そのいずれもが、うっかりすると風に吹き飛ばされそうな薄っぺらなカードである。
 本作の作者の経験した「恋」は、件の「スタンプカード゛」と同様に薄っぺらで風に吹き飛ばされそうな「恋」だったのでありましょう。
 〔返〕 蕎麦粉搗く石臼のような恋だった捨てる時には気が重かった  鳥羽省三

(tafots)
〇  水茎の行方も知らぬさくらやのポイントカード 捨てても捨てても
 「水茎の」は、音の類似から「水城」に係る枕詞として万葉時代に用いられていたのであるが、中世以降、「みずくき」を「筆」及び「筆跡」の意として用いるようにもなり、やがて、「流る」「行方も知らぬ」に係る枕詞としての用法も生まれたのである。
 本作の意は、「通い慣れた『さくらやのポイントカード』は、私にとっては『捨てても捨てても』湧いて出て来るような代物である」といったところであるが、詠い出しに「水茎の」という枕詞を用いたことに因って、それに依って導き出される「行方も知らぬさくらや」が単なる店名を表すものではなく、満開の頃の桜の花びらが川面に散り、流れて行くような流麗な雰囲気を出そうとしているのでありましょう。
 文脈的に見るならば、「『さくらやのポイントカード』は、その『行方も知らぬ』ように『捨てても捨てても』湧き出て来る」といったような繋がりではありましょうが、作者の意図する点は、「水茎の行方も知らぬさくら」から桜の花びらが流れ散って行く様子を連想させることにありましょうか?
 〔返〕 水茎の行方も知らに桜もち妻に食べられ蟻にも食われ  鳥羽省三

(風乃茉琴)
〇  日常に潜む狂気を見つけては京大カードに書き込んでいる
 昔懐かしい「京大カード」という言葉を「見つけ」たので採らせていただきました。
 梅棹忠夫先生と言っても、今の不勉強な輩には「何処の独逸のことかしらん?」といった感じではありましょう。だが、梅棹忠夫先生こそは烈輝とした京大教授様であり、私の愛読して止まない『知的生産の技術』(岩波新書・1969年7月21日刊行)の御著者でもある。
 私が「京大カード」の存在を知ったのは、梅棹忠夫先生の御著『知的生産の技術』を読むことに依ってである。
 「京大カード」とは、フィールドワークや資料研究などに拠って得た情報を書き込むカードであり、B6判の白い厚紙で出来ている。
 元々研究者などがメモや論文執筆の準備などの情報整理に用いていたが、梅棹忠夫先生が、ベストセラーとなった御著『知的生産の技術』で紹介して以来、研究者以外にも使用する人が現れるようになり、パソコンが普及した今でも、この薄っぺらで小型なカードに頑なに拘っている研究者が居たりして、コレクト株式会社から発売されている「京大式カード」の売れ行きは未だに衰えていないとのことである。
 本作の作者の風乃茉琴さんは、「日常に潜む狂気を見つけては京大カードに書き込んでいる」とのことですが、作中の「日常に潜む狂気」とは、例えば、「日本橋通りを歩いていたら、突然暴走車に轢き逃げされた」とか、「秋葉原のホコ天を歩いていたら、突然、若い娘に痴漢呼ばわりされた」といった事項を指して謂うのでありましょうか?
 〔返〕 日常に潜む非情を怖がつて東京都内に足を入れない  鳥羽省三
     日常に潜む臭気を見つけてはビニール袋に貯め込んでゐる
     日常に潜む健気を見つけては十年連用日記に記す      

(佐竹弓彦)
〇  屁理屈はいいから早く笑福亭鶴瓶会員カードを貸して
 私の連れ合いの翔子の嫌いなものは、ナメクジと「いとこのよっちゃん」と何処かのテレビ局が放映している「鶴瓶の家族に乾杯」に出演している下手な落語家の剥げ頭である。
 本作に拠ると、我が国には「笑福亭鶴瓶会員カード」というものが在るらしいが、それならば、もしかしたら「ナメクジ会員カード」や「いとこのよっちゃん会員カード」なども在るのかも知れません。
 もしも、そうだとしたら、一昨日(6月25日)は、「いとこのよっちゃん会員カード」を首からぶら下げた連中・約二十四名が、東京スカイツリーの天望回廊でウロチョロしていたかも知れません。
〔返〕 いとこのよっちゃん会員カードを持って行けばお城の形の最中が貰える  鳥羽省三
 東京都墨田区業平1-3-6に在る「お城森八」名物の「お城最中」は、「いとこのよっちゃん」が贔屓している和菓子製造販売店であり、私の妻の翔子の直の従弟であった「いとこのよっちゃん」が我が家にも、再三に亘って送り付けて来た品物なのである。
 翔子と「いとこのよっちゃん」とは、単に直の従弟関係であるのみならず、小中学校を通じての同級生であったが、何時の頃からか、二人の関係がすっきりと行かなくなり、現在は絶縁状態になっているのであるが、その発端を成しているのは、例の「お城森八」名物の「お城最中」を、再三に亘って我が家に送り付けて来た、という一件なのである。

(湯山昌樹)
〇  最近はカードの枚数とみに増え買い物財布はふくらみ続ける
 「最近はカードの枚数とみに増え買い物財布はふくらみ続ける」とは、正しく実感の伴った表現である。
 私は、各種のポイントカードの他に健康保険証や自動車運転免許書、更には川崎市内の公立図書館の利用カードや温泉施設の利用カードまで、一個の財布にごちゃ混ぜに入れているので、お札を入れておく余裕がありません。
 〔返〕 昨今は女と行くのがとみに増えモテルに男と行く気がしない  鳥羽省三

(五十嵐きよみ)
〇  青空のポストカードに書き込んだ雲の一字が雨になるまで
 さすがに五十嵐きよみさんである。
 「青空のポストカード」とは、無限大とも言える雄大な「ポストカード」であり、その雄大な「ポストカードに書き込んだ雲の一時が雨になるまで」は、ほぼ一億光年の時間を要するのでありましょう。
 〔返〕 大空のバースデーカードに書き込んだ雲のハート(♥)が嵐を呼んだ  鳥羽省三

(梅田啓子)
〇  金銭に触れでひと日の過ぎてゆく食パン一斤カードに払う
 「食パン一斤」と言えどもその価格は、私の知っている範囲内で述べても、スーパー三和の火曜日特売の八十八円から、帝国ホテルの天然酵母食パンの八百四十円まで色々様々である。
 梅田啓子さんが「カード」で支払った「食パン一斤」の価格は、一体全体、如何ほどであったのでしょうか?
 〔返〕 時期及び地域によって異なるは食パン一斤の販売価格  鳥羽省三

(さとうはな)
〇  空色のポストカードの片隅の子犬にきみの名を名付けたり
 本作の作者の姓は「佐藤」でも「左藤」でもなく、「さとう」であり、名は「花」でも「華」でもなく、「はな」なのである。
 つまり、本作は「佐藤花」さんや「左藤華」さんの作品ではなく、「さとうはな」さんの作品なのである。
 いきなしにこんなくだらないことを言い出したので、数多くの読者諸氏の中には、「鳥羽省三もとうとうネタ切れになってしまったようだ!二、三ヶ月前までは毎日更新していたのに、この頃はそれも止めてしまったみたいだから、もしかしたら、持病が悪化してしてしまったのかも知れない。だとしたら、少し可哀想なことだ!」などと仰り、心配して下さる方が、三人程度は居られるかも知れない。
 それらの方々が心配して下さるのも尤もであり、最近の私の健康状態は確かに良くなく、今夜も眠れないままに、午前三時前にベッドからもそもそと這い出し、する事なしにこんなどうでも宜しいみたいな事を書いているのである。
 とは申せ、本作の鑑賞にこと寄せて、作者のお名前が「さとうはな」さんであることについて言い出したのは、筆者の私としてはそれなりに意味のあることであり、決してネタ切れになった訳でも、持病の悪化が理由でもありませんから、ご心配なく。
 只今、六月二十七日の午前三時四十分、ラジオからは今は亡き石原裕次郎の『俺の小樽』という忘れかけていたムード歌謡が流れて来る。
 弟の裕次郎ならともかくとして、その兄の東京都知事閣下が、少年時代にあの港町・小樽に住んでいたことを知らされて、私は少しく愕然として居ります。
 小樽に住むに相応しい人間と言えば、小林多喜二とか、伊藤整とか、格別に繊細な心を持っている人かとばかり思っていたのに、およそ繊細さとは無縁な石原慎太郎が、例え一時期とは言え、小樽の住人であったことを知って、私は何故か、あの小樽が穢された街のように思われてならなかったのである。
 「穢された」と言えば、かつての私の縁辺に、「佐藤花」なる女性が二人居て、二人とも「穢された」と言うに相応しい境涯を辿った人物なのである。
 一人は、私の父の遠縁に当たる女性の「佐藤花」さん。
 明治末年生まれの彼女は、父の言葉で言えば、いわゆる「売られて行った女」の一人で、後年、彼女は、真っ赤な衣装を纏って帰郷し、かつての自分と同じように貧しい少女二人を「買って」、意気揚々と東京に引き上げて行ったということである。
 もう一人の「佐藤花」さんは、かつての私と同じ町内の住人で、彼女のご亭主の職業はいわゆる「高利貸し」であり、この男は、その当時の町内で名うての強欲爺として知られていたのであるが、その連れ合いの彼女は、夫以上の強欲婆として名を馳せ、昭和三十七年、古稀を迎える前に彼女があの世に旅立った日の夕方には、町内の有志が花火を上げた、とまで噂されていた女性なのである。
 そんな「佐藤花」さんたちと同じ音の「さとうはな」さんという女性が、「空色のポストカードの片隅の子犬にきみの名を名付けたり」と言う、おセンチな作品をお詠みになられたのである。
 「名は体を表す」とは、「いとこのよっちゃん」が私の連れ合いの翔子の友人・野田祥子さんに当てて書いた今年の年賀状の中の言葉であるが、「『空色のポストカードの片隅の子犬にきみの名を名付けたり』という作品は、何と“佐藤花”さんならぬ“さとうはな”さんに相応しい作品であろう」と、今朝の私は思っているのである。
 只今、午前四時三十一分。
 ラジオからは、癈人ならぬ俳人の黒田杏子さんが、「名残の花」について喋くり回っている声が聴こえて来る。
 〔返〕 さとうはな、ポストカードの片隅に子犬の名さえ書き加えたり  鳥羽省三
 只今、午前四時四十四分。
 私の背後に在るラジオの中で、黒田杏子さんは、杖を突いて歩む人生の素晴らしさや俳句を詠んで生きる人生の素晴らしさに就いて喋くり捲っている。 

(矢野理々座)
〇  しずかちゃんとデート専用スーパーカードラえもんなら持っているかも
 「しずかちゃんとデート専用スーパーカードラえもんなら持っているかも」という言い方が複雑である。
 即ち、本作の作者は、「『ドラエもんなら』『しずかちゃん』と『デート』する時に、『専用のスーパーカー』を『持っているかも』?」と言いたいのか?
 それとも、「『ドラえもんなら』『しずかちゃんとデートするとき専用』の『スーパーカード』を『持っているかも』?」と言いたいのか?
 〔返〕 ランボルギーニ・カウンタックをぶっ飛ばせ!しずかちゃんと地獄へデート 
                                      鳥羽省三

(松木秀)
〇  年収百三十万の私にも発行されたりセゾンカードは
 先方様、つまり「セゾン」側も商売ですから、「年収百三十万」だろうが九十六億だろうが関係無しに「カード」ぐらいは発行しますよ。
 但し、実際に融資するかどうかについては別次元の話である。
 〔返〕 恐らくは融資額ゼロに違いない!低所得者には金など貸せぬ!  鳥羽省三

(希屋の浦)
〇  人生がシャッフルされたカードには選択肢など書かれていない
 「人生がシャッフルされた」という、被害者意識が宜しくない!
 自分の「人生」は他人の手に拠って「シャッフル」されたものではなく、自分の意志によって選んだものなのである!
 無限に在る「選択肢」から自分の意志に拠って選んだものなのである!
 〔返〕 万策も希望も尽きし希屋の浦裏も表も真っ暗である  鳥羽省三

(鳥羽省三)
〇  カードなら馬鹿っ花歴二十年後ろ姿に五光射してる
 柄にもなく、「馬鹿っ花」などというバサラな言葉を使ってみたかっただけのことである。
 「後ろ姿に五光射してる」とは、全く恥ずかしい限りの表現である。
 〔返〕 カードならイオンカード専用で貯めたポイント六万余点  鳥羽省三 

 
一首を切り裂く(011:揃)
2012年08月27日

(西中眞二郎)
〇  このところ仏事なければ兄弟の揃う機会も乏しくなりぬ
 本作の作者は、私より二、三歳ご年輩の男性である。
 とすれば、ご子息様やご息女様方の結婚式は勿論、お孫さん方のそれも既に終えられ、血を分けたご兄弟たちが一同に会する機会は、ご両親様やご先祖様方(或いは、ご兄弟及びその縁者の方々)の「仏事」以外に無いものと思われる。
 したがって、この一首の表現は、作者・西中眞二郎さんの、ご円満で度量の広さが反映されたユーモラスな表現であると同時に、「育て上げるべき者は育て上げた!嫁がせるべき者は嫁がせた!これから私たち兄弟が集まって話し合ったり杯を交わす機会が、もしも在るとすれば、それはお互いの葬式や血縁縁者の葬式や法事といったような仏事に限られるだろう。それなのに、この頃しばらく仏事が無かったから、兄弟お互いの顔を見る機会も無かった。その点は、目出度いとも言えようが寂しい気持ちが無いわけでも無い」といったような、諦観とも満足感ともつかない、かなり複雑な心境が窺われるのである。
 「このところ仏事なければ兄弟の揃う機会も乏しくなりぬ」というこの一首の表現からは、格別な目新しさも趣向を凝らした点も見受けられません。
 しかしながら、そうした極く平凡な表現を通して、ある一定の年齢に達した者が普遍的に味わうに違いない心境を表現し吐露している点は、西中眞二郎さんならではの名人芸と思われる。
 〔返〕 おととしは姉が二人も亡くなりぬ!俗事にかまけ弔ひもせず!   鳥羽省三
 長姉及び三姉が一昨年続けて黄泉路に旅立ちましたが、私は自分自身の健康やその他諸々の事情に事寄せて、二回とも心ばかりのご芳志を遺族宛にお送りしたばかりで、葬儀には出席しませんでした。
 こうした点は、他の兄弟たちや親類縁者の方々のご理解の範囲を超えたことと思われますが、私自身に亡くなった姉たちを惜しむ気持ちや菩提心に欠けている訳ではありません。
  
(夏実麦太朗)
〇  夕闇は東のほうからやってきて玄関の靴を揃えたくなる
 夏実麦太朗さん一流の作風であり、特に「夕闇は東のほうからやってきて」という上の句に見られる発見は、のほほんとした性格ながらも、観察細やかな夏実麦太朗さんに相応しい発見である。
 ところで、上の句の「夕闇は東のほうからやってきて」という発見が「玄関の靴を揃えたくなるがという行動を促すのでありましょうか?
 結び付くような結び付かないような関係にある上の十七音・三句と下の十五音・二句!
 そのアンバランスと調和とが本作の最大の魅力である。
 何かと家居しがちか高齢者の私は、夕方になると家族の誰かが帰って来るような気がして玄関先に佇んでみたり、玄関に置かれている靴やサンダルなどを揃えたりするのであるが、我が家はもともと私と妻との二人所帯なので、夕方になり、辺りが暗くなったからとて帰って来る家族など居るはずがないのであり、訪れるものと云えば、軒先の芭蕉の葉を揺らして通り過ぎる秋風だけなのである。
 〔返〕 黄昏は西の空からやって来て我がメランコリーを揺さぶるばかり 鳥羽省三

(秋月あまね)
〇  相対に統べられている神廟のなか不揃いの獅子に狛犬
 秋月あまねさんは、気が付いてはならないところに気が付いてしまったのである。
 「神廟」の境内でしかつめらしい顔をしている「獅子に狛犬」!
 あの二体の石像のポースは〈阿吽の呼吸〉を象ったものであり、あれはあれでワンセット!
 つまり、二体ワンセットで神様をお守りしてるんですよ。
 それなのに何ですか!
 あなたは「不揃いの獅子に狛犬」なんて罰当たりのことを仰ったりして!
  〔返〕 統べられて秋月あまねく照りわたる獅子に狛犬阿吽の形相  鳥羽省三

(庭鳥)
〇  お揃いで泳いでいると雪の日にお濠に立ちて白鳥を指す
 「お揃いで泳いでいる」とはまた、お行儀の宜しいことで!
 「皇居のお濠を泳いでいらっしゃる、あの白鳥たちの御仲の宜しさは、何処かのお国の皇太子様とお妃様みたい!」などと口走ってしまったら、不敬罪に抵触することになるのでありましょうか?
  〔返〕 天皇はいつもお独り!おしっこをする時も御義歯を磨く時も  鳥羽省三

(アンタレス)
〇  人数の揃へば囲む麻雀に興ぜし頃の今は懐かし
 つい先日、次男のマンションのリフォームをするということで、荷物整理に出掛けたことがありましたが、押し入れの中の煤けたダンボール箱の中に麻雀牌が潜んでいたのを発見し、息子二人と私たち夫婦が家庭麻雀に興じていた頃を思い出しました。
 〔返〕 愚息らと興じた頃の懐かしくダンボール箱の牌にぞ見惚る  鳥羽省三

(五十嵐きよみ)
〇  上下巻揃うまで待つことにして窓辺にそっと置くアーヴィング
 歌意から推測するに、作中の「アーヴィング」とは、「アメリカ合衆国の現代作家〈ジョン・ウィンズロー・アーヴィング(John Winslow Irving、1942年3月2日~)>」と思われ、「上下巻」とは、「彼の代表作の一つと目され、筒井正明の翻訳で新潮文庫から発売されている『ガーブの世界』(上・下)」と思われる。
 ならば、「〈ポスト・モダン文学〉に代表される二十世紀文学潮流の最中に在って、その潮流に逆行するが如く、敢えて『チャールズ・ディケンズを尊敬する』と公言し、<ポスト・モダン文学の首魁として尊崇されていた、ジェイムズ・ジョイス(1882年2月2日~1941年1月13日)>を『ゴミ』と評し、『オナニー本の作者』などと評してはばからなかった、彼・ジョン・ウィンズロー・アーヴィングの代表作『ガーブの世界』」こそ、まさしく、我が国現代文学の随一のストーリ・テーラーたる五十嵐きよみ女史の愛読するに足る作品と思われるのである。
 ところで、私・鳥羽省三は、『ガーブの世界を』今から数十年前にブックオフの百五円均一コーナーから掘り起こして来たまでは上出来だったが、たった三ページ読んで、読むに足らざるゾッキ本として廃棄処分にしたのである。
 〔返〕 買って直ぐ読むに足らざる本として捨ててしまった『ガーブの世界』 鳥羽省三

(湯山昌樹)
〇  如月の末の大雪 街路樹に揃いの衣装着せてゆきたり
 同じ「大雪」でも、「如月の末の大雪」に着目した点が宜しい。
 好みの問題ではありましょうが、三句目の「街路樹に」を、より具体的に「欅並木に」とか「公孫樹並木に」などとした方が宜しいかも知れません。
 月並みの歌材による作品ながらも、好感の持てる佳作として鑑賞させていただきました。
  〔返〕 弥生尽午後風花が舞い散って梅の古木の開花促す  鳥羽省三

(矢野理々座)
〇  13種牌を揃えて多面待ちあがれぬ役満恋と同じか
 国士無双の体勢に入っているように思われますが、私自身の少ない経験から申し上げますと、十三面張のテンパイでの上がりはただの一度もありませんでした。
 末尾の七音「恋と同じか」に就いては、作者・矢野さんの個人的な感想でありましょうから、評者の私としては何とも言えません!
   〔返〕 男なら誰でも恋の聴牌の国士無双はつもるしか無し  鳥羽省三

(吾妻誠一)
〇  漕ぎ着いた上り框の奥暗く揃えた靴の舳先は海を
 御夫君の連日に亘る午前様に立腹なさった奥方様が、御帰館を待たずに御寝間にお入りになられた後の、吾妻家の玄関のご様子をスケッチなさったのでありましょうか?
 だとしたら、四、五句目の「揃えた靴の舳先は海を」とは、御夫君としては揃えて脱いだつもりであった靴が、逆八の字になっているご様子をお詠みになったのでありましょう?
   〔返〕 朝まだき伊根の舟屋の船揚場!海に向かへる小舟幾艘!  鳥羽省三

(峰月 京)
〇  五月晴れ港の見える公園でひそかに君と歩幅揃えり
 「ひそかに君と歩幅揃えり」という四、五句目の七七句から読み取れるのは、彼(作中の君)一途の作者・峰月京さんの純にして余りある心映えでありましょう。
 考えるに、作中の「君」なる存在は、作者の峰月京さんに比して、四、五歳くらい年下の男性のようにも思われる。
 私も年に数回は、横浜の〈港が見える丘公園〉へと洒落こんだりはしますが、密かに「歩幅を揃え」て、私の後に付き従って来る女性は未だかつて現れません。
   〔返〕 横浜の港が見える丘公園で犬のうんちを踏んづけちゃった  鳥羽省三

(磯野カヅオ)
〇  金星と月と木星揃ふ夜に木蓮白く揺れ初めにけり
 作中の「金星と月と木星揃ふ夜」とは、過ぎし平成二十四年三月二十六日のことである。
 時恰も、湘南大磯町の磯野カズオ亭に於いては白木蓮の花が咲き染めたのでありましょうか?
 だとしたら、天上と地上とでの、かかる清新なる一大光景に巡り逢うを得て、作者・磯野カズオさんの御喜びは如何ばかりであったか?
  〔返〕 金星と月と木星揃う夜にサザエはサンマを猫に盗られた  鳥羽省三

(山本左足)
〇  「こち亀」が全巻揃っているという理由で通っている理髪店
 男性が定まった「理髪店」に通うようになった動機はさまざまであり、私のかつての知人の一人であった還暦過ぎの男性のそれは、「小、中学校時代の同級生であり理髪師である女性が、その年、ご亭主に死なれて寡婦になったから可哀想だ」という、大凡不純なる動機との噂でありました。
 彼の男性のその頃の境遇は失業者同然。
 然るに彼は、毎月、三千五百円の大枚を叩いて、その寡婦の理髪店に通い詰めになっていたのでありました。
 評者・鳥羽省三の冷静にして公平なる判断力を以てすると、「『こち亀』が全巻揃っている」という厳然たる事実は、教養ある男性が、その「理髪店」を通い付けにする「理由」として十分なるものと判断されます。
 〔返〕『釣りバカ』を全巻読んでしまっら藪中歯医者に吾は通わぬ 鳥羽省三

(壬生キヨム)
〇  肩の位置揃えて見上げる オリオンの星が欠けても一緒にいたい
 作中の「オリオン」とは、冬の星座の定番とも言うべき〈オリオン座〉を指して言うのでありましょう。
 だとしたら、その〈オリオン座〉を印象づけるものとして忘れてならないのは、α星の〈ベテルギウス〉であり、それと同時に、中央に並ぶ〈三ツ星〉でありましょう。
 想うに、作者・壬生キヨムさんをして「オリオンの星が欠けても一緒にいたい」と言わしめた「オリオンの星」とは、「肩の位置揃えて見上げる」という前半の二句から判断して、前述の〈三ツ星〉の中の一個を指して言うのでありましょうか?
 以上の点から判断するに、本作は世に言う〈相聞歌〉では無く、性と年齢を同じくする男性同士の堅くて純なる友情を歌ったものであるとも思われる。
  〔返〕 右に真紀、左に沙織を抱き抱えベデルギウスを眺めて居たり  鳥羽省三

(今泉洋子)
〇  ひとつづつ済ませてゆかむ立葵咲き揃ふまで少し間がある
 本作の作者・今泉洋子さんのお住まいは西国・佐賀である。
 西国・佐賀に於ける「立葵」の「咲き揃ふ」時期は、六月下旬から七月上旬頃でありましょうか?
 だとしたら、その「立葵咲き揃ふまで少し間がある」時期と思われる六月の半ば頃までに、作者の今泉洋子さんは、どのような作業を「ひとつづつ済ませてゆかむ」とお思いになって居られるのでありましょうか?
〔返〕 家事・挽歌・喪服の風通し ひとつづつ済ませてゆかむ百合の咲くまで 鳥羽省三

(原田 町)
〇  ぎんさんの娘四人うち揃い元気元気の映像楽し
 本作の鑑賞に資する為、去る2012年8月22日09時18分付けの〈YOMIURI ONLINE〉に掲載された記事の中から、「ぎんさんの娘4人、計370歳…被害防止に一役」と題された記事を借用転載させていただきます。
 無断転載にて、大変失礼とは存じますが、関係者の皆様方には、何卒、枉げてご許容賜りたくお願い申し上げます。

 愛知県は20日、増え続ける高齢者の消費者被害を防ごうと、長寿で話題になった名古屋市の双子姉妹「きんさん、ぎんさん」の妹、蟹江ぎんさんの娘4人を「あいち消費者被害防止キャンペーンガール」に任命すると発表した。
 県民生活課は「おそらく日本で最高齢のキャンペーンガールになると思う。注目度の高い4姉妹の力をお借りして、被害防止を呼び掛けたい」としている。
 任命されるのは長女・矢野年子さん(98)と三女・津田千多代さん(93)、四女・佐野百合子さん(91)、五女・蟹江美根代さん(88)の4姉妹で、合計すると370歳になる。29日に任命式を開き、大村秀章知事が任命状とたすきをおくり、4人が被害防止を宣言する。4人は「自分たちが県民の皆さんにお役に立てるなら喜んで引き受けたい」と話している。
 活動期間は敬老の日(9月17日)を含む9月の1か月間。16日にはイオンモール東浦(東浦町)とイオンモール岡崎(岡崎市)で4姉妹によるPRイベントを開くほか、県内のJR私鉄、バスの中吊
なかづり広告(約8000枚)で被害防止をPRする。
 ぎんさんは2001年2月に108歳で他界。4姉妹は、ぎんさんが暮らした名古屋市南区の家に、ほぼ毎日のように集まっては、おしゃべりを楽しんでいるという。        以上、引用終り
 
 上記の記事の他に、昨年の末頃から本年に掛けて、テレビ局や新聞社・雑誌社などのマスコミ各社が関連記事を報道したのであり、本作の作者・原田町さんは、それらのいずれかの記事乃至はテレビ報道にお接しになられて、本作をお詠みになったのでありましょう。
  〔返〕 久しぶり原田町さんお元気で何よりでした今後宜しく  鳥羽省三

(ひろ子)
〇  玄関に揃えて脱ぎし靴見やり心身ともの成長思ふ
 「玄関に揃えて脱」いだ「靴」の有様と言い、そのサイズと言い、祖母たる「ひろ子」さんと離れて暮らして間の、お孫さんたちの「成長」の著しさを想わせるものであったのでありましょう。
 〔返〕 一斉に「いただきます」と声合わせケーキを食べる習慣も無し  鳥羽省三

(鳥羽省三)
〇  揃へ置く『謡曲大観・全七巻』菊判上製天金美装
 今となっては、取り返しの付かないことではあるが、二句目及び三句目の字余りを思えば、「揃へ置く『谷崎源氏・全五巻』菊判特装限定千部」とするべきであったと思っている。
 なお『謡曲大観・全七巻』も『谷崎源氏・全五巻』も、度々の転居に際して惜しみながらも何方かに呉れてやったと記憶している。
 〔返〕 愛読書『みみづのたはごと』文庫版上下二巻の寸法不揃ひ  鳥羽省三
 徳富蘆花著の『みみづのたはごと』は、神田(御茶ノ水坂下)の川村書店で買い求めた、戦前の岩波文庫版・上下二冊を持っていたのであるが、その後、下巻のみ戦後の岩波文庫を入手したので、戦前版の下巻は棄ててしまったのである。その結果として、「上下二巻の寸法不揃ひ」といったような結果となったのである。
 それにしても思い出されるのは、御茶ノ水坂下の川村書店で買った戦前版の岩波文庫の数々である。
 『利根川図誌』『北越雪譜』といった稀覯本は、三崎町の「さぶちゃん」の〈半ちゃんらーめん〉が五十円以下で食べられた頃、大枚千数百円を叩いて泣く泣く手に入れたものである。
   〔返〕 揃え置く『短歌全集・文庫版』全十二巻創元文庫  鳥羽省三


一首を切り裂く(012:眉)
2012å¹´08月29æ—¥ 

(矢野理々座)
〇  長崎と佐賀・香川での眉山(まゆやま)が徳島・岐阜では眉山(びざん)である
 山の名称として同じように漢字で「眉山」と書いても、長崎県や佐賀県や香川県のそれは「まゆやま」と訓読みし、徳島県や岐阜県のそれは「びざん」と音読みすることに着目しての一首である。
 いかにも矢野理々座さんらしい気の利いた発想の作品ではあるが、内容的にはそれ以下でもそれ以上でも無い作品とも言えましょうか?
 事の序でに香川県の「眉山(まゆやま)」について述べるとしましょう。
 同山は香川県三豊市に在り、海抜189mの、〈山〉と言うよりは〈丘〉と言った方がいいようなちっぽけな地球の襞である。
 私の友人の喜多さんは三豊市詫間町粟島の出身で、小学時代を粟島で育ったそうですから、彼は朝な夕なにこの山を郷土の名山として仰ぎ、「僕も大いに勉学に励み、大人になったら、あの山のような気高く立派な人間になりたい!僕はこれから一所懸命に勉強するぞ!」と強く願ったことでありましょう。
 と、ここまで書いて来て本稿の筆を閉じようと思っていたところ、たった今、話題にしたばかりの親友・喜多さんから電話が入った、とのことである。
 彼は現在、横須賀での多忙なる生活から足を洗い、単身で粟島の別荘暮らしを楽しんでいるはずであるが、「その彼が、週日の真昼間から私如き貧乏人に電話を掛けて来るとは、あの粟島で、一体どんな天変地異・珍事が発生したのか?」と思いながら連れ合いの差し出す電話の子器に手にしたところ、「地元・香川の眉山(まゆやま)の風光明媚さもさることながら、隣県・徳島の眉山(びざん)のそれには到底敵わない!徳島の眉山は、あの〈さだまさし〉の小説『眉山』の舞台となった名山であり、映画にもなった。だから、僕はさだまさしや眉山に敬意を表して、地元の眉山をさて措いて、徳島の眉山をブログで採り上げいのだ。この際、是非とも君も見たまえ!」とのことであった。
 件の眉山を採り上げている、喜多さんのブログのタイトルは『まほろばの島詩』である。
 そこで、私・鳥羽省三から、数多くの本ブログ(臆病なビーズ刺繍)の読者諸氏にお願いがあります。
 賢明なる読者諸氏よ、何卒、お暇な折には、喜多さんの写真ブログ『まほろばの島詩』をご訪問賜りたくお願い申し上げます。
 なお、親友・喜多さんが称揚して止まない徳島の眉山は、標高僅か290mとのことである。
 俗世間で謂う「山高きが故に尊からず」とは、このことを指して言うのでありましょうか?
   〔返〕  山低きが故に卑しからざるを疑う者は喜多さんを見よ   鳥羽省三
        山高きが故に尊からざるを疑う者は天狗の鼻見よ

(平和也)
〇  齢経てあらがいがたき引力の証しとしてか眉は下向く
 本作に接して、私は、我が日本国の第81代内閣総理大臣にして、それと引き換えに日本社会党を壊滅状態に追い込んだとも言うべき政治家・村山富市氏を思い出してしまいました。
 村山富市氏と言えば、人も知るあの濃き眉毛を以て知られる人物である。
 彼が総理の座に就いた時、我が国のマスコミは、一斉に「眉毛が総理の椅子に座ることになった!村山富市氏の眉毛こそ〈福眉〉と言うべきだ!」と大騒ぎをし、国民挙げて福眉ブームに湧いたものであった。
 ところで、村山富市総理の眉毛は下向きではなかったような気がするが、だとしたら、万物にとって抗い難きさすがの万有引力も、あの村山富市氏の眉毛には働かなかったものと思われる。
  〔返〕 株は落ち林檎が落ちても富市のシンボル眉は下を向かない  鳥羽省三
      林檎・株・内閣支持率落つるとも総理の眉は下を向かずも
      万有引力の法則に背き村山総理の眉は落下せず
      ニュートンも首を捻って考えた?の眉に引力効かず?
   
(夏実麦太朗)
〇  ロッカーの鏡のなかにひとりきり眉の角度を確かめている
 ♪ああ、あの人が、あの顔で、勤務先の「ロッカーの鏡のなかにひとりきり眉の角度を確かめている」なんちゃって、僕ちゃん、お菓子食って、コアラのマーチを食べて、笑っちゃいました!
 作者・夏実麦太朗さんの持ち前のユーモアセンスが余すところ無く発揮された傑作である。
 脱帽(剥げ頭露出!)。
   〔返〕 青バスでオカチメンコが鏡見て眉毛描いたり紅を塗ったり  鳥羽省三

(ほたる)
〇  あおやぎの細き眉引く春の朝桜の夢みる君をおこさむ
 「青柳(あおやぎ)の」は「細き眉」に係る〈枕詞〉である。
 で、本作について言えば、枕詞を用いた古典和歌的な発想は、作者・ほたるさんの本来の持ち味とは異なりましょうが、それはそれとして、「あおやぎの細き眉引く春の朝」という詠い出しの三句は順調である。
 しかし、それに続く下二句の中に「桜」を登場させたのには疑問がある。
 初春の景物である「あおやぎ」と春真っ盛りの景物である「桜」の取り合わせが宜しくないのである。
 俄知識で以て慣れないことをしてはいけません。
   〔返〕 青柳の細き眉引く春のあさ君の夢見て僕は失禁  鳥羽省三

(ありくし)
〇  早梅の風は眉毛に柔らかく昨日交わした嘘も忘れる
 「春一番に咲く梅の花を散らす風にの眉毛は柔らかく靡き、その心地良さに、昨日、恋人と交わした嘘も忘れる」という趣きを述べたのでありましょう。
 上三句の叙景と下二句とがよくマッチした佳作である。
   〔返〕 春風に眉を靡かせ歩こうよ昨日交わした嘘も忘れて  鳥羽省三
 尤も、最近の女性の眉毛はほとんど描き眉であるから、「春風に眉を靡かせ」て歩くということは不可能でありましょう。


 ä¸€é¦–を切り裂く(013:逆)
2012å¹´08月30æ—¥ 

(原田 町)
〇  真後ろや真横のあれば真逆という言葉づかいも真っ当なるか
 誰が言い始め、誰が流行らせたのかは存じ上げませんが、マスコミや若いタレント、更にはそれの取り巻きなどの馬鹿者の間で、「真逆」なる言葉が大流行りであり、票目当ての若い政治家なども、「正反対」と言うべき場面で「真逆」と言って、訳知り顔にしている。
 そうした昨今の現状を踏まえての作品ではあるが、作者の原田町さんとしては「正反対」と言うべきところを「真逆」という世情を肯定しているのではなかろう。
 〔返〕 股引や猿股穿けば宜しいがショーツだけでは風邪など召さむ   鳥羽省三

(磯野カヅオ)
〇  春めける毛足の長き絨毯を逆立てながら吉報を待つ
 「春めける毛足の長き絨毯を逆立て」る事と「吉報を待つ」事との間には、格別な因果関係は無い。
 冬は暖かくて重宝した「毛足の長き絨毯」も、「春めける」頃ともなれば、その汚れが目立ち、洗ったり埃を払いたくなるものである。
 本作に於いては、そうした季節感を伴った作業をする場面が、たまたま、息子さんか何方かの入学試験などの「吉報を待つ」場面と重なったのでありましょうか?
 〔返〕 啓蟄に毛脛を剃ればぞろぞろと穴の底から毛蟹が出て来る  鳥羽省三

(佐藤紀子)
〇  長靴の左右を逆に履きゐし児 父親となり娘を叱る
 「長靴の左右を逆」に履いていて窮屈だとも感じないのか、平然としていた「児」が小学時代の私の周辺にも居たものである。
 本作の意は、歳月の流れに伴って、そうした「児」が大人になって、結婚をして、「娘」の「父親」となり、少年時代の自分と同じような〈バカ〉をやらかしている「娘を叱る」という訳である。
 この場合で大切なことは、「父親」に叱られている「娘」のやらかした〈バカ〉が、必ずしも少年時代の「父親」と同じ、「長靴の左右を逆」に履くこととは限らないことである。
 高校生であるのにも関わらず一人前に彼氏が出来て子を孕んだのかも知れないし、駅前の本屋で漫画『こち亀』を万引きしたのかも知れないし、ただ単に「父親」の叱咤激励趣味の犠牲となっているのかも知れないのであり、其処の辺りを、あれこれと考えるのが本作の鑑賞ということでもある。
 〔返〕  長靴を真逆に履いた猫が居て子鼠たちが大喜びだ   鳥羽省三

(なまにく)
〇  出席番号の逆から当てられて渡辺が超戸惑っている
 教師を職業としていた自分が言うのも何であるが、教師という単純頭の人間どもは、自分が職業の一環としてやらかしている行為の意味するところに心が回らないものである。
 例えば、私の大学時代の旧友の鰐淵君は、「英語Ⅰ」の出席番号が最後であった為に、その履修期間の一年間を通じて、ただの一回もテキストの英訳を「当てられ」たことがないことを自慢にしていた。
 彼は遊び好き、勉強嫌いのなまくら男で、特に英語が大の苦手であった為に、「自分に何時、英訳の順番が回って来るのか?」と戦々恐々たる気持ちで居たのだ、と言う。
 大学か高校かは判然としないが、本作に登場する教師は、私や鰐淵君の「英語Ⅰ」の担当教官・郡山助教授とは異なって、少しは頭がいいというか、悪戯好きというか、この場面に於いては、「出席番号」の最後から当てたので、当てられることを予測していなかったのに「当てられ」た「渡辺が超戸惑っている」というのである。
 「超うまい」とか「超かわいい」とか「超バカ」とか「超天才」とか、何事に於いても単語の頭に「超」を付けなけれは済まない馬鹿者どもが横行している昨今ではあるが、本作での「超」は、世のそうした風潮をも風刺していて、真に効果的な表現である。
 〔返〕馬鹿者の「超」と「ハサミ」は使いよう切れない頭もたまには利れる 鳥羽省三

(鳥羽省三)
〇  いにしへの逆さクラゲを今風に言へばラブホと言ふのでせうか?
 「逆さクラゲ」の常連であったことを今更誇りにする訳ではありませんが、あの頃のことが急に懐かしくなり、「逆さクラゲ」なる淫靡さを伴った隠語を口にしてみたくなったのである。
 〔返〕 地図帳で温泉マークを見るたびに童貞捨てし日の蘇る   鳥羽省三  


一首を切り裂く(014:偉)
2012å¹´08月30æ—¥ 

(紫苑がさね)
〇  偉丈夫を恋ひし驕りの日の過ぎて痛みを分かつ掌を知る
 一般的なこととして言えば、ある女性が「偉丈夫」と言えるような男性に恋をしていた日があったとしても、それらの日々を、必ずしも「奢りの日」と言わなければならないわけでは無い。
 それなのにも関わらず、本作の作者が、過去の「偉丈夫を恋ひし」日のことを「驕りの日」としているにのは、作者ご自身の質素で内省的なご性格の故でありましょうか?
 本作の意は、「そうした『驕りの日』が『過ぎて』から、作者ご自身が、ご自身と『痛みを分かつ掌』の存在をあらためて知った」ということである。
 と、ここまで解釈してはみたが、本当のところは本作の文意の詳細は私には解りません。
 作者のかつての恋人は「偉丈夫」と言われている男性であった。
 世間の人々から「偉丈夫」と言われるからには、その男性は、ヘラクレスか大関・把瑠都のような男性であったに違いない。
 そのヘラクレスか把瑠都関のような「偉丈夫」は、女性と握手することを趣味としていて、本作の作者も亦、彼に会うたびに「掌」を握られ、「掌」と彼女とは「痛みを分かつ」ともがらとなっていたのでありましょうか?
 〔返〕  女丈夫と言われる女を妻に持ち尻に敷かれて煎餅になる   鳥羽省三

(西中眞二郎)
〇  あんまり偉くならなかったなと我がことを友ら言いおらむと帰路に思えり
 都内のホテルで行われた同窓会などの後、未だホテルに居残っていたり、二次会で銀座に出掛けたりしている同窓生たちが、「あいつ(西中眞二郎さん)は、小学生時代から秀才の誉れ高く、このままで行ったらどんなに『偉い』人間になるか知れない!彼の将来に待っているものは、総理大臣の椅子であり、ノーベル賞受賞者としての栄誉であろう!と思っていたが、そうした僕らの予想と期待に反して、あいつも『あんまり偉くならなかったな』」と、「我がことを」噂しているだろう、と思いながら奥様の待っている家路へと急いでいるのでありましょう。
 こんなことを言っては、西中眞二郎さんに失礼かも知れませんが、客観的に見ると、西中眞二郎さんは、「位人臣を極めた」とまでは言わないが、国家公務員としては充分に「偉く」なったのである。
 キャリア官僚としてのご自身の役割と責任を十二分に果たし、世間的な見方をすれば「功成り名を成し遂げた」存在なのでありましよう。
 それにも関わらず、上掲の歌に示されたような心境になるからには、西中眞二郎さんには、彼なりの「不完全燃焼の思い」があるのでありましょう。
 人間誰しも、時折り「不完全燃焼の思い」を抱くものであるが、一般的、世間的な立場に立って言えば「功成り名を成し遂げた」キャリア官僚の胸に去来する「不完全燃焼の思い」には、また格別なものがありましょう。
 〔返〕「あの馬鹿が銀座の酒も飲まないで古女房を………」と噂している   鳥羽省三


(流川透明)
〇  偉そうにショートケーキを頬張ってキェルケゴールの話などする
 本作の作者・流川透明さんは、何某氏の「ショートケーキを頬張って」いる様を見て、「偉そうに」と評しているのでは無く、「ショートケーキを頬張ってキェルケゴールの話などする」から、「偉そうに」と評しているのである。
 流川透明さんによると、「ショートケーキを頬張ってキェルケゴールの話などする」のは、〈禁忌〉なのである。
 それでは、「ショートケーキを頬張って」いる時に話題にするに相応しい事柄とはどんな事柄でありましょうか?
〔返〕 苦そうにチーズケーキを頬張って尖閣島の話などする   鳥羽省三
  
(宇津つよし)
〇  大勢の人の前でも暴れずに よく我慢した偉いぞちんちん
 作中の「ちんちん」はまさしく「偉い」。
 通常、大勢の人が居れば、その中には「ちんちん」が「暴れ」出す程の美人の一人や二人は必ず居るものである
 それにも関わらず、「暴れずに」居たから、作者の宇津つよしさんは、自らの「ちんちん」の我慢強さを褒めたのでありましょう。
 〔返〕 大勢の美人の前で悄気ていた!どうしたちんちん美女は嫌いか?   鳥羽省三

(鳥羽省三)
〇  政界のラスプーチンとしての名を益々上げよおらが義偉
 衆議院・神奈川二区選出の菅義偉議員の出身地は、秋田県湯沢市であり、私・鳥羽省三とは同郷である。 
 と言っても、彼の出身地を詳細に言えば、秋田県湯沢市の郡部、即ち湯沢市雄勝町秋の宮地区の湯ノ岱であり、峠を一つ越えれば宮城県の名湯・鬼首温泉という辺地であり、私のそれは、湯沢市の中心地区である。
 したがって、少し感情的に言えば、彼・菅義偉氏をして「おらが義偉」と言うことには、若干ならざる抵抗を感じざるを得ないのであるが、そこのところは我慢して「おらが義偉」とさせていただいたのである。
 ところで、彼・菅義偉氏は、地元の高校を卒業した後、集団就職した東京のダンボール工場で働く傍ら、法政大学で学業を修め、神奈川二区選出の有力衆議院議員・小此木彦三郎氏の秘書となって政界の裏表を知り、今日の地位を得たのである。
 彼の寝業師としての力量は、人も知るところであり、人呼んで「我が国・政界のラスプーチン」とは、彼にとっては決して恥じるべきニックネームではありません。
 〔返〕  この秋は関ヶ原だぞラスプーチン菅義偉よ吼えろよ吠えろ   鳥羽省三   


一首を切り裂く(015:図書)
2012å¹´09月01æ—¥ 

(平和也)
〇  飲み終えた缶の始末の怠りの巻き添えを食う図書館の本
 言わんとするところが三十一文字の定形に詠み込まれている点は買えましょう。
 私も川崎市立図書館の常連の一人であり、帯出者が飲料の汁をこぼしたと思われる本を借りてしまい、嫌な思いをしたことがあります。
 〔返〕  食べ物の汁や粉など零さずに読んで欲しいよ図書館の本   鳥羽省三

(紫苑)
〇  静謐の濃きにたゆたへ図書館の一隅に我が聖域のあり
 一見、高尚なる雰囲気を備えた作品と思われる?
 「たゆたふ(ハ行四段活用の動詞)」は、「ゆらゆらと揺れ動いて定まらない・気持ちが定まらずためらう・心を決めかねる」という意味であるので、一首の意は「館内の静謐感の濃さに気持ちが定まらないままに躊躇いを感じる。だが、この図書館の一隅に私の聖域が在るのであるのだ!」と云ったところにになりましょうか?
 思うに本作の作者は、ハ行四段活用の動詞「たゆたふ」の意味を吟味しないままに、ただ単に、その格調の高さ(語の持つ雰囲気)に魅せられて、本作に用いたものと判断される。
 少し込み入った話をしましょう。
 用言や助動詞の終止形を用いるべき場面(文末)に已然形を用いる用法は、古典和歌時代から許容されている用法の一つであるが、元を正せば、文法に通じていない歌人(しかも歌壇の権威者)が為した誤用の一つである。
 係り結びでも無い場面、終止形を用いるべき場面で已然形を用いたからとて、作品に深みが生じたり、幽玄の雰囲気が漂ったりする訳ではありません。
 中世和歌などの作者が、それと信じてそうした用法を採り入れたからとて、現代歌人がそうした誤用を採り入れる必要はさらさらにありません。
 本作の作者・紫苑さんはなかなかの詠み手と思われ、本作もそれなりの成算と自信を持ってお詠みになられた作品と思われるますが如何せむ?
 だが、こうした化石化して語法を現代短歌に敢えて持ち込もうとする、傲慢な態度は許されません。
 〔返〕 静謐の濃きにたゆたふ図書寮の乾の隅は聖域なれば  鳥羽省三 
 「図書寮(ずしょりょう)」とは、「律令制度下の我が国に於いて中務省に属していた機関の一つであり、明治以後の宮内省にも同名の機関が設置された。現今の国会図書館に相当する施設機関」である。
 〔返〕 図書館の隅にたゆたふ静謐に身を委ねつつ地誌をひもとく   鳥羽省三
 短歌は、奇を衒わずに素直な気持ちで詠みましょう。
 
(西中眞二郎)
〇  自転車で図書館に行く道筋に古びた銭湯日を浴びており
 相も変わらざる平凡な叙景歌であり、西中眞二郎さんの作品としては格別な取り柄の無い作品ではあるが、前掲の紫苑さん作とは真逆に、外連味が無く、衒いの無い点に好感が持たれる。
 発想平凡なゴミの山のような投稿作の中から、「苦しい時の眞二郎頼み」として採らせていただきました。
 アララギの重鎮・中村憲吉に「眞むかひの山家のなかは西日射しあからさまなる佛壇のみゆ」(『軽雷集以後』より)という優れた写生歌が在る。
 それとこれとを比較した時、不勉強な私には、近代短歌と現代短歌の境目が判らなくなる。
 それはともかくとして、あのキャリア官僚OBの西中眞二郎さんが、西日を浴び「古びた銭湯」を目にしながら「自転車で図書館」に通ったり、「(彼も)あんまり偉くならなかったな」と、今頃は同窓会の会場に居残った「友ら」が自分の噂話をしているだろうと思いながら、古妻の待っている「家路」を急ぐのでありましょうか?
 だとしたら、私は、西中眞二郎さんや私自身の人生がたまらなく愛しいものと思われてならないのである。
 短歌というものは決して捨てたものではありません。
 〔返〕 キーを打つ窓から見ゆる向かひ家の二階の軒に蜂の巣のあり   鳥羽省三
     想を練る部屋から見ゆる石段の右片隅に山百合の咲く
 
(ひじり純子)
〇  課題図書読んで書いてる感想文みたいに見える君からのメール 
 Eメールやツイッターが全盛を極めている今日では、我が国国民の文章表現力の著しい低下や文章表現への意欲の衰退が危惧されているのである。
 そうした現状を考えると、たとえ小学校の夏休みの「課題図書を読んで書いてる感想文みたいに見える」「メール」でも、それなりの意欲で以て記そうとする「君」の努力は評価されなければなりません。 少し皮肉を申せば、作中の「君」にとっての本作の作者・ひじり純子さんは、「課題図書」のような存在になっているかとも思われます。
 たまには気を緩めて、許すものを許したらどうですか?
 彼の求めるものを与えたらいかがですか?
 〔返〕 AVを観ながら打ったのかも知れぬ?メールの中の私の裸体! 鳥羽省三
     メールにて私を裸にして下さい!私は天使でありませんから!

(アンタレス)
〇  整理して惜しみつ図書を始末せり吾が本棚の寂し空間
 「整理して惜しみつ図書を始末せり」という上の句は、作者のアンタレスさんとしては「整理して(棄てるのを)惜しみながら図書の始末をしている」といった意味になるつもりなのでありましょう。
 だが、「惜しみつ」の「つ」は完了や強意や並列を表す助動詞であり、「~(し)ながら」という意味で用いることは出来ません。
 本作を上述のような文意の作品とするならば、字余りにはなりますが、同時並行の意味を表す接続助詞「つつ」を用いて、「整理して惜しみつつ図書を始末せり吾が本棚の寂し空間」としなければなりません。
 その問題とは別に、上の句中の語「整理」と「始末」とは類義語であり、「整理して惜しみつつ図書を始末せり」としても、効率の悪い二重表現の作品となってしまいます。
 作品を投稿する場合は、そうした点についても注意する必要がありましょう。
     無くすのを惜しみながらも処分せり我が本棚の空洞寂し   
     棄つるのを愛しみつつも始末せり我が本箱の空洞淋し
     永かりし我が青春の始末とて蔵書百冊裏庭で焼く
     過ぎ去りし我が青春の形見なる蔵書百冊裏庭で焼く
     過ぎ去りし我が青春の形見なる蔵書百巻煙となりぬ
 などと、工夫次第で似たような趣旨の作品はいくらでも詠めるではありませんか?
 一首詠んで、碌々推敲もしないで投稿してはいけません。   

(ましろ子)
〇  放課後のあの子のいない図書室で盗み見ていた貸し出しカード
 本作の作者は、高校時代に図書委員を経験したのでありましょうか?
 だとしたら、作中に「盗み見ていた貸し出しカード」とありますが、作者は、放課後のカウンター当番として、カウンターの内側で他の生徒の「貸し出しカード」を点検していたのであって、点検中の「貸し出しカード」の中の一枚がたまた憧れていた男子生徒のものであったが為に、そこに罪の意識が働き、その意識をそのまま作品化して「盗み見ていた貸し出しカード」という形で表現なさったのでありましょう。
 したがって、本作の作者のましろ子さんは格別な暗い性格の生徒ではなかったかと思われます。
 ところで、お題「図書」への投稿作の殆どが「学校図書館での男女生徒の出会い」「公立図書館で過ごした青春」といったような内容の作品であり、本作も亦、同趣向の作品と思われますが、短歌作品としての形式やリズムや表現が、他の方々の作品とは異なって整っていたので採らせていただきました。
 しかしながら、他の方々の類想作と同様に発想の平凡さは否めません。
 〔返〕  図書館の貸し出しカードを点検し百年の恋一瞬に覚め   鳥羽省三
      図書室の貸し出しカードが物語る男子生徒の暗い青春   

(松木秀)
〇  三か月返さず読みき高校の図書室にありし『ケインとアベル』
 いろいろと悩みながらも結論的には野放図に過ごしてとしか言えない高校生時代を回想しての作品かと思われる。
 ところで、フリー百科事典『ウイキペディア』の記載に拠ると、作中の『ケインとアベル』とは、「ジェフリー・アーチャーが1979年に発表した小説。イギリスでテレビドラマ化され、日本でも放映された。書名は旧約聖書『創世記』に登場する兄弟相克の物語『カインとアベル』にちなんで付けられている。」とのことであり、その内容は「20世紀の現代史を背景に、生い立ちの異なる2人の主人公を、双方の視点から交互に描き、やがて2人の運命が交錯するストーリー」とのことである。
 それはそれとして、学校図書館から借りて来た図書を「三か月」もの長期間返却しないのは、いかなる理由があろうとも絶対に許されないことであり、この点については、本作の作者・松木秀さんも謙虚に反省しなれけれはなりません。
 ましてや、松木秀さんは、今や総合誌などにも作品が掲載されている著名な歌人でありますから、本作のような学生としてのマナーに欠け、倫理道徳に反する過去の過ちを作品化して公衆の面前に曝すことは避けなければなりません。
 教員として学校図書館の運営と教育現場としての図書館の在り方についていろいろと考えて来た人間の一人として申し上げます。
 以後宜しくご注意のほどを。
 〔返〕 ひ弱にて長時の読書に堪えません特別扱いお願いします   鳥羽省三
     図書室の貸し出しカードが物語る松木秀氏の昏い青春

(五十嵐きよみ)
〇  図書館の本は書店の本よりも老成するのがひと足早い
 「図書館の本」には、帯出なさった多くの方々の掌の脂や汗が沁み込んでいるから、そのように思われるのでありましょう。
 また、考えようによっては、「本」とは、ただ単に、紀伊國屋書店や丸善の書棚に並んでいる段階では只の印刷物であり、ブックオフの105円棚に並べられたり、図書館の書棚に並べられたりして、個々の購入者や読者の方々の掌の脂や汗や涙、更には飲み物や食べ物の汁や精液などが沁み込むような段階になってから、本の本としての役割りを果たすようになり、それと共に「老成」して行くものだとも言えましょう。
 〔返〕 丸善の書棚に並ぶ本たちは手垢の沁みる日を待ち焦がれてる   鳥羽省三
     坂下の三省堂の書棚にて嫁がず後家に成り果てし本
     三崎町の日本書房の本棚に居並ぶ怨霊・国文学書
     高林恒夫、某古書店の店主にてかつての巨人の名外野手だ

(原田 町)
〇  丸善へ委託してからわが街の図書館員の愛想良きとか
 「さもありなん!」といった感じで鑑賞させていただきました。
 最近、税収入や交付金などの激減に伴って、経費削減を理由にして、公立の図書館や美術館などの公共文化施設の運営を民間業者に委ねようとする地方公共団体が激増し、その様々な問題点が指摘されている。
 其処で、そのマイマス面はさて措いて、プラス面を指摘すると、その運営経費の減少と共に、図書館などの窓口業務担当者の「愛想」が良くなったという点は、嘘か真か定かではありませんが、その利用者たちの間で日常的に指摘され、話題にされているところである。
 本作の作者・原田町さんが居住されておられる「街の図書館」の運営業務は、東京・日本橋に本社の在る、あの「丸善」に「委託」され、それに伴って「図書館職員の愛想」が良くなったとか?
 本作の表現上の留意点を指摘させていただきますと、末尾七音に、疑問の係助詞を用い、「愛想良きとか」と、言外に疑問符を付け加えられるようになっている点である。
 それについて一言すれば、本作の作者の原田町さんは、本作の表現を通じて、「丸善へ委託してからわが街の図書館員の愛想」が良くなった(とか)という点を、ただ単に、ご自身が耳にされた噂話として、此処にご披歴なさったのでありましょうか?
 それとも、たとえそうした現象が見られたとしても、それは一時的な現象であり、やがて<元の木阿弥>になってしまうに違いない、との、否定的かつ皮相的な見方をご披歴なさったのでありましょうか?
 此処は、是非とも、作者ご自身のご意見を賜りたい場面ではある。
 〔返〕 丸善に委託してから図書館に洋書が急に増えたみたいだ?  鳥羽省三
     丸善に委託してから我が街の図書館員が美人になった
 「我が街」の図書館・川崎市立多摩図書館について言えば、貸し出し業務などをボランティアなどのご婦人がご担当なさって居られるとかで、館外帯出する際は、申し合わせているようにして、必ず「ありがとうございます。」と仰り、返却する際も、必ず、「こんにちは。ご苦労様です。」と仰るので、「借り出した書籍を大切にして、返却期限に遅れるようなことは絶対にしない!」という気持ちにさせられてしまうのである。
 〔返〕 我が街の図書館員は豹柄のケバい衣服を着用しない  鳥羽省三
     川崎の図書館員はお仕着せの制服を着て礼儀正しい
 
(矢野理々座)
〇  紀伊国屋広い売り場の案内図書籍さがしは恋人さがし
 作中の表現から推測するに、本作の意は、「私は新宿『紀伊国屋』の『広い売り場』の中を、カウンターの係員から貰った『売り場の案内図』を手にして、先程から、購入したいと思っている『図書さがし』をしているのである。内気で、読書を唯一の趣味としている私にとって、『図書さがしは恋人さがし』のようなものである。」といったところでありましょうか?
 だとしたら、本作は、「題詠短歌にご参加中の方々の中でも、一、二の才媛」との噂が高い、矢野理々座さんに最も相応しい内容の作品と申せましょう。
 しかし、そうは言っても、矢野理々座さんとて、夢多き乙女の一人でありましょう。
 だとしたら、「書籍さがしは恋人さがし」とまで言い切って宜しいのでありましょうか?
 〔返〕 丸善の詩集売り場の平積みに盗んだ一顆の檸檬を置いた   鳥羽省三
     新宿の紀伊国屋ホールの舞台にて杉村春子を目にしたあの日
     ブックオフの105円棚に曝されて永遠に売れない『サラダ記念日』
     丸善や紀伊国屋には行かないで自分探しに図書館通い

(磯野カヅオ)
〇  長靴で跳ねはしやぐ子の図書館に傘さしたまま入ろうとせり
 昨今のママたちの中には、梅雨時の雨天の日にも関わらず、我が「子」に「長靴」を履かせたり、「傘」を差させたりして、図書館通いを欠かさない者もいる、ということである。
 こうした折の子供は、知性派を自認するママが、梅雨時にも関わらず、自分を「図書館」に連れ出した意図を理解出来るはずがありません。
 したがって、連れ出された「子」の中には、ただ単にママとお揃いの「長靴」を履き、雨傘を差したのが嬉しくて、泥濘だらけの道端で「跳ね」回ったり、はしゃぎ回ったりしていて、挙句の果てには、「図書館」の中に「傘」を「さしたまま」で「入ろう」とする場合も在り得ましょう。
 したがって、ごく常識的に考えれば、仮にそうした場面を目にしたとしても、その「子」の頑是無さや、その「子」のママたる女性の躾の悪さを非難するに値しません。
 と、すると、作者の磯野カヅオさんは、この優れた写生句を、如何なる意図で以ってお詠みになられたのでありましょうか?
 〔返〕 雨の日は長靴履いてお出掛けだ!ママとお揃い僕は嬉しい! 鳥羽省三
     雨降れば雨傘差してお出掛けさ!ピチピチちゃぷちゃぷ乱濫嵐!
 
(蜂田 聞)
〇  柔肌の熱き露出に期待せで有害図書を欲するや君
 この場面に於いては、「有害図書」といったような、文科省や全国PTA連合会の幹部連の好みの言葉を使う必要は、さらさらにありません。
 いっそのこと、「アダルト図書」とか「エロ雑誌」といったような、そのものずばりの用語を用いるべきでありましょう。
 〔返〕 柔肌の熱き血潮に触れもせでエロビデオ観てマス掻く君よ 鳥羽省三
 
(なまにく)
〇  文部省推薦図書の感想が書けないままで大人になった
 作中の「文部省推薦図書」は、今風に言えば「文部科学省推薦図書」でありましょう。
 ところで、作中には「文部省推薦図書の感想が書けないままで大人になった」とありますが、本作の作者の<なまにく>さんは、、生まれた時から思慮深い人間であったが為に、「文部省推薦図書」の類の類型的かつ道徳的な内容の「図書」の感想文は、書けなかったのかも知れません。
 したがって、本作の創作で以って、作者の<なまにく>さんがご披歴なさろうとした事柄は、必ずしも、ご自身の悲劇的な前半生についての悔悟や反省といったところでは無く、むしろ優れた特質でありましょう。
 ã€€ã€”返〕 図画一枚習字一枚出さぬまま「3」を貰って単位習得   鳥羽省三

(鳥羽省三)
〇  萬巻の図書を収むる蔵に居て糊食む紙魚の幽き生よ
 かなり気取った内容の作品かと思いますが?
 〔返〕 紙魚どもは何を食めるや図書蔵に身をぞ潜めて呼吸だにせず  鳥羽省三
     紙魚どもは何に生くるや図書蔵に息を潜めて身動きもせず

「『題詠2012』投稿歌を切り裂く(其の7)」 鳥羽省三

一首を切り裂く(027:損)
2012年10月12日

(平和也)
〇  丸亀の昼の人出に恐れなし損をした気でカップラーメン 
                          ※丸亀=丸亀製麺(うどん屋)
 讃岐饂飩専門のセルフサービスチェーン店として、既に日本全国47都道府県の全てに支店網を布き、その総数650店にもなろうとしている「丸亀製麺」ともなれば、ただ単に「丸亀」と言っただけで、「あっ、あの釜揚げ饂飩やぶっかけ饂飩で有名なあの店か!あの店には、私は今週既に三回も行っていて今日も行く予定をしているから、あの店の売り上げに、私は、今週だけで二千円も貢献することになる!それにしても、お昼時のあの店の込み具合は異常とも言える!どうにかならないもんだろうか?」などという声を聴かなかった者は、私の周辺には只の一人として存在しないことでありましょう(少し大袈裟かな?)。
 本作の作者・平和也さんは、その姓名に相応しく、「丸亀の昼の人出に恐れ」をなして「損をした気でカップラーメン」を食べた、と云う。
 彼のような人物を指して、「グランプリ馬鹿」と云うのでありましょうか?

(紫苑)
〇  背く日はなべて損ねじ厨辺に我が身をよろふ性(さが)のかなしき
 初句及び二句の「背く日はなべて損ねじ」を口語訳すれば、「誰かが私に『背く日』は、私はこれまでに培ってきた、その誰かとの関係の全てを壊したくない(壊さないつもりだ)」、或いは「私が誰かに『背く日』には、私はこれまでに培ってきた、その誰かと関係の全てを壊したくない(壊さないつもりだ)」ということになりましょうか?
 そうした二通りの解釈のいずれにしろ、「背く日はなべて損ねじ」と頑なに決意するのは、作中主体(=作者)自身なのである。
 だとすると、作中主体は異常とも言えるほどの寛大な(或いは我が儘な)心の持ち主ということになり、下三句に示される「厨辺に我が身をよろふ性のかなしき」と云うご心境とは、微妙な食い違いが認められるのである。
 其処の辺りの関係を、作者の紫苑さんはどのようにお思いになって居られるのでありましょうか?
 ところで、その問題とは別に、私は、「背く」の対象となる人物を推定してみましたが、作中の「厨辺に我が身をよろふ性」という語句を手掛かりにすれば、その対象となる人物は、必然的に作中主体の配偶者になる、と思われるのであるが、その点についての作者ご自身のお考えはいかがでありましょうか?
   〔返〕 背く日はなべて損ねむ思ひ出もこのアルバムも胸のタトゥーも  鳥羽省三

(今泉洋子)
〇  愛ひとつ受け損なひし秋の夜に影黒々と卓の有の実
 例えば、戯れに、本作を「愛ひとつ受け損なひし秋の夜に影黒々と宅の有の実」とご改作なさったら如何でありましょうか?
 蛇足ながら申し上げますと、改作作品中の「宅」とは、「お宅様のご主人」とか「御宅の御託」などと仰る場合の「宅」であり、詰まる所は、「ものの役にも立たないご亭主のご亭主自身」を指して云うことにもなりましょうか?
 しかしながら、そのようにすることに因って、本作は、多少の下ネタ的な趣きを呈するようになりましょうが、その点に
を目を瞑って鑑賞するとしたら、上の句の文言と下の句の文言とが一体となった佳作にもなりましょう。
 原作者の今泉洋子さんとしては、如何でありましょうか?
 冗談はこれくらいにして、そろそろ本題に入らせていただきます。
 本作は、「熟年の恋を受け損ねた貴婦人の前の瀟洒なテーブルの上に、『黒々』と『影』を映して『有りの実』即ち〈梨の実〉が置かれている秋の夜の静寂」を描こうとした一首であり、本作からそれぞれの鑑賞者たちが「秋の夜の静寂」を感得出来るか否かが、本作を佳作とするか凡作とするかの境目でありましょうか?
 短歌創作の難しさは、「創作された作品が一旦作者の手から離れたら、その価値判断の全てが鑑賞者の手に委ねられてしまう」という不合理さに在りましょう。
   〔返〕 夜の底に転がり堕ちし有りの実の受け容れ難き万有引力  鳥羽省三
      
(浅草大将)
〇  現し世に背負ふは重き荷のみやの損得思ふふみを読みつつ
 「現し世に→背負ふは→重き荷」から「二宮尊徳」に辿り着く辺りの言葉の運びの見事さは、さすがに浅草大将さんである。
 〔返〕  担うのは背中の柴とこころざし手本は尊徳・二宮金次郎   鳥羽省三

(空音)
〇  いいとこで君の携帯鳴りだして山頂の岩を掴み損ねる
 「君の携帯鳴りだして」「掴み損ね」てしまった「山頂の岩」とは何か?
 初句の「いいとこで」が問題解決の唯一のヒントである。
   〔返〕 山頂の岩つかまむとせし吾のザイル途切れて掴み損ねたつ  鳥羽省三

(希)
〇  損なったつばさを癒すため夜は月光浴がいいらしいとか
 コスモスの高野公彦氏の旧作に「白き霧流るる夜の草の園に自転車はほそきつばさ濡れたり」(『汽水の光』)という著名な作品が在る。
 「損なったつばさを癒すため夜は月光浴がいいらしいとか」という話が真実ならば、高野作品に登場する自転車も亦「白き霧流るる夜の草の園」に「濡れ」ながら「つばさ」を休め癒しているのでありましょう。
   〔返〕 夜の底につばさ休めて雁は居む遠く果てしなき旅立ち前に  鳥羽省三

(コバライチ*キコ)
〇  算盤で損得勘定はじきだす時代は遥か遠くなりにき
 「ノスタル爺さん」ならぬ「ノスタル婆さん」の「老いの繰言」を述べただけの作品である。
   〔返〕 コバ・ライチ・キコ!青春のつばさ煌めかせて翔べ!コバ・ライチ・キコ・キコ!  鳥羽省三

(今泉洋子)
〇  愛ひとつ受け損なひし秋の夜に影黒々と卓の有の実
 例えば、戯れに、本作を「愛ひとつ受け損なひし秋の夜に影黒々と宅の有の実」とご改作なさったら如何でありましょうか?
 蛇足ながら申し上げますと、改作作品中の「宅」とは、「お宅様のご主人」とか「御宅の御託」などと仰る場合の「宅」であり、詰まる所は、「ものの役にも立たないご亭主のご亭主自身」を指して云うことにもなりましょうか?
 しかしながら、そのようにすることに因って、本作は、多少の下ネタ的な趣きを目を瞑って鑑賞するとしたら、上の句の文言と下の句の文言とが一体となった佳作にもなりましょう。
 原作者の今泉洋子さんとしては、如何でありましょうか?
 冗談はこれくらいにして、そろそろ本題に入らせていただきます。
 本作は、「熟年の恋を受け損ねた貴婦人の前の瀟洒なテーブルの上に、『黒々』と『影』を映して『有りの実』即ち〈梨の実〉が置かれている秋の夜の静寂」を描こうとした一首であり、本作からそれぞれの鑑賞者たちが「秋の夜の静寂」を感得出来るか否かが、本作を佳作とするか凡作とするかの境目でありましょうか?
 短歌創作の難しさは、「創作された作品が一旦作者の手から離れたら、その価値判断の全てが鑑賞者の手に委ねられてしまう」という不合理さに在りましょう。
 〔返〕  夜の底に転がり堕ちし梨一顆受け容れ難き万有引力   鳥羽省三
      夜の底に転がり堕ちし桃二顆に万有引力受け容れ難し

(さくら♪)
〇  少しだけ損した気分席がえで空が遠くに行った夏の日
 前掲作品の作者の今泉洋子さんが、「梨の実」を殊更に「有りの実」としてお詠みになるなど、教養ある貴婦人然として、取り澄まして居られるのに比べると、本作の作者の〈さくら♪〉さんは、若くて健康的で、何と無防備であり、何と溌剌として居られることでありましょうか。
 その所為かも知れませんが、我らがヒロイン〈さくら♪〉さんの作品は、発想的にも内容的にも表現的にも、何一つ文句の付けようが無いくらいの傑作である。
 中学生や高校生にとっての楽しみの一つでもあり、不安の一つでもあるのは、学級内で定期的に行われる「席がえ」である。
 私は高校教師としての立場で、「席がえ」というこの厄介な場面に何回となく立ち会ってきましたが、生徒諸君の「席がえ」に対する期待や不安の気持ちは、教師としての私の想像を遥かに超えた所にあり、一学期間、無遅刻無欠席であった、ある女生徒が、二学期始めに行われた「席がえ」を切っ掛けとして、一週間に二回も欠席、しかも欠席しなかった日は大幅な遅刻という惨状に見舞われたことも一度や二度ではありませんでした。
 本作の作者は、そうした教師側の悩みとは別に、「少しだけ損した気分席がえで空が遠くに行った夏の日」などと、さらりと爽やかに詠んで居られるのである。
 本作の作者・〈さくら♪〉さんに益々多くの幸あれ!
   〔返〕 少しだけ得した気分 席替えであの先公の唾を浴びずに済む  鳥羽省三

(nobu)
〇  損得で割り切れぬのは人生が偶数でなく奇数だからか
 それはどうかしら?
 私にも解りません。
   〔返〕 損得で割り切れぬのは教育が遍く行き渡った成果でもある  鳥羽省三

(佐藤紀子)
〇  熱中し損得抜きで働けり 若かりしかな熱かりしかな
 「若かりしかな熱かりしかな」という下の句は、真に実感の込もった表現である。
   〔返〕 熱中し損得抜きで働いて佐藤紀子はどんな得した?  鳥羽省三

(砂乃)
〇  中日が負けたと報ずるテレビ消す 父の機嫌を損ねぬように
 落合監督の居なくなった「中日」に、未だにファンが居たとは全く驚きました。
 砂乃さんのお父さんは、どんなに鹿爪らしい顔をした男性でありましょうか?
 〔返〕  中日が負け続けたら面白い毎日負けろ中日ドラゴンズ   鳥羽省三 

(鳥羽省三)
〇  「損料はお前の身体で払へよ!」と、にたにた笑ひ備前屋は云ふ
 作中の「備前屋」役を演じるに相応して俳優は、往年の名脇役スター・進藤英太郎氏!
 現在ならば大滝秀治氏と言いたいところであるが、その大滝秀治氏も、つい先日亡くなってしまいました。
〔返〕 「損料はあたいの身体で払うわ!」と、にこにこ笑つて希林は云ひぬ!  鳥羽省三


一首を切り裂く(028:脂)
2012å¹´10月13æ—¥ 

(蓮野 唯)
〇  黄金の光閉じ込めその樹脂は琥珀という名で愛でられている
 作者は、らしくも無く、宝石の一種としての「琥珀」の説明に終始しているのであるが、アニメファンと思われる作者の隠された意図を推測すると、作中の「琥珀」とは、人気アニメ『真月譚 月姫』(声-植田佳奈)に登場する少女、即ち「遠野家で働く双子のメイド姉妹の姉の方。翡翠は妹。専ら遠野秋葉付きで料理を担当する割烹着姿の少女」と思われる。
 参考のため、彼女に関するデータを記載すると、「琥珀(こはく)・誕生日:3月11日/血液型:B型/身長:156cm/体重:43kg/スリーサイズ:B78/W58/H80」となる。
 作者の蓮野唯さんが柄にも無く、突然、「琥珀」の解説などを始めてしまったもんだから私は吃驚してしまったのであるが、その真意はどうであれ、貴重な画面を費やして何かについて解説する以上は、もう少し詳細に亘る解説をして欲しいものである。
 就きましては、私は事の序でに、フリー百科事典『ウイキペディア』に記載されている「琥珀」に関する解説の一部を以下に転載させていただき、読者諸氏の参考に供したいと思います。

 「琥珀またはコハク(こはく、英語: amber)とは、木の樹脂(ヤニ)が地中に埋没し、長い年月により固化した宝石である。半化石樹脂や半化石の琥珀は、コーパルという。『琥』の文字は、中国において虎が死後に石になったものだと信じられていたことに由来する。鉱物ではないが、硬度は鉱物に匹敵する。色は、黄色を帯びたあめ色のものが多い。/バルト海沿岸で多く産出するため、ヨーロッパでは古くから知られ、宝飾品として珍重されてきた。/英名 amber はアラビア語: أﻧﺒﺮ‎ ('anbar)に由来する。コハクをローマでは活力石 (succinum)、 古代ギリシャではエレクトロン (elektron) と呼んでいた。英語の electricity(電気)は擦ると静電気を生じることに由来している。/コハクについて最初に記述したのはローマのプリニウスで、石化した樹脂であることを論じている。また、取引されているコハクはヨーロッパ北部(バルト海周辺)の産であることも知っていた。」
 「琥珀は樹脂が地中で固化してできるものであるため、石の内部に昆虫(ハエ、アブ、アリ、クモなど)や植物の葉などが混入していることがある。こうしたものを一般に『虫入り琥珀』と呼ぶ。小説『ジュラシックパーク』では、架空の設定として、琥珀に閉じ込められた蚊から恐竜の血液を採取し、その中に含まれているDNAから恐竜を蘇らせている。/なお、市販の『虫入り琥珀』については、コーパルなどを溶解させ現生の昆虫の死骸などを封入した、いわば『人造虫入り琥珀』である場合があり、これは中国で製造される。」
 「ネックレス、ペンダント、ネクタイピンなどの装身具に利用されることが多い。人類における琥珀の利用は旧石器時代にまでさかのぼり、北海道の『湯の里遺跡』、『柏台遺跡』出土の琥珀玉(穴があり、加工されている)はいずれも2万年前の遺物とされ、アジア最古の出土(使用)例となっている(ゆえに<人類が最初に使用した宝石>とも言われる)。また、バイオリンの弓の高級なものでは、フロッグと呼ばれる部品に用いられることがある。/その他の利用法として、漢方医学で用いられることがあったという。 南北朝時代の医学者陶弘景は、著書『名医別録』の中で、琥珀の効能について『一に去驚定神、二に活血散淤、三に利尿通淋』(精神を安定させ、滞る血液を流し、排尿障害を改善するとの意)と著している。/ポーランドのグダンスク地方では琥珀を酒に浸し、琥珀を取り出して飲んでいる。」
 「主な産地はかつてのプロイセンに相当する地域である、ポーランドのグダンスク沿岸と、ロシア連邦のカリーニングラード州で、ポーランド・グダンスク沿岸とカリーニングラード州だけで世界の琥珀の85%を産出し、そのほかでも、リトアニア共和国、ラトビア共和国など大半がバルト海の南岸・東岸地域である。/ポーランドは琥珀の生産において圧倒的な世界一を誇り、世界の琥珀産業の80%がグダンスク市にあり、世界の純正琥珀製品のほとんどがこのグダンスク地方で製造される。/アジアでは、中国の雲南、河南、広西、福建、貴州、日本においては岩手県久慈市近辺や千葉県銚子市でも産出される。」
 「琥珀のような色、すなわち、透明感のある黄褐色や、黄色よりの橙色を、琥珀色、または英語にならってアンバーと呼ぶ。たとえば、ウイスキーの色あいをやや詩情を込めて述べるとき、この言葉を使うことがある。また自動車関連で、方向指示器などの色は一般に『アンバー』と呼ばれる。/また、純色のうち、黄色と橙色の間にあたる色を amber と呼ぶことがある。/なお、JIS慣用色名の中の『アンバー』や、『バーント・アンバー』『ロー・アンバー』というときの『アンバー』は、土から作る顔料の umber(アンバー (顔料))に由来する、茶系の濁った色である。混同しないように注意を要する。」以上、転載終。

 以上、長々と無断転載させて頂きましたが、『ウイキペディア』の関係者の皆様には深くお詫び申し上げます。
 なお、本作の作者・蓮野唯さんを初めとして読者の皆様方には、上掲転載記事中の「なお、市販の『虫入り琥珀』については、コーパルなどを溶解させ現生の昆虫の死骸などを封入した、いわば『人造虫入り琥珀』である場合があり、これは中国で製造される」という箇所については、特にご留意賜りたくお願い申し上げます。
 それにしても、あの経済大国がそんなインチキなことをやらかすとは、呆れたものである。
  〔返〕 中国産「人造虫入り琥珀」に騙されませんようにご注意を  鳥羽省三

(しま)
〇  たっぷりの脂肪もそしてカロリーもチョコレートなら許してあげる
 私の場合は「たっぷりの脂肪もそしてカロリーも特上トロ寿司なら許してあげる」というところでありましょうか?
   〔返〕 たっぷりと志望も抱負も書いたのに未だに内定貰えずじまい  鳥羽省三

(遥)
〇  嫌われる脂肪身体に必要で肝心なのは食のバランス
 二句目が句割れになっていることに注意しなければなりません。
 即ち本作は「嫌われる脂肪/身体に必要で肝心なのは食のバランス」という二文構成の作品である。
   〔返〕 嫌われる肥満それよりも嫌われるのは不満たらたら  鳥羽省三

(西中眞二郎)
〇  血糖値体脂肪率エトセトラ気になる数値と一緒に暮らす
 通産官僚としての現役の頃の西中眞二郎さんは、「国内総生産・生産指数・物価指数・失業率・株価指数・金外貨保有高・財政収支の赤字もしくは黒字率・経常収支の赤字もしくは黒字率・日銀券発行高」などの「経済指標」の「数値」を気にしながら働いてきたのでありましょうが、退官後の西中眞二郎さんは「血糖値・体脂肪率・エトセトラ」などの「数値」を気にしながら生活しているのでありましょう。
 西中眞二郎さんに限らず、人間一般に、生きて居る限りは、何らかの形で「数値」を気にせざるを得ません。
〔返〕西友は三百九十八円(サンキュッパ)イオンなら二百九十八円(ニッキュッパ)「料亭の味」      ã€€ã€€ã€€ã€€ã€€ã€€ã€€ã€€ã€€ã€€ã€€ã€€ã€€ã€€ã€€ã€€ã€€ã€€ã€€ã€€ã€€ã€€ã€€ã€€ã€€ã€€ã€€ã€€ã€€ã€€ã€€ã€€ã€€ã€€ã€€ã€€é³¥ç¾½çœä¸‰ã€€ã€€ã€€ã€€ã€€ã€€ã€€ã€€ã€€ã€€
(空音)
〇  張りの無い脂肪でできた乳房でも顔を埋める人のありけり
 そこまで言って宜しいのかどうかは私にも解りません?
   〔返〕 張りのある志望を持って進みなさい就活断念まだまだ早い  鳥羽省三

(御子柴 楓子)
〇  その巨乳ただの脂肪と知ってても手が出てしまう俺の愚かさ
 本作の場合も亦、そこまで言って宜しいのかどうかは私には解りません?
   〔返〕 脂肪抜きノンカロリーの加工乳飲んでる者の気が知れません  鳥羽省三

(芳立)
〇  埋み火を指にともせばあかねさす君のひとみに脂がやどる
 「埋み火」と言っても熱いことには変わりがありませんから、妄りに「指にとも」したりするのは危険である。
 「脂がやど」っている「君のひとみ」に引火してしまったらどうするんですか?
   〔返〕 埋み火を煙草火としつチエホフ忌 両切りタバコはピース缶入り  鳥羽省三  

(佐竹弓彦)
〇  臍周りにあはれ脂身 存へてゐれば道造、中也も同じ
 中原中也が肥満体であったことは、写真を見れば何と無く解りますが、立原道造の場合は、全く想像もつきません。
 武藤秀明著『天才・立原道造の建築世界』に記すところに拠ると、「立原は身長一七五センチに対し、体重がわずかの四九キロだったとのこと。極端に細かったようだ」とある。
 したがって、本作の創作意図及び文意は、私には理解することが出来ません。
 〔返〕  ハンサムを誹謗せむとの意図をもて創作された作品ならむ   鳥羽省三

(本間紫織)
〇  あぶらとり紙の脂もさっきまで確かに君の一部であった
 「『あぶらとり紙の脂もさっきまで確かに君の一部であった』と思えば棄て難い」という次第でありましょうか?
 だとしたら、作中主体は、偏執狂的な男性なのかも知れません?
   〔返〕 キッチンペーパーに滲み付いたカネミ油も鰯の頭も信心から  鳥羽省三

(穂ノ木芽央)
〇  おろかにも合成樹脂の花束にシャネルふりまくやうな献身
 初句の「おろかにも」は、単なる字数合わせの役割りを果たしているに過ぎません。
 何故ならば、作者が言わんとしているころは「合成樹脂の花束にシャネルふりまくやうな私の献身」だけで充分に解るからである。
 〔返〕  某国製の合成樹脂の花束にシャネルふりまくような政策   鳥羽省三


一首を切り裂く(029:座)
2012年10月17日
 
(もふ)
〇  万座でのスノーボードが悔やまれる借金ばかり積もり積もって
 お題「座」をよく活かそうとした点に好感を覚える。
 ところで、「スノーボード」に興じたゲレンデが「万座」以外のゲレンデであったならば「借金」をしないで済んだのでありましょうか?
     〔返〕 万座でのお笑ひ芸は笑わせる芸ではなくて笑われる芸  鳥羽省三

(たつかわ梨凰)
〇  オリオンは冬の星座を従えて輝きつつも西へ落ちゆく
 「オリオン」とは、「<トレミーの四十八星座>の中にも含まれていて多くの伝説を持ち、全八十八星座の中でも特別視されている<オリオン座>」を指して云うのである。
 ところで、その「オリオン座」は、冬の間、数多在る「冬の星座」の盟主として空高い位置に在って偉容を誇っているのであるが、さそり座が東の空から上る時刻になると、まるでこそこそと逃亡するようにして西の空に落ちて行く。
 本作は、そのオリオン座の偉容を説き、その運行を説こうとした作品であるが、同じような趣向の詩歌が先行作品として見られるのは、真に惜しまれることである。
   〔返〕 戦国の毛利の家紋のオリオンや!真一文字の下に三ツ星  鳥羽省三

(アンタレス)
〇  国木田の座して四顧して考える好きな言葉が病みて叶いぬ
 本作を通じて作者のアンタレスさんを述べようとしていることは、「国木田独歩の『武蔵野』に<林の奥に座して四顧し、傾聴し、睇視し、黙想す>という言葉が在り、それは私が『好きな言葉」であるが、私はこれまで残念ながら、そのような心境に達したことが一度もありませんでした。ところが、この度、私は病床に臥す身となり、初めて国木田独歩と同じような心境に達したのでありました」といったところでありましょうか?

九月十九日
 「朝、空曇り風死す、冷霧寒露、虫声しげし、天地の心なお目さめぬがごとし」
同二十一日
 「秋天拭うがごとし、木葉火のごとくかがやく」
十月十九日
 「月明らかに林影黒し」
同二十五日
 「朝は霧深く、午後は晴る、夜に入りて雲の絶間の月さゆ。朝まだき霧の晴れぬ間に家を出で野を歩み林を訪う」
同二十六日
 「午後林を訪う。林の奥に座して四顧し、傾聴し、睇視し、黙想す」
十一月四日
 「天高く気澄む、夕暮に独り風吹く野に立てば、天外の富士近く、国境をめぐる連山地平線上に黒し。星光一点、暮色ようやく到り、林影ようやく遠し」
同十八日
 「月を蹈んで散歩す、青煙地を這い月光林に砕く」
同十九日
 「天晴れ、風清く、露冷やかなり。満目黄葉の中緑樹を雑ゆ。小鳥梢に囀ず。一路人影なし。独り歩み黙思口吟し、足にまかせて近郊をめぐる」
同二十二日
 「夜更けぬ、戸外は林をわたる風声ものすごし。滴声しきりなれども雨はすでに止みたりとおぼし」
同二十三日
 「昨夜の風雨にて木葉ほとんど揺落せり。稲田もほとんど刈り取らる。冬枯の淋しき様となりぬ」
同二十四日
 「木葉いまだまったく落ちず。遠山を望めば、心も消え入らんばかり懐し」
同二十六日・夜十時記す
 「屋外は風雨の声ものすごし。滴声相応ず。今日は終日霧たちこめて野や林や永久の夢に入りたらんごとく。午後犬を伴うて散歩す。林に入り黙坐す。犬眠る。水流林より出でて林に入る、落葉を浮かべて流る。おりおり時雨しめやかに林を過ぎて落葉の上をわたりゆく音静かなり」
同二十七日
 「昨夜の風雨は今朝なごりなく晴れ、日うららかに昇りぬ。屋後の丘に立ちて望めば富士山真白ろに連山の上に聳ゆ。風清く気澄めり。げに初冬の朝なるかな。田面に水あふれ、林影倒に映れり」
十二月二日
 「今朝霜、雪のごとく朝日にきらめきてみごとなり。しばらくして薄雲かかり日光寒し」
同二十二日
 「雪初めて降る」
三十年一月十三日
 「夜更けぬ。風死し林黙す。雪しきりに降る。燈をかかげて戸外をうかがう、降雪火影にきらめきて舞う。ああ武蔵野沈黙す。しかも耳を澄ませば遠きかなたの林をわたる風の音す、はたして風声か」
同十四日
 「今朝大雪、葡萄棚堕ちぬ。夜更けぬ。梢をわたる風の音遠く聞こゆ、ああこれ武蔵野の林より林をわたる冬の夜寒の凩なるかな。雪どけの滴声軒をめぐる」
同二十日
 「美しき朝。空は片雲なく、地は霜柱白銀のごとくきらめく。小鳥梢に囀ず。梢頭針のごとし」
二月八日
 「梅咲きぬ。月ようやく美なり」
三月十三日
 「夜十二時、月傾き風きゅうに、雲わき、林鳴る」
同二十一日
 「夜十一時。屋外の風声をきく、たちまち遠くたちまち近し。春や襲いし、冬や遁れし」              (國木田獨歩『武蔵野』より)

 国木田独歩の『武蔵野』は、徳富蘆花の『みみずのたはこと』と共に私の愛読書(文字通りの愛読書、私はこれらの作品を時折り音読する。
 音読するに相応しい作品が、現代文学の中に無くなってしまったことは真に寂しいことであるので、本作に接した機会に、その中の「二」の後半部の「独歩日記」の部分を抜粋させていただきました。
 「名作から取材した作品は名作で無ければならない」と言われているそうですが、上掲のアンタレスさんの御作は、果たして「名作」と言えましょうか?
 私も本作の作者と同様に独歩ファンの一人でありますから、作者のお気持ちはよく解りますが、このままでは名作と言えないのは勿論のこと、短歌とも言えないような気がしないでもありません。
 取材した『武蔵野』は、格調高い明治文学の中でも名文中の名文と謳われている作品ですから、本作の作者はそれに匹敵するような格調高い短歌を詠まなければなりません。
 他人の作品に取材して短歌をお詠みになる場合は、揶揄しようとする場合ならともかく、それ以外の場合は、取材源となった作品や作者に対する敬意尊崇の念が読み取れるような作品でなければなりません。
 「取材源となった作品や作者に対する敬意尊崇の念が読み取れるような作品」とは、即ち「取材源となった作品に匹敵するような短歌」ということになりましょうか?
 それは少し大袈裟としても、もう少し増しな作品にしなければ国木田独歩の霊魂も浮かばれません。
 例えば、「独歩曰く『林の奥に座し、四顧して、黙想す』とはこの謂ひならむ」とでもすれば、作者の創作意図は、読者諸氏にも少しは伝わりましょう。
 そもそも、明治の文豪・国木田独歩を紹介しようとして「国木田」とは、何たる云い条でありましょうか!
 夏目漱石を紹介しようとして「夏目」という者が存在しましょうか?
 島崎藤村を紹介しようとして「島崎」という者が存在しましょうか?
 正岡子規を紹介しようとして「正岡」という者が存在しましょうか?
 石川啄木を紹介しようとして「石川」という者が存在しましょうか?
 この種の短歌作品の趣きは、題詠短歌に参集なさって居られる多くの歌人たちの中の、いわゆる「歌人ちゃん」たちの理解し得る範囲を超えたところに存在するものと思われますから、初句を敢えて「国木田の」とか「独歩の」とかとする必要は無く、原典をそのまま引用して「『林の奥に座して四顧し、傾聴し、睇視し、黙想す』との謂ひならむ」とでもすれば、創作意図は十分に伝わるものと思われます。
 この種の作品は、万人に解って貰おうとして詠んではいけません。
 「三百人の中の十分の一」。乃至は「二十分の一」の方々に理解して頂ければ十分だ、との意図で以って詠まなければなりません。
 欲張ってはいけません。
 詠い出しの五音を「国木田の」となさったのは、恐らくは万人の方々に理解して頂こうとした結果、欲張った結果と思われます。
   〔返〕 よもすがら楢の葉さやぐ音きけば心もしのに『武蔵野』思ほゆ  鳥羽省三

(佐竹弓彦)
〇  独吟の愉悦 土星の輪の上に月の座だらけの歌仙一巻き

   (発句)  これはこれはと言はんばかりの満月   省三
   (脇句)  お団子盗む児も今はなく        同
   (第三)  寝待月見ずに語らむ夜もあらむ     同
 平句及び挙句は省略させていただきます。
   〔返〕 独吟に愉悦は無くて侘びむかな宵待草も今宵は咲かず  鳥羽省三
   
(芳立)
〇  出勤のタクシーで読む日経を染めてながれる銀座のネオン
 推測するに、本作の作者のご職業はクラブの支配人かな?
   〔返〕 出勤の電車の中で詠む歌の押しも押されもせぬ佳作にて  鳥羽省三

(畠山拓郎)
〇  新妻の席には誰が座るのか新居のための図面が練らる
 いまどき、囲炉裏があるわけは無いんですから、横座もカカ座もキンスリ座もありません。
 「新妻の席には誰が座るのか?」などと、余計な心配はせずに「新居の図面」を練り給え。
   〔返〕 主婦の座に座る女も三人目五男六女の大家族なり  鳥羽省三

(松木秀)
〇  信長の専売特許にあらずして楽市楽座各所にありき
 ご説の通りであります。
 「信長の専売特許」という訳ではありませんが、通常、私たちが「楽市楽座」という言葉を耳にすれば、安土城下に「楽市楽座」を布いて民生に成功した戦国の英雄・織田信長を連想するのである。
 しかしながら、「楽市楽座」の制度については、天文18年(1549)に近江国の領主・六角定頼が居城である観音寺城の城下町石寺に楽市令を布いたのが初見とされる、という説も在り。
 また、今川氏真が行った富士大宮楽市も萌芽期の楽市ではないかという説も在り、弘前大学名誉教授の日本史学者・安野眞幸氏の分析によれば、この今川氏真の事績が、翌年の織田氏など以後の戦国大名による楽市令などに大きな影響を与えたとされている。
   〔返〕 明日行く多摩区民祭の襤褸市も現代版の楽市楽座  鳥羽省三

(コバライチ*キコ)
〇  さりげなく隣に座る君の香の陽の匂いする図書室の午後
 体育会系の彼が珍しく「図書室」を現れたのでありましょうか?
 「さりげなく隣に座る」ところに、体育会系独特の遠慮深さと押しの強さが窺われるのである。
   〔返〕 強引に隣りに座る君の汗 煙草の匂ひ両切りピース  鳥羽省三

(原田 町)
〇  フランスへ飛んで行きたし十四時間座っていられる体力あれば

    旅 上

  ふらんすへ行きたしと思へども
  ふらんすはあまりに遠し
  せめては新しき背広をきて
  きままなる旅にいでてみん。
  汽車が山道をゆくとき
  みづいろの窓によりかかりて
  われひとりうれしきことをおもはむ
  五月の朝のしののめ
  うら若草のもえいづる心まかせに     (萩原朔太郎『純情小曲集』より)

 お年がお年ですから、ご無理をなさらないで下さい。
    〔返〕 いとせめて東京スカイツリーにでも私と一緒に上りませんか!  鳥羽省三

(五十嵐きよみ)
〇  反論を言い出せなかった唇で星座の名前を読み上げてみる
 「牡羊座・牡牛座・双子座・蟹座・獅子座・乙女座・天秤座・蠍座・射手座・山羊座・水瓶座・魚座」などと、「トレミーの四十八星座」を順序良く「読み上げてみる」のでありましょうか?
 それとも、順不同に「蠍座・狼座・鷲座・蛇座・山猫座・一角獣座・海蛇座・蜥蜴座・巨嘴鳥座・蠅座・猟犬座」などと、怨念を込めて「読み上げてみる」のでありましょうか?
 どちらにしろ女性は怖いから、「反論」があったら言いたいだけ言わせておかなければなりません。
   〔返〕 反論を云い出せなかった唇にルージュ重ねてデパ地下を往く  鳥羽省三

(湯山昌樹)
〇  武道場の空気は凛と張りつめて正座の影の清々しさよ
 「武道場」は剣道の道場でありましょうか?
 それとも、柔道の道場でありましょうか?
 そのいずれにしても、「武道場」とせずに「道場」とする手もありましょう。
 一首全体の雰囲気から正月の初稽古の有様が偲ばれて宜しい。
   〔返〕 道場の男臭さが好きと言う大間茜の初化粧かも  鳥羽省三

(佐藤紀子)
〇  おかっぱで座敷わらしのやうなりき五歳の頃の末の娘は
 「娘」という種族の変わり身の速さには驚くべきものがある。
   〔返〕 ガングロが白無垢姿に変身し今朝はお輿入れコスモス日和  鳥羽省三

(杜崎アオ)
〇  とんと昔、玉座にだれもおらんので右を向いたが右向きのまま
 そういう訳で、「玉座」に座っている御仁は「とんと昔」から「右向きのまま」なのでありましょうか?
   〔返〕 あれ以来お妃様はそっぽ向いて何をするにも皇子様独り  鳥羽省三

(今泉洋子)
〇  昭和の家族写真の背景にゐさうでゐない座敷わらしは
 「ゐさうでゐない」という四句目の表現は、一応は何か意味ありげな七音ではある?
 しかしながら、作者得意の思わせ振りなポーズに過ぎなくて、恐らくは、無理矢理、お題「座」を消化する為に末尾の七音を「座敷わらしは」とした為に、その直前の句として、単なる音数合わせとして「ゐさうでゐない」と置いたのでありましょう。
   〔返〕 岩手県遠野の民家のオシラ様お役御免で博物缶入り  鳥羽省三
       鍋島の家族写真の背景に今でも映る怖い化け猫

(村田馨)
〇  渡し舟に座ってゆらり見上げれば千歳橋なりブルーのアーチ
 フリー百科事典『ウイキペディア』に「千歳橋(ちとせばし)は、大阪市大正区の大正内港に架かる橋。2003年(平成15年)4月開通し、土木学会田中賞を受賞した。」「千歳橋は、大正区鶴町~同 北恩加島間への架橋により、市内中心部への交通を遠回りせざるを得なかった鶴町地区の交通の便を改善するとともに、大正通の交通混雑を緩和する目的で設置された。大浪通を延長する形で架橋され、大正通の終端に接続している。主橋梁部はアーチ橋とトラス橋が融合した2径間連続非対称ブレースドリブアーチ橋であり、鮮やかな青色に塗られている。」と記載されていて、「ブルーのアーチ」の写真が併載されている。
 なお、「大阪市には現在も渡船場が八箇所在り,そのうちの七箇所までが大正区内に在り、新千歳橋と並行する千歳渡船場もその一つであり、渡船料はすべて無料であり、区民の生活の足になっている」とのこと。
 橋下徹市長の行政手腕が期待されるところである。
  〔返〕 渡船場の料金無料はどうかしら?橋下市長の決断一つ!  鳥羽省三

(鳥羽省三)
〇  公園のジャングルジムの赤錆びて座布団持った子らのちらほら
 一時期、「ジャングルジム」を初めとして「公園」の遊具の全てが危険な遊具とされていて、「公園」で遊ぶお子様たちの姿が見られなくなっていましたが、この頃は「ちらほら」見掛けられるようになりました。
 それでも、最近のお子様たちは躾が宜しくて、防災頭巾兼用の「座布団」を敷いて滑り台で遊ぶとか?
   〔返〕 赤錆びたジャングルジムで遊ぶのは泡立ち草と鴉が三羽  鳥羽省三 


一首を切り裂く(030:敗)
2012年10月21日

(秋月あまね)
〇  砲身を顔映るまで磨きつつ敗戦それはそれとして聞く

 『砲 塁』

 破片は一つに寄り添はうとしてゐた
 亀裂はまた微笑まうとしてゐた
 砲身は起き上つて
 ふたたび砲架に坐らうとしてゐた
 みんな儚い原形を夢みてゐた
 ひと風ごとに、砂に埋れて行つた
 見えない海
 候鳥の閃き


 『破片』

 砲口に鴉が巣をくつてゐた
 砲架の崩れには蝙蝠がひそんでゐた
 土砂は堆く
 錆に絡まれて思念の中に
 めいめいが日と夜とかけちがつて暮らしてゐた 

 『鶴』

 破れた羽根をひろげた鶴に
 破れた羽根のほかのなにがあらう
 破れた羽根を帆のやうにいつぱいに傾けて
 鶴よ 風になにを防がうとしてゐるのだ


 『弔歌』

 柩に花びらを撒かう
 花びらを砂の蓋でかくさう
 蓋に泪の釘を打たう      (丸山薫『帆・ランプ・鷗』より)
   〔返〕 敗戦は受け容れ難き事実なり砲身磨くは死に化粧なり  鳥羽省三

(るいぼす)
〇  「2位じゃだめなんですか?」という発言を思い出す 敗けたとはいえ銀
 「敗れたとはいえ銀」とは言え、「2位じゃだめなんですか?」という句中の「2」の字が半角文字になっているので、銀メダルの価値がまた一段と低くなってしまいました。
 〔返〕「選挙区では2位ではダメなんですよ!落選なんですよ!蓮舫議員!」  鳥羽省三 

(黒木うめ)
〇  僕たちは知っていましたあの花が敗戦処理の為に咲くこと
 作中の「あの花」とは、日本ハムの斎藤佑樹投手(愛称・ハンカチ王子)を指して言うのでありましょうか?
   〔返〕 あの花は敗戦処理にも使えない開幕投手が聞いて呆れる  鳥羽省三
       ハンカチは鼻水拭くのに使えるが尻拭いには使えはしない

(西中眞二郎)
〇  父戦死 原爆 敗戦 盆踊り わが八月の思いは深し
 本作の作者・西中眞二郎さんの出身地は山口県大島郡周防大島町(旧東和町)であり、瀬戸内海を挟んで柳井市の対岸であり、「原爆」が投下された広島市は旧東和町の北北東方向対岸に当たると思われる。
 だとすれば、昭和二十年八月六日の八時十五分に投下された「原爆」のきのこ雲を、西中眞二郎さんは生地の周防大島で直接ご覧になったのでありましょう。
 ところで、本作は「父戦死」→「原爆」→「敗戦」→「盆踊り」と、上の三句で作者の「八月」に纏わる四つの事項を列挙した後、「わが八月の思いは深し」という詠嘆的な二句十四音で総括するような構成になっている。
 上の三句の中の「父戦死」「原爆」「敗戦」の三つの事項は、単なる「八月」では無くて、昭和二十年の「八月」に作者ご自身が接した悲しい出来事であり、それに続く「盆踊り」とは、やや趣きを異にした出来事でありましょう。
 ならば何故、作者の西中眞二郎さんは、これらの四つの事項を「わが八月の思い」として列挙したのでありましょうか?
 思うに、西中眞二郎さんは、「父戦死→原爆→敗戦」と昭和二十年八月に直接ご体験なさった悲しい出来事を列挙した後、その悲しい記憶を再認識し、更には、それらの悲しい出来事を鎮める役割りを果たすものとして「盆踊り」を三句目に置いたのでありましょう。
 端的に言うなれば、西中眞二郎さんにとっての「盆踊り」は、昭和二十年八月に連続した体験した悲しい出来事の「鎮魂」の役割りを果たすものでありましょうか?
 事の序でに記しますと、周防大島出身の著名人と言えば、民俗学者の宮本常一氏、作詞家の星野哲郎氏の二名が挙げられるが、「鳥羽さんよ、宮本常一・星野哲郎に続く三人目が無くて困ってるんだよ。敢えて言えば、この私(浜本先生ご自身)が周防大島出身の三人男の末席を汚す存在なのかも知れません。それにしても小粒だねえ」などと、往年の私の同僚の浜本先生は嘆いて居られました。
 「岩政大樹(鹿島アントラーズ所属のサッカー選手、日本代表)」「受田新吉(元民社党衆議院議員)」「嶋原清子(マラソンランナー、世界陸上大阪大会日本代表)」「森福都(作家)」なども居られますが、いずれも宮本常一、星野哲郎両氏に比すべくも無き小粒、三人目は「一、富士・二、鷹・三、茄子」の「茄子」のようなものでありましょうか?

  『大島音頭』  作詞・星野哲郎

一、ハアー
  安芸と伊予路を 周防に結ぶ
  海がわしらの  金魚鉢
  心の大島  鳴戸の瀬戸に
  白く渦巻く  波の花
    ノンタ  大島  よいところ
    ホンニ さいさい  きんさいね

二、ハアー
  花の暦を  小松であけて
  閉じて又見る  白木山
  厨子は白帆の 小舟の花が
  咲いて絵になる  詩になる
    ノンタ  大島  よいところ
    ホンニ さいさい  きんさいね
 
三、ハアー
  恋の松風  袂をひいて
  招く明神  一の宮
  忍ぶ想いを  ささやく波に
  若い二人の  夢も湧く
    ノンタ  大島  よいところ
    ホンニ さいさい  きんさいね

四、ハアー
  みかん娘の  嫁入り先を
  連人の芋子が  気を揉みゃる
  訊いてごろうじ  大仏さまに
  智恵の文珠も  居てござる
    ノンタ  大島  よいところ
    ホンニ さいさい  きんさいね
五、ハアー
  噂 橘 も東和と訊けば
  嵩の帯石 めぐり逢い
  情 大島  紅葉の頃に
  想い加納た  久賀の夜
    ノンタ  大島  よいところ
    ホンニ さいさい  きんさいね
   〔返〕 屋代島ホンニよいとこ来んさいね!ミカン花咲く周防大島!  鳥羽省三

(松木秀)
〇  「生きる喜び」なる意味の名をつけられし馬の敗れて戻るさま見つ
 フリー百科事典『ウイキペディア』の解説するところに拠ると、「ジョワドヴィーヴル(仏:Joie de Vivre)は日本の競走馬である。馬名の由来は、フランス語で<生きる喜び>。主な勝ち鞍は2011年の阪神ジュベナイルフィリーズ。半姉にGⅠ・6勝のブエナビスタ」。
 また、2歳馬の昨年(2011年)度は、「11月12日、京都競馬場の芝1600mの新馬戦に福永祐一とのコンビでデビューし、単勝1番人気に応えて勝ち上がる。次走、12月11日の阪神ジュベナイルフィリーズには、抽選(15分の6)を突破して出走した。レースでは先行した人気馬を見るように馬群中団を追走し、最後の直線で一気に突き抜けて優勝、ビワハイジとの母子制覇およびブエナビスタとの姉妹制覇を達成した。また、デビューから2戦目でGⅠ競走に勝利したのはグレード制導入後は史上初である。この勝利により、当年のJRA賞最優秀2歳牝馬に選出された」とのこと。
 また、3歳馬の本年(2012年)は、「3月3日のチューリップ賞に単勝1.3倍の圧倒的1番人気で出走。レースは6番手で進め最後の直線で馬場の内を狙うが伸び切れずハナズゴールの3着に敗れた。4月8日の桜花賞も1番人気に推されるも、直線思ったほど伸びず6着に敗れた。レースの後、数日を経て右第1趾骨近位骨折の故障が発生し、6ヶ月以上の休養期間を要することが4月13日に厩舎サイドから発表された」とのこと。
 競馬ファンの松木秀さんは、阪神競馬場のスタンドで「『生きる喜び』なる意味の名をつけられし馬」、即ち<ジョワドヴィーヴル>「の敗れて戻るさま見」ていたのでありましょうか?
 だとしたら、わざわざ北海道からお出ましになられ真にご苦労様でした。
   〔返〕 あの馬は生きる喜び!桜散るジョワドヴィーヴル沈み六着!  鳥羽省三

(粉粧楼)
〇  ささやきに侵食されて腐敗する恐怖も甘く眩しい真昼
 「ささやきに侵食されて腐敗する。恐怖も甘く眩しい真昼。」という二文で構成された「三句切れ」の作品でありましょうか?
 それとも「ささやきに→侵食されて→腐敗する→恐怖」、その「恐怖も→甘く→眩しい→真昼」という形で、末尾の語「真昼」以前の六個の文節が全て「真昼」の修飾語として重く圧し掛かって行くような形の一文構成(句切れ無し)の作品でありましょうか?
 それは兎も角として、二十一世紀半ばの昨今、良識ある国民の「ささやきに侵食されて」も気にしないで居られるのは、自民党総裁選に立候補する国会議員やその取り巻きぐらいのものであり、私たち庶民の多くは、聞こえもしないささやきに侵食されて、己が心身を腐敗させたりするものである。
   〔返〕 欲望に浸食されて腐敗する国会議員の多々居る真昼  鳥羽省三

(アンタレス)
〇  皆でするオセロは何時も孫が勝つ私に負けると再び挑む
 二個の内部矛盾を含んだ表現である。
 内部矛盾そのⅠ・「オセロ」は「皆でする」ゲームでは無くて二人でするゲームであるから「皆でするオセロ」という表現は可笑しい。
 内部矛盾そのⅡ・「皆でするオセロは何時も孫が勝つ」のであったら、「何時も」「勝つ」「孫」は「私に敗ける」はずはありませんから、「再び挑む」必要もありません。
 本作の表現に見られる二個の内部矛盾は、祖母としての作者の「家族思い・孫思い」の感情を余りにストレートに表現しようとした為に生じたものでありましょう。
   〔返〕 オセロ好き負けず嫌いの我が孫はたまに敗けると勝つまで挑む  鳥羽省三

(魚住 蓮奈)
〇  泣かぬよう敗けぬようにと胸を張りキャミの隙間を軽減するの
 本作を鑑賞するに際して、私たち読者が記憶しておかなければならない重大事は、作者の魚住蓮奈さんのブログのタイトルが「貧乳哀歌」である、ということでありましょう。
 女性のバストサイズを極端にアップするようなキャミソールは、私のような朴念仁の立場からすると、男性の劣情を徒に刺激するような役割りを果たすだけの存在のようにも思われるのであるが、「泣かぬよう敗けぬようにと胸を張りキャミの隙間を軽減するの」といった哀しい虚勢を張って居られる女性も、この広い世の中には幾人もいらっしゃるのでありましょうか?
 〔返〕 敗けぬよう見破られぬように気をつけて出したサインが外れてアウト  鳥羽省三

(原田 町)
〇  連敗をすれば何かと盛り上がるアンチ巨人のわが家族らは
 既にご承知の通り、「巨人」は一昨夜に続いて昨夜も負けました。
 昨夜の原田町さんのご「家族」は、さぞかし「盛り上が」ったことでありましょう。
 この際、申し上げておきますが、原田町さんのご「家族」は名古屋か大阪に転居するべきである。
   〔返〕 翌朝は新聞も見ず膨れっつら巨人ファンの峰松三四男  鳥羽省三

(七十路ばば)
〇  敗戦の攻めは自分と省みる投手の背中に拡がる孤独
 「(敗戦の)攻めは」の「攻め」は「責め」の誤記かと思われるが如何でありましょうか?
 だとしたら、本作の作者は短歌についての一家言をお持ちの方であるだけに、真に惜しまれる初歩的なミスである。
 〔返〕  敗戦の責めを気に病み自邸にて短銃自殺を図った東条
      敗戦の責めも果たさず別荘で服毒自殺の近衛文麿
      敗戦の責めを一死以て奉り割腹自刃の阿南陸相
 「一死以テ大罪ヲ謝シ奉ル 昭和二十年八月十四日夜 陸軍大臣 阿南惟幾 神州不滅ヲ確信シツツ」という遺書を残す。

(砂乃)
〇  歳月に負けた気がする「おばちゃんは」と近所の子供に話しかけたら
 「おばちゃんは」と「近所の子供に話し掛けた」ぐらいの事で、「歳月に負けた気がする」などと、気の弱いことを言っていてはいけません。
 「おばちゃん」と呼ばれている時期はそんなに長くはありません。
 そのうちいずれ、「お婆ちゃん」と呼ばれる時期が必ず遣って来ますから、覚悟しておいて下さい。
   〔返〕 年齢は気にもならない!「糞爺」と言われたとても短歌は止めぬ! 鳥羽省三


一首を切り裂く(031:大人)
2012å¹´10月30æ—¥ 

(富田林薫)
〇  これまでのいっさいがっさい悲しみのシーツを濡らし眠れ大人よ
 作中の「いっさいがっさい」で思い出したのであるが、その昔、身の周りの道具の一切合財を詰め込んで家出をする為に便利な「合財袋」というものが在った。
 昨今の世の中に於いて、あの合財袋と同じような役割りを果たすものを求めれば、「トートバック」なるカタカナ名前の手付きの袋になるだろう。
 ところで、数年前まで歌人と称して東京の大森界隈に棲息していたフーテン男が居て、彼はその後、「一澤信三郎帆布のトートバックを下げて、京都に紅茶の買い出しに行こう」などと奇妙なことを言って京都まで出掛けたのであるが、彼は今でも歌人と称して京大短歌会に出入りしているのでありましょうか?
   〔返〕 ババの云う合財袋の小さいの!帆布で作ったトートバックよ!  鳥羽省三 
 
(魚住蓮奈)
〇  等身大人形の胸揉みながらきみが越えゆく夜ながながし
 ブログ「貧乳哀歌」の管理人自らが、ご自身の恋人たる男性の哀れな疑似性生活の全貌を一首の歌としてお詠みになったのでありましょうか?
   〔返〕 貧乳も手当て次第でLカップ人形抱かずに恋人を抱け  鳥羽省三

(三沢左右)
〇  Fコード押さえる指が欲しかった 大人になりたいわけではなくて
 都会にLカップの乳房に憧れる女が居れば、田舎に「Fコード押さえる指が欲しかった」と嘆いている男が居るのが、我が国の現代社会というものでありましょうか?
   〔返〕 Lカップ押さえる指が恨めしいダッチワイフじゃつまんないから  鳥羽省三

「『題詠2012』投稿歌を切り裂く(其の5)」 鳥羽省三

一首を切り裂く(045:罰)
2012å¹´12月07æ—¥ 

(紫苑)
〇  劫罰よ下らば下れ今すこし生きむがために堕ちゆくを見つ
 末尾の七音「堕ちゆくを見つ」に難在り。
 主題を生かそうとするならば、「劫罰よ下らば下れ今すこし生くるがために堕ち行きてみむ」としたら如何か?
 私たち人間が「生きて行く」事は、即ち「堕ちて行く」なのである!
     〔返〕 劫罰よ下らば下れ!いま少し歌詠むために時間が欲しい!  鳥羽省三

(空音)
〇  老いるのも罰なんだろうこの命果てる時まで女でいたい
 「この命果てる時まで女でいたい」という儚くも空しい願望を持つ作者にとっては「老いるのも罰」かも知れません。
     〔返〕 老い行くは神のご褒美!還暦を過ぎての美貌は化け猫みたい  鳥羽省三

(新井蜜)
〇  ゆるやかに木の実がはじけあらたまり罰せられずに流れていつた
 作中主体は、劫罰が下されるのを覚悟の上で禁断の木の実の甘い汁を吸ったのであるが、案に相違して劫罰は下されないまま、緩やかな音を立てて木の実が弾け行き、季節が秋から冬へと流れて行っただけなので、いささか気抜けがしているのである。
     〔返〕 英雄に非ざる者に下されずヤハウェの罰は栄冠なれば  鳥羽省三

(今泉洋子)
〇  半生をすずろに生きし罰として歌に励めとふ闇のこゑする
 ここ(=佐賀県)にも一人、平成の和泉式部たらんとする熟女が居て、「半生をすずろに生きし罰として歌に励めとふ闇のこゑする」などと愚かなことを言っている!
 「すずろに」とは、「(何を為すでも無く)漫然と」という意味である。
 であるならば、作者の今泉洋子なる熟女は、「人間が、人間の中でも取り分けて美しい女性は、一日生きて居ると一日だけの罪業を重ねることになる」という、尊い神の戒めをも知らずに、自らの「半生」が、罪咎とは無関係で健康的かつ衛生的な歳月であった、と錯覚していることになりましょうか?
     〔返〕 半生の罪障濯ぐすべとして残せし日々は浄き歌詠め  鳥羽省三

(五十嵐きよみ)
〇  仕方なく湿ったままの靴を履く何かの罰を受ける気分で
 この心掛けや頗る宜し!
 人間万事、こうした心掛けで事に当たるならば間違いはありません。
 当面する衆院選に於いて、あの安倍信三が率いる自民党が地滑り的な大勝利を治めるのも、私たち庶民に対する「何かの罰」に違いありません。
     〔返〕 仕方なく湿ったままの靴で行く快気祝いの寿司屋の席へ  鳥羽省三
 先月の初めから十日余りの入院生活を余儀なくされて、入院中は勿論の事、退院後しばらくはブログの更新もままならない日々を送って居りました。
 ところで、先週半ばに、私の快気祝いということで、二人の愚息と連れ合いの妹夫婦主催の食事会に招待されましたが、日頃の心掛けが良くなかった所為なのか、生憎の雨天模様で、そぼ降る雨の中を会場となっているたまプラの寿司屋への道を、湿り気を帯びた革靴を履いてとぼとぼと歩きました。

(村田馨)
〇  天罰は驟雨となって我を責む銚子大橋対岸見えず
 そうなんです!
 快気祝いの席に招かれて、私がほぼ一箇月ぶりに出掛けたたまプラへの往復路が湿っていたのも、村田馨さんの目に「銚子大橋」の「対岸」の光景が入らなかったのも、私たち人間が知らず知らずのうちに犯している、何かの罪の報いであるに違いありません。
    〔返〕 天罰は腹痛として身を責める特上寿司を食べて嘔吐す  鳥羽省三

(原田 町)
〇  くちびるが動かなければ罰せらるそういう時代になりつつあるか
 折しも十一党派乱立の衆院選の真っ最中である。
 大都市の盛り場辺りでは、いずれ劣らぬ烏合の衆どもが、「くちびるが動かなければ罰せらる」とばかりに好き勝手なことを叫んでいるのである。
 我が国の行く末は、一体全体どういう事に相成るのでありましょうか?
     〔返〕 もの言へばくちびる寒き師走なれ大口叩いて民惑はすな  鳥羽省三   
 
(鳥羽省三)
〇  罰盃は「日本一のこの槍」と歌に残れる酒豪の太兵衛
 お題「罰」の消化を急いだだけの作品であり、解説も返歌も無用かと存じます。


一首を切り裂く(046:犀)
2012å¹´12月08æ—¥ 

(シュンイチ)
〇  ふるさとはとおくにありて犀星の詩集とともによみがえるもの

     ふるさとは遠きにありて思ふもの
     そして悲しくうたふもの
     よしや
     うらぶれて異土の乞食かたゐとなるとても
     帰るところにあるまじや
     ひとり都のゆふぐれに
     ふるさとおもひ涙ぐむ
     そのこころもて
     遠きみやこにかへらばや
     遠きみやこにかへらばや  『小景異情―その二』 室生犀星
 室生犀星作の『小景異情―その二』は、「久しぶりに帰ってきた故郷にいて、遠き都を偲ぶ歌」なのである。

(ありくし)
〇  ぼくのさいは普通の犀より小さくてでもいぬよりはずっとおおきい
     〔返〕 我が妻(さい)は明眸皓歯ならずして才色兼備にはほど遠し  鳥羽省三

(原田 町)
〇  「神様」や「仏様」より「犀ちゃん」と呼ばれたほうの稲尾が好きだ
 1958年(昭和33年)日本シリーズでチームが三連敗したあと四連投四連勝という快挙を成し遂げ、西鉄ライオンズを日本一に導いて「神様、仏様、稲尾様」と言われた鉄腕・稲尾和久投手!

(五十嵐きよみ)
〇  背表紙に犀のロゴあり十代で初めて買ったハードカバーに

(砂乃)
〇  降り出した夕立がじわり黒犀の乾いた肌に染み込んでいく
 「黒犀の乾いた肌」とは、美肌を形容して云うのでありましょうか?
     〔返〕  犀黒の乾いた肌にしのびよる埼京線の乗客・痴漢?  鳥羽省三

(なまにく)
〇  犀みたく優しい目をして切る事をさいの目切りと言うんじゃないの?
 「犀みたく」という歌い出しの五音も然る事ながら「さいの目切りと言うんじゃないの?」という下の七七句には、敬服せざるを得ません!

(鳥羽省三)
〇  犀ヶ窪、戦国時代の古戦場、徳川勢が武田を夜襲
 元亀3年(1572年)12月、徳川家康は、三方原で武田信玄の軍勢と野戦に及び完膚なきまでの惨敗を喫する。
 家臣が身代わりとなって命からがら浜松城に引き返した家康であるが、帰城後の彼は、敢えて城門を開けっ放しにして篝火を焚かせる“空城の計”を用いて、城の真下まで追い詰めてきた武田勢を怯ませることに成功した。
 武田勢は城から少し離れた場所で野営することとなったのであるが、徳川方が一矢報いるために仕掛けたのが<犀ヶ窪の夜襲>である。
 武田勢の野営地の近くには、深い断崖のある<犀ヶ崖>があった。
 徳川勢は、まず密かにその断崖に白布を架けてあたかも橋があるように見せかけた。そして鉄砲隊を間道から敵陣の背後に配して一斉射撃を仕掛けたのである。
 夜襲を受けた武田勢は慌てふためき、次々と偽製の橋を渡ろうとして人馬もろとも断崖に転落して行ったそうだ!


一首を切り裂く(047:ふるさと)
2012年12月08日

(久哲)
〇  ふるさとで買っても常に北を指す方位磁石がとても冷たい
 「あたり前田のクラッカー」ではありませんか!

(みずき)
〇  ふるさとに置いてけ堀のお人形 浴衣で涼む夕べありしも

(夏実麦太朗)
〇  寅さんはセピア色したふるさとを鞄に詰めて歩いています

(紫苑)
〇  ふるさとを持たざるままに小余綾のいそ路歩めばなど懐かしき
 「小余綾」とは「神奈川県大磯町から小田原市国府津に至る辺りの古地名」であるとか?

(蓮野 唯)
〇  叶うなら貴方と共にある今を我が永遠のふるさととする
 バツイチの女性が抱くに相応しい願望である。

(西中眞二郎)
〇  ふるさとの晴れた空には今もなお銀河は著く掛かりおらむか
 キャリア官僚とて、折には遠い故郷を偲んだりするのである。

(五十嵐きよみ)
〇  「ふるさと」とひらがなで書く平凡な地方のまちが特別になる
 「七人の家族で暮らしたふるさとの家に今では母ひとり住む」とは、題詠短歌に出詠した五十嵐きよみ作である。

(佐藤紀子)
〇  ふるさとを捨てしにあらず やむを得ず離れて遠くカナダに住まふ
 結果的には捨てたのである。

(砂乃)
〇  夏雲に宣戦布告し咲いているヒマワリの待つ僕のふるさと

(なまにく)
〇  日も雨も月の光も星屑も ここは何から何までふるさと

(由布子)
〇  谷地頭という呼び方が今も好き わがふるさとは函館なんです


一首を切り裂く(048:謎)
2012å¹´12月08æ—¥ 

(西中眞二郎)
〇  光琳の紅白梅図の謎を解くテレビの画面に見入りておりぬ
 五句目が「(テレビの画面に)見入りておりぬ」として、作者自身を客観視した点は宜しいが、四句目を「テレビ画面に」として一字の字余りを解消すれば尚よろしい。
 〔返〕  等伯の松林図屏風を見入りたる西中さんの昏き眼差し   鳥羽省三

(猫丘ひこ乃)
〇  「解き明かすまでが謎だ」と言う先生「解き明かすまでが謎だ」と言う先生」とも言う
 「『解き明かすまでが謎だ』と言う先生」は「『解き明かすまでが謎だ』とも言う」種族である、とは、真に鋭い人間観察である。
 
(原田 町)
〇  謎彦さん詠いし福島夜の森の桜並木の人無き映像

(紗都子)
〇  鞄から些細な謎をとりだして煙に巻いてみせてごらんよ

(矢野理々座)
〇  謎解きにちょっと力を入れすぎて心理描写が粗末なドラマ

(鳥羽省三)
〇  「何ぞや」が短縮されて「謎」になり、「謎かけ遊び」も始まりました。


一首を切り裂く(049:敷)
2012å¹´12月12æ—¥ 

(秋月あまね)
〇  金敷のかなしき調べハンマーで打たれることを生業として
 「金敷」とは、「鍛造や板金作業をするとき、加熱した材料をのせる鋳鉄または鋳鋼製の台」である。
 作者は「金敷」なる無機物に感情移入しているのである。

(西中眞二郎)
〇  境内のお化け屋敷の呼び込みに尻ごみしている幼なもありぬ

(アンタレス)
〇  亡き母が吾に残せし風呂敷に大島紬が着られぬを詫ぶ
 風呂敷に包まれた大島紬の着物は、今は亡き母の形見の品なのである。

(原田 町)
〇  散り敷けば花びら掃除やっかいと言う人ありて桜伐られる

(五十嵐きよみ)
〇  ハンカチの代わりに木漏れ日を敷いて腰を降ろせば五月が薫る

(磯野カヅオ)
〇  逃げきれぬ検問のごと敷かれたる鉄道網も今は懐かし
 <キセル>経験者の詠んだ一首。

(砂乃)
〇  こうばしい香りをたどれば看板に「敷島製パン」とある工場
 「『Pasco』ブランドで知られる大手パンメーカーの敷島製パンが、東京都内の工場で製造した食パンの中からネズミの体の一部が見つかったとして、自主回収を行うと報じられたことが、大きな波紋を呼んでいるようだ。回収されるのは、関東や東北などの1都14県で販売された、消費期限が今月7日から11日までの<超熟山型5枚スライス>と<超熟山型6枚スライス>で、対象となる個数は合わせて10万4,000個に及ぶという。」と云った類の報道が為されたのは、2024年の春である。
 砂乃さん作は、自らの投稿作の題材となった「敷島製パン」の十二年後の没落を見越していなかったのでありましょう。

(なまにく)
〇  予め敷かれたレールのその上を自由に往復していい権利

(村木美月)
〇  ひとつつく嘘でまたつく嘘はじけ河川敷から打ち上げ花火

(龍翔)
〇  自宅から仕事場までの道筋に赤絨毯を敷いてみました

(今泉洋子)
〇  ひたぶるに進めば進むほどなぜか遠ざかりゆく敷島の道
 「敷島の道」とは、あまりにも古めかしい表現であり、我が国有数の田舎である佐賀県の住民に相応しい表現でもある。

(鳥羽省三)
〇  下敷を当てるや否や級長の下村梅子の髪が逆立ち!
 女性が級長とは珍しい!
 鳥羽省三をはじめとした男性どもは出来が宜しくなかったのでありましょう。


一首を切り裂く(050:活)
2012å¹´12月15æ—¥ 

(佐藤紀子)
〇  生活の匂ひが少しずつ抜ける 家族が一人減りゆくたびに

(Yosh)
〇  婚活の戦場あまた立ちしかど白兵戦にも持ち込めもせず

(はぼき)
〇  活弁という職業も今はなくお弁当かと問われるしまつ

(莢豆)
〇  化粧品寝間着カミソリ替えの靴 カタツムリ用生活キット

(黒崎聡美)
〇  生活は変化してゆき口笛は母ではなくて今きみが吹く

(矢野理々座)
〇  婚活に有利な会社選ぶため就活に有利な大学選ぶ

(小倉るい)
〇  婚活をしない女がノルウェーのハートのチョコを配り歩けり

(鮎美)
〇  ご活躍をお祈りしますと結ばれしメール閉ぢ風呂の追ひ炊きをする

(飯田和馬)
〇  渾身の作品だったわけだけど活用形を間違えていた

(鳥羽省三)
〇  活動着とは今で謂うジャージとかジーンズ姿を指して云うのか?


一首を切り裂く(051:囲)
2012年12月15日 | 題詠blog短歌

(山本左足)
〇  囲碁部からむりやり連れて来たデブに我が相撲部のすべてを託す

(あみー)
〇  周囲には人っ子ひとり見当たらない 幾千組のカップル以外

 (磯野カヅオ)
〇  次こそが終の棲家と思ひつつまた引つ越しの荷に囲まるる

(さくら♪)
〇  たくさんの友に囲まれ笑顔咲くお花畑の女子高ライフ

(今泉洋子)
〇  君に会ふ睦月いよいよ近づきぬその日は朱きハートで囲む

(高良すな)
〇  黒がいた赤もいたよと指さして水鉢囲むどうぶつはかせ

(如月綾)
〇  数十年後にあなたとするために囲碁のルールを予習しておく

(鳥羽省三)
〇  「囲い者、はっきり言えばお妾さん!僕の母さんそんな境遇!」


一首を切り裂く(052:世話)
2012å¹´12月16æ—¥ 

(やや)
〇  風に身をゆだねて耐えるすすきの穂「世話になるな」と父がまた言う

(飯田和馬)
〇  「ちゃんと世話せんのやったら逃がしたれ」「そんなんしたら死ぬだけやろが」

(如月綾)
〇  世話焼きなひとが周りに多いのを駄目な自分の理由にしてる

(南葦太)
〇  傷跡と呼ぶべきかまだ傷口と呼ぶべきかなど余計なお世話

(鳥羽省三)
〇  世話焼きはたった一つの道楽で長屋の奴らに迷惑がられ


一首を切り裂く(053:渋)
2012å¹´12月17æ—¥ 

(今泉洋子)
〇  渋柿はもがれぬままに熟れすぎて私の孤独空に広がる

(村木美月)
〇  高速は渋滞だった果てしなく続けばいいと願った夜更け

(夏実麦太朗)
〇  頭から爪先までがしまむらの私は渋い色をしている

(浅草大将)
〇  信濃なる渋の出で湯の石だたみ行き交ふ下駄に春の足おと

(御子柴 楓子)
〇  渋柿を掌に転がしてさよならをいうタイミングをはかる

(真桜)
〇  原色の少女ら集う渋谷駅ハチと君だけセピアに染まる

(すずめ)
〇  ご都合と大義名分ない混ぜで民に苦渋を強いる理不尽

(佐藤紀子)
〇  快き渋さを舌の上に残しお薄一服いただき終へぬ

(五十嵐きよみ)
〇  朝刊をたたんで飲み干す日本茶の頑固な父を思わす渋さ

(なまにく)
〇  渋谷より恵比寿の方が何となく美味いビールを飲める気がする

(砂乃)
〇  渋みまで味わえるほどじっくりと大人になろう茶器のごとくに

(星桔梗)
〇  陽を受けて甘くなりゆく渋柿のように私も変われるだろか

(村田馨)
〇  喧騒が覆える街の行間に渋谷川あり渋谷橋あり

(西村湯呑)
〇  しかめ面で渋くクールにキメてたらそっと差し出された正露丸

(紗都子)
〇  渋柿の渋が抜けゆく不思議さと思えるほどの心変わりだ

(南野耕平)
〇  渋谷なら俺に任せろなどと言いながらキョロキョロ探すハチ公

(裕希)
〇  東京の大学生になったから待ち合わせ場所は渋谷のモアイ

(出雲もこみ)
〇  乱暴に揺すられ急須の口からは渋味ばかりが吐き出されている

(稲生あきら)
〇  何もせず過ごす休日いつもより少し渋めのお茶を飲んでる

(久野はすみ)
〇  軒というやさしきものに守られて渋柿の実は甘くなりゆく

(鳥羽省三)
〇  去年の秋ママンが値切りし麦藁帽渋谷で被り笑はれにけり

 
一首を切り裂く(054:武)
2012年12月17日 | 題詠blog短歌

(原田 町)
〇  まつろわぬ坂東武者の裔にして胡瓜いっさい食べぬ家あり

(夏実麦太朗)
〇  果樹園を通り抜けてく東武線窓は四角く風をきりとる

(紫苑)
〇  棲まひせしひとも聞きけむ武相荘を包める竹の群さやぎをり

(西中眞二郎)
〇  関ヶ原深き木立の繁る中をいかにして武者は駆け降りたるや

(アンタレス)
〇  闘病の鎧兜を脱ぎすてぬ戦う武器を吾は持たねば

(七十路ばば)
〇  武蔵野の面影残る平林寺赤松林にくぐもる読経

(山本左足)
〇  武蔵とか小次郎よりも又八に感情移入してしまう日々

(五十嵐きよみ)
〇  武蔵野の台地を横切りオレンジと黄色の電車が競いつつ行く

(湯山昌樹)
〇  大げさに文武両道と言うけれどスポーツは「武」かしばし迷える

(青野ことり)
〇  武蔵野の雑木林に棲みついたハクビシンさえ萎える 猛暑日

(なまにく)
〇  南武線に乗ってあなたに会いに行く 「午前10時に久地(くじ)に着きます」

(たえなかすず)
〇  もう席を立ってしまったジーンズの色を思えり西武ドームに 

(砂乃)
〇  ひとつずつ真綿で枷を締めて行く武家所法度は大名泣かせ

(松木秀)
〇  一世代築きあげたる武豊すっかり力おとろえゆくも

(冥亭)
〇  この頃は勝てずに居れど武豊われの時代は汝(な)と共に在り

(珠弾)
〇  存在と時間をかけて武豊 このまま引き退がるわけには

(今泉洋子)
〇  花見など事あるごとに披露せし短歌は武士の嗜みなりき

(村田馨)
〇  森閑と時ながれゆく武蔵野に茜屋橋はたたずみにけり

(杜崎アオ)
〇  ああそんなとんがるなんて聞いてないなんの武器にもならぬささくれ

(飯田和馬)
〇  武富士はまた踊りだしぼくもまたちりめんじゃこでご飯をすます

(鳥羽省三)
〇  武蔵野館 映画ファンの僕の城 三本立てで一日過ごす

『題詠2012』投稿歌を切り裂く(其の4)」 鳥羽省三

一首を切り裂く(055:きっと)
2012å¹´12月18æ—¥ 

(横雲)
〇  きっと来るきっと来るとて待ちゐるに松虫草の花凋みたり

(西中眞二郎)
〇  次回にはきっと出ますと約したる会の日取りがまた近付きぬ

(佐藤紀子)
〇  「初めてのウソだね、きっと」みどり児が横目で母を窺ひて泣く

(五十嵐きよみ)
〇  向かい風 偉くなるより幸せになるほうがきっと難しいから

(砂乃)
〇  幼さが薄れてにょきっと伸ばされた息子の足のはみ出る炬燵

(じゃこ)
〇  容赦ない笑顔の人がやってくる きっとわたしの味方ではない

(鳥羽省三)
〇  この僕をきっと見つめて君は言う「あほんだら!」とはあまりの言葉!


一首を切り裂く(056:晩)
2012å¹´12月18æ—¥ 

(平和也)
〇  袋田の滝の晩夏は見映えせず鮎の塩焼きだけが思い出

(西中眞二郎)
〇  その意識なきままに日を送りおれど既に晩年なるやも知れず

(芳立)
〇  晩餐のあとにも謎は解けぬままだれか一人が彼を裏切る

(今泉洋子)
〇  ゆつくりと詩を読むやうに葉は舞ひて晩秋の道をあなたと歩む

(村田馨)
〇  一晩のおもいでとしてよみがえる萬代橋のやさしき灯り

(鳥羽省三)
〇  晩餐ののち鉄瓶の湯の冷めて好きな昆布茶飲まず転寝


一首を切り裂く(057:紐)
2012å¹´12月19æ—¥ 

(円)
〇  ひとりでは飛んでいくことできなくて溜め息揺らす風船の紐

(ほたる)
〇  肩紐がいつもはずれてしまうから肩肘張って生きてゆきます

(西中眞二郎)
〇  腰紐を解く仕草のなまめきて春の舞台は春の香りす

(原田 町)
〇  ゴム紐も買うにも今は電車かバスに乗り隣り街まで行くほかはない
 つい先年までは、家にいたまま、押し売りから買っていたゴム紐なのである。

(佐藤紀子)
〇  くつ紐を一人で結び駆けてゆく 初登校の一年生が

(五十嵐きよみ)
〇  うっかりと『まだらの紐』を話題にしホームズ作と言い間違える
 『まだらの紐』は、イギリスの小説家、アーサー・コナン・ドイルによる短編小説。シャーロック・ホームズシリーズの一つで、56ある短編小説のうち8番目に発表された作品である。

(村田馨)
〇  紐育、桑港、倫敦、伯林の旅しめくくる江戸日本橋             

(高良すな)
〇  巣材にと蝶々結びの靴紐を銜えて飛ぶも揚力たりず

(穂ノ木芽央)
〇  立秋の頃より組紐教室に通いはじめし妻の口紅

(鳥羽省三)
〇  組紐を編むを習へる者の居て教へる者も居るのが日本
 「駕籠に乗る人担ぐ人そのまた草鞋を作る人」という例えもありますが?


一首を切り裂く(058:涙)
2012å¹´12月19æ—¥ 

(原田 町)
〇  『憶無情』『巌窟王』など涙香を読みふけりいし納戸の隅で

(西中眞二郎)
〇  左目の涙は涙管異状ゆえと聞かれぬ前に言い訳をする

(猫丘ひこ乃)
〇  涙腺のゆるさも遺伝なのだろう天然パーマに次いで挙げれば

(佐藤紀子)
〇  歓びの涙のごとき一粒の露光らせて芍薬ひらく

(磯野カヅオ)
〇  読みづらい店の名「オヲッヤ分店」に涙出るほど腹抱へたり

(村木美月)
〇  とめどなく涙落つ日も燃えるゴミ燃えないゴミを分別している

(飯田彩乃)
〇  金魚鉢は涙のかたち縁日のきんぎょが零すなみだのかたち

(久哲)
〇  大げさな表現でしょう?血涙はふり絞っても出やぁしません

(鳥羽省三)
〇  春愁は緋桃の色か花筏浮かべてそぞろ涙を誘ふ


一首を切り裂く(059:貝)
2012å¹´12月19æ—¥ 

(み)
〇  ガーゼ地の真っ白いシャツ貝ボタンその儚さの三月にいる

(みずき)
〇  貝殻のくくむ潮騒耳に当て児らは知りたる夏の終はるを

(しま)
〇  沈黙は海の秘密を手のひらで螺旋になぞる貝の歌かも

(松木秀)
〇  噴火湾産のホタテの貝柱北海道に来たら食べてね

(はこべ)
〇  片貝の海岸に遊び戯れて波に濡らしたスカートは今

(熊野ぱく)
〇  ディープキスに憧れている砂出しの貝から出てる舌を見ている

(芳立)
〇  ひるがへる旗は十色をうつりきて呼倫貝爾に馬を駆りゆく  ※呼倫貝爾/ホロンバイル

(原田 町)
〇  真相のあやふやゆえに食べることいまだためらう貝割れ大根

(五十嵐きよみ)
〇  つい初句を加えたくなるコクトーの「私の耳は貝の殻」の詩に

(由布子)
〇  ばか貝の中毒出した鮨屋なれどわれの婚期を憂えてくれた

(砂乃)
〇  貝合わせの貝のごとくに内側に和歌を孕んだ題詠走者

(今泉洋子)
〇  君の背の貝殻骨をなぞりつつ告白以前の愛を思へり

(村田馨)
〇  貝がらをそっとしまって帰りましょう江の島大橋夕陽が沈む

(南野耕平)
〇  しかしだよ貝で水着を作るかね その発想は僕にはないね 

(黒崎聡美)
〇  貝殻を耳にあてても濁音のわたしの音がきこえるだけだ

(さとうはな)
〇  八月の波打ち際の駅長に切符のごとく渡す巻貝

(青山みのり)
〇  巻き貝のように淋しい言い訳をくちずさみつつ下ろすファスナー

(こすぎ)
〇  ミル貝がぷりぷり寿司となっていき見ているだけで満足してる

(鮎美)
〇  あたたかきあの手ほどきしあの日より終はることなき貝合はせかな

(矢野理々座)
〇  貝殻がもしも貨幣であったなら宝塚市になる貝塚市...

(鳥羽省三)
〇  貝印は軽便剃刀に釦だけ?シェル石油のマークも貝だ!


一首を切り裂く(060:プレゼント)
2012å¹´12月19æ—¥ 

(猫丘ひこ乃)
〇  この中で「金・銀・パールプレゼント」当たった方がいれば教えて

(原田 町)
〇  母の日のプレゼントなるエプロンの青鈍色にちょっと複雑

(すずめ)
〇  リボン掛け裸の私をプレゼント今日は満月変り身の夜

(五十嵐きよみ)
〇  七色のリボンをかけてプレゼントされる雨上がりの青空を

(今泉洋子)
〇  プレゼント買ふこと多き地酒屋に今日はわがため「鍋島」を買ふ

(村田馨)
〇  大花火忠節橋でながめてた渡しそびれたプレゼント掌に

(鳥羽省三)
〇  男性はプレゼントの品を手に持ってタイプの女性の前に整列!


一首を切り裂く(061:企)
2012å¹´12月20æ—¥ 

(浅草大将)
〇  早梅もひとつふたつとさきたまや比企の郡の便りうれしも

(五十嵐きよみ)
〇  隠し味を教えてほしいと頼んだら企業秘密とはぐらかされる

(村田馨)
〇  少年の企むことを知っている幣舞橋の四季の像たち 

(久野はすみ)
〇  また何か企んでいるファミレスのオレンジ色のメニューの陰で

(久哲)
〇  果てしない企業誘致の行く末に疲れた土地に立つマンションは

(鳥羽省三)
〇  すでにしてお手当ちっともくれないの!かりがねせねばと企つこころ          
   ※すでにして詩歌黄昏くれなゐのかりがねぞわがこころをわたる(塚本邦雄『青き菊の主題』より)


一首を切り裂く(062:軸)
2012å¹´12月20æ—¥ 

(松木秀)
〇  イチローの身体の軸に若干のブレが見えはじめているという

(七十路)
〇  自転軸傾く地球をふと思うなす事総て不首尾なこの日

(五十嵐きよみ)
〇  白薔薇を咲かせるようにまっすぐに軸足で立つバレリーナたち

(はぼき)
〇  たこ焼きに突き立てられた爪楊枝そのありさまは地軸にも似て

(村田馨)
〇  掛軸に紅く染まりし神橋をこの目で見んと二荒山まで

(鮎美)
〇  床の間の天神様の掛軸を仕舞ひて我が家の正月終はる

(鳥羽省三)
〇  鉛筆も今では〈Made in China〉軸の具合がイマイチである


一首を切り裂く(063:久しぶり)
2012å¹´12月21æ—¥ 

(西中眞二郎)
〇  久しぶりに会いたる友の一団にいたく老けたる人もありたる

(今泉洋子)
〇  久しぶりなる郷さんの投稿歌夜長の秋に霧島薫る

(鳥羽省三)
〇  剣菱を冷で飲むのは久しぶり!お酒はやはり冷に限るわ!


一首を切り裂く(064:志)
2012å¹´12月22æ—¥ 

(五十嵐きよみ)
〇  しっかりと心が支えている漢字 志しても惑ってもいい

(秋月あまね)
〇  志高くもちたる機関車もレールの外に走る場所なし

(山本左足)
〇  『三国志』なぜか36巻が無くて5巻が二冊あります

(村田馨)
〇  サブマリン山田久志を追いかけて球場橋を駆けぬけし頃

(今泉洋子)
〇  志きららに在れよと鯉のぼり見上げてわれも空に近づく

(鮎美)
〇  指輪さへひん曲がりたる歳月に貫くものか志など

(鳥羽省三)
〇  志は時折漏らす溜息に似たはかな事!棄てむ志!