光市母子殺害事件裁判について・私達は全てを知る神ではない

kurotokage2007-06-24


 本当は更新しているような時間的余裕は無いのですが、「光市母子殺害事件裁判」に対するあまりに目に余る現在の状況について何か書きたくて仕方ないので寝る時間を惜しんで書きますよ!

 この裁判での弁護団に対する批判は以前からおこっておりましたが、“凶悪犯罪者(であることを疑われている被告)を弁護する弁護人に対する批判”はこの裁判に限らないことなので、あきれながらも特に何か言おうとは思いませんでした。
しかし、弁護団に対する懲戒請求という単なるバッシングとは違う、現実に強く影響力を持つ行為にまで発展したことに、日本が文明国という立場から滑り落ちてしまうのではないかと思ってしまうような危機感を感じました。

 まずは弁護団に対する批判の事実誤認の確認から。

弁護団は死刑廃止運動のために裁判を利用しているのか

 「弁護団はこの裁判を死刑廃止運動のためのプロパガンダに利用している」という批判があります。
 が、この主張自体が事実関係を無視した悪質なプロパガンダとしか思えません。

 この裁判は一審・二審で無期懲役刑が確定しており、それを“検察側”が上告しています。弁護側はそれを受けて立っているという状況であり、利用するというような構造にありません。また、「週刊新潮」に掲載された遺族の手記によれば、遺族に対し上告を勧めたのは検事だということらしいです(私はその手記を確認していませんが)。
 そして、この裁判が特異な点は死刑の可能性があることではなく、過去二件しか例の無い“犯行当時未成年の被告に対する死刑”が確定するかもしれないことです。

 もしこの裁判を“誰かが”“何かに”利用しているとするなら(そういう考え方自体慎むべきだと思いますが)、それは“検察側が”“厳罰化に”利用している、と考える方が筋が通っていると言えるでしょう。

弁護団は欠席戦術などで裁判を長引かせているのか

 「弁護側が口頭弁論を欠席するなどして裁判を長引かせている」という批判があります。
 これも間違いだと考えます。

 まず欠席理由として、開催日時決定以前から決まっていた予定があった(従来なら弁護側の都合なども考慮し柔軟に決められるはずが、そうならなかったという問題もあります)、現在の弁護団が以前の弁護士から引き継ぎを行う作業や裁判記録の精査などをおこなうのに時間が足りないこと(通常弁護人が代わるときは延期されるが、なぜか認められなかった)、などがあります。これらのこと、さらに弁護人交代の前後関係を考えれば、弁護側に裁判を長引かせる意図があったと読み取ることはできません。

 また、裁判が長引いているのは、検察が上告してから弁論期日が決定するまでに非常に長い時間が経過していることや、上記の通り検察による上告が理由です。
 もちろん、人手不足の裁判官の状況を考えれば仕方ない面もありますし、検察が上告することもおかしなことではありませんが、裁判が長引いている理由を弁護側に押しつけるのは誤りです。

弁護団の主張は許されないことなのか

 弁護団の主張は荒唐無稽だという批判があります。
 これについての私の考えは後回しにしますが、これに対する懲戒請求にはbuyobuyoさんのエントリー「むしろ橋下弁護士にこそ懲戒請求が相応しい」(捨身成仁日記 炎と激情の豆知識ブログ!)のこの一文に尽きます。

弁護士が被害者の主張に基づいて世間受けしない弁護しただけで懲戒請求されたんじゃおちおち刑事事件の弁護もできない。

 たしかに、弁護士は被告の主張よりも被告に有利になるような主張をおこなうべき、という批判はあって然るべきでしょう。その一方で、審議での有利不利よりも被告の望む主張こそ最優先すべきという考え方もあります(私が被告ならそちらを望みます)。
 私にはどちらがより弁護士として正しいのかは分かりませんが、どちらかしかとれない主張の一方をおこなったときに懲戒を求められるのは理不尽ではないでしょうか。

 ついでに細かいことですが、一審・二審では殺意を認めていたのにいきなり殺意を否認するのはおかしいという指摘がありあす。
 しかし、一審第四回公判の被告人質問では殺意を否認しています。今回以前の主張を翻して殺意を否認することを問題とするなら、一審で否認から肯定へと変化したことも問題にしなければおかしいことになります。

荒唐無稽は事実でないことを意味するのか

 さて、「今回の弁護団の主張は荒唐無稽とは思わないのか」と問われれば、私は「荒唐無稽だと思う」と応えます。
 がしかし、私がそう思うのは、私の日常的な常識に基づいての判断であり、具体的な根拠はありません。弁護団の主張を“ありえない”と批判している人達は、何を根拠に批判しているのでしょうか。法廷で事実関係を審議するのに、常識や市民感情がどれほど役立つと言えるでしょう。弁護団の主張が誤りであるなら、それは法廷で明らかになることです。もし判決がおかしいと感じたなら、改めて批判すれば良いだけです。
 上で「〜と問われれば、〜と応える」と書きましたが、私はそれを判断する必要がないと考えます。私達が乏しい情報をもとに事実を“決定”しても、何の意味もありません。もちろん、司法が正しく機能しているかを私達国民が監視するために、一定の情報を得ることは必要です。しかし、私達が司法の代わりをしてはならないでしょう。

 かつてアメリカで、24の人格を持つ人物によるとされる連続強姦事件がありました。

 ちょっと信じられないような話であり、精神科医でもなんでもない私にはそれが本当のことはどうかはわかりませんが、今現在それは事実として認定されています。この事件が今の日本でおきたなら、やはり弁護士は荒唐無稽な主張をしているとして懲戒請求されるのでしょうか。
 事実は小説より奇なり、という言葉をここで使うのは不謹慎かもしれません。しかしこの世には信じられないような事件はいくらでもあります。果たして、“信じられないような理由による過失致死”と“24人格”では、どちらがより“ありえない”のでしょう。

 本来、人が人を裁くこと自体、神をも恐れぬ行為です(いや、私は神を信じていませんが)。人がおこなう以上、必ず間違いは生じます。だから出来る限り厳正に、出来る限り慎重に、常に原則を守って裁判は進められるべきであり、絶対に不可能・絶対に存在しないことが明確でない限り、可能性が低くても“ありえない”としてしまってはいけないと思います。

弁護団の主張はセカンドレイプなのか

 今回の裁判に対する批判の中で、「弁護団によるセカンドレイプだ」というものをいくつか見かけました。日本で“セカンドレイプ”という問題が注目されていたとは知りませんでした(皮肉)。

 確かに今回の弁護団の主張は、すでに亡くなっているとは言え被害者女性の尊厳を傷つける可能性のあるものです。
 では、どうすれば良いのか。もし仮に弁護団の主張が事実だったとしたら、どう主張すれば被害者を傷つけないですんだのでしょう?セカンドレイプという問題の難しいところは、事実関係を争う上で被害者を傷つける主張をおこなわなければならないことがあることです。

 そもそも、セカンドレイプの問題は個々の裁判での事例の問題ではなく、警察・司法の抱える構造的問題であり(改善されつつあるけど)、被害者のプライバシーを顧みない報道の問題であり、そして今なお「被害者にも落ち度がある」という主張がまかり通り、被害者が非難や好奇の目に晒される社会そのものの問題です。
 今回“セカンドレイプ”という言葉を用い批判している人達は、これらの問題と向かい合う気があるのでしょうか。単に弁護団を非難するのに都合が良いから使っているだけちゃうの?と。

 ここまでは弁護団に対する懲戒請求をおこなう人達の主張への反論です。

マスコミの犯罪報道とどう向き合うか

 弁護団は公判前に2時間かけて説明をおこない、100ページある意見書を報道陣に配布したとのことです。しかし実際に報道されたのは、その内の一体何分の一なのでしょう。

 あまり報道されないこととして、検察の主張と遺体の実況見分や鑑定書との矛盾(被害者女性の絞殺痕や被害者女児の後頭部の損傷が無かったことなど)があります。弁護団の荒唐無稽な主張を激しく非難しながら、検察の主張の問題点に眼を向けないのは冷静さを欠いているとしか言えません。
 弁護団への批判は、あまりにもマスコミの報道(≒警察発表)を信頼しすぎているとしか言えず、「ご自慢のメディアリテラシーが疑われますよ」と皮肉の一つも言いたくなります。

 そもそも、容疑者・被告という立場の人間を、一般の社会生活を営んでいる人間と同じような立場として捉えるのが間違いです。
 日本は、代用監獄・長期拘留・弁護士との接見の制限・密室での取調・自白の偏重など、国連人権委員やアムネスティ・インターナショナルから批判を受けている数々の問題のある制度を持った“冤罪大国”だと言われています。長期拘留や厳しい取調によって自分が犯人だと思い込むことは決して極端な例ではありません。そこまでいかなくとも、辛い状況から逃れるために嘘の自白をしてしまい、その自白が決め手となって有罪となるということが、冤罪の生じる過程の一つとして指摘されています。報道で「〜容疑者が自白しました」と報じられた場合でも、その自白がどのような経過でもってなされたかを私達は知り得ません。
 だからといって今回の裁判の被告が冤罪だと言う気はありませんし、冤罪を恐れすぎていてはまともな裁判ができないという側面もあると考えています。しかしこの日本において、容疑者・被告という立場の人間は極めて弱い立場にあり、だからこそ「疑わしきは被告の利益に」という原則を司法の場だけでなく、報道も、そして私達一般市民も徹底するべきだと思うのです。

 もっとも、こんなことは今更なのかもしれません。「松本サリン事件」で私達(対象が特定できないのであえてこのような言い方で)やマスコミが何も学ばなかったことを(河野さんは容疑者ですらなかったのに)、「毒物カレー事件」や「秋田児童殺害事件」で嫌と言うほど思い知らされたのですから。
(参考:「とりあえずお前ら死んどけ」(九月の倉庫)
「秋田の男児殺害事件の犯人視報道」(ジェンダーとメディア・ブログ))

日本が文明国となるために

 例えば居酒屋で酒をかっ喰らいながら、
 「こんなやつはさっさと死刑にせんとあかんで」「んー、でも当時はガキやったっちゅー話やしなぁ」「何ゆーとん、俺が18くらいの時はとっくに社会に出て一人前に働いていたもんやで、あほんだら」
 などと酒の肴に語り合うのはそれなりに楽しいでしょうし、そういったことに目くじらをたてるべきではないでしょう。

 そして、web上での言論も所詮は居酒屋談義と変わらないものだと考えるなら、匿名掲示板やブログなどでの無責任な発言など放っておくべきなのでしょう。

 しかし、webは公的な性格の強いものであり、本当に将来マスコミに取って代わる媒体であると考え、マスコミを“マスゴミ”と揶揄するのであれば、現在のマスコミができていないことでも貫き通すことが求められるのではないでしょうか。私はそこまでweb上での言論というものを信じることはできませんが。

 今回の懲戒請求にまでおよんだバッシングが反面教師となり、犯罪報道や司法との向き合い方を変えるきっかけとなることを願っています。

追記

 コメント欄が上限に達し、書き込んでも反映されなくなりました。何か伝えたいことがありましたら、http://d.hatena.ne.jp/kurotokage/20070909/1189348398へお願いします(応答するとは限りませんが)。