この前、開高さんのお墓参りに行ってきた。これは三十年来の念願であった。初めてぼくが開高さんの本を手に取った時、衝撃を受けたのを覚えている。ちょうど釣りに興味を持ち始めた頃で集英社から出ている『オーパ!』を読んだのだけれど、アマゾンの怪魚釣りの紀行文は、一人の小学生の中に静かな火を灯した。
そこからどんどん釣り好きになっていったのだけれど、開高さんはぼくに本を読むということも教えてくれた。ぼくがこの歳になってもまだ文学の地平の端に捕まっていられるのも、氏のおかげである。
それはそうとして、開高さんのお墓参りであったが、あろうことかぼくは前日に深酒をしてしまい、まだ酒精に膨れた頭を抱えながら、東京駅から横須賀線で北鎌倉を目指した。そういえば酒を飲むということを教えてくれたのも開高さんであった。日帰りの短い旅程ではあったけれど、なんとも開高さんのお墓参りにはぴったりな感じである。ちょうど『青い月曜日』も読み返していたのも、なんとなく惹かれるものがあったのかもしれない。
あらすじ
この本は言ってみれば、開高健の自叙伝である。どこかヘミングウェイの『移動祝祭日』のような趣もあって、少年時代の戦時の頃から奥さんの牧洋子さんと結婚するまでの半生が綴られている。暗い太平洋戦争時代の記憶と、活力を取り戻していく戦後の記憶──しかし、そこには何か宿酔いの中で見たように、どこか心を外から眺めているようなそういう筆致で描かれている。”青い月曜日”とは英語の”Blue Monday(=二日酔い)”から来ている。
感想:宿酔いの中で見た世界
あらすじの中でヘミングウェイの『移動祝祭日』のようでもある、と書いたけれど、ヘミングウェイと決定的に違うのは、それを最後の作品にしたかどうかということである。彼はベトナム戦争へ赴く前に第一部を書き、戦地から戻って第二部を書いた。もしかしたら、開高健も戦地に赴くにあたって、自身の半生を振り返る意図があったかもわからないけれど、彼はしっかりと生きて戻り、第二部を書き上げた。
そこから筆致が変わるのであるのだけれど、これは作家自身も言っていて、そのことを「音楽が変わった」という表現で言っている。第一部と第二部で筆致が違うから失敗作だ、などという輩もSNSで見かけたけれど、ぼくはそれは違うと思っていて、むしろ、そこに求心力から遠心力を求めた作家の真髄が見て取れるような気がする。
しかし、『青い月曜日』とはよく言ったものである。確かに過去を思い出す時、そこには酒精の霧がかかったように、疼痛と吐き気で蒙昧とした意識の中から眺めているようでもある。それを開高さんは”宿酔い”と形容したのである。
また、これは他の作品でも言えることであるが、開高作品は動詞の宝庫である。放埒で、溌剌としていて、高尚でありながら、猥雑でもあり、多分な意義という穢れを纏っている。ああ、これが開高健なんだ、と思わせてくれる。
あと、これは余談だけれど、年上の人たちと本の話をしていて、「開高健が好き」というと、いまだに「青い月曜日は読んだ?」と訊かれることが多い。これはそういった作品である。