思いめぐらす日常のひとこま

はてなブログに移行し、和紙を素材に絵づくりなどを考えめぐらしています。

新春のごあいさつ

明けましておめでとうございます。みな様はお正月をいかがお過ごしでしょうか。

あたらしい年には戦争がなくなり、平和で当たり前の暮らしができるよう、

心から願うばかりです。

さて、小さな絵物語りは和紙を素材に描いて話を添えていますが、予定は第10話まで計画しています。なかなか進みません。今年は少しずつ頑張ってアップしていきたいと思っております。どうぞよろしくお願いいたします。

 

第2話 <冬は、お家の中でのんびり>

 

  凍てつくような寒い冬も、2月の下旬頃には和らぎ 窓から日差しが入り込んできます。

いつものように、お母さんは巻いた「めんよう」の糸を木箱から取りだして編みはじめました。ちい子の帽子や服も編んでくれます。

ちい子もマフラーを編みながら、お母さんとお話をするのが大好きです。

「夏にね、たまごの小屋で蛇が動いていたの。もう、びっくりして三寸も飛びあがったの」ちい子は両手をうわーとあげて「すごく、飛んだの」 

お母さんは「そう、飛んだんだね」と、親指と人差し指をすーと広げて見せてくれた。「なんか違うのかな・・、あんなに飛んだのに」と、ちい子はおかしいと思った。

 

「ちい子ね。雪のうねに炭を植えてきたの。いつ、カボチャができるかな」 おかあさんは首をかしげながら「あのね、ちい子。ジャガイモは種イモから、カボチャは種からと、同じ仲間からできるの。お父さんとお母さんがであったから、ちいちゃんがいるの。難しいね、ちい子には。もう少し大きくなったら教えるね。雪が解けたらカボチャの種をあげるから、植えてね」

「うわ~、お母さん、また穴があいた」ちい子は、足をバタバタさせて編みかけのマフラーをつきだした。「どお~れ。あら、ほどけない。穴をあけるのが上手ね」お母さんはマフラーをひっぱりながら、笑っている。          (第3話につづく)

★『反戦平和の詩画人 四國 五郎』 著者 四國 光 (1956年広島市生まれ。四國 五郎の長男)

 

昭和20年(1945年)8月6日の午前8時15分に広島、そして9日の11時2分に長崎へと原爆が落とされました。8月15日:正午のラジオで放送された玉音放送により終戦となりました。 8月15日を終戦記念日として今年で79年になります。

今年も終戦記念日の際に再度読み返し心に残る本に巡りあえたので、ご紹介したいと思います。

 

⓵『反戦平和の詩画人 四國 五郎』 四國 光 著(藤原書店 2023年5月30日初版)

父(四國 五郎)から「戦争を起こす人間に対して、本気で怒れ」と繰り返し何度も聞かされた。「戦争はあっという間にやって来る。気づいた時にはもう遅い。結局、戦争をしないためには、ちゃんと世の中のことを知り、選挙で『戦争をしない政府』を自分たちの手で選び取るしかない。」(―戦争への怒り―はじめにより)

 

四國 五郎は1924年に広島で生まれ、画家・詩人として作品を生涯描き続けています。敗戦後3年間ほどシベリアに抑留されて過酷な労働を経験し、帰国後は詩・散文・絵画を通して戦争をしてはいけないと平和を訴え、膨大な作品を残し89歳に病死されています。

 

②『戦争詩』 四國 五郎著  四國 光(編集)(藤原書店2024年7月30日初版)

四國 五郎没後に、膨大な遺品の中から「戦争詩」と大書された1冊のノートを発見し出版された詩集です。

 

⓷『絵本 おこりじぞう』(山口勇子・原作 沼田曜一・四国五郎・絵 金の星社)

⓵~⓷は手元に置いていますが、そのほか主な著作に『四国五郎詩画集』『母子像』『広島百橋』(画文集) 『わが青春の記録』(シベリア抑留体験を絵と文)など。反戦運動の活動に絵や詩などで協力されています。

 

★(冒頭の写真)絵本は広島で被爆した少女の物語です。この機会にぜひ読んでいただきたいと思います。現在も世界の子供たちの命、未来が奪われています。怒り、悲しみを日々目にし、心から戦争のない平和を願い、詩画人 四國 五郎の本をご紹介しました。

「ありがとうさん」

 

「IT革命」という言葉が流行り、どこででもスマートフォン画面で指を動かしはじめ、異様な感覚で眺めていた私も、いつしか地下鉄駅やバス停で待つ間に指を動かしています。

 

そんなある日、地下鉄の車内で見た光景です。親子でしょうか、母親は画面を見ながら忙しく指を動かしています。隣に座っていた5歳前後か、女の子も自分用の画面を見ていました。15分ほど経った時、到着駅のアナウンスから母親は指を動かしながらすっと立ってドアー付近に行き、子供も画面を見たままついて行きました。ドアーが開き親子は降りて行きましたが、この間一言も交わすことなく、促すような仕草もないのです。普段の暮らしに自然に入り込んできたスマートフォン。便利で欠かせないが、ある寂しさもあります。

 

気になっていたある日をキッカケに、昨年の3月から和紙を素材にした小さな絵物語を作り始めました。

 

物語の主人公は5歳の女の子「ちい子」です。「おかあさん、お仕事チョウダイ」とねだるお仕事が大好き。ちい子が住んでいる場所は内浦の海と 緑の山々に囲まれた豊かな町です。

「お父さんは汽車のおしごと、遠いところで働いています。土曜日に帰ってきて魚をいっぱい釣ってきます。お母さんは羊と鶏のお仕事で畑に行き、ちい子は犬のケンとミーコの猫とでお留守番。そして、隣の家のお兄ちゃん(従兄)たちと、けんぱ、石けり、パッチして遊ぶの。ちい子が「どうして空が青いの?なして?」と聞くと、「また始まった、ちい子のどうして?なして?って、もう、うるさいから」お兄ちゃんは逃げていきます」。

 

★久しぶりの更新でご無沙汰しておりました。作品が少しできましたのでブログに載せていきます。絵はA4サイズで横に2枚を綴り、1場面としました。やっと3場面ができましたので少しずつアップしようと思います。拙い作品ですが見ていただければ嬉しいです。

 

2024年 1月

 

2024年が開けました。 今年もどうぞよろしくお願いいたします。

しばらくブログを休んでいましたが、今年は小さな 小さな絵物語(和紙で作品)を

載せていきたいと頑張っています。

 

干支は辰年、色紙に辰の成長を和紙で描きました。6つ目の大きな辰は空高く舞い上がり、振り返って小さな雪景色の街並みやようすを眺めているイメージです。

ところが1日の16時10分に能登半島地震が起きました。 驚くと同時に色紙をX(旧ツイッター)に載せないで良かったとなぜか安堵。

 

この寒い厳しい時期に地震による大きな災害、そして初動遅れは人災ともいわれている被害を想像し心がつぶれる思いです。

ただ一日も早く、命と暮らしが大切にされる日常を願うばかりです。

 

あけましておめでとうございます。


あけましておめでとうございます。 今年の干支は「卯年」ですね。みなさまの飛躍を願ってアップします。 (和紙を素材につくりました)

 

昨年は読んだ本の感想もメモ書きのままで、アップをしていませんでした。

今年は趣味の作品を少しずつアップしていきたいと思っています。

がんばります。どうぞよろしくお願いいたします。

 

特に昨年は内外にいろいろなことがありすぎました。悲しんだり怒ったりで落ち着かない感じでしたが、人と暮らしが大事される社会を願いながら、自分のできることに集中していきたいと思っています。

 

忘れられない東日本大震災。発生から11年

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★あの辛く悲惨な東日本大震災。発生から11年経ちました。(3月9日警察庁の発表から死者は1万5900人。行方不明者は2523人)★家に戻れない、ひとりひとりの「いのち」忘れてはいけないと思い、この時期に関係著書などを読んでいます。

 

<著書や映像のご紹介です>

 

(1)2021年

「リチャード・ロイド・パリー著『津波の霊たち』―3・11 死と生の物語―

<第3章の大川小学校で何があったのか>を中心とし、取材を基に内側から>

大川小学校では校庭前の運動場に50分も待機させられ、避難を始めた1分後に津波に襲われました(児童78人のうち、74人 教職員11人のうち10人が津波に飲み込まれて死亡)

「6年生の2人は担任の先生に訴えた「先生山さ上がっぺ。ここにいたら地割れして地面の底に落ちていく。おれたち、ここにいたら死ぬべや!」

 

(2)2022年

<アジアンドキュメンタリーズ> ドキュメンタリー映画「KOI 鯉」絶賛配信中!

 https://asiandocs.co.jp/con/605

バス運転手をしていた男性の妻、銀行の屋上から津波に飲み込まれて行方不明。

妻を探すためにダイビングの資格をとる、その思いを知り、ダイバーたちが協力する。

他方、悲惨な状況を見て集まったボランティアグループが海から引き揚げた遺留品や、海岸地帯を探しまわり、遺族に戻すため、海の内外での協力が行われている。

 

「忘れてはならない震災の記録を、当事者の視点で残した作品。周囲の関心が薄れていく中で、本当に支援が必要な人たちが取り残されてしまうのではないかと懸念されています。」

大川小学校で津波に流されて、行方不明児童の父親が現在も校庭に立ち当時を伝えている姿が印象的で、映像の中にあります。

 

 

★「一日一羽、一万鶴」折り鶴を折っていますが、数も曖昧になり、いつまで続けられるか‥、災害の傷跡を癒せるように願いながら折っています。

豪雪の札幌

札幌は本日も雪が降っています。

2月5日開催予定の「さっぽろ雪まつり」は、新型コロナウイルス感染拡大のため大通会場は中止しになりました。オンライン開催で楽しめるようです。

今年の1月10日頃から低気圧が発達して12日~14日頃には東北や北海道で猛吹雪。札幌も大雪になりました。札幌市は「大都市」の中でも「豪雪都市」といわれています。(令和4年1月1日現在の人口数は、1,972,381人)

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★画像はJR札幌駅まで徒歩20分ほど離れた場所です。

次は市内の南方面、真駒内の画像です。 ★(地下鉄南北線:真駒内駅)、真駒内駅前にある彫刻(作家名 丸山隆 「ひとやすみする輪廻」

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★五輪大橋・五輪小橋の欄干には、札幌ゆかりのある4作家によって制作された彫刻作品があります。バスの左側座席の窓から。写っていたのは2枚のみでした。

①本郷新作『花束(一対)』 ⓶本田明二作『栄光(一対)』 ③山内壮夫作『飛翔(一対)』は、欄干の入り口に、雪が盛り上がっていたのが作品だと思います。 ⓸佐藤忠良作の『えぞ鹿』『雪娘』は写っていません。

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★2011年7月に、この場所で写真を撮っていました。彫刻たちを重ねて見ていただければ作品も喜ぶと思います。

   冬季オリンピックを記念した、彫刻たち - 思いめぐらす日常のひとこま (hatenablog.jp)  

 

 

2022年 明けましておめでとうございます。

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(和紙を素材に作りました)

明けましておめでとうございます。

皆さまにとって、幸いな年となりますようお祈りしております。

ここ数年、ブログのアップも休みがちになっていますが、今年もどうぞよろしくお願いいたします。

 

この2年間はコロナ禍で落ち着かない日々を過ごすことになってしまいました。皆様はいかがでしたか? コロナ感染症が収束し、安心して暮らせる日常に戻って欲しいと願うばかりです。

昨年は政治や社会の動き、また私自身のことも含めて考える事が多いように感じました。それでも歩みを進め暮らしが過ぎていくのだと振り返っています。

今年もできる機会を大切に、あれこれ考えています。

 

ホームページのサイトから、少しずつブログに移行したいものもありますので、

これからもどうぞよろしくお願いいたします。

 

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戦争責任をテーマとした旅、絵画。―画家 富山妙子氏の著書から ③

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★8月19日 ツイッターのタイムラインに富山妙子さんが亡くなったとの情報があり驚いています。今年の3月には韓国で共催展を開催していました。誕生月は11月ですから100歳にあと少しで残念です。ツイッターのおかげで本を通して画家の生きた証を知ることができ、感謝しつつ魂を解放して新たな一歩へと念じ、お悔やみを申し上げます。

 

①幾何学的な形態のボタ山が絵のモチーフになり、ボタ山の下からは坑夫のうめき声も。

 筑紫の山々を越えた眼下に筑豊の平野には大小のボタ山が点在していた。Fさんは「ここは炭鉱が八百八丁あるといわれ、食いぱぐれた者はこの峠で思案し、煙の出るところをたずねてゆけば、なんとかなるといわれとったんです。・・」(93頁) 「・・くる日もくる日も、私は閉山のヤマをたずねてまわった。夜逃げ、坑内災害、一家離散、栄養失調—私の毎日は半飢餓地帯でみる救いようもなく暗い生活である」(99頁)

「戦後、労働運動の高揚とともに文化もまた新しい担い手としての労働者・・・人間解放と人間変革をめざし、社会環境を根底から問い直そうとする熱気がこもっていた―私もそのエネルギーに自己変革をとげたいと思う。・・私の炭鉱遍歴がはじまった。」(104~105頁)

 

<★本の紹介>

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<『筑豊炭田に生きた人々—望郷の想い【近代編】』 著者:工藤瀞也 (2008年発行/海鳥社)>

 石炭産業は地域を形成し発展した全盛時代と、エネルギー政策の転換で閉山に追い込まれていく1885年~2004までを前編として「産炭地筑豊」をまとめたのが本書です。「・・石炭産業の壊滅に伴う諸課題が集中したのが「筑豊」地域であった・・」歴史博物館 館長安蘇龍生氏の刊行文            (表紙、右の絵は千田梅二画)

 

 著者(富山氏)が「筑豊炭鉱」に行き来する頃には配炭公団が廃止され自売が始まっていました。各地で炭鉱ストが続発。(著者が北海道に渡った時に三井鉱山のストライキ「英雄なき113日のたたかい」があり、2701名への解雇に反対した労働組合側が勝利)。しかし石炭鉱業合理化の措置法で、大手14社はロックアウトを宣言して閉鎖が続き、零細企業を残す状況でした。

「・・約十年間、暗い地底や、黒ずんだボタ山の絵ばかり描き続けてきて、私のパレットには明るい歓びの色はない。・・私は自分が見えない。私は自分の個性とはあまりにもちがう暗い地底にしがみつき、何も出ない鉱脈を掘っていたのかもしれない。・・十年の炭鉱遍歴がどっと一度に疲労となってのしかかり、自分のしたことがひどく空しく思われた・・」(118頁)

 

⓶『戦争責任を訴えるひとり旅—ロンドン・ベルリン・ニューヨーク—』 富山妙子著/岩波ブックレットNO.137

(冒頭の写真)

著者は 1950年代:炭鉱をテーマに制作。 60年代:ひとり旅から第三世界をテーマに。 70年代:韓国をテーマに制作。 80年代:戦争責任をテーマに。 77年より、絵の映像化をはじめています。(本書の著者紹介より)

 炭鉱離職者の一部が南米へ移民。あるきっかけで1961年10月に「沖縄移民」で日本がチャーターした船で日本を出発し、ひとり旅がはじまりました。 第4章:南半球(苦い大地) 第5章:ソビエト・ヨーロッパ・中近東(自由とは) 第6章:インド(命の極限) 第7章:重いきずな(わが日本、わが朝鮮) 第8章:前夜(語れ夜は夜だと)と続きます。絵の色彩も鮮やかなものになっています。 少女時代にハルピンで過ごした著者は日本の中国侵略を思うと暗い戦争と、敗戦の中で日本が責任を負う意味、日本に踏みにじられた隣国の人々に思いを馳せて旅をし、「・・日本政府が欠落させている戦争責任の追求を、小さな弱者である私たちの手で行おう・・」(あとがきにかえて 373頁)と結んでいます。 旅をしながら、問いかけながら多くの作品描き、20冊ほどの代表的な出版物もあります。 (おわり)

 

★最後にひとこと。

『わたしの解放』を読んで、大正、昭和、平成の時代に押し寄せる社会の歪に、著者が果敢に挑んでいく行動力や世界の大きさに圧倒されました。その中で炭鉱産業に生きた人々の暮らしから夕張の話を思いだしました。南夕張出身の友達がいて、お兄さんは外科医でした。大きな声で「雨露しのぐ屋根があるだけでも有難いと思わなきゃ」と話すので、なんか可笑しみがあって妹さんと顔を見合わせて頷くこともしばしば。お父さんは三菱南大夕張の社員とのことですが、小さい時から炭鉱労働者の過酷な環境を見ていたのでしよう。

床に入って天井を眺めながら、この言葉を思い出します。今も新型コロナウイルス感染拡大の影響で仕事や住まいもなく、十分な補償も得られない人もいます。著者は日本主義からの「棄民」がいると、移民の問題を取り上げていますが、この令和でも社会底辺にいる人は、ある意味では「棄民」としての姿ではないでしょうか、と思うのです。

 

★私事です。ブログをあまり投稿していませんが、ホームページの方はソフトが壊れてしまい、そのままになっています。ブログと一つにしたいのですが簡単にはいかないようで思案中です。

 

長文になりました。読んでいただきましてありがとうございます。

 

戦後-炭鉱に絵画のリアリティを求めて―画家 富山妙子氏の著書から ⓶

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<著書の内容より>

①東京の美術専門学校に入学。1941年 真珠湾攻撃で太平洋戦争に突入し4年後に敗戦

1932年 日本が強行に「満州国」を建立。その年に女学校へ入学する。 

1938年 ハルピン女学校を卒業後、単身で日本に帰国。女子美術専門学校に入学するが中退し、「美術工芸学院」で学ぶ。戦時下で東京も物質の窮乏と自由が失われていた。

A君と知り合い、平等であることをタテマエとし、姓名も変えずに友情によって結ばれる結婚生活。子どもは著者の戸籍に入れる。その関係も徐々に変わり通じ合えぬ深い溝ができた。その頃友人のB君との関係が深まり冷却期間を考え、A君の知り合いを通して寒村に疎開した。村では麦が盗まれたと噂が広がり、疑われるのは底辺にいるヨソ者、疎開者、序列の一番下に朝鮮人がいた。東京の友人たちと別れて孤独であったがB君が追いかけてきて一緒に住むようになり、A君は別れることをやっと納得した。寒村で生きるのに暮らし方も変えざるを得ない状況だった。1945年8月15日に終戦となる。敗戦の翌年、わずかの持ち物を現金に換えて子供と3人で東京にもどる。

 

⓶敗戦後に生活の糧として売る絵を描いていたが、一人で生きる画家への道を選ぶ

間借りした部屋の縁側に七輪と流しをすえ、井戸から水を汲んできて炊事。隣室の柱時計の打つ音を数えて時間を知り、空箱を部屋の隅に並べて家具とし、一組のフトンに親子がくるまって寝るという貧乏などん底のなかに、B君との子供が生れた。5年が経ち絵のアルバイトで生活ができはじめた時、B君が親戚の後援でフランスに絵の勉強にゆくという。戦後生活の重圧で2人は別々の道を進むようになる、毎日話し合ってもズレが次第に大きくなる。意見の食い違いで悩み苦闘する。B君が求めるのは男たちが愛と献身をささげる「永遠の女性」と呼ぶ姿である。著者が求めた男性とは一つ一つの課題を共に考え、同じ価値を見出そうとする平等な同志であった。 「ひとりで生きる決意をしたとき、大きな手術が済んだあとのような満足感があった。しかしそれと同時に、二人まで父親を失くした子供の人生を考え、孤独という後遺症の傷がいた。心のどこかにぽっかりと大きな空洞ができたようだ。」(81頁)

 

③炭鉱に絵画のリアリティを求めて、鉱山を描く決意

3度の食事にありつくため、馬車馬のように絵描きができる仕事をしてきた。5年経ったある夏、宮城県で数日間過ごした。創造の根を観念的なものに求めていたが、敗戦後の飢餓的な暮らしから人々の生き抜く姿に共感し、「鉱山を描こう」と決意する、日立鉱山の見学や写生に出かけていた。炭鉱記者が北海道の炭鉱を描くようにとの好意から、各地の炭鉱を回れる便宜が得られ、初めて冬の北海道に渡る。列車の中で昨夜、落盤死した赤平の若い炭鉱労働者の話を聞く。 「炭鉱が夕暮れの中に現れ、雪の中に立つ三角形のズリ山には飾りのように点々と電灯がともり、小さなトロッコが山頂に登ってゆく。山の斜面いっぱいに並んだ坑夫住宅のまばゆい灯の列—・・炭鉱風景であった。」(90頁)

1953年 北海道の炭鉱をテーマとしてはじめて個展を開いている。そのあと「炭鉱新聞」から特派員として不況のヤマをまわってはとの話になる。北海道の炭鉱は会社側から見たもの。今度は労働者の側に立ってヤマを見るため、福岡の「筑豊炭田」に行くことになる。   (つづく)

 

<備考>

冒頭の写真:夕張市水沢地区当時の状況。写真の掲示から。

2枚目の写真:三笠炭鉱 当時の夜景。写真の掲示から。

3枚目の写真:工夫住宅(6棟割長屋) 制作の写真掲示から。

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アートを通して、夕張、三笠の閉鎖した炭鉱町を観て歩き、当時の炭鉱労働者の悲惨な暮らしを、特に住宅から想像でき心に残っています。(社員住宅は安定した場所に建っており、風呂や居間など生活の環境が整っていますが、炭鉱工夫の住宅はズリ山の斜面に沿って6棟長屋が建ち並び、風呂もなく隣の音が筒抜けの住宅環境です)

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