1979年*1、第11回コミックマーケット(C11)にて、創作系ロリコン漫画同人誌『シベール』(無気力プロ内シベール編集部)創刊号が頒布された。
同誌は、男性向けエロ同人誌の記念すべき第1号として知られており、終刊直後から今日に至るまで、とにかく方々で神話的に語り継がれている。が、今となっては『シベール』の何が凄いのか、よく分からない人も多いだろう。
簡潔に言うと『シベール』は、手塚の系譜を受け継いだ伝統的・記号的な絵柄で、はじめて性描写を展開したエロマンガ雑誌である。それまでのエロマンガはリアルタッチの三流劇画しかなく、おたく的な青少年たちは、アニメ調のシンプルなラインで描かれた美少女のエロマンガが存在しないことに違和感を覚え始めていた。
そこで、時代の潮流として「かわいいエロ」が求められた。そんな中で出現したのが、同人誌『シベール』である*2。
シベール Vol.0 予告&原稿募集号https://t.co/UYm6ZRFvih pic.twitter.com/KiBYIR5bkT
シベール Vol.2
発起人の沖由佳雄*3は、今で言うアニオタ&ミリオタで、同じような連中が集まる漫画喫茶「まんが画廊」に入り浸るようになる。
まんが画廊の客は、アニメ好きのロリコン青年が多く、そこから蛭児神建、孤ノ間和歩、計奈恵、豊島ゆーさく、三鷹公一、早坂未紀、森野うさぎが参画した*4。
以上が『シベール』発刊までのあらましである。 シベール作家の方から参加したきっかけは「シベールの○×さんのファンです」とノートに書いたら、本人がその場にいて「これ書いたの君?」と交流後始まったからと聞いたことがあります。マンガ画廊ノートほんっと閲覧したい。フリスペノートとかも残ってないのかなあ
しかし、ネット時代になってから『シベール』の存在は忘れ去られた*5。
萌え絵の起源をめぐるツイッターの騒々しい議論でも、同誌のバックグラウンドを説明できる人は皆無である*6。だが、萌え絵の発信基地に「無気力プロ」と「まんが画廊」と「コミックマーケット」のトライアングルがあったのは否定しようのない事実である。 「まんが画廊」「シベール」「コミケ」のトライアングルがロリコン漫画を産むが、そこにはナンセンスをモットーとする80年代の空気があった。すなわち少女漫画をポルノにするような「漫画で遊ぶ」行為と、それを共有する空間の成立。これは面白主義/80年安保的で実に無意味だが、そこに真価があった。
これが80年代のある種の潮流であり、空気である、それは何もオタクに限る事ではない、70年代までのまじめで、重々しく、ともすれば悲観主義の極致のような空域(これはまあ、70’s万博を頂点とする楽観主義、進歩主義的未来感への巨大な反動でもあるが)をいかに茶化し、笑いのめし、叩き壊すか https://t.co/0NxlfpDJIv
つまり「反動に対する反動」が世の中を覆いつくしていた時代の空気の一角として「ロリコンブーム」や「漫画表現としてのニューウェーブ」もまた生まれ出てきたわけで、オタクがその落とし子で言うのは論を待たない、軽薄で狂騒的で刹那的な「面白主義」こそ、オタクの持って生まれた豪であるともいえる
このエントリーは、言及される機会がきわめて乏しい同人誌『シベール』にまつわる全書評を渉猟し、その抄録をまとめたものである*7。なお、内容についての考察は、批評同人誌『ロリコンブームの跡を追って増補改訂版』が詳しい。
シーベル編集部 (蛭児神建, じゃ・じゃばあ・うおっく, プラ・ナリア, らち・メリア, yt)
1979 pic.twitter.com/Qpi8EAHt9W
原田央男(批評集団「迷宮」同人=コミックマーケット準備会初代代表)
第11回コミックマーケットは、約220の参加サークルと約3000人の一般参加者を迎えて盛況の極み。アニメサークルの増加は止まらず、もはや上映会などほかのイベントをやる余裕も、時間的にも空間的にもない有り様だった。/そんなこととは無関係に、増え続けるサークルの生み出す同人誌のなかから『シベール』のような、いわゆるロリコンまんが(少女を性愛対象としたまんが作品)誌が登場したのがこの第11回からである。『COM』の休刊からすでに7年を経て、まんがファンは自己表現に代わる新たなまんがの魅力を探し求めていた。そこに現れたロリコンまんがは「まんがならではの」純粋な快楽追求装置として強く男性読者に働きかけ、やがて来る80年代前半にブームを形成。それはロリコンがまんがである限りはれっきとした一つのジャンルであったが、後に不幸な事件と重ね合わせられることによって「表現是か非か」の問題へと発展していく。ここで言及すべきことではないがまんがの80年代の予兆は、すでにこの時から表れていたことになるわけだ*8。
コミックアゲイン
— 馬鈴薯そば (@potatosoba) 2015年10月8日
1979年
みのり書房より
春コミ(昔は春にもコミケが開催されてたのよ)レポート pic.twitter.com/izesvXNnf2
アニメック編集部
コミケットに異変が起きている。例年なら人気アニメのファンジンに集中する客足が、昨年あたりから別方向に向きはじめているのだ。すなわち……ロリコン・ファンジンの台頭。1980年12月に川崎市民プラザで開かれたコミケット16では、開場前からロリコン・ファンジンに長蛇の例ができ、会誌も早々に売り切れるというケースか続出。そのパワーの前にはさすがの『ガンダム』も顔色なしといった風情であった。さて、このブームの頂点に立っているのが、もはや伝説化しつつある同人誌『シベール』だ。少女愛好家の間に「シベールする」という新語まで流行させた、ロリータ同人誌の草分け的存在であり、その正体はいまだ明らかにされていないのだが……考えようによっては、シベールは非常に不本意な受け入れかたをされているようなのである。 昨年、一部商業誌で紹介されたことによって、何やらいかがわしい趣味を持った集団と勘違いされてしまった。シベールはもともと少女マンガを目指して組織された集団だ。メンバーもマンガ家のアシスタントやアニメーターが多く、画力や構成力もしっかりしている。メンバーの中のエース級、沖由佳雄や孤ノ間和歩氏はプロデビューを目標に修業中。本当はとてもナイーブな集団なのです。最近はファンの方がエスカレートして、×××写真までが贈られてくるとか。感ちがいしないでください。シベールは美を求めるファンジンなのである*9。
「ふたりと5人」1972年~1976年
— バロン金山@C99_1日目東ネ15a (@baron_kanayama) 2020年7月24日
「マカロニほうれん荘」1977年~1979年
「機動戦士ガンダム」1979年
「魔法のプリンセスミンキーモモ」1982年
ミンキーモモ放映時にはコミケに一般参加し始めたのでこのころオタクとして完成する(笑)#あなたをオタクにした作品4選#ミンキーモモ pic.twitter.com/oUBneXHt98
吾妻ひでお(漫画家)
劇画のエロは全然エロくないと俺は思ったんだけど、一般の人も実はそう思ってたらしい。だって『シベール』を出したら、そのあとみんなそういう雑誌になっていった(笑)。じゃあ、みんなそう思ってたんだって。みんな手塚さん石ノ森さんの絵や少女マンガの絵でエロを見たいんだって。『シベール』の直前ごろに少女マンガの模写をして、エロの落書きみたいなのを描いてたんです。特定の誰の絵かは思い出せないけど、少女マンガは顔だけ模写して、体は手塚・石ノ森系なんですよ。それを組み合わせると、すごいエロチックになるという。俺たち、そういうのが好きなのは少数なのかなという疑問があって。だから、自分らが描きたいのもあるけれど、人の描いたものを読んでみたいというのが根本にあった。僕はそのきっかけをちょっと。みんなの後押しをしたぐらいの感じですかね。もしやらなかったら、出るのは少し遅れたと思う。自分がやらなくても、いつかどこかから出てきたんじゃないかと。歴史の流れには必然性があるらしいから。でも、こんなにメジャーになるとは思わなかった。何人か増えて、描いてくれたら嬉しいなぐらいの感じで。そしたらあっという間に類似本がごちゃごちゃ出始めたんで。こんなに需要があったのかっていう*10。
沖由佳雄(漫画家/シベール編集長)
当時は三流劇画ブームで、エロといえば人妻で、せいぜい女子高生。そういうのも別にいいんですけど、われわれが欲しいものとは違うという、物足りなさを感じていました。もう一つあったのが、女性サークルを中心とした耽美ブーム。これが許されるんだったら、俺たちもやりたいことをやっていいんじゃないかという。誰もやらないからとりあえず始めたんですが、自分たちで描くというよりは、上手い人が描いたのが見たい、というのが一番の目的でした。われわれがやらなければ、きっと誰か他の人がやったと思います。わりと皮膚感覚的に、そういう潜在的な需要はあるなとは思いました。まんが画廊の落書き帳を見たら、その手の絵が上手い人いっぱいいましたから。その落書き帳を見たくて、あるいはそこに描きたくて、行っていたところはありますね*11。
私は、正直よく知らないのですが、会長(野崎 欣宏)は昔、江古田に「まんが画廊」という喫茶店をやっていたそうだ。 経営をしていたのかな?。とにかく今でいうアニメカフェみたいなものだと思う…。そんな古い喫茶店の落書き帳が見つかりました。 pic.twitter.com/b3DqMuZfyO
— 伸童舎【公式】 (@shindosha) 2015年1月9日
手元にある巻の確認を、森川嘉一郎さんと。歯抜け状態ではありますが主に26巻〜63巻まで。63巻は、まんが画廊の閉店時、最終巻なんですね。会長は1巻〜25巻の行き先もアテがあるとか…? pic.twitter.com/tw9ZT4bNo5
— 伸童舎【公式】 (@shindosha) 2015年1月21日
蛭児神建(作家・編集者)
漫画画廊は、西武池袋線の江古田駅から徒歩数分の、ビルの地下に在った小さな喫茶店である。常にアニメや特撮ソングが鳴り響くその店は、活気と独特のオーラに満ちていた。同人誌が病院の待合い室の雑誌のように無造作に置かれ、自由に読めるようになっていた。プロの漫画家やプロを目指す者、そしてただ純粋に漫画やアニメや特撮が好きな者が集い、対等に語り合う、そんな店だった。
私は、生まれて初めて、自分がいるべき場所、いても良い場所を得たと思ったのだ。学校をさぼり、週に何日も漫画画廊に通った。そして私は最初は恐る恐る、次第に強烈に自己主張を始めた。その店の「落書き帳」……ほとんどプロ級もしくは本当のプロの絵も描かれたノートに恐れも知らず、「私はロリコンです」と綴り始めたのだ。それで疎外される事は無かった*12。とゆうか、そのケの有る奴はけっこういたんだな。後に『シベール』の中核メンバーになる孤ノ間和歩も、既に私より古い常連だった*13。
私が一人で作った初のロリコン文芸誌『愛栗鼠』*14は数十部のコピー誌だが結構売れた。やはり潜在的需要が有ったのだろう。そして、話はまた漫画画廊に戻る。あの店は、次第にロリコンの溜まり場の様になっていった。私が求心力になったのか、誰かが恥知らずにも最初にカミングアウトするのを、みんなが待っていただけなのかもしれない。男のアニメファンなど、八割がたロリのケが有るに決まっているのだ*15。
(蛭児神建『出家日記』あとがき漫画より)
初対面の沖由佳雄氏に手渡された本を見て、私の全身の血液は一瞬で頭に昇った。それは二つ折りのコピー紙をホッチキスでとめた、ほんの数ページの品である。しかしその内容は、彼の可愛い絵の少女が靴下だけの全裸になり、ワレメがくっきりと描かれた、当時としては衝撃的なものであった。私は頭がクラクラした。アニメ的美少女をエロの対象とする、その偉大なる先駆けは沖由佳雄氏である。全く、世界観が引っ繰り返るような思いをした。
私の、エロの血は燃え上がった。私は沖由佳雄氏に『シベール』の計画を教えられ、吾妻ひでお先生に紹介された。全く、当時の私としては夢のような出来事である。あの『不条理日記』や『シャン・キャット』をお描きになった吾妻先生である。偉大な、尊敬する漫画家であった。そんな先生の「仲間」になれとの誘いなのである。ただ自分はロリコンであると主張しているだけの、この無能な私にである。信じろと言われる方が無理である。本気で、夢かと思った。そんな気宇壮大な悪のプロジェクトに誘われるなど、悪の秘密結社の一員に加入した気分であった。ワクワクドキドキものの経験である。
私にとっての吾妻先生の印象は、とにかく大きく穏やかで優しい人であった。沖氏が長年アシスタントをしていて、一度も本気で怒っているのを見たことが無いと言っていた。だから、逆に壊れたんだな。/ともかく漫画画廊が存在しなければ、蛭児神建も『シベール』も無く、後のロリコン同人誌ブームも起こらなかったかもしれない。あんな小さな店に、あれだけの偉大な才能が集結したのは神秘というか、神の悪戯とさえ感じる。西洋の芸術史などを調べていると、複数の天才が同じ時代に誕生して寄り集い花開くという、神の意志としか思えない瞬間が幾度も起こるが、その小規模な形を私は目にしたのだ。
もちろん、漫画画廊にも健全な常連もいた。そんな一人に、ある日、吾妻先生の色紙を貰った。『少年チャンピオン』が読者プレゼント用に作った、印刷のカラー色紙である。奥にしまいこんで今は出てこないが、確か『ネムタくん』か『やどりぎくん』だったと思う。「吾妻ひでおのファンだと知られると、ロリコンだと思われるから、もういらない」と怒り混じりで言われた。そんな真面目なファンを置いて、先生は遠く危ない世界に突き進んでしまったのだなあ*16。
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やおいがあったからこそ『シベール』ができたということもあるわけです。ロリコン同人誌を作ること自体、勇気が要ることだったんですよ。やおいがなければ、それをやる勇気はなかったかもしれません。やはり、いくら迫害されてもしようがないという意識があったわけです*17。
二次出力したら萌え絵になった
— 虫塚虫蔵@迷路'22 (@pareorogas) 2022年12月5日
(変質者くんはログアウトしました)
※せっかくなので高画質化して再掲 https://t.co/dOWHFh29xI pic.twitter.com/gXBxHkOizj
米沢嘉博(批評集団「迷宮」同人=コミックマーケット準備会2代目代表)
79年4月『シベール』は、文字もない真黒な表紙のコピー紙としてコミケットに登場する。モノリスにも似たその形態は、まだ一般的ではなかった。ビニール袋に入れられたそれは、少女漫画が主流だった同人誌即売会の中では異端であり、薄気味悪かった。が、そこには男達の手による、アニメのパロディ、美少女キャラクター遊び、そしてエロチックな輝きが納められていたのだ。同人達の毎回変化するペンネーム、美少女(美幼女)を登場させるという一点でつながる作品、少年漫画やアニメの線に似たエロチックなペンタッチ。『シベール』は漫画同人誌界にマニアックな一つの世界を創りあげた。しかもその力場が多くの男の漫画ファンを魅きつけたのだ。コミケットが回を重ねるごとに『シベール』は部数を増やし、ついには小パニックを起こすまでの人気をかく得していった。500部はわずか1時間で売り切れ、多くのシベシンパが生まれた。そして、そこから多くのロリコン系マンガ同人誌が派生していった。現在あるそれらの同人誌はすべて何らかの形で『シベール』の影響下にあるといえるだろう。──正しく、すべては『シベール』から始まったのである。今や神話となった『シベール』の力が何であったかという考察はおくことにしても、ロリコン同人誌紹介第1回目はこういった具合になることはまちがいあるまい。『シベール』は休刊した。しかし、シベはなくとも子は育つのである*18。
志水一夫(作家)
「シベの発現」は、ゆがんだ法律を主な原因とした俗世間のロリコン写真集ブームなどからも力を得て、本来それとは一線を画した存在であったはずの『クラリス・マガジン』などをも巻きこみ、一大ロリコン誌ブームの渦をひき起こした*19。ほど遠からぬ内に「かつてロリコン誌ブームというのがあったなァ」と言われる日が来るに違いない。しかし、「ロリコン誌ブーム」は確実にわれわれの中に何かを残して行きつつある。われわれは「ロリコン誌ブーム」というファンダムの変革を通りすぎることによって、今まさに何かを得ようとし、また失なおうとしているのである。ファンダムにおけるロリコン誌ブームは、ある種の「成長の儀式」なのではなかろうか。『シベ』は、正にマンガ界のモノリスだったのかも知れない*20。
山本直樹(漫画家)
僕、並んでたんですよ、あの列に。コミケで本を買う行列ができたのは『シベール』の最終号が初めてなんじゃないでしょうか。会場への入場の行列は前からあったけど、会場の中で本を買うための行列は『シベール』の最終号のときが初めてだと思います。前の号を川崎市民プラザで見つけて。なんだこれは、俺の世界がなんでここにあるんだ、みたいな(笑)。見事にはまりました。あそこからロリコン美少女のビッグバンが。その後どーっと。その世界を作ったんですよ。それまではエロ本の同人誌は、エロまでいかないかな、女性向けの同人誌がやっぱメインで「耽美」って言っていたね、そのころ。で、『シベール』でしょ。もう宇宙創造ですよ(笑)*21。
最後に暴論を吐きます。現在の日本のマンガの半分は手塚治虫が作ったものです。あとの半分はつげ義春が作ったものです。そのどちらか一人が欠けても現在のマンガの豊穣はなかったと思うのです。で、その二つを一番最初に融合させたのが吾妻ひでおだったと思うのです*22。だから吾妻ひでおマンガは異端ではなく現在につながる正統なんです。みんな忘れてるかもしれないけど*23。
計奈恵(漫画家)
私見ですけど『シベール』爆誕以前のエロ漫画って劇画だったんですよね。吾妻先生が漫画アニメ風味のロリっ子エロを描いたら、その後のエロ漫画の画風も現状の萌え絵に進化するキッカケに成ったと思うのですよ*24。私的に「吾妻ひでお先生が居なかった世界」を想像するとエロ漫画は劇画時代が続いてSFやファンタジー作品のデビューが困難な暗黒時代が続いていたと思いますよ。特に「アニメ風美少女」画風の出現のファーストインパクト。ついでに言うと女性の(美少女系)作家の登場も遅かったと思います*25。
初期の白夜コミックス
— ナンブ寛永 (@kan_ei_sen) 2018年1月15日
「美少女同人誌 スーパーアンソロジー」帯付 (1984)
計奈恵「トライアングルミステリアン」帯付(1984) pic.twitter.com/epBJB5rv6G
RT
— 計奈 恵 (@kazunakei) 2021年12月5日
くりぃむレモンの「亜美」初期デザインの件でも
呟いて居ますケド「あの頃」エロは劇画と言うのが
一般&オヂさんの思考で固まって居て 亜美も
劇画系デザインだったそう(私はソレを観て居ません)
兎に角《アノ頃》漫画界隈の住人の意識が爆発的に
変化した印象
今はソレが普通に成ったけどね~W
噂の「まんが画廊」のらくがき帳も
— 計奈 恵 (@kazunakei) 2021年12月5日
当初メインは「ウルフ」さん「しげの」さんが
描くシャープな細マッチョ系の絵や
少女漫画系の絵で埋まって居た日常が
突然 アニメヒロインやオリジナル美少女
ケモ娘が大量発生したり!(^^)!
今の普通は《昔は萌え絵は息して無かったンだよ》
って位凄い事ですよ♪ pic.twitter.com/AVHYL2VE4v
遠藤諭(東京おとなクラブ)
少年マンガで女の子がカワイクカワイク描かれなければいけなくなったのは一体いつの頃からだったろう。この十数年間のあいだに少年マンガの中の少女の質は、飛躍的に向上したといえる。そして、この女の子を可愛く描くというスタイルが、更にワンステップ進み、少女を美しく描くということ、より少女的であるということを中心にすえたのが、吾妻マンガの到達した領域だといえる。吾妻ひでおは、それまでの数十年間に、幾百の少女マンガ家がそうしようとして試みてきたことを、たったこの数年の間に、ひとりでとびこえてしまったようなところがある。いまさらいうまでもなく、吾妻ひでおこそ、もっともエキセントリックに少女を描き続けている作家なのである*26。
川本耕次(批評集団「迷宮」同人/少女アリス編集長/作家・編集者)
(今でもマニアから珠玉の名雑誌と評価の高い自販機本『少女アリス』)
いつも、前人未到の世界を一人で切り拓き、それでもそこに安住しないで新世界へと向けて旅立つ人で、決して「売れっ子」ではなかったが、天才でした*27。
『失踪日記』には「『Peke』で『どーでもいんなーすぺーす』連載。SFパロディを堂々とやる」とあるが、その『Peke』というのが、おいらが編集長として立ち上げた漫画誌で、当時『宇宙戦艦ヤマト』で当てた版元(みのり書房)がドサクサに紛れてマニアっぽい漫画誌を作ろうというので「この人、きっとSF好きだよなぁ」と、おいらが発注したのだ。なんで「SFパロディを堂々とやる」と吾妻せんせが書いているのかというと、おいらがそう注文したからです。この後、吾妻ひでおはSF系のカルト作家として売れるんだが、そんなせんせに美少女物の「純文学シリーズ」描かせて再度、途を誤らせたのもおいらです*28。
まぁ、おいらの編集者時代の功績って、それくらいしかないんだが。「転機になる作品を描く時に、立ち会ってくれる人」というのはまた過大な褒め言葉で恐縮なんだが、跳ぼうか、留まろうか、迷っている崖っぷちの表現者の、背中を蹴飛ばすくらいの役割は果たしたかも知れない。おいらが40年前に考えた路線が、今でも通用する。編集者冥利に尽きる*29。
川本耕次の『少女アリス』(アリス出版/79~81年)は美少女(ロリコン)をテーマにした商業誌の記念すべき第1号。10冊ほど持ってます。吾妻ひでおの「純文学シリーズ」の初出で、最も重要な資料です。商業誌に載った最初のロリコン漫画がこれ。 pic.twitter.com/RMD9PEKv5a
— 虫塚虫蔵@迷路'22 (@pareorogas) 2022年12月3日
アリス出版『少女アリス』Vol.15(1980年10月号)
— 虫塚"KERA"虫蔵 (@pareorogas) 2020年12月13日
吾妻ひでお「夕顔」は吹き出しが手書き文字だ
「この号で私はアリス出版を退職するのだが、ドタバタのせいで写植が間に合わなかったのか、この回だけ手書き文字です」(川本耕次『ポルノ雑誌の昭和史』ちくま新書,2011年,119頁) pic.twitter.com/rUvDa9kmHW
高月靖(作家)
ロリコンマンガ誕生に貢献したのが吾妻ひでおだ。/1979年、アマチュアの同人活動に参加して初のロリコンマンガ同人誌『シベール』を制作。1980年には自動販売機で売られたエロ本=自販機本『劇画アリス』『少女アリス』でエロチックなロリコンマンガの連載を始めるなど、マニアックな活動を続けた。手塚治虫の流れを汲む絵柄はシンプルでかわいらしく、少女マンガとも馴染みやすい。そうしたタッチでアニメ、SFの文脈も押さえながら美少女をエロチックに描く世界は、後のロリコンマンガの原型になったといわれる。同じ幼い少女を描いた成人マンガでも、エロ劇画系とアニメ美少女系は市場が異なっていた。オタクの世界で受け入れられたのは、もちろんアニメ美少女系のほうだ。エロ劇画系でも評論家などに支持される作家は少なくない。だが市場自体はあくまで実写ポルノの安価な代用だ。それに対してアニメ美少女系のロリコンマンガは二次元である点に存在意義があり、さらに非アダルト系のタッチが求められた。吾妻ひでお、沖由佳雄、千之ナイフ、早坂未紀といった当初の人気作家たちは、低学年向けのアニメ、少年マンガ、少女マンガのようにかわいらしくデフォルメされたタッチだ*30。
斎藤環(精神科医)
当時、日本のロリコン文化に革命をもたらしたのが、マンガ家の吾妻ひでおサンだ。/吾妻サンたちのグループが1979年のコミケで販売したロリコン同人誌『シベール』こそが、その記念すべき第一歩だった。その中身たるやなんと、美少女キャラクターを素材としたポルノだったんだけどね。え? 同人誌なんだから当たり前だって? いやだから、その「当たり前」の本家本元が吾妻サンたちなんだよ! それまでのポルノコミックっていうのは、だいたい劇画調のリアリズム路線だったんだけど、吾妻サンは手塚治虫とかが作り上げた「かわいい」絵柄でセックスを描いた。これがおたくの皆さんのツボにダイナマイトヒットした、ってわけですね。ただしササキバラ・ゴウサンによれば、おたくにロリコンが多かったからそういう流れになったんじゃないらしい。むしろ、はじめはパロディやユーモアの表現だったんだよね。「やおい」モノにも似た経緯があって、ちょっとシャレで始めてみたら、マジにハマる人続出、みたいな。ともあれ、この手法のメリットは、もともとデフォルメされた絵柄だから少女をいくらでも変形できるってことにもあった。事実、吾妻サンは、『メチル・メタフィジーク』(奇想天外社、1980年)をはじめ、一貫して少女のメタモルフォーゼを描き続けていたしね。だから少女の変形は、ロリコンの歴史においては超重要な視点なんだ*31。
吉田正高(歴史家)
70年代のコミックマーケットをはじめとした即売会の運営と活動は、女性ファン層が主導していたと総括できる。80年代初頭になっても、この状況に大きな変化はなかった。70年代〜80年代初頭のコミックマーケット参加者の男女比をみると、圧倒的に女性の参加率が高かったことがわかる。/そのような状況の中、男性ファンのコミックマーケットへの参入が目立つようになるキッカケの一つが、いわゆる「美少女同人誌」(当時の言葉でいえば「ロリコン同人誌」)の登場であった。その嚆矢とされる『シベール』の発行は1979年である。文字もない黒い表紙を持ったこの漫画同人誌を作った作家たちは、いくつかのサークルに分派しながら、1980年代に顕在化する数多の美少女同人誌の基盤を築いていった。現在の基準でいえば、創作少女系にも近いといえるこれら初期美少女同人誌の特徴は、後年男性向け同人誌の中心テーマとなるアニメーションのパロディ(アニパロ)よりも、むしろ人形愛、幼児嗜好、異生物愛、同性愛などを観念的、哲学的に表現する雰囲気を持っている点にあり、そこに漂う文学性は、『ガロ』『COM』などの60年代末〜70年代の実験的な商業漫画雑誌に、女性がこれまで作り上げてきた同人誌、ファンジンの要素を織り交ぜた結果の産物であったといえるだろう*32。
大塚英志(作家)
「エロ劇画」から「ロリコンまんが」における性的コミック市場での商品の交代劇の背後にあるのは「肉」を欠いた手塚治虫的なエロティシズムの発見であった*33。
吾妻ひでおが手塚的記号絵によって「性」を描き、ぼくやぼくの同年代の〈おたく〉たちがそれに欲情し得たのは、そもそも手塚治虫の絵が身体性を持たない記号絵として出発しながら、そこに「死にゆく身体」「成熟する身体」を見出したからこそである。記号的でありながら生身の身体性を付与された手塚的記号絵が戦後まんが史に存在したからこそ〈おたく表現〉が二次元的記号絵の少女の向こう側に性的な身体を発見し得たわけだ*34。
それは隠蔽されたエロティシズムだったが、この時期、それは性的商品として再発見されたのである。符牒にすぎない、と手塚が自嘲した「記号絵」による性表現、それが、いわゆる「ロリコンまんが」の本質であり、新しいエロティシズムの形であった。だからこそ、ぼくはぼくの雑誌から、少女ヌードも含めたヌードグラビアも、そして「写実」という思想によって描かれる劇画も、ともに排す必要があったのである*35。
このように吾妻ひでおは、80年代以降に到来する「ロリコンまんが」や「同人誌の時代」「不条理まんが」といった新しい潮流を、短期間の内にあらかじめ生きてしまったまんが家であった。もし吾妻ひでおが『少年チャンピオン』から自販機本に越境せず、そこで一連のロリコンまんがを描かなければ、彼のとりまきだった新人まんが家たちもまた登場せず、そして彼らを中心にしたぼくの雑誌も存在し得ず、そこで中森明夫が〈おたく〉という呼称を使うこともなかったとさえいえる。それは極端にしても吾妻ひでおがいなければ今日のおたく表現は随分と異なる風景となっていたはずだ*36。
いしかわじゅん(漫画家)
吾妻ひでおのギャグ漫画は、読むのが苦しい。もちろん楽しいし、面白いし、しかし苦しい。それは彼自身の苦しさと同質のものだろう。吾妻ひでおの描くのは、いわゆるギャグ漫画だけではない。〈純文学シリーズ〉などという名前をつけられた、一連の不思議な味わいの作品群がある。それを創り出すことも、吾妻にとってはギャグと同じだったろう。彼にとって、ものを創ることは、既に快感という感覚を越えていただろう。神経を剝き出しにしたままに寒風に向うような、自己破戒の衝動にも似たものだったろう。どれだけ自分を傷つけ、壊してゆけるかを、彼が自分自身で試していたように、彼の描いたものを読みながら、ぼくはずっと感じていた。〈純文学シリーズ〉になるか〈ギャグ漫画〉になるかは、その方向と結果の差にすぎない。/彼は、アミダクジを引きながら、どんどん狭い小路に入っていってしまっていたのだ。その空間の狭さが、彼にとっての安らぎでもあったのだろうし、ますます暗く狭い場所に彼を追いこむ原因ともなっていたのだろう。/吾妻ひでおは、まだ本格的には仕事を再開していない。しかし、どこまでいこうと、ゆき止まりというものは、実は存在しない。どんな狭く暗い場所にゆき着こうと、目をこらせばその先があるのだ。彼はまた出てくるだろう。どこからかやってくるだろう。そして、ぼくらの視神経を、心の奥底を、突き刺し掻き回す作品をまた創り出してくれるに違いない。ぼくは、確信している*37。
飯田耕一郎(漫画家)
吾妻さんが『劇画アリス』という三流エロ劇画誌に連載するという話を聞いたときには、ボクはホントに驚いたものだった。なんたって『劇画アリス』は三流エロ劇画誌の上に自動販売機専門の雑誌だったのだ。そういう雑誌に吾妻さんが描くのである。考えてみれば、この頃の吾妻さんはホントにすごくて、大手の雑誌で仕事をしながら、このようにマイナーの雑誌に執筆しながら、更に同人誌にも手を出すという幅の広さは、ギャグからSFからエロそして私小説、いや私マンガで純文学しながら、ひゅんひゅんと飛び回っていたのだ*38。
森川嘉一郎(明治大学准教授)
吾妻ひでおは、いくつかのマンガ評論の中で、まさにおたく文化の祖のように位置づけられてきた。そのような文脈でしばしばいわれるのは、吾妻が劇画調でなく、手塚治虫作品のようなマンガ的でかわいい絵柄で性描写を展開した、最初の漫画家だったということである。
吾妻ひでおがそうした潮流の起点になったことには、もとより、一般少年誌で連載し、かつSFのマニア層にも高い人気を博していたプロ作家が、同人界に降臨したことによる求心力が大きく働いていたとみることができる。しかし、そこで見過ごすべきでないのは、濃いアニメファンの巣窟だったまんが画廊から沖由佳雄がスカウトしてくる描き手たちに寄せた、吾妻ひでおのシンパシー、あるいは親愛の情*39である。
『シベール』に端を発するエロマンガ、さらには「萌え」につながる美少女表現のスタイルが、単に三流劇画ブームに対する不満感を超えて30年にわたって継続的に拡大し続ける潮流となったのは、「おたく」という自称を獲得するようになるアイデンティティと、その表現のスタイルとが、深く結びついたことによるのではないか。いわばそれは、世代を超えて共有されるようになる趣味的・人格的マイノリティーの自意識と、表現のスタイルとの結合である。
『シベール』というロリコン同人誌の主宰を通して吾妻ひでおが果たしたのは、いわばその仲人ではなかったか。まんが画廊が社交場となり、沖由佳雄が見合いを手配し、吾妻ひでおが仲人となり、コミックマーケットを式場兼披露宴会場として行われた結婚。その交合から、いかに多くのかわいい美少女たちが生まれたことか*40。
*1:この年、ガンダムとカリ城も出現した。萌え文化やアニメブームの、事実上の元年は1979年である。
*2:表紙画は、次の同人メンバーが匿名で寄稿している。
- 吾妻ひでお(0号、ホワイトシベール)
- 沖由佳雄(1号、4号)
- 孤ノ間和歩(2号、3号)
- 早坂未紀(5号)
- 三鷹公一(6号)
- 川猫めぐみ(7号)
- 豊島U作(シベール補遺編/アニベール)
*4:彼らは吾妻ひでおの漫画『ななこSOS』『スクラップ学園』にサブキャラクターとして客演している。
— 計奈 恵 (@kazunakei) 2020年2月6日
*5:私が産まれる遥か前の話ではあるが、シベールの歴史が継承されておらず、ここから発生した男性向けエロ「漫画」の存在が自明のものとされ、この発明がなかったことにされるのが歯痒かった。エロパロからパロディが抜け──エロ表現の発明の歴史とムーブメント、その一端を知れる素晴らしいエントリだ。
「ロリコンブーム」なんてあったなと振り返られることはなく、その発端が忘れられるほど定番化してしまった。そしてこの時代の「ロリコン」の言葉の扱い方があまりに無邪気だと驚く人もいると思う、驚いて当然だ、という視点も我々オタクは忘れてはならない。— 西田藍 (@iCharlotteblue)
*6:何度か 呟いてする言葉ですけどロリ漫画世紀では
『つくづく 私達{シベール}ってミッシングリング
(;^^;)』と言う実感W — 計奈 恵 (@kazunakei)萌え絵の起源の話、よくツイートて流れてきたけど、若い人たちなのか、ほとんどあじまセンセの話する人見なかったので、シベールの話題、ちょっとスッとしたなあ…😅— B.L (@blqueen3)
あれだけ語り草になるものですら、その背景が説明できないのでは議論が混迷するのは当然。— castroganga (@castroganga)
昨今の萌え絵の話の大前提としてこのあたりの内容が前提とされていないのは問題だと思う。古い人には当たり前の知識として入っていても現在流通しているものと繋がる人はあまりいないという印象。コミケについても。 — notio (@nochi2009)
オタク第二世代である私には、オタク第一世代が持つシベールへの憧憬が分からなかったのだが、この評論によって分かった。凄いなこれは。— 中津宗一郎 (@nakatsu_s)
シベールは、アングラなサブカルチャーの最右翼を一時的に担って、やがて有名になって、それが故に純粋な歪みが、別の歪みに飲み込まれて、更に実物を知らぬものから、一方的な評価・批判を享受するという、典型的な不遇を被るという文物によくある経緯を辿った。 — 沖中雅 (@SKEWBk4PCapsV6B)
*7:元はWikipedia『シベール (同人誌)』に記載していたのだが、引用文の間投詞を取っ払ってるのがダメとか、重箱のスミをつつく指摘が入り、全削除されてしまった。よって同エントリーにそのまま転載している。
*8:霜月たかなか『コミックマーケット創世記』朝日新聞出版(朝日新書)2008年, pp.178-179 / Kindle版, 位置No.全2936中 2365-2382 / 80-81%。ISBN 978-4022732507。
*9:ラポート『アニメック』17号(1981年4月)特集「“ろ”はロリータの“ろ”」P44
*10:吾妻ひでお「吾妻ひでお 2万5千字 ロングインタビュー 現代日本的美意識「かわいいエロ」の創造者」『文藝別冊[総特集]吾妻ひでお』 pp. 30–34.
*11:森川嘉一郎「吾妻ひでおはいかにして「おたく文化の祖」になったか」『文藝別冊[総特集]吾妻ひでお』181 - 182頁。
*12:
私的に『ロリコン』界隈に参戦したのは
同人誌シベールからなのですけど 当時
「まんが画廊」と言う溜り場で ロリコンを
パロって「俺はオバコン」「俺はベビコン」
等々 ギャグや皮肉で「~コン」と言う呼称が
飛び交って居て もう誰のドレが元祖なのやらな
状況でした(;^^A)— 計奈 恵 (@kazunakei) 2021年3月26日
*13:蛭児神建(元)『出家日記―ある「おたく」の生涯』の中「私はロリコンです」角川書店 2005年11月 pp.36-39
*14:
*15:蛭児神建(元)『出家日記―ある「おたく」の生涯』の中「初のロリコン文芸誌『愛栗鼠』」角川書店 2005年11月 pp.39-45
*16:蛭児神建(元)『出家日記―ある「おたく」の生涯』の中「吾妻ひでおとの出会い」角川書店 2005年11月 pp.46-52
*17:森川嘉一郎「吾妻ひでおはいかにして「おたく文化の祖」になったか」『文藝別冊[総特集]吾妻ひでお』181 - 182頁。
*18:阿島俊「ロリコン同人誌ピックアップ 第1回 シベール神話の誕生」『レモンピープル』1982年2月号(創刊号)あまとりあ社(2004年9月に久保書店から発行された阿島俊『漫画同人誌エトセトラ'82〜'98 状況論とレビューで読むおたく史』23頁に再録)
*19:シベールする…シベの発現…当時としても画期的存在だったんだなぁ…。日本の表現界はこうした人たちが開拓してきたんだなぁと。そうして常に外圧と戦ってきたんだ。— シロタツ (@SHIROTATSU3231)
*20:原丸太「ロリコンファンジンとは何か──その過去・現在・未来 ロリコン同人誌界分布図の試み」『ふゅーじょんぷろだくと』1981年10月号「特集 ロリータあるいは如何にして私は正常な恋愛を放棄し美少女を愛するに至ったか」ラポート pp.92-98
*21:吾妻ひでお、山本直樹「リスペクト対談:吾妻ひでお×山本直樹」『文藝別冊[総特集]吾妻ひでお』141頁。
*22:「吾妻ひでおは、COM的な要素とガロ的な要素を両方とも兼ね備えている、稀有の存在。/常に、自己否定から入ってくる。少女漫画や少年漫画で地歩を築いていたという枠を、自ら壊す。SFで評価され、神様扱いされるようになると、居心地悪くなるのか、またそれを破壊して、そこから出ていこうとする。/吾妻ひでおの革命は、手塚系の絵でエロを描いたところ。絵柄は手塚、中味はつげ。吾妻氏が偉いのは、採算を度外視して挑戦し続けるところ(確立したルーチンを守っていれば、安泰なのに…)」(川本耕次)
*23:吾妻ひでお『オリンポスのポロン』第2巻,早川書房,2005年2月,249頁(解説/山本直樹)
劇画だったンですよね 吾妻先生が漫画アニメ風味の
ロリっ子エロを描いたら その後のエロ漫画の画風も
現状の萌え絵に進化するキッカケに成ったと思うのですよ
正しく 黒本は ・・ pic.twitter.com/34ZLPa6Sjp— 計奈 恵 (@kazunakei) 2019年10月22日
想像するとエロ漫画は劇画時代が続いて
SFやファンタジー作品のデビューが困難な
暗黒時代が続いていたと思いますよ
特に「アニメ風美少女」画風の出現の
ファーストインパクト
ついでに 言うと女性の(美少女系)作家の
登場も遅かったと思います— 計奈 恵 (@kazunakei) 2019年12月23日
*26:Y・エンドウ「美少女まんがの頂点 吾妻ひでおの世界」『ふゅーじょんぷろだくと』1981年10月号「特集 ロリータあるいは如何にして私は正常な恋愛を放棄し美少女を愛するに至ったか」P80
*27:川本耕次 (2019年10月21日). “代表作はガス屋のガス公”. ネットゲリラ. 2020年1月27日閲覧。
*28:川本耕次 (2012年1月31日). “自販機エロ本ではありませんw”. ネットゲリラ. 2020年2月15日閲覧。
*29:川本耕次 (2018年11月25日). “怪しい編集者”. ネットゲリラ. 2020年1月27日閲覧。
*30:高月靖『ロリコン―日本の少女嗜好者たちとその世界』バジリコ、東京、2009年10月7日、154頁。ISBN 978-4-86238-151-4。極めて広範な知見より考察された、密度の濃い研究書。
*31: 斎藤環『おたく神経サナトリウム』(二見書房・2015年)-「ロリコンは『少女の変形』の夢を見る」の中「ロリとペドの違い」より。
*32:吉田正高 (2008年1月20日). “コミケ73カタログ出張版「戦後コンテンツ文化の発展にみるコミックマーケットの意義―その1」”. AIDE新聞(共信印刷Web事業部). 2020年6月20日閲覧。
*33:大塚英志『「おたく」の精神史 一九八〇年代論』星海社文庫 2016年 81頁
*34:大塚英志+ササキバラ・ゴウ『教養としての〈まんが・アニメ〉』講談社〈講談社現代新書〉2001年、95頁。ISBN 978-4061495531
*35:大塚英志『「おたく」の精神史 一九八〇年代論』星海社文庫 2016年 81頁
*36:大塚英志+ササキバラ・ゴウ『教養としての〈まんが・アニメ〉』講談社〈講談社現代新書〉2001年、97頁。ISBN 978-4061495531
*37:いしかわじゅん「アミダクジの果て―吾妻ひでおに代ってのあと書き」(吾妻ひでお『夜の魚』太田出版 1992年 192-195頁)
*38:吾妻ひでお『夜の魚』(太田出版 1992年)帯より。
*39:吾妻ひでお先生には、明治大学における「吾妻ひでお美少女実験室」展および「吾妻ひでおマニアックス」展の開催や、「シベール」誌の成立についての取材などに際し、大変お世話になりました。取材でとりわけ印象深かったのは、おたくの人たちに対する先生の優しいまなざしでした。 pic.twitter.com/KpFsKpbujg
— 森川嘉一郎 (@kai_morikawa) 2019年10月21日
*40:森川嘉一郎「吾妻ひでおはいかにして「おたく文化の祖」になったか」『文藝別冊[総特集]吾妻ひでお』、 179 - 186頁。本稿に引用された証言は、明治大学博物館における『吾妻ひでお美少女実験室』展(2011年4月23日〜5月23日)に向けた調査のために、明治大学准教授の森川嘉一郎が行ったインタビューに基づく。吾妻ひでおは2011年2月15日(同誌巻頭インタビューと併行して実施)、蛭児神建(元)は同年2月25日、沖由佳雄は同年3月8日にそれぞれインタビューが行われた。