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感想『シン・仮面ライダー』 令和の世に描かれる、歪で真っ直ぐな「昭和ライダー」の凱旋〈ネタバレあり〉

※以下、映画『シン・仮面ライダー』についてのネタバレが大いに含まれます。ご注意ください※

 

 

幼い頃の、本当にごく一時期だけれど、将来の夢が「カメラマン」だった。 

そのことはうっすら覚えていたし、桜だか梅の花だかを両親と見に行った時、自分が写真を撮りたい、とねだったのもよく覚えている。けれど、なんでカメラマンだったんだろうな……ということまでは覚えていなくて、ぼんやりと「まあ、何かに影響を受けたんだろうな」と思っていた。 

……その由来は、多分「一文字隼人」だったのだろうなと、自分はこの映画を見て思い出した。


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引用:『シン・仮面ライダー』予告 - YouTube

 

自分はどちらかと言えば『仮面ライダー』より『ウルトラマン』派の人間で、更に昨今の仮面ライダーシリーズに「ノレない」ものを感じていることもあってか、鑑賞前の緊張感は『シン・ウルトラマン』よりぐっと低め。だからというかなんというのか、鑑賞中は次々に送り込まれる小ネタを一つ一つ落ち着いて咀嚼することができていた。

 

 

(既に公開されている本作の前日譚『真の安らぎはこの世になく -シン・仮面ライダー SHOCKER SIDE-』で登場済みとも知らず)そんなん予想できる訳ないでしょ!! と内心で大発狂だったK。おそらく彼の元ネタは『仮面ライダー』と同じ石ノ森ヒーローの一人、ロボット刑事Kだろう。

 

と、思いきや。彼の以前の姿は「J」。Jのイニシャル、そして「J」時代の彼の顔は左右非対称……え、「K」って『人造人間キカイダー』のKだったの!? JはジローのJってこと……!?

(尚、Kはその後赤いスーツを着たりもしていたのでどのみちロボット刑事Kでもあった模様。す、好き勝手やりおってからに……!!)

 

ともあれ、これには『キカイダー』好きな自分もニッコリ。と同時に「いや待って、そうは言ってもこの映画は仮面ライダー。そんな大々的に『キカイダー』にする訳が……」とも思っていたけれど、そんな矢先にルリ子の回想で現れた緑川イチローの服装に吹き出しそうになってしまった。

 

黒いジャケットにスカーフ……って名前イチローなのにサブローなんかい!!  

ルリ子の兄=緑川イチローの服装が、スカーフが黄色から白になっている点を除けば、どう見ても『人造人間キカイダー』におけるライバルキャラ、ハカイダーの人間態=サブローのそれにそっくりなのである。 

おい庵野ォ! 聞いてないぞ庵野ォ!! と狂いそうになっていたら、最終局面で全てが庵野ォ!の罠だと知って愕然となった。

 

第1号、第2号を相手に、遂にベールを脱ぐ緑川イチロー=チョウオーグ。その腰には「2つの風車」が付いたベルト。 

……え……? 

帯にしていた白い布はマフラーに。そして露になる「青い」体色。

 

お……お前はまさか仮面ライダーV3……いや、まさか歴史の闇に葬られた幻の……幻の……

 

「仮面ライダー……第0号」

 

どっちでもないんかーーーーーい!!!!!  

やられた~~~~~ッ!!! と思った。ここでV3を拾ってくることそのものにも驚いたけど、一番の「やられた」ポイントは、キカイダーネタの流れに引っ張られて「白いマフラー」や「父と母と妹が亡くなる」ことが仮面ライダーV3=風見志郎のアイデンティティーだということに全く気付かなかったこと。周到すぎる罠に完璧に「敗北」してしまった。オタクの最強の敵はオタク、そういうことなんだな……!!  

(V3に引っ張られ過ぎたため自分は友人に言われるまで気付かなかったのだけれど、この第0号は『イナズマン』の主人公=イナズマンでもあるのだとか。青い身体、蛾と似た蝶のモチーフ、念力による戦い、マフラー……ほ、本当だ……!)

 

 

その他にも、カマキリオーグかと思った怪人がまさかの「かまきり男」と「死神カメレオン」の合わせ技=「カマキリ・カメレオンオーグ」という実質的なゲルショッカー怪人であったり、なんともゴ・ザザル・バみの凄いサソリオーグとして長澤まさみ氏が登場したり、味方組織がアミーゴではなく「アンチショッカー同盟」であったり、そのメンバーがまさかの「滝」&「おやっさん」であったり (これもイチローのくだりよろしく、我々オタクの思考が完全に裏をかかれていて笑ってしまった) 、ショッカーライダーとして桜島1号を出したり、コウモリオーグ戦がまさかの『劇場版仮面ライダー555 パラダイス・ロスト』オマージュであったり……と、前作『シン・ウルトラマン』以上に本作は小ネタが満載。他にも自分は恥ずかしながら未読の漫画版『仮面ライダー』由来のものなど、これら以外にも本作には無数の小ネタが詰め込まれているのだろうと思うし、かのゾーフィに匹敵する爆弾案件もわんさかあるのではないだろうか……。

 

 

と、まあ、このように小ネタに一喜一憂できたということは、しかしそのくらい「余裕があった」ということでもある。  

実際、自分は途中まで正直この映画に「ノレていなかった」し、「自分、『シン・ウルトラマン』のこと大好きだったんだ……」という感想が何度も脳裏をチラついていた。


(「継承」というテーマを踏まえた上でも) 流石に目立ち過ぎており、かといって情報量の割にその説明がある訳でもなく、感情移入が難しかったルリ子。その割を食って尺が極めて少なくなっていた本郷と一文字。説明がされず咀嚼が追い付かない割にストーリーやテーマの軸になる数々のオリジナル概念。その為に今一歩盛り上がりを欠くストーリー。全体的に漂うダイジェスト感と、見えてこない物語の着地点。コミュ障と明言されるものの、単に口数が少ないだけで人と問題なく交遊関係を築くことができている本郷……等々、これらの点が邪魔になって物語にどうしても「のめり込めない」自分がいた。  

しかし、その中でずっとポジティブな感情が巡っていたキャラクターもいた。仮面ライダー第2号=一文字隼人である。

 

 

一文字隼人。彼がとにかくカッコ良かった。極論、自分の『シン・仮面ライダー』感想はこれに尽きてしまうかもしれない。 

原点の仮面ライダー2号=一文字隼人から受け継いだ元ジャーナリストという肩書きや、武道に通ずる一文字特有の「あの構え」……といった原点の設定に加えて、「いいねぇ」という口癖に象徴される「どこかわざとらしくもある」陽気さや「群れることを嫌い、孤独を楽しめるオートバイを愛する」といった、本郷とは異なる「孤独なヒーロー」らしい独自のアレンジが加えられていた一文字。   

(ひょっとすると、漫画版『仮面ライダー』の一文字はこういうキャラクターなのだろうか)

 

そんな彼の「イカす」キャラクター性は、柄本佑氏のハッタリの効いた演技も相まってそれ自体がツボで、仮面ライダーを初めて名乗る戦いを初めとする一文字の活躍シーンや、彼の軽妙かつケレン味のある台詞回しにはマスクの中で何度も笑みを浮かべてしまっていた……のだけれど、そんな彼が「刺さって」しまったのは、全てが終わった=チョウオーグと本郷が逝き、彼が一人になったその時。彼が漏らした「なんだよ……また一人かよ……」の台詞だった。

 

 

群れることを嫌い、孤独を楽しめるからとオートバイを愛した一文字。彼が漏らした「なんだよ……また一人かよ……」という言葉は、彼が本当は一人であることを望んでいない、というより「彼が “群れない” のは、一人が好きだからではなく “一人になる” ことを忌避して/恐れている」という彼の背景を雄弁に語るもの。  

本作において、一文字は自身の背景をほとんど明かさなかった。彼がルリ子に洗脳を解除された時に流れ込んだ「SHOCKERに消されていた悲しい過去」とは何だったのか。彼はどのように「絶望を乗り越えた」のか。ジャーナリストとして悪と戦ってきたという彼は、その中で一体何を背負ってしまったのか……。それらの背景は我々視聴者には勿論、本郷にさえ明かされず終い。 

そんな彼がたった一言漏らしたのが前述の台詞。それは見ようによっては「説明不足」であろうし、自分も主にルリ子に対しては「説明不足」を感じたけれど、こと一文字についてはそれを全く感じなかった。自らの背負ったものを悉く露にしない彼が、この時だけは「弱音」を吐いてしまったこと、裏を返せば、この瞬間以外は自らの弱音を隠し続けた、その在り方がどうしようもなく「カッコよく」思えてしょうがなかった。  

……思えば、それは原点のライダーたち=昭和を戦った仮面ライダーたちもまた同じではなかったか。

 

 

昭和の仮面ライダーたちは皆それぞれに悲哀や孤独を抱える戦士たちだったが、彼らはそんな弱みを吐露することはなく、子どもたちの前では勿論、たとえそれが仲間たちの前であっても、弱音を吐かず、人々のヒーロー/隣で笑ってくれる「友人」で在り続けてくれた、 

自分が生まれた平成以降のヒーローは「普通」の存在として描かれることが多く、時にはその「多様性」「弱さ」をこそ肯定されて描かれることも多かった。子どもが感情移入しやすいようにか、伝えたいメッセージ性の変遷のためにか、世界はヒーロー自身に対しても徐々に優しくなっていき、自分はそんなヒーローたちも大好きだったけれど、心の隅でほんの少しだけ「昭和のヒーローたちのあのカッコよさは、不変ではなく時代遅れなんだろうか」と寂しい気持ちを感じてもいた。

 

確かに自分は平成生まれだけれども、それでもVHSやDVDで見た昭和ライダーたちが大好きだった。 

自分が昭和ライダーを見たのは主に小学生前後という幼い時期。そんな難しいことを考えていた訳はないけれど、それでも少なからず「暗いものを抱えていても、それをおくびにも出さず “優しく頼れるお兄さん” で在り続ける」彼らのカッコよさは感じていたし、思えば、その気質が強いのが他ならぬライダー2号=一文字隼人だったようにも思う。 

気さくで陽気、竹を割ったような性格で、子どもたちの「友達」……という明るさの陰では、一人自身の現状を皮肉ってみせたり、南米へ旅立つ際には一品ものの相棒であり、ジャーナリストであった自分の象徴=カメラを本郷へ託したり……といったセンチメンタルを見せたりと、彼の二面性はまさに「昭和ライダー」そのものの象徴のようでさえあった。  

(決して多く描かれた訳ではないけれど、多く描かれたら描かれたで旧1号編の本郷のように陰鬱な空気になってしまう。彼らの背景はエッセンス程度に留められたからこそ印象的であったとも言えるだろう)

 

そんな、かつて特に昭和ライダーで描かれた「孤独を仮面に隠したヒーロー」という存在。『シン・仮面ライダー』の一文字隼人の在り方は、そんな令和の世において久しく見れなかったもの=昭和を戦った「あのヒーロー」の帰還に見えてしょうがなかったし、それはこの令和の時代において決して「時代遅れ」でも「異物」でもなかった。 

「絶望の乗り越え方は人それぞれ」と劇中でも言われていたが、誰もが過酷なこの時代だからこそ、その弱さを仲間と分かち合うのではなく、その弱さに立ち向かい、乗り越えた「強さ」を持ってして、仲間や大切な誰かに手を伸ばす……という隼人の克己は、確かに「現代」のヒーローたちとは異なるものだったかもしれない。「こちら」への寄り添いはなかったかもしれない。けれど、だからこそ眩しくてこちらから手を伸ばしたくなる、そんな輝きが彼の姿には宿っていたように思うのだ。 

今のTVには不釣り合いであろう、孤独でストイックな「昭和ライダー」の生き様を改めて今の私たちに届けてくれたこと。そして、それは現代でも全く色褪せない――もとい、この現代に見るからこそ一層の価値があるものだと、そう教えてくれたことそのものが本作の『昭和ライダー』に対する最高のリスペクトであり、それだけでも自分は「この作品を見れて良かった」と思えてならない。

 

 

そんな一文字は、最終的に仮面ライダー第1号のマスクを受け継ぎ、新しい仮面ライダーとなった。その姿は紛れもなく、私たちが最も馴染んだ仮面ライダー=仮面ライダー新1号の姿だったけれど、そのメットにある「1+2」の文字に息を飲んでしまった。彼は第1号でも第2号でもない、新たな仮面ライダー=謂うなれば、彼こそが「仮面ライダー第3号」であり、だからこそチョウオーグは「第0号」だったのかもしれない。 

2本のラインを持ち、本郷の魂と共に駆ける一文字。その姿は、漫画『仮面ライダー』を色濃く反映しているだけでなく「仮面ライダー」という概念を高らかに謳い上げるようでさえある。 

孤独に生まれ、孤独に生きる戦士でありながら、その道行きは決して「一人」ではない。その二律背反こそが仮面ライダーというヒーローの浪漫であり、エンドロールと共に去り行く彼の姿は、これまでの映像作品においても屈指の「仮面ライダー」であったと言えるのではないだろうか。

 

正直、何かと不満も多い映画であったし、その点では気落ちする部分もなくはない。けれど、前述したあまりに美しいエンディング、そして「昭和ライダーの輝き」を再発見させてくれたこと。それらだけでも自分はこの作品を許せてしまうし、この作品をきっかけに本郷や一文字たちの原点に大きな注目が集まるのだとしたら、一人のファンとしてそんなに嬉しいことはない。

 

 

更に、だ。本作の評価によっては、長らく続き、そして一旦のフィナーレを迎えてしまった『シン』シリーズ再動のきっかけになってくれるかもしれない。 

様々な面で波紋を呼んできた問題児たちである反面、彼らの呼ぶ波紋こそが私たちを何度も揺さぶり、これでもかと楽しませてくれたのは間違いのない事実。ハードルは高まる一方だろうけれど、いつかまた本作に続く『シン』シリーズや、新たな「波紋」を呼ぶ特撮シリーズに出会える日が来ることを、これら至高の作品群を噛み締めながら待ち続けていたい。