Fool in Trance

それはあった。それは二度とないだろう。思い出せ。

コッポラ再訪(その4)

 フランシス・フォード・コッポラ作品集中鑑賞の続きです。

 

 

カンバセーション…盗聴…』(1974年)

 プロの盗聴屋の生態を描く傑作スリラー。好きなコッポラ作品を一本だけ挙げろと言われたら、迷わず本作を推す。複数の録音テープから状況を再現する場面の高揚感。盗聴や監視の世界で生きる孤独な男が逆に盗聴の影に怯えるパラノイア感覚。宙吊りのラストシーンが忘れられない。デヴィッド・シャイアの冷たい音楽が最高だ。

 主人公ハリー(ジーン・ハックマン)は録音機材を通して世界の一部を覗き見ることしか出来ず、生身の人間とはマトモな関わりを持てない男。あの異様な暗さ、孤独な姿は、カメラを媒介としてしか他者と関係を持てない『血を吸うカメラ』の主人公と共通するものを感じる。サックスが趣味という描写も意外な面白さで、ハックマンが主人公の複雑なパーソナリティーを体現する名演を見せる。ジョン・カザール、アレン・ガーフィールドらが演じた同業者たちの俗っぽさとの対比。

 カメラ、マイク、テープリール、仕事場の雰囲気等、メディアに対する独特のフェティッシュなこだわりとパラノイア感覚は、コルタサル『悪魔の涎』を起点に、アントニオーニ『欲望』、コッポラ『カンバセーション…盗聴…』、デ・パルマミッドナイトクロス』へと受け継がれている。

 

 

 

『ワン・フロム・ザ・ハート』(1982年)

 女優のテリー・ガーが亡くなった(10/29)。『カンバセーション…盗聴…』で姿を見たばかりだったので驚いた。『カンバセーション…盗聴…』ではワンシーン出演ながら重要な役柄で印象に残る。他には『ヤング・フランケンシュタイン』『トッツィー』『アフターアワーズ』等、見事なコメディエンヌぶりで楽しませてくれた。R.I.P.

 

 テリー・ガー主演のコッポラ作品が『ワン・フロム・ザ・ハート』。初見の時は何だこれ?という感想だった(高校生だったのでね)が、今見直すと細部までずっと楽しめた。

 昔は可憐なナス・キンにばかり目が行ってたけど、今見るとフレデリック・フォレストとテリー・ガーの冴えない中年カップルがしみじみ良い。小さなお話と、仰々しくて人工的な映像のミスマッチが不思議なコッポラ流恋愛ファンタジー。主人公たちの心情を代弁するトム・ウェイツとクリスタル・ゲイルのデュエット曲が素晴らしい。ラウル・ジュリアが「俺にこれを使わせるな!」と言ってヌンチャクを振り回す場面には笑った。ナス・キンが「グーテン・モルゲン!」とドイツ語でおはようをいう場面が可愛いかったなあ。

 

 

 

ゴッドファーザーPARTⅡ』(1974年)

 コルレオーネ・ファミリーの跡目を継いだマイケルと父ヴィトーの若き日を交互に描くシリーズ第二作。コッポラの腰の座った演出、苦々しいドラマ、アル・パチーノら俳優たちの名演、ニーノ・ロータの哀切のメロディ、ゴードン・ウィリスによる重厚な撮影・・・。全ての要素が絶妙のバランスで合致したシリーズ最高傑作。とりわけゴードン・ウィリスによる陰影に富んだ映像が素晴らしい。キューバ革命のシーンのドキュメンタリー的な迫真力。

 女性キャラクターが存在感を増した『PARTⅢ』を先に再見したせいか、本作で描かれるマフィアの非情な世界、閉じた男性社会の時代錯誤ぶりがより際立ってみえた。

 若きヴィトー(青い髭の剃りあとが凛々しいデ・ニーロ)のパートが実に生き生きと描かれている。『PARTⅢ』が今ひとつ冴えないのは、ヴィンセント(アンディ・ガルシア)が成り上がるパートに熱量が足りなかったからかもしれないなと思った。それにしても、次男坊フレド(ジョン・カザール)の哀れよ。ラストの無常感。

 コッポラ当時まだ30代半ば。『雨のなかの女』→『ゴッドファーザー』→『カンバセーション…盗聴…』→『ゴッドファーザーPARTⅡ』と大作と小品を交互に作っていたこの頃が世間の評価としては絶頂期か。

 

 

 

フランシス・コッポラ』(1989年)

 ピーター・カーウィによるコッポラの評伝。1989年出版なので、作品的には『ニューヨーク・ストーリー』あたりまでのエピソードが語られている。終盤のインタビューでは『ワン・フロム・ザ・ハート』で抱えた負債を返却し終えて、意欲作『タッカー』公開後の穏やかな姿が見られる。しかしこの後『ゴッドファーザーPARTⅢ』から最新作『メガロポリス』に至るまでさらに様々な浮き沈みがある訳で、全く難儀な人だなあと思う。周囲も良く付き合ってられるなあ。

 本書を読むと、コッポラの作品には自伝的要素がそこかしこに含まれていることが分かる。自分語りというのではなくて、自らの体験とクロスさせることによって演出に真実味が生まれているという感じか。コッポラ作品に感じられるある種の親密さはそのおかげなのかなと思う。例えば、ファミリーの絆と争い、優秀な兄弟への憧れや対立は『ゴッドファーザー』から『ランブルフィッシュ』等コッポラ作品で繰り返し何度も描かれている。これには兄オーガストとの関係が反映されているのだという。また『ゾイのいない生活』で主人公の父親ジャンカルロ・ジャンニーニはフルート奏者で演奏旅行で飛び回っているという設定で、これはコッポラの父カーマインが元々フルート奏者だったことが元になっている。子供の死というモチーフも『ディメンシャ13』から何度も描かれている。コッポラは長男をボート事故で亡くしていて、事故死と重なった『友よ、風に抱かれて』では若者の追悼というドラマに格別な思いを込めていた。近作『Virginia/ヴァージニア』では、ヴァル・キルマー演じる酒浸りの三文作家は愛娘をボート事故で失ったトラウマを抱えている。等々、そういった細部は枚挙にいとまがない。

 UCLA映画学科時代にヌード映画を作ったところには、「『不道徳なティーズ氏』の時代」という記載があった。これはラス・メイヤー監督の初期作品『インモラル・Mr.ティーズ』(1959年)のことだろう。ならばコッポラはきっとメイヤーの呆れた脱構築ヌード西部劇『ワイルドギャルズ・イン・ザ・ネイキッドウエスト』(1962年)もリアルタイムでチェックしているのではないかな。

 脚本家コッポラについてもきちんと記載がある。15本以上の脚本を書いたが、実際に採用になったのはごくわずかだったと。単体の脚本仕事はジョン・ヒューストンの『禁じられた情事の森』。『雨のニューオリンズ』は結局採用されずに終わったと書いてある。クレジットは一番目だったが。学生時代に映画より先に演劇に夢中だったコッポラ青年はテネシー・ウィリアムズ作品の脚色作業には思い入れがあったのではないかと思う。

 コッポラは自作の他に、外国映画の買い付けと公開、若手監督のプロデュースなど様々な仕事を手掛けている。ヴェンダーズ『ハメット』騒動を見ての通り成功ばかりとは限らないようだ。本書で驚いたのは、コッポラのプロデュースでゴダールが監督する予定があったという話。企画は結局頓挫したが、その縁で『ワン・フロム・ザ・ハート』のラスベガスのシークエンスでモンタージュされる映像にはゴダールが手伝っているのだという。重度の映画狂、新メディアへ興味津々なところなど、2人には相通じるところが多かったのだろう。

 著者は終章でコッポラのことをこんな風にまとめている。コッポラの映画は「リュミエールよりメリエスの伝統を信奉し、リアリスティックなドキュメンタリーの手法ではなく、ファンタジーの手法だ。」またコッポラは「「アメリカ帝国」の子供であり、その効率性、その絶え間ない技術革新、そしてその権力への渇望を反映している。」と。

 

 

 

フランシス・フォード・コッポラ、映画を語る』(2017年) 

 コッポラ関連の書籍をもう一冊。コッポラが自作を回顧する本かと思ったら、新しいプロジェクト「ライブ・シネマ」の詳細な記録だった。「ライブ・シネマ」とは、「映画とTVと演劇を繋ぐ新しい形式」、ざっくり言うとTV創世記の生放送ドラマのデジタル版。すでに2回のワークショップが行われ、本書はその記録なのだった。『ワン・フロム・ザ・ハート』以来の念願の企画であり、『リップ・ヴァン・ウィンクル』もその試行の一環だという。文章から滲み出るコッポラの執念、尽きせぬバイタリティには恐れ入る。これは是非とも実現して欲しい。

 

 

 

 コッポラ再訪これにて終了。コッポラ作品で未見なのは初期のヌード映画『グラマー西部を荒らす』『The Bellboy and the Playgirls』。11月29日(金)より新宿武蔵野館他で「70/80年代 フランシス・F・コッポラ 特集上映 ―終わらない再編集―」が始まる。今回再見できなかった『アウトサイダー』、それにプロデュース作『ハメット』が上映されるので是非チェックしたい。特集のタイトル 「終わらない再編集」には思わず笑ってしまうが。     

 

 

フランシス・フォード・コッポラ BEST10>

 

カンバセーション…盗聴…

②雨のなかの女

コッポラの胡蝶の夢

ゴッドファーザーPARTⅡ

⑤タッカー

⑥大人になれば・・・

ランブルフィッシュ

⑧ワン・フロム・ザ・ハート

⑨Virginia/ヴァージニア

地獄の黙示録

 

(この項終了)