アメリカ的勧善懲悪の終焉、またはその使者ジョーカーについて---『ダークナイト』

 クリストファー・ノーラン監督の最高傑作だと思う。以下、ネタバレ注意。
 実体を持つ“悪人”ではなく、実体のない“悪意”たるジョーカーを描くことで、アメリカが直面する青臭い二元論の終焉、勧善懲悪思考からの脱却を示唆した。強いメッセージ性を感じるし、にもかかわらず娯楽大作としても十分な面白さを持っている。賛辞が止まないわけだ。

 この映画の主人公はもちろんバットマン(クリスチャン・ベール)。だが、“主役”は誰かといえば、もちろんジョーカー(ヒース・レジャー)だろう。画面に映らないときでさえ、ジョーカーの存在は映画全体を支配している。

 バットマンは『ダークナイト』においては脇役的な存在になっている。これは『PLUTO』におけるアトム&ゲジヒトとプルートウの関係性に近い。アトムやゲジヒトは主人公であっても主役ではない。主役はプルートウであり、もっといえばそこに存在する底知れない敵意、怒り、悲しみ、そういったものが“主役”なのだ。ほとんどのキャラクターが表情に憂いを湛えているのが、その証拠といえよう。

 『ダークナイト』における主役も、そういう意味で明らかにバットマンではなく、ジョーカーだ。ボロボロに朽ちたおしろい、口裂け女のようなメークにアイシャドーをつけたピエロは、登場シーンから観客の心をわしづかみにする。

 異形なだけでなく、ジョーカーは尋常でない強さと残虐さを持つ。一般市民を次々と撃ち殺し、50人のギャングたちの中に乗り込んで平然と場を掌握し、「バットマンよ、素顔を見せない限り何人でも殺す」とテレビカメラを挑発する。何度もバットマンに殴られながら平然とし、ヘラヘラ笑いながら警察につかまり、しかし留置場の中から鮮やかな方法で脱出してみせる。

 死を恐れず、従って他人の命を平然と奪い、金に執着も持たない。場当たり的かといえば真逆で、緻密な思考と周到な準備で残酷な罠を次々と仕掛け、ついにはバットマンの愛する人物の命を奪い、“光の騎士”を復讐鬼“トゥーフェイス”に変貌させてしまう。

 ピカレスクとして完璧なジョーカーには、実在の乏しさを感じる。この完全無欠さは、実体のある悪人には出せない。彼は“悪人”ではなく“悪意そのもの”だ。他のヒーローと違って素手で戦うバットマンには、だから勝ち目がない。最終的にジョーカーは一応警察に捕えられるのだが、それによってバットマンはこれ以上ないほどの、回復不可能な痛手を負った。どちらが勝ちかといえば、文句なしにジョーカーの勝ちだ。

 つまりこの映画では「正義が敗れた」まま終わる。そうした映画は911以降のアメリカ映画で幾つかあった。だが『バットマン』のような、すでに定着したアメコミヒーロー映画においてそうした手法を取り、描ききってみせたのは、原作がどうあれクリストファー・ノーランの手腕に他ならないと思う。

 もちろん、ジョーカーを演じたヒース・レジャーの素晴らしさは言うまでもない。ボロボロのメーク、ソデについた化粧カスは彼の発案だという。「ジョーカーなら袖にメークがついてるはずだろ?」と考え、メークもヒース自身が行った。

 かつてジャック・ニコルソンが演じた異形のフリーク、コミカルで残虐、愛嬌ある殺人者である“悪意の権化”ジョーカーは、その死をもって永遠にヒース・レジャーのものとなった。R.I.P.