平岡公彦のボードレール翻訳ノート

ボードレール『悪の華[1857年版]』(文芸社刊)の訳者平岡公彦のブログ

ボードレール『悪の華』韻文訳――015「冥界のドン・ジュアン(1861年版)」

冥界のドン・ジュアン(1861年版)

シャルル・ボードレール/平岡公彦訳
 
 
ドン・ジュアンが地下の水辺へと下っていき、
カロンに渡し賃のオボロス銀貨を払ったとき、
アンティステネスのごとく誇らかな目をした
陰気な乞食は、復讐者の強き腕に櫂を握った。
 
垂らした乳房とはだけたドレスを見せつけて、
黒き天蓋の下で身をよじらせている女たちは、
犠牲に供された牛の大群のごとくつめかけて、
彼の背後に長き鳴き声の尾を引きずっていた。
 
スガナレルはにこやかに給金の支払いを請い、
一方でドン・ルイは、指をわななかせながら、
岸辺をさ迷い歩くすべての死者たちに向かい、
白髪面を嘲った不敵な息子を見せつけていた。
 
喪服姿で震え、痩せた貞淑なエルヴィールは、
かつて恋人だった不実な伴侶に寄り添っては、
はじめて交わした愛の誓いが甘く輝いていた
至高の微笑を、いまも請うているようだった。
 
石像の大男は、甲冑をまといまっすぐ立って
舵柄をつかみ、黒き流れを切り裂いていった。
だが、平然とした英雄は、レイピアをついて
航跡を見やり、なにも見てくれはしなかった。
 
 

DON JUAN AUX ENFERS

 
 
Quand Don Juan descendit vers l’onde souterraine
Et lorsqu’il eut donné son obole à Charon,
Un sombre mendiant, l’œil fier comme Antisthène,
D’un bras vengeur et fort saisit chaque aviron.
 
Montrant leurs seins pendants et leurs robes ouvertes,
Des femmes se tordaient sous le noir firmament,
Et, comme un grand troupeau de victimes offertes,
Derrière lui traînaient un long mugissement.
 
Sganarelle en riant lui réclamait ses gages,
Tandis que Don Luis avec un doigt tremblant
Montrait à tous les morts errant sur les rivages
Le fils audacieux qui railla son front blanc.
 
Frissonnant sous son deuil, la chaste et maigre Elvire,
Près de l’époux perfide et qui fut son amant,
Semblait lui réclamer un suprême sourire
Où brillât la douceur de son premier serment.
 
Tout droit dans son armure, un grand homme de pierre
Se tenait à la barre et coupait le flot noir ;
Mais le calme héros, courbé sur sa rapière,
Regardait le sillage et ne daignait rien voir.
 
 

Les Fleurs du mal (1861)/Don Juan aux enfers - Wikisource


 
 ボードレール『悪の華』第15の詩「冥界のドン・ジュアン」の韻文訳である。今回は、『悪の華』にダンディが初登場するということで、しっかりしたダンディスム論を書かねばとはりきりすぎてしまった。
 


韻 文 訳
悪 の 華
シャルル・ボードレール
平岡公彦訳


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 とはいえ、まずは、今回の新訳のタイトルを、予告していた「地獄のドン・ジュアン」にしなかったことの弁明からはじめなければならない。
 
 原題にあるenfers(アンフェール)は、単数形のenferならばキリスト教における地獄を意味するのだが、これに複数形のsがつくと、キリスト教以前の神話における死後の世界を意味することになるらしい。この区別は、仏和辞典にも仏仏辞典にもしっかり載っているというのに、恥ずかしながら、今回改めて確認するまで見落としていたようだ。
 

➌ ⸨les enfers⸩ 冥府(めいふ),冥界,黄泉(よみ)の国.

enfer(フランス語)の日本語訳、読み方は - コトバンク 仏和辞典

enfers
nom masculin pluriel
1. Dans les religions antiques, séjour des défunts après leur mort.
2. Nom donné parfois aux limbes.

Définitions : enfer, enfers - Dictionnaire de français Larousse

 
 二つ目に引用したラルース仏語辞典には、「1.古代の宗教で、死後に亡くなった人が滞在する場所」と、「2.辺獄(limbes)をそう呼ぶこともある名前」の二つの語釈が載っている。
 
 辺獄(リンボ)とは、キリスト教神学において、洗礼を受けずに死んだ人や、生前に、天国に迎えられるような善行も、地獄に落とされるような悪行も行わなかった人が行く、天国と地獄のあいだにあるとされる場所である。それをふまえて改めて確認してみると、「DON JUAN AUX ENFERS」の舞台となっているアケローン川はこの辺獄を流れているので、アケローン川をわたっている途中であるドン・ジュアンは、まだ地獄には到着していないという見方は確かにできるだろう。
 

 
 とはいえ、ダンテの『神曲』によれば、辺獄は地獄の第1圏とされており、地獄の門の内側にある。なにより、「地獄篇」に登場するのだから、辺獄も地獄の一部と考えていいのではないかという疑問はある。しかしながら、ほかならぬボードレール自身が辺獄を地獄と区別するために表題をENFERSとした可能性も捨てきれないため、やはり邦題の訳語は「地獄」にするべきではないという結論となった。
 

 
 そして、地獄に「落ちる」のは第2圏において裁判官ミノスの裁きを受けたあとと考えるならば、ドン・ジュアンがまだ地獄に落ちてはいないことは、「冥界のドン・ジュアン」を読み解く上で、とりわけ、この詩においてドン・ジュアンが見せている態度を理解する上で、見逃してはならないポイントとなるだろう。
 

『悪の華』という寓意画集

 
 ドン・ファンと言えば、2、30年前ならば、プレイボーイの代名詞として、もととなった17世紀スペインの伝説は知らなくても、だれでも名前くらいは知っていたものだったが、いまはもうそんな「常識」は通用しないのだろう。
 

 
 今回の「冥界のドン・ジュアン」は、そのドン・ファン伝説をもとにしたモリエールの戯曲『ドン・ジュアン または石像の宴』(1665年)をモチーフとしたものであり、詩のなかには当然のようにモリエールの戯曲の作中人物が登場する。だが、詩句からある程度読み取れなくはないものの、モリエールの原作を知らない読者には、なにが書かれているのか理解しにくい作品であることは否定できない。
 

 
 そうした意味でのこの詩の「不親切さ」の理由は、これまで解説してきた詩と同様に、オマージュした文学作品や芸術作品に関する教養を、当然に共有しているような読者しかボードレールの眼中になかったことももちろんあるだろうが、この詩が実在する美術作品から着想を得た作品であるらしいことも小さくないだろう。
 
 阿部良雄訳の『ボードレール全集Ⅰ』によれば、シモン・ゲランという無名画家の作品である版画「Don Juan aux enfers」を紹介した記事が、1841年に刊行された『芸術家』誌に載っていたそうだ。ボードレールの「冥界のドン・ジュアン」は、この『芸術家』誌の1846年9月6日号に掲載されたのが初出なので、ボードレールがこの同じタイトルの版画の存在を知らなかったはずはない。*1
 
 阿部の註釈ではゲランの版画は失われてしまったとされていたが、hiibouさんのブログ『LA BOHEME GALANTE  ボエム・ギャラント』で、作品の画像が紹介されているのを見つけて驚いた。
 

 
 このほかにも、「冥界のドン・ジュアン」には、ボードレールが最も敬愛したドラクロワの絵画『ダンテの小舟 または冥界のダンテとウェルギリウス』(1822年)からの影響が指摘されている。
 

 
 絵画も版画も、タイトルが示されるだけで、そこに描かれている人物がだれなのかすら説明されないのがほとんどだ。実際、予備知識のない人がドラクロワの『ダンテの小舟』を観たところで、描かれている人物のどれがダンテでどれがウェルギリウスかすらわからないはずだ。そう考えるならば、ボードレールの詩ばかりを不親切と非難するのは不当と言わねばなるまい。
 
 ところで、最初のタイトルの問題を蒸し返すなら、原題の「DON JUAN AUX ENFERS」は、ゲランの版画とドラクロワの絵の副題「Dante et Virgile aux enfers」へのオマージュの可能性が濃厚である。特に、後者は「地獄のダンテとウェルギリウス」という邦題のほうが有名ではあるものの、ボードレールの場合と同じく、「地獄」ではなくあえて「冥界」としている可能性は否定できず、なにより、「冥界」と読んでも理解に支障がない以上は、どちらのenfersも「冥界」と翻訳するしかないと私は考える。
 
 版画をモチーフとした詩は、ジャック・カロの『ボヘミアン』(1621年頃)に着想を得た「旅のボヘミアン」に続いて2作目である。無論、版画に限らず、『悪の華』に美術作品をモチーフとした詩が多く存在することは周知のとおりだ。ボードレールは美術批評家でもあったのだから当然のことかもしれないが、このことは、私たちに『悪の華』を画集として鑑賞する視点を与えてくれるだろう。
 
『悪の華』は、ボードレールの詩集であると同時に、画集でもあるとするならば、詩人が自身の画集を制作するにあたり、意識していたにちがいない画家がいる。それはほかでもない、ボードレールがドラクロワと並んで深く敬愛したスペインの画家、ゴヤである。
 

『ロス・カプリチョス』と見世物小屋の動物たち

 
 私がスペイン三部作と呼ぶ、「旅のボヘミアン」、「人と海」、「冥界のドン・ジュアン」の3作品が、ヒターノ、コンキスタドール、ドン・ファンと、3作続けてスペインにゆかりの深いモチーフを主題としていることは、ゴヤの版画集『ロス・カプリチョス』(1799年)へのオマージュではないかと私は考えている。
 
 以前にも解説したとおり、「灯台」のメダイヨンがこのゴヤの版画集から着想を得たものであることは通説だが、ボードレールが偏愛していたこの版画集を、自身の作品集を編む上での目標としていた可能性は極めて高い。寓意性、風刺性、そして、なによりモチーフのグロテスクさと、『悪の華』と『ロス・カプリチョス』との共通点は枚挙に暇がない。
 
 序詩「読者に」において、ボードレールは『悪の華』を「悪名高き見世物動物小屋(la ménagerie infâme*2)」と紹介しているが、この詩集を動物園に見立てるアイディアそのもののルーツが、ほかならぬゴヤの『ロス・カプリチョス』であると考えられるのだ。
 
『ロス・カプリチョス』には、代表作「理性の眠りは怪物を生む」をはじめ、様々な動物や怪物が登場する。なかでも、愚か者の象徴とされるロバが典型であるように、それらの動物たちは、低劣な人間たちを風刺するカリカチュアだ。
 


 
 こうした観点でボードレールのスペイン三部作をふり返れば、最初の「旅のボヘミアン」にキマイラが登場していることが目に止まるだろう。もっとも、この詩にキマイラが登場する直接の理由は、ユゴーの小説『ノートル=ダム・ド・パリ』(1831年)の影響であると私は考えているが、作品に怪物を登場させるという発想そのものは、「『悪の華』を悪徳の動物園にする」という全体の構想があったからこそ生まれたものなのだ。
 
 今回の「冥界のドン・ジュアン」に、モリエールの戯曲には出てこない「牛の大群」が登場するのも、同じ理由からだろう。
 

垂らした乳房とはだけたドレスを見せつけて、
黒き天蓋の下で身をよじらせている女たちは、
犠牲に供された牛の大群のごとくつめかけて、
彼の背後に長き鳴き声の尾を引きずっていた。

Montrant leurs seins pendants et leurs robes ouvertes,
Des femmes se tordaient sous le noir firmament,
Et, comme un grand troupeau de victimes offertes,
Derrière lui traînaient un long mugissement.

Les Fleurs du mal (1861)/Don Juan aux enfers - Wikisource

 
 ところで、私の新訳では「牛の大群」と翻訳している「grand troupeau」を、安藤元雄は「羊の群れ」と訳している(なぜgrandを訳していないのかはわからない)。
 

垂れ下がる乳房もあらわに衣をはだけて、
女たちは真暗な空の下で身をよじり、
さては、いけにえに供えられた羊の群れさながらに、
彼の背後に長い呻きを引きずるのだった。*3

 
 いったいどちらが正しいのだろう? ここは今回の読解のポイントなので、詳しく確認していこう。
 
 コトバンクによれば、安藤が「羊の群れ」と訳したtroupeau(トルポ)という名詞は、確かに「家畜の群れ」、特に「羊の群れ」を意味するとある。
 

 
 とはいえ、troupeauという語は羊以外の家畜の群れにも使われるので、羊は有力な候補ではあるものの、これだけではまだ決め手に欠ける。同様の意味で、victimes(犠牲)も特定の決め手とはならない。
 
 ここで注目してほしいのは、原文引用部末尾にあるmugissement(ミュジスマン)だ。mugissementは「牛の鳴き声」を意味する名詞である。この名詞が牛以外の動物の鳴き声を意味することが絶対にないかどうかまではわからないが、少なくとも、「羊の鳴き声」にはbêlement(ベルマン)という別の名詞が存在するため、mugissementがその意味で使われる可能性はまずないと考えられる。
 


 
 したがって、「grand troupeau」は「牛の大群」である。ということは、ボードレールは毎度のごとくおっぱいを丸出しにした(笑)「不幸な女たち」を牛にたとえているわけだ。これは、以上の詩句同士のつながりに気がつけば難なく読み取れるメタファーなのだが、安藤の「呻き」のように、もともと比喩表現だったものが解釈に置き換えられてしまうと、個々の描写と比喩との関係が見えにくくなってしまう。
 
 参考までに、「grand troupeau」を①、「mugissement」を②として、安藤以外の3者の訳語も確認しておこう。
 

 

 

 
 ご覧のとおり、安藤以外の訳者は群れの動物の種類を特定していない。しかしながら、女たちを牛にたとえる比喩には、彼女たちへのボードレールの侮蔑がストレートに示されていると考えられるため、ここは是非とも読み取っておかなければならないところだ。
 
 日本語の場合と同じく、「牛のような」を意味するbovin(ボヴァン)というフランス語の形容詞は、愚鈍な人物を形容するために使われることがある。ならば、女たちの訴えを牛の鳴き声にたとえることにも同様の悪意があると考えて差し支えないだろう。
 
 乳房をあらわにした女たちを牛にたとえる比喩そのものは陳腐なものだが(その自覚がvache(雌牛)という語の使用をはばからせたとも考えられる)、このメタファーにより、彼女たちがエロティックなだけでなくグロテスクな印象を与えることも、ボードレールは当然狙っていたはずだ。
 
 そしてなにより、「冥界のドン・ジュアン」は、この意匠によってゴヤ風の風刺画としての完成を見るのである。
 

ダンディとその反対

 
 ドン・ジュアンに征服された不幸な女性たちを人間扱いしない辛辣な描写の背景には、根深いボードレールの女性蔑視があることを解説しておかないわけにはいくまい。
 

 女は〈ダンディ〉の反対だ。
 だから女は嫌悪をもよおさせずにはいない。
 女は腹がへれば食べたがる。喉が渇けば飲みたがる。
 さかりがつけばされたがる。
 大した美点ではないか!
 女は自然的である、すなわち厭うべきものである。
 だから女はつねに卑俗である、すなわち〈ダンディ〉の反対だ。*10

 La femme est le contraire du dandy. Donc elle doit faire horreur. La femme a faim, et elle veut manger ; soif, et elle veut boire. Elle est en rut, et elle veut être f…
 Le beau mérite !
 La femme est naturelle, c’est-à-dire abominable.
 Aussi est-elle toujours vulgaire, c’est-à-dire le contraire du dandy.

Mon cœur mis à nu - Wikisource

 
 現代なら炎上待ったなしである(笑)。引用は『赤裸の心』からだが、ボードレールはこれだけでは飽き足らずに、繰り返し読むに堪えない女性への罵詈雑言を書きつけている。曰く、「女は魂を身体から分離するすべを知らない。女は簡易派だ、動物たちのように*11(La femme ne sait pas séparer l’âme du corps. Elle est simpliste, comme les animaux *12)」。念のため断っておくと、なにがあったのかは知らないが、私はこの手のボードレールの女性に対する愚痴をまったく評価しない。
 
 ほかにも、『赤裸の心』には、死刑について論じた断章のなかに興味深いアフォリズムがあるのを見つけた。
 

 供犠が完全であるためには、犠牲の側からの賛同と歓喜がなくてはならない。*13

 Pour que le sacrifice soit parfait, il faut qu’il y ait assentiment et joie, de la part de la victime.

Mon cœur mis à nu - Wikisource

 
 犠牲(victime)は、『悪の華』を読み解く上での重要なキーワードとなる言葉である。そして、「冥界のドン・ジュアン」の第2連がこの意味での「完全な供犠」を描いているのだとすれば、そこに描かれた女たちの姿は、従来の解釈とは異なったものとなるだろう。
 
 第2連において、女たちが「垂らした乳房とはだけたドレス(leurs seins pendants et leurs robes ouvertes)」を「見せつけて(Montrant)」いるのは、もう一度ドン・ジュアンにふり向いてほしい彼女たちが、彼を誘惑するために取った行動であることは明白だ。montrer(Montrant)は、第3連でドン・ルイが息子を指弾する仕草にも使われている動詞なので、第2連でも、ただ「だらしなく着衣が乱れている」のではなく、女たちは「見せるために脱いでいる」と解釈するべきだろう。montrer(モントレ)の反復は、そう読ませるための念押しである。
 
 曰く、女は「さかりがつけばされたがる(Elle est en rut, et elle veut être f…)」。とすれば、女たちの上げるmugissementとは、従来そう解釈されてきたように、ドン・ジュアンに捨てられた彼女たちの怨嗟の声ではなく、さかりのついた牛の鳴き声であると読むことも可能となるだろう。予断と常識を脇に置いて、第2連に描かれていることだけを読めば、そう読めるはずだ。
 
 また、女たちのmugissementは、最終連の英雄(héros)たるドン・ジュアンの静けさ(calme)との対比をも際立たせている。ボードレールは、mugissementによって女たちの騒々しさと獣性を強調することにより、超然としたダンディの気高さをより鮮明なものにしようとしているわけだ。
 

だが、平然とした英雄は、レイピアをついて
航跡を見やり、なにも見てくれはしなかった。

Mais le calme héros, courbé sur sa rapière,
Regardait le sillage et ne daignait rien voir.

Les Fleurs du mal (1861)/Don Juan aux enfers - Wikisource

 
 以上のように、この詩において女たちは、「ダンディの反対(le contraire du dandy)」に徹底して仕立て上げられていると言えるだろう。ゆえに、ダンディの品位を際立たせるために対置されたmugissementは、不誠実な男に対する正当な抗議ではなく、獣欲に取り憑かれた女たちの恥知らずな喚き声のほうが好都合であることは言うまでもない。だからこそ、彼女たちは牛に変えられたのである。
 

ダンディとはなにか

 
 ドン・ジュアンが『悪の華』に登場する最初のダンディ(dandy)であることは、阿部良雄も『ボードレール全集Ⅰ』の註釈で解説しているとおりである。
 

 ジプシーが空間的・時間的に自由な存在なら、ドン・ジュアンは宗教・道徳から解放されたlibertin――自由思想家=蕩児、「感応する恐怖」(八二)に出る「不信心者」――であり、人間の訴えにも神罰の可能性にも冷然と対応する「ダンディ」である。*14

 
 スペイン三部作において、ボヘミアンとリベルタンとダンディが順に登場していることは、ロマン主義以降に芸術家たちが理想に掲げた人物像の変遷を表していると読むことができる。ダンディとは、前時代の理想であった前二者に取って代わる者として登場した、現代人の理想像なのだ。
 
 では、ダンディとはなにか?
 
 平野啓一郎の『「カッコいい」とは何か』(2019年)によると、日本でダンディという言葉が流行しはじめたのは1960年代のことであり、1967年に人気雑誌『平凡パンチ』が実施した「オール日本ミスター・ダンディはだれか?」という読者投票企画では、名立たる著名人を抑え、三島由紀夫が1位に選ばれたそうだ。その雑誌では、ダンディを「クラシックでありながら、つねに新しさを失わない男性」と定義している。*15
 
 このほかにも、ダンディを取り上げた近年の記事からキーワードを拾い集めてみると、現代日本では、ダンディは、「男らしい」、「渋い」、「寡黙な」、「独自のこだわりをもつ」、「大人の」男性とイメージされていることがわかる。
 


 
 私の印象では、ダンディの「ダン」が「男」の音読みを連想させるからか、「男らしい」とほぼ同じ意味で使われていることが多いように思う。三島由紀夫がその代表者とされていたのがいい例だ。最近では、大人気漫画『葬送のフリーレン』の登場人物が使っているのを見かけたので、ダンディはまだ死語にはなっていないと考えていいだろう。
 

 家内は
 ダンディだって
 言ってくれて
 るんだぜ。*16

 
 ここでの意味は、「渋い」か「大人っぽい」あたりだろうか。
 
 だが、これは完全に日本独自の用法で、中野香織によれば、ダンディにはナルシストのイメージが強く、褒め言葉としては日本でしか通用しないそうだ。『フリーレン』の翻訳はどうするんだろう?
 
 ボードレール自身は、「現代生活の画家」(1863年)において、ダンディを「反対と反逆の性格」*17、すなわち、「人間の誇りの裡にある最良の部分を代表する者たちであり、低俗さと闘ってこれを壊滅しようとする欲求、今日の人々にあってはあまりにも稀となったあの欲求を代表する者たち」*18が創設せんとする、「新しい貴族制」*19であると規定している。
 
「英雄性」*20とも言い換えられているこうしたダンディを特徴づける性格は、ニーチェの言う「距離のパトス」と同根のものと考えていいだろう。
 

 人間と人間のあいだの断絶、地位と地位のあいだの断絶、類型の多様性、自己自身であろう、自己を際立たせようとする意志、私が距離のパトスと呼ぶものこそが、いかなる強靱な時代にも固有のものなのである。*21

 
 ニーチェ自身は、ボードレールを「当時の芸術家たち全体の姿を象徴しているあの典型的デカダン」*22と非難しており、これ自体もダンディスム批判と読めなくもないが、ともに平等主義を否定し、その先駆者としてカエサルやカティリナといった古代ローマの英傑の名を挙げていることなど、*23 *24ボードレールのダンディスムとニーチェの超人思想には共通点が多い。それらはいずれも、既成宗教や通俗道徳を超克すべく打ち立てられた、神なき時代の倫理思想なのだ。
 
 新たなる貴族制たるダンディスムは、「法の外の制度でありつつ、自ら厳しい法をもち、その権威に服する以上誰しも、他方いかに血の気の多く独立不羈の性格をもつ者であろうと、厳格な服従が要求される」。*25そうした法のうちの一つが「身だしなみの完璧さ」*26であり、『赤裸の心』によれば、ダンディは「鏡の前で生活し、眠らなければならない」。*27ダンディたる者は、不断にダンディであろうとし続けなければならないのだ。そうありたいと望む者だけが、ダンディたりうるのだとも言えよう。
 
 その身だしなみにおいて、ダンディは「絶対的な単純こそは品位をもつ最善の方途」*28としている。『1846年のサロン』によれば、「偉大な色彩家たちは、黒い燕尾服と、白いネクタイと、灰色の背景をもって、能く色彩効果を生み出すのである」。*29ダンディの元祖ボー・ブランメルを起源とするこうした美意識こそ、現代のダンディズムの源流である。
 

 
 現代では、ダンディを起源とするシンプルなスーツスタイルがビジネスシーンにおけるスタンダードとなってしまったため、ダンディには「クラシック」や「トラディショナル」といった、本来の意味とは真逆のイメージが加わってはいるものの、その美意識の根幹にあるものはいまも生き続けていると言っていいだろう。
 

ダンディの死

 
 ボードレールは、ダンディの美しさは、「冷ややかな態度(l’air froid)」にこそ最もよく現れると言っている。
 

 ダンディの美の性格は、何よりも、心を動かされまいとする揺ぎない決意から来る、冷かな様子の裡にある。潜んだ火の、輝くこともできるのに輝こうとはせずにいるのが、外からそれと洞見されるさま、とでも言おうか。*30

 Le caractère de beauté du dandy consiste surtout dans l’air froid qui vient de l’inébranlable résolution de ne pas être ému ; on dirait un feu latent qui se fait deviner, qui pourrait mais qui ne veut pas rayonner.

L’Art romantique/Le Peintre de la vie moderne/IX - Wikisource

 
 現代の言葉で言い換えるならば、「クールさ」と「余裕」と言ったところだろう。実力も財力も、場合によっては権力も持ちあわせていながら、それを誇示しないこと。誇示することなく、それを佇まいと身だしなみからそれとなく知らしめること。余裕を見せるための抑制、あるいは、余裕を見せる必要を感じないことから生まれる落ち着き。「これはおそらく金持の男だが、それにもまして、仕事のないヘラクレスに違いない」。*31こうした、抑制することによって逆に際立たされる力というものが、ダンディの体現する美の核心をなしている。
 
 力を際立たせるための抑制。この謙虚さとは正反対の、言わば高慢なストイシズムこそが、ダンディスムの美学における最重要のテーゼである。このテーゼにおいて、ダンディの外面と内面の理想は重なりあう。すなわち、外面においては「絶対のシンプリシティ」として、内面においては「冷酷なまでの平静さ」として、それは表現されるだろう。
 
 したがって、ダンディは、自慢することも、見栄を張ることもない。それだけでなく、ダンディは、努力したり、苦労したり、とりわけ分不相応な背伸びをしているように見えることがあってはならない。言うまでもなく、そんな男がダンディに見えることなど絶対にないはずだ。
 
 とはいえ、それはダンディは努力をしてはいけないという意味ではない。ダンディは、努力していることを決して表に出してはならないのだ。ダンディは、影でどれほど努力していようと、また、どれほど困難を乗り越えていようと、いつも涼しい顔をしていなければならない。
 
 抑制とは、ダンディにとって力と余裕の表れなのであり、抑制したところで内に秘めた力を隠しきれぬほどの強者だけが、ダンディを名乗る資格があるのだ。その意味で、現代のダンディが老成した寡黙な大人の男とイメージされるようになったのは、必然であったと言うべきだろう。
 
 ダンディスムが「クール」を先取りしていたという評価については、平野*32と中野も一致している。
 

中野 「日本では混同されがちですが、本来のダンディズムはジェントルマン精神の対極にある場合もあります。クールという言葉も本来はダンディズムが源流の一つで、その意味は、大衆から一定の距離を冷ややかに置くということです」

ダンディって実は破天荒でシゲキ的な男たちだった! | ライフスタイル | LEON レオン オフィシャルWebサイト

 
「冥界のドン・ジュアン」において、自身を取り巻く人々も自身を待ち受ける運命も意に介さず、悠然と船の航跡を眺めているドン・ジュアンは、まさしくボードレールの理想とするクールなダンディを体現する英雄として描かれている。
 
 無論、彼は周囲のものに関心がないわけではない。彼は周囲のすべてを黙殺するため、あるいは、黙殺していることを周囲に知らしめるためにこそ航跡を眺め続けているのだ。ここでドン・ジュアンがその態度で示しているのは、彼を取り巻くすべてのものに対する侮蔑(dédain)である。それは、同時期に発表した『1846年のサロン』(1846年)において、ボードレールが現代の英雄の典型として紹介した殺人犯プールマンが、死刑台を目前にして示した態度そのものだ。
 

 あるいはまた、「崇高なB……! バイロンの海賊たちもかほどに偉大、かほどに侮蔑的ではない。信じられるかね、モンテス師を突きのけて、おれの勇気をそっくりそのままにしておいてくれ! と叫びながらギロチンに突進して行ったというのを?」
 この言葉のほのめかすもの、それは、ある犯罪者、元気で、体質もしっかりして、その凶暴なる勇敢さは命を断つ機械を前にしても頭を下げはしなかった、偉大なる抗議者の、死に臨んでの虚勢なのだ!*33

 Ou bien : « Le sublime B… ! Les pirates de Byron sont moins grands et moins dédaigneux. Croirais-tu qu’il a bousculé l’abbé Montès, et qu’il a couru sus à la guillotine en s’écriant : « Laissez-moi tout mon courage ! »
 Cette phrase fait allusion à la funèbre fanfaronnade d’un criminel, d’un grand protestant, bien portant, bien organisé, et dont la féroce vaillance n’a pas baissé la tête devant la suprême machine !

Curiosités esthétiques/Salon de 1846 - Wikisource

 
 アケローン川をわたるドン・ジュアンを待ち受けているのは、地獄における永遠の劫罰にほかならない。海と同じく、舵が切り裂いていく黒き地獄の川の水面もまた鏡なのだとすれば、それは、ドス黒い絶望に塗りつぶされ、真っ二つに引き裂かれた彼の心を映しているとも読めよう。
 
 だが、そのような極限の絶望をまえにしても、この英雄が無様に取り乱すことは決して許されない。ダンディは、みずからの美学に殉じ、誇り高く死なねばならないのである。
 
 

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参考文献

*1:阿部良雄「註」,『ボードレール全集』Ⅰ,筑摩書房,1983年,p.487

*2:Les Fleurs du mal (1861)/Au lecteur - Wikisource

*3:ボードレール『悪の華』安藤元雄訳,集英社文庫,1991年,p.51

*4:ボードレール『悪の華』堀口大學訳,新潮文庫,2002年改版,p.56

*5:同前,p.56

*6:ボオドレール『悪の華』鈴木信太郎訳,岩波文庫,1961年,p.62

*7:同前,p.62

*8:シャルル・ボードレール『ボードレール全詩集Ⅰ』阿部良雄訳,ちくま文庫,1998年,p.60

*9:同前,p.60

*10:シャルル・ボードレール『赤裸の心』阿部良雄訳,『ボードレール批評』4,ちくま学芸文庫,1999年,pp.82-83

*11:同前,p.109

*12:Mon cœur mis à nu - Wikisource

*13:前掲『赤裸の心』,p.92

*14:前掲「註」,p.487

*15:平野啓一郎『「カッコいい」とは何か』講談社現代新書,2019年,p.315

*16:山田鐘人/アベツカサ『葬送のフリーレン』13,少年サンデーコミックス,小学館,2024年,p.150

*17:シャルル・ボードレール「現代生活の画家」阿部良雄訳,『ボードレール批評』2,ちくま学芸文庫,1999年,p.194

*18:同前,p.194

*19:同前,p.194

*20:同前,p.195

*21:フリードリヒ・ニーチェ『偶像の黄昏』村井則夫訳,河出文庫,2019年,p.164

*22:ニーチェ『この人を見よ』手塚富雄訳,岩波文庫,1969年,p.59

*23:前掲「現代生活の画家」,p.191

*24:前掲『偶像の黄昏』,p.182

*25:前掲「現代生活の画家」,p.191

*26:同前,p.192

*27:前掲『赤裸の心』,p.84

*28:前掲「現代生活の画家」,p.192

*29:シャルル・ボードレール『一八四六年のサロン』阿部良雄訳,『ボードレール批評』1,ちくま学芸文庫,1999年,p.211

*30:前掲「現代生活の画家」,p.196

*31:同前,p.196

*32:平野前掲書,p.335

*33:前掲『一八四六年のサロン』,p.213