すでにエヴァンゲリオンもアスカも必要なかったことに気づいてしまった────『シン:エヴァンゲリオン劇場版』ネタバレ感想

『シン・エヴァンゲリオン劇場版』観てきました。

「さようなら、すべてのエヴァンゲリオン」という宣伝文句がこんなに当てはまる感想を持った映画は始めかもしれないですね。

以下、ネタバレ感想

アスカという呪いが解けていく

エヴァは世代的にリアルタイム世代というわけにもいかないけど、TV版と旧劇場版(以下旧劇)は何度も見返したし、自分の存在の一部にガッチリ食い込んでいた。アスカという二次元の少女は私の中で特別な存在であり続けたし、旧劇の最後で「気持ち悪い」と発するアスカという存在の意味と辛さを何度も反芻し、ここまで生きてきた自覚はあります。

新劇場版:破でアスカを見殺しにしたシンジと庵野にぶちぎれたこともある。破の意味が反転する新劇場版:Qの最後でレイとシンジとアスカが赤い台地を歩んでいく姿に旧劇の先の未来を期待していました。

アスカ派として、ずっともやもやしていることが二つありました。
・新劇:破で綾波の前座としての式波の扱いを何とかしてほしい
・あの「気持ち悪い」で終わってしまった惣流をちゃんと補完してほしい。

ところが、今回のシン・エヴァを観た人にはお分かりかと思いますが、びっくりするぐらいその二つのアスカの呪いを解放しました。

ヴィレに戻ったシンジに何故アスカがシンジを殴ろうとしたのか、と問います。
この手の質問はだいたい何を答えても許して貰えないものなのですが、シンジは的確に回答します。
「(アスカが3号機にとりこまれたとき)僕が何も決めなかったから」

分かってんじゃん、バカシンジ。というか、庵野。新劇場版に対して、アスカのオタクがモヤモヤしているところをあっという間にシンジが言葉で解決してしまいました。
というか、言葉で説明されるってこんなに呪いが解けていくものなんですね。

シン・エヴァ自体、「対話」を重視する方針になっているわけですが、アスカに対してもシンジがちゃんと対話し向き合うことで、アスカの呪いを溶かしていく構成になっています。

その頂点が最後のアスカとシンジとの浜辺でのシーンでしょう。旧劇場版の浜辺の続きを思い起こさせるシーンからシンジは「好きっていってくれてありがとう」とアスカに声をかける。これほど、愛憎と結びついた執着を溶かすセリフはないでしょう。先の下りでもそうですが、愛憎は「分かってくれていない」という思いがますます強くしてしまうので、わかっているということは愛憎の連鎖を止める力を持っている。
そのしがらみを正面をもって解決して、ケンスケのもとに送り出す。それは同時にアスカとシンジの旧劇場版からのドロドロした関係の終わりを意味する。

マスターベーション、首絞め、「気持ち悪い」と旧劇場版において、アスカとシンジは性的な関係も含めた共依存的な危うさがあったわけですが、今回のアスカとシンジには性的な関係はありません。
アスカとシンジがそういった危うさを秘めた関係ではなく、大人同士の関係になったということでもあるのでしょう(ここでいう大人が性的でないことは本作では重要な要素になっていますね)。
ケンスケの家では散々半裸に近い恰好をしているのに、シンジに対しては浜辺で破れたプラグスーツに気づいたアスカがシンジに対して隠すのが、アスカにとってのケンスケとシンジへの今の距離感を表しているんでしょうね。

LAS派の供養を終わった後、シンジとマリでカップリング確定するのもパワーがあります。ここでマリという新劇場版で登場した新キャラというのが絶妙です。
まあ、現実的な問題としてレイかアスカとくっつくとどっちかのファンが大荒れになるので、供養のためのシンエヴァと考えると、マリというのはいい落としどころでもあったんでしょうね(安野モヨコ云々についてはよく知らないので何も言えません)。

オタクたちはアスカだ綾波だと言ってきて、レイには母性、アスカには他者性という重いものをの何十年も背負わせていたけど、結局はそんなのとは関係なくマリなんですよ。
とはいえ、人生ってそんなものじゃないですか。

人生ってずっと好きだった人と付き合うわけでもなく、突然出会った人とこれからの人生を歩んで行ったり行かなかったりするわけです。
理由がそこに明確にあるわけではないマリというのが、逆に説得力をもってくる。
オタクたちの怨念が詰まったレイやアスカよりも新劇場版で登場したマリが最後選ばれるというオチは「気づいたら大人なっていた」を象徴するシーンと言えるでしょう。

「気持ち悪い」を回避するために

シン・エヴァは大枠としては旧劇を踏襲していることは言うまでもないわけです。
人工進化を狙うゲンドウ勢とそれを止めるミサト、シンジ、アスカ連合軍が最終決戦を戦い、綾波が母として全てを包み込み、そしてシンジ君が神になり、そして再び他人と出会うことを選ぶ。
もっと言えば、旧劇よりも説明的な描写も多く、同じことをやっていても、もしかしたら単体でみたら新劇場版シリーズの方がわかりやすくて完成度が高い作品なのかもしれないですね。
とはいえ、我々世代は旧劇場版という思い出と長く居続けたせいでシン・エヴァを単体で評価するのは不可能なので、それは後世の世代に評価を任せて、素直に旧劇場版と新劇場版の比較を語るべきなのでしょう。

今回、シンジはオイディプス的な父殺しではなく、父との対話を選びます。旧劇場版では根本的な問題を解決せず、ただ他者の存在を望んだだけだったので結局「気持ち悪い」というアスカのセリフに繋がっていくわけです。ならば、どうすればいよいのか。今回のシン・エヴァが選んだのは「対話」だったわけです。

アスカとの関係は前節で述べたとおりですが、他の人たちともシンジが対話するシーンが目立ちます。
父との関係は電車で対峙することで乗り越えます。といっても、ゲンドウが自分の思いを勝手に語って、勝手に気付いて降りていくわけなので、どこかセラピー的なものはありますが。そう考えると、TV版のラストってあながち外してないのかもしれませんね。

閑話休題、Qではピアノの連弾やエヴァに乗ることでしか表現できなかったカヲルへの好意を言葉で表現します。
ケンスケの父が亡くなったことが、シンジに父との対話を促すきっかけになったわけですが、村でのトウジやケンスケもシンジに対して丁寧に説明をします。

そうした姿勢がシンジくんが「対話」を選択することに最終的に繋がっていくのが、旧劇との大きな違いの一つです。
そもそもQでは誰もシンジに対して説明してくれずシンジが空回っていたわけで、対話がなく状況を悪化させるQと対話で解決するシン・エヴァとの対比になっていますね。
まあ「対話」を選択すれば解決できるのか、という問題はこれまでコミュニケーションのすれ違いをテーマとしてきたエヴァを考えれば安直というか矛盾しているようにも思えますが、そのエヴァだからこそ逆に「対話」を押し出してきた意味があるのでしょう。視聴者としてはアスカのオタクとしてシンジに言語化して説明してもらうことでかなり溜飲が下がってしまったあとだったので猶更説得させられてしまうところがあります。

最終的に「気持ち悪い」を回避したのがシンジくんのこの姿勢にあったことは言うまでもないでしょう。

21世紀の「大人」としてのエヴァ

前作と比較したとき、ゲンドウの目的は大きく変わらないのに対し、本作においてミサト側に生物多様性という明確な目標を掲げられたのが大きな違いです。

新劇場版:破で描かれる海洋生物研究所、ヴィレの支援によって生態系を取り戻しつつあるトウジたちの村。様々な種子を搭載し、宇宙に放出する空中ヴンダー。
これまでミサト側の思想についてははっきりしないところが多かったですが、人類補完計画という名前の通り、人類を中心として考える人間中心主義に対抗するイデオロギーをヴィレは掲げてきたことが旧劇場版との大きな違いですね。

エヴァはずっと個人と個人、社会の関わり方に登場人物たちが悩み、傷ついてきたわけです。そこに人間との関わりだけでない、生物多様性という個人と社会の関係の外部から世界の問題を持ち込んできたのがヴィレという組織の最大の特徴と言えるでしょう。まさに今まで個人や社会の問題に終始していたエヴァの外側に強制的に接続させる役割をになっているわけです。
経済学においては市場経済を単純化図式化して考えるわけですが、市場の外部(例えば環境問題)については"外部性"という概念を用いて考えていきます。比喩としてですが、その市場経済における"外部性"のような役割を生物多様性はエヴァにおいて担っていると言えるでしょう。それぐらい今までのエヴァの外側にある概念と言えるでしょう。
ヴィレはその外部まで責任を持つとして21世紀的な「大人」の組織として描かれているわけです。経済学の比喩を延長して言えば、企業のCSR活動的な、と言ってもいいかもしれませんが。

ネルフが目指す人工進化、人類補完計画の元ネタは言うまでなくアーサー・C・クラークの『幼年期の終わり』です。『幼年期の終わり』は、宇宙人オーバーロードにより人類が一体化し人工進化を遂げるわけですが、動物倫理や生物多様性への意識が高まった21世紀の読者が読むと一つの疑問が浮かんでしまうとおもいます。人類は進化したとしても、人類以外はどうなったのか?
SF黄金期の作品(ネルフ)に対して、21世紀的な価値観で挑むのがヴィレという組織として描かれているということも出来るでしょう。

メタ的なことを言えば、GAINAXの作品は最終話はSF作品のタイトルを持ってくるのがお約束だったのは有名な話です。「果しなき流れの果に」(トップをねらえ)、「星を継ぐもの」(ナディア)、「世界の中心で愛を叫んだけもの」(TV版)、「まごころを君に」(旧劇)と言うように。だけれども、本作ではそれは踏襲されなかった。(追記: 「Thrice upon a time」がサブタイトルで使われていると教えてもらいました。J.P.ホーガンの「未来からのホットライン」の原題のようです。ぜんぜん気づいてませんでした)
今回の新劇場版シリーズは、SF大会でのオープニングムービー作成を原点としたオタクサークルの延長としてのGAINAXではないということでもあるんでしょうね。幼年期に終わりをつけ、自ら資金調達を行い大人として挑むカラーとして作成したのがシンエヴァというのを感じました。

本作のネルフとヴィレの対称性は組織構造にも現れている。ユイを媒介として男同士の絆でつながるゲンドウ=冬月を基礎とする旧来型のネルフという組織に対して、ミサトとリツコ、アスカとマリのシスターフッドをベースとするヴィレは組織としても21世紀的な価値観をベースにして描かれているわけです。
特にアスカとマリの関係が印象的ですね。愛憎や性的なものと切り離せない印象があったこれまでのエヴァパイロット同士の関係が、個人と個人の信頼関係(大人の人間関係)として描かれたのは始めてだと思います。

旧劇ではミサトさんをシンジを「大人のキスよ」という言葉で送り出しました。シンジから見たミサトとの関係は、TV版+旧劇では母でもあり姉でもあり恋人かのようであり、どこか未分化な印象はありました。ところが、シン・エヴァではミサトはシンジとのそういう関係と決別し、上官としてのハグでシンジを送り出します。そして、トップとして責任をとることを明確に示す「大人」としてのミサトさんとして描かれています。

ヴィレの支援の下、村での仕事をするトウジやケンスケは勿論、母として子育てをするヒカル。ベタすぎる描写であまり前半部は好きにはなれなかったですが、「大人」を印象づけるには強烈なインパクトを持っています。良くも悪くもやや反出生主義的な空気も持っていた旧エヴァに比べると(当時はそう言う言葉は人口に膾炙していなかったと思いますが)、再生産の描写が描かれたのは強烈ではあります。

イマジナリーで人工的なネルフに対して、21世紀的な「大人」としてのヴィレが打ち破る、というのも旧劇との大きな違いの一つでしょう。

さようなら、すべてのエヴァンゲリオン

最後、シンジはスーツ姿になって神木隆之介の声になって駅のホームに現れる。そして、マリに連れ出され走り出す。

これを「現実に戻れ」「仕事をしろ」と単純に解釈するのはやや違うのかな、とは思います。それならそのまま電車に乗ると思うので。
仕事に行こうとしていたシンジをマリが駅から引っ張り出したので、単純に宇部興産に仕事に行こうとしているわけではないとは思います。
電車を待っていたシンジをマリがその先に連れ出したと解釈すべきなのでしょう。
その後に映る宇部の市街と街並みは仕事・産業を表すと同時に、いかにも庵野秀明が好きそうな工場描写でもあってやや両義的です。
宇部興産は製造業ですが、宇部興産専用道路とかダブルストレーラーとかオタクの好きなものが詰まりまくってる会社ですしね。
余計な邪推をするならば、宇部市出身の庵野の原風景が、興産に出社する大人であったり海辺の工場風景であったりするのでしょう。
この辺りを考えると、「現実・仕事」と「楽しさ」って相反するものではないというところが落としどころなのだと思います。

ここからは個人のぶっちゃけ感想なのですが、エヴァがあろうがなかろうが、マリがいようがいまいが、大人にならないといけないし、明日から生きていかなければならないし、他者と向き合わなければならないし、対話もしないといけないし、その中で楽しく生きていかなければならない。花束みたいな恋をしようがしまいが生きていくしかないんですよ。
そんなこととっくにみんな知ってるんですよ。もうとっくに大人なんですよ。SDGsも大事なフリをしていきているわけですよ。実際大事だし。
具体的にそれをどうするか、にみんな悩んでいるわけじゃないですか。
私自身の関心はとっくにやっぱりそのシンジとマリが走り出した先にある。自分の関心はすでにその先なんだな、と改めて思ってしまったんですよね。

新海誠的な郷愁にひたるのもいいですが、出会えないじゃないですか、『秒速5センチメートル』は。郷愁とは別に、ある日人生を変えてくれる恋人は別のところから現れたり現れなかったりする。
『秒速5センチメートル』がいいのは踏切に対して踵を返して歩き出しているところだと思いますが、私たちはシン・エヴァが出来るまでにとっくにその先をよくわからないながらも、歩き始めてしまっていて、もう踏切が見えなくなる次の交差点のところぐらいまで来ちゃっているんですよ。

結局、アスカという心残りが綺麗になったとたん、とっくに自分の中のエヴァンゲリオンという作品が実存にかかるような作品でなくなっていたことに気づいてしまった。

カヲルくんが「すでにシンジくんはイマジナリーな世界ではなく、リアリティーの世界で気づいていたんだね」とシンジくんに言うセリフがまさにその通りで、イマジナリー(エヴァ)よりもリアリティー(現実)で気づいた事の方がとっくにこの10年で増えてしまっているわけですよ。オタクたちが大人になってしまったことに、庵野もある意味自覚的なのであのセリフをカヲルくんに言わせたんでしょうけど。
シン・エヴァに対して言いたいことはまあ色々ないわけではない(あの村の描写はなんなんだとか、線画とかスタジオとかあざとすぎでしょとか、綾波の扱い雑過ぎない?とか)。まあでも私としてはそこまでエヴァに思い入れがなくなっていたことに気づかされたので、熱くあげつらうほどの情熱は特にないな、と、割と他の批判ブログやtwiiterを観ていると正直思ってしまったんですよね。

エヴァは社会や他人と距離感のつかめない10代20代の子供たちが、その距離感を掴むために通って欲しい作品だな、という思いはすごくあります。私の中での大事な思い出でもある。
でも、あれだけ実存に食い込んでいた(と思っていた)エヴァがとっくに通り越してしまった作品になっていたな、というのが一番の感想ですね。
シン・エヴァはエヴァの呪縛を解くためのエヴァ、というよりとっくに解かれていたエヴァの呪縛に気づかせてくれるエヴァなのでしょうね。作中の登場人物がエヴァの呪縛から解放されたように。

なので、このダラダラ書いてきた駄文の最後はこの言葉で締めるべきなんでしょう。

さようなら、すべてのエヴァンゲリオン


『シン・エヴァンゲリオン劇場版』本予告【公式】