人脈の価値について、昔、聞いた話

ということで、だらだらと思っていることを書いてみます。


ぼくがマスコミや芸能関係のいわゆる業界人的なひとたちとつきあいはじめたときに発見したことです。


”業界”のひとって、会話の半分以上が、自分はだれそれと仲がいい、とかこのまえ一緒にめしをくったとか、飲みにいって朝まで大変だったとか、こんど会うとか、なんですね。一般社会ではそういうのは嫌われることが多いのでめったに会わないですが、”業界”だとそういうひとばっかりです。むしろそうじゃない人のほうが珍しい。どういう力学がはたらいたら、こういうひとたちの存在があたりまえな社会になるのだろうって、最初のうち不思議だったのですが、そのうち気づきました。


それは”業界”のひとって、個人の看板で商売しているからです。ふつうのビジネス社会では偉い人も、結局のところは会社の看板で商売しています。”業界”ではたとえサラリーマンであっても仕事は人とのつながりがすべてだから、自分という看板をいかによく見せるかということで勝負しているのです。自分の人脈をアピールするのは自己顕示欲なんかじゃなくて、真剣勝負なわけです。そのことがわかって、ますますこの世界が好きになりました。会社の規模と肩書きだけで相手を値踏みする世界にくらべてなんて公平なことか。


テレビ局の番組編成に芸能事務所などがけっこう影響力をもっていることはよく知られていますが、本当であれば、こういう関係は成立しないはずです。なぜならテレビ局と芸能事務所とであれば、テレビ局のほうが本来は圧倒的に立場が上だからです。本当に喧嘩をしたら、全盛時代のナベプロですら、日テレに惨敗しました。本来は喧嘩できないはずなのに、一見、対等以上にわたりあえているのは、テレビ局側の担当者が結局はサラリーマンだからです。本当に会社単位で喧嘩したら勝つのだとしても、担当者レベルでもめたとしたら、喧嘩どころか、むしろ社内的に責任を追及されかねないからです。この微妙な力学を利用してなんとかやりあっているわけです。


2ちゃんねるとかを見ていると芸能界とか音楽業界とかは恐ろしい権力をもっていて、あちこちに影響力をおよぼすちょっとブラックなところだと思われたりしているようです。でも、それはちょっとフェアな見方ではないと思います。彼らは弱者としてゲリラ戦をやっているだけです。圧倒的に強大な敵に対して弱者が権謀術策をめぐらしてなんとか大健闘しているだけにすぎない。エンタメ業界なんて国歌の基幹産業にいれてもらえたことはないし、ずっとカス扱いをされてきました。個人の力を寄せ集めて、ちょっとした力学上の奇跡を起こしてきたのが彼らです。


人脈とはなにかについての話を、あるひとから聞いたんですが、部下にこう説教したことがあるそうです。


「いざというときに君たちが金を渡して受け取ってくれる人間が何人いるか?それが君たちのもっている人脈の価値だ。だれからでも金を受け取る奴は意味がないからカウントしちゃだめだ。普段はそんなことをしないような奴で、君たちに心を許してくれて、いざというときには金を出したら受け取ってくれる人間が何人いるかが大事なんだ。」


この話を聞いたのはもう何年も前ですが、ちょっと当時の僕にとっては衝撃的で、人間というものをいろいろ考えるきっかけとなりました。自分の欲望じゃなく、相手への好意のしるしとして、人間はお金を受け取ったりするんだ、と思いました。考えてみると、ぼくも好きじゃない人間から飯を奢られたりするのは大変な苦痛なので避けます。


人間というのはそうそう単純なもんじゃないです。そして、本当は単純だったりします。


実はただたんにその人が好きだから助けたいだけなのに、理屈がないと動けなかったりします。言い訳しないといけない相手が自分自身だけしかいないときでも過去の自分の行動や考え方に縛られたりします。


ぼくは就職したばかり、20代のころは仕事に関してはかなり潔癖症で、取引先と癒着っぽいことをするのが、大嫌いでした。
なので取引先のひとに接待を受けることはもちろん、たとえ割り勘であっても上司と同席の場以外で、飲んだり喰ったりすることはありませんでした。


ですが、ここんところ10年ぐらい前から考え方が変わってきて、やっぱ最後は身内同士でビジネスするのがいいなあ、と思います。単純にビジネス的な合理性から考えても、信用できない相手と仕事するのはいろいろリスクをヘッジするコストが高くつくので、身内と仕事したほうが安全かつ行動の自由度が増すというメリットがあると思いますが、まあ、なんといっても、人生の生き方としても身内と仕事するほうが精神安定上よろしい。


人間は生存本能にもとづいて行動するのが一番自然ですばらしいと思うんですが、現代社会においては、まず、餓死の心配はないので、生存本能だけでは、生きる目的を失いがちです。自分は本当はどういう人生を生きたいのかと考え始めると、別に哲学者じゃなくても、死にたくはないけど、生きる意味なんて別にないよね、とか気づいてしまいます。


そこで身内です。自分が好きな他人、尊敬している他人のために生きる。


これがなにが素晴らしいかというと、相手が本当は、なにをのぞんでいるかなんて、結構どうでもいいというところです。自分のことだったら、結局、人生なんて意味がないから、努力して生きてもしょうがない、とか考えちゃいますが、他人のことだったら、しょせん他人事ですから、自分さえ、これは相手のためだと決めつけてしまえば、いくらでも頑張れる、一所懸命に生きることができる。


相手も本当は人生に意味がないとか思っているかもしれないですけど、そんなの自分のことじゃないから知ったこっちゃない。相手がせいぜい自分に好意さえもってくれるぐらいでじゅうぶんに納得できて、相手のために頑張れる。


ぼくは、世間の常識だったり利害関係から、合理的な判断の結果として自分の行動を決めるのは好きではないです。


それって機械じゃん。ただの社会のパーツじゃんと思ってしまいます。たぶん、ぼくでなくてもいい。アルゴリズムで代替できてしまうと思います。


とはいえ理屈にあわないことは嫌いなので、仕事での判断はすごくアルゴリズム的に正しい選択をします。
でも、ぼくは人間として生きたい。自分のやりたいことだけをしたいと思っているので、行動的には理屈にあわないことをするのが好きです。でも、具体的にはあんまり会社にいかないとか、全然仕事しない、とかいったことなので、まったくかっこうよくない。


イメージ的には最終回に組織を裏切って死んでいく中堅どころの悪役みたいな生き方がしたいんですけどね。


うーん。人脈のはなしからずいぶんとずれてしまいました。


結論:人脈は大事