いつのまにか沈められていることに気付く

市民の教育参加は、

  • 学校にできない方向性のことやり
  • それがある種の子どものためになり
  • 収益性がある

という三位一体が理想で、というか、そうでないと持続性がない。こういうことを教師は本当に理解してないな〜、やっぱ公務員アカンな〜、と思ってしまう事例があった。今日。

去年小学校でのバザーの出し物にハンダ付けワークショップをお願いされて出した。今年もお願いという連絡が来てたのでそのつもりでいたんだけど、今日の委員会の話し合いで「危ないんじゃないか」という思いつきのような懸念が示されたそうで、それにわざわざ対応して校長先生が電話してきた。他にできるものはありませんかね、3Dプリンタの展示とかどうでしょう、などとのご提案。

ハンダ付けのワークショップ、そもそも危ないものではない。一回の人数は少ないし、対策を重ねて体験者の年齢下限は幼稚園児(親付きだが)である。低年齢をいたずらに誇るわけではないけど、まあ基本的には安全確保できてるし、キット購入の形を取ってるので(あんまりしたくないが)フィルタリングもされてる。今回の懸念は周囲でゲームなどをやるからというのもあるんだけど、柵で十分。ちゃんと内容を理解してない感じがする。

そして重要なのが子供にとってのメリットで、「一見危ないようで危なくはない、実際に使われている生産技術に触れ、自分の自由度が上がる」というのがキャッチフレーズ。「3Dプリンタを見るだけ」では、そうしたものは何も得られない。珍獣見物だ。珍獣見物が役に立たないというわけではないが、たとえばレギュラーの放課後子ども教室でやってるのは3Dプリンタの仕組みの理解と3Dモデリングの基礎で、技術の道筋が見えるようにしてる。ぜんぜん違う。

で。さいきん完全に持ち出しに慣れてしまっており、電話で話した時に情報提示できなかったんだけど、このワークショップは本来は有料である。準備段階もあるので1回数万円取るのが普通だ。

昨年参加したのは、昨年まで熱心な保護者の方が同時にPTA事務を担当しており、この方が「科学の祭典」改め「科学の自由研究まつり」という沖縄中部の具志川で開催された科学イベント(これは謝金が出る)までわざわざ来て、オレのワークショップに子供2人を参加させ、収益性の懸念も表明した上で「できればぜひ…!」と頼んできためだ。

こういうのは歓迎だ。なので、キットを買ってもらってそれを組み立てるワークショップを開催する、というMitch AltmanがMake: Tokyo Meetingでやってた方法を取ることにした。これで現実的な収益が上がるわけではないけど、そういう相談をしてきたことで最低限の敬意が払われてると思ったので気持ちよくやった。

一事が万事だと思う。「大人に頼むならちゃんとカネを払え、払えないならなんらかの形で補填して敬意くらいは表明しろ」というのはやっぱり大事なこと。子供は常に可能な範囲の最高の教育を受ける権利があると思っているが、大人が教育に何かを足したいならちゃんと対価を払う努力をするべきだ。

この文脈で考えた場合、3Dプリンタ見物させてオレになんのメリットがあるんだろうか。隣でゲームをやってて危ないというけど、それで機械が壊された場合に誰がどうしてくれるというのか。移動すると調整も狂うのだ。

こういうの、月給取りの人には響きにくいとよく感じてたけど、フリーと公務員となると正反対くらいの感覚かも。だから何も考えずに思いつきで頼んでくるのは、まあしょうがないっちゃしょうがないんだけど、無理だよね。いろいろと。

今回のあまりにもあんまりなご提案にハッと目を覚まされたけど、こんなことしてたら擦り切れるばっかりだ。流されてると周囲の意識がオレを「メンドクセエけど鋭い外部観察者」から「無料で使える便利なおじさん」に変えていき、オレも最初から当たり障りのない無難でつまらないものをやるようになっていくのだろう。おそろしいおそろしい。

学校にもできる、大して子どものためにならないことを、擦り切れながらやる。そういう人に私はなりたくない。でも、そういうのが「無難」なのだ。

放課後子ども教室も含め、そろそろ去りどきなのかもしれない。やっと出てきた数学小学生も今年で卒業だし。

知り合いだらけの世界は快適なものだ。でも自分のことを知らない人だらけのところに行き、無茶と言われることを通そうと努力すること。これを常に頑張らないと、たぶん自分の問題意識なんて忘れてしまうんだと思う。

昔のワークショップ写真より

「人類滅亡まであとXX日」

子供の頃は「米ソ核戦争で人類滅亡」って既定路線のような気がしてた。

なんらかのきっかけにより全面核戦争が起き、ほとんどの人が死に絶えるかもしれない。という空気は社会をうっすらと覆っていた。それはありえないことではなかった。キューバ危機では核のボタンが押される直前まで行ったことを当時生まれていなかったオレは知らなかったけど、大人たちが核戦争を現実のものと認識していることは感じ取れた。「ノストラダムスの大予言」なんて馬鹿馬鹿しいものにみんなが怯えた気分を持っていたのは、あれが1999年7月に世界滅亡という、ありそうなイベントを指していたせいがある。

ところが1999年の10年前、1989年11月9日にベルリンの壁が壊れると、共産圏は崩壊しソ連も消えた。湾岸戦争はやりすぎなほど多国籍軍(米軍)の圧勝で、もう大きな衝突は非現実的に思えた。滅亡しないことが保証された人類はもう前進するだけだと思った。『歴史の終わり』なんて本がベストセラーになった。

2001年に「テロとの戦い」なるものが始まった。「そんなので世界が滅ぶことはないんだから理性と融和でなんとかなるんじゃないの?」というのがオレの当初の感覚だった。泥沼に水を注ぐ者がたくさん現れ、みんな足が抜けなくなった。

それでも2008年に始まったオバマ政権は素晴らしかった。世界恐慌が起きたり日本では震災が起きたりした時期で問題はたくさん残ったし政策の全てに賛成ではない。でも絡まりきった医療保険問題に手を突っ込んで国民皆保険の方向に舵を切ったときには魔法を見てるみたいだったし基本的には良い時代だった。人類が前進してる中で日本だけ停滞してる。ただそれだけのことだと信じられた。

そのまま歴史が進み、2016年に最初の女性大統領が誕生する、と思ったところで逆回転が始まった。 2016年のアメリカ大統領選挙は悪夢だった。ありえないものを見た気がした。2024年のアメリカ大統領選挙は悪夢をこえるひどい現実だった。あの4年間を経験したうえで本当に投票する人間がたくさんいる、という事実に打ちのめされている。

そんなわけで人類滅亡がオレの意識の既定路線のような位置に戻ってきつつある。今度は暴力と排外主義…が致命的なのではない。その中で温暖化対策が無効になり地球が普通の人間には住んでいられない場所になる、という形で現実化することを感じている。野生生物も道連れだ。

全面核戦争は「さすがに誰もが望んでいないから非常に不幸な事故でもない限り起き得ない」と考えることができたが、極端な温暖化は「現実を見ずに否定して対策を拒否する奴らがいれば起きる」もので、数十年後に学習しても手遅れだ。

そしてそれは既に選ばれてしまったのだ。選挙で。

収納哲学の再考をうながすグリッドフィニティ

3Dプリンタで立体的なラベルを作ろうと思ってぐぐってるうちに見つけたこの動画。えらく興味深かった。*1

www.youtube.com

これはグリッドフィニティ Gridfinity という3Dプリントモジュール式整理棚システム規格の発明と実装の紹介ビデオだ。我々が却下しそうな些細な思いつきに満ちたものに見えるのに、作者にとってはめちゃめちゃ狙い通りの効果が得られてる感じ、が、すごく変。吉行淳之介の表現を借りると、自分とは無関係の地平に見る見るうちに巨大なビルディングが建っていくかのよう。

グリッドフィニティのコンセプトは、

  • 42mm x 42mmのグリッドを単位としたフレームに
  • 42の倍数 x 42の倍数 x 高さ7の倍数mm の箱(bin)をはめる
  • 箱は中にいれるものをディスプレイするように設計

という規格を使うことで、

  • 道具は収納するための定位置があり
  • 使うときは収納場所から箱ごと持ってきて机のグリッドに嵌めることで整理した状態で使え
  • 片付けもチョー簡単

という状況を現出せしめるというもの。ADHDでも散らからない! めちゃめちゃ生産的になれてプロジェクトが爆速で進む! といっている。使うフレームや箱はすべて3Dプリントしてて、特別に買ってきたりするものはない(ツールチェストとか棚は必要だが)。

作者はFusion360でメチャメチャいろいろな箱を設計しまくり、プリントには40cm x 40cm x 45cmのプリントエリアと高速印刷能力を持つAnycubic Kobra Maxを使って作りまくってるらしい。設計用にはFusion用のGridfinityGeneratorというプラグインが作ってあり、基本的な箱はパラメータを入れるだけで爆速生成。自分の工具の専用箱を作る土台にするのも楽なようにできてるようだ。作った箱がマジで膨大。

ユーザーコミュニティも既に発達しててRedditでも見つかるし、ユーザーがシェアしあってる自作の箱は既に膨大なライブラリになっている。All3DPにも記事があって、なかなか説得力がある。

似たようなコンセプトのものはこれまでもたくさん出てるけど、ここまで徹底して実行し、整理しきったは初めて見たと思う。

一瞥したときの違和感は、売ってるものをわざわざ3Dプリンタで作ってるように見えるところにあった。しかしこれはそうではなく、作者が言ってることとやってることの整合は完全に取れてる。そこを納得したうえで、まだ違和感があるので考え続けたところ、どうやらこれはオレの収納意識の哲学的盲点に焦点を当ててるものだからではないか、と思いついた。

グリッドフィニティが追求してるのは、収納されてる工具や部品類へのアクセス性や片付けの確実性であり、それによる生産性の向上だという。スタックできても収納効率を追求しているわけではないし(それはスタックにより補償compensateされてるだけ)、ディスプレイしている目的は美観ではなくアクセス速度だ。最終的に着目しているものは時間効率だと思う。

これに対し、一般に日本における「片付け」は美観の追求のために行われる。作業効率の良い工房の配置とか、工場における生産性向上運動による最適化なんかの発想はあるけど例外的。根底にあるのは「すっきりすること」への執着だ。モノのない状態を作り出し、「空間に美を感じる」または「気を散らされない」を目指すのが日本的な美意識だろう。もちろん現代生活でモノがないなんてありえないので、次善の目標として空間の豊富さと便利さの共存を目指す。流行する片付けメソッドは使っていない一切を捨ててしまう「断捨離」であり、収納場所に求められるのは充填効率。収納されてるべきものが表に出ているスタイルを見たときに「見せる収納」と理解するのはこの価値観の発露だと思う。

ただし、日本でもクリエイティブ系の人間はちょっと毛色が違い、美観を諦めてガラクタを溜め込みがちである。たとえばオレは「スッキリ」には相当な不信感を持って育ってきたし、反発心から「そうではない発想」でどうにかならないか足掻いてきた。「ジャンクの山がなければ作りたいものを作りたいときに作れない」とか、「読んだ本を手放すと二度とアクセスしなくなるから手放してはいけない」などの方針を採用し続けた結果、どうにか使える程度には整理されてるけど基本的には溜め込みがひどすぎて破綻、という普通の汚部屋の境地に達してしまっている。これは思いついたときに思いついたモノが手元に無いことを恐れてのことで、時間効率の追求をしていたはずが空間効率の追求に地道を上げた例だ。

動画を見てオレが感じたのは、グリッドフィニティとスッキリ収納と汚部屋はそれぞれが正反対のベクトルを向いてるみたい、ということだ。グリッドフィニティとスッキリ収納、スッキリ収納と汚部屋、汚部屋とグリッドフィニティのそれぞれが正反対を向いてるように感じるのだ。これはこの3つの方法が1つの軸には並んでいないということである。

グリッドフィニティで整理してあると、道具が全部可視化されててなかなか心地よいんだけど、これは美観方向への追求ではまったくない。スタック可能な設計だから収納はそこそこ高効率ではあるのだけど、ぐしゃっとひとまとめに入れておくよりは確実に悪い。美観も空間効率も追求しないで何を追求してるかと言うと、時間効率だ。可視化、可用性、確実性に注力することにより、これをめちゃめちゃに良くしてある。

汚部屋は収納効率は最高だが美観が最悪で、時間効率はランダムだ。溜め込んだものは空間的には自分の近くに存在するかもしれないが、時間的にはけっこう遠いところにある。見つからないネジは買ったほうが速い。こうしてさらにモノが増える。いつかはアクセスできるはずのモノには永遠にアクセスすることがない。それでもクリティカルに重要なものへのアクセスは高速なことが多く、家にこもりっきりで生産できる快感がある。

スッキリ収納は美観において最高だが、収納効率は高いとは言えず、時間効率も良くない。なにしろそこには何も存在しないので、必要なものは必ず外の世界から導入する必要がある。確かに存在しないと確信できるため、汚部屋に存在するものよりは高速にアクセスできることも多いが、入手にはさまざまな障害が存在しうる。工具なんかは高価なことも多く、同じものを何度も入手するわけにはいかない。

グリッドフィニティの時間効率は自分にとって新しい価値観の次元の導入である。空間効率を下げる代わりに美観を得る価値観をオレは採用してこなかったわけだけど、グリッドフィニティで空間効率を下げることで追求しているのは時間である。この発想を、オレはほぼほぼ持ってなかったと思うのだ。

空間効率と時間効率にトレードオフがあることは、気付いてしまえば明らかだ。しかしオレは大昔に読んだ地方移転した会社の話から一応の常識として知ってはいたものの、この動画を見るまで本当には解っていなかった。というか、生活の収納に適用する発想がなかった。まずはこうした時間効率に徹底的に傾斜配分したシステムを見ない限り、それは漠然とした感覚で制御されてて言語化されないものなんだと思う。自分の生活実感から、

  • 探す時間が一番無駄
  • フローとストックを分けよう

みたいなマントラは唱えていたけど、それがこのトレードオフを動かすものとは意識していなかった。しかしここにはトレードオフが確かに存在する!

…『料理の四面体』という玉村豊男の出世作がある。味と調理法に4つの方向性が存在し、それらを正四面体の各頂点と考えると、世界中の様々な料理がこの四面体の中の移動で説明できる、みたいなコンセプトの本だった。

これと同じように、1次元的に対極に立つように見える汚部屋、スッキリ収納、グリッドフィニティ的収納には空間的な関係があり、時間効率追求という価値観を知ることで、何面体だかよくわからないこの図形の中をいくらか動き回ることができるようになった…というのが今回実感したところである。

生物とは欠乏に強く過剰に弱いものであり、だからわれわれは食べ過ぎるし物を溜め込んでしまうものだが、これらはよく生きるには有害だ。それはわかっているのだが、なんだか囚われていたのがこれまでである。今後は発想の地平が広がり、詰め込みすぎないで済むようになる気がする。

さっそく作業場の場所ふさぎだった壊れたプリンタを家の裏に持っていき(粗大ごみ申請が面倒で壊れたレンジなんかも積んである)、詰め込みすぎだったビット袋(ドリルビット収納用だったところにドライバービットを入れたのがきっかけで、いま見たら六角レンチやねじ切りタップまで入ってた)を中身ごとに分割した。しかし部屋の景色はそれほど変わっていない。先は長そうだ…。

グリッドフィニティをそのまま採用するのは(スペースの過小さと作業量の膨大さにより)無理なので、「グリッドフィニティを使わないで時間効率を追求する」という無理ゲーを始めちゃってる感じがする。これはこれで限界があるし、いっそ採用してしまったほうがいいのかもしれない。ココロが千々に乱れますね。

*1:ちなみにラベルメーカーの方はText2STLを見つけて使ってる

消えゆく造礁サンゴ類

造礁サンゴ類は温かい貧栄養の浅海に生息する。

貧栄養で透明度が高いこと、海が浅いことは、どちらも共生する褐虫藻の光合成に強い光が必要だからだ。特に、造礁サンゴ類を特徴づける造礁性には、すなわち死んで分解されるより高速に石灰を蓄積し、比較的短期に地形を変えるほどの生物生産を行うには、非常に強い光が必要だ。伊豆などには沖縄と共通のイシサンゴ類がある程度分布し、チョウチョウウオなどの魚類にもかなりの共通性が見られ、景色はまるで沖縄のようだが、サンゴ礁は形成されない。

温かい、は水温が18℃以下に下がらないことだが、至適温度はもっと狭くて25〜28℃と言われている。また、温かいのが条件といっても30℃が上限で、30℃を超えると白化が始まる。

サンゴそのものは腔腸動物であり、体のほとんどが水。腔腸動物は熱帯から極地まで広く世界中に分布し、あまり温度を気にするとは思えない。おそらく温度条件の方も褐虫藻の制約である。

さて、世界のサンゴ礁海域は、昨年、今年と夏の海面水温が軒並み30℃を超えた。そして台風がほとんど来なかった今年の沖縄では30℃を超える期間が非常に長くなった。気象庁の日別海面水温データを見てほしい。

気象庁 | 海面水温に関する診断表、データ 日別海面水温

梅雨明け後に初めて30℃を超えた7月4日以後、沖縄近海の海面水温はときおり通る近くの台風によって下がることこそあるものの、9月10日を過ぎるまで約2ヶ月間、ほとんどの日で30℃以上となっていた。しかもこれは外洋の海面水温であり、リーフの内側に溜まった水の温度は日中さらに上がる。通常は潮の満干で外海の水が入ることで冷やされるのだが、この入ってくる水が30℃。これが今年の沖縄だったわけだ。

この高水温によるサンゴの白化はすさまじく、健全だったリーフが非常に広範囲に白化し、全体が白くなったために岸からも容易に観察できるようになった。有名なダイビングポイントの多くも白化に見舞われ、各地でダイバーの悲鳴が上がった。以前に著しい白化が見られた1998年や2007年も、ここまでは白くならなかったように思う。生き残ってるのは比較的深いところの個体だが、これは浅いところに比べて生物量が非常に小さくなり、バリエーションも小さい。総体として沖縄のサンゴの生物量がどれほど減少したか、ちょっと見当がつかないほどだ。

1998年や2007年と2024年の違いは、温暖化の進行度である。

世界の年平均気温偏差(気象庁より)

昨年は世界の年平均気温が産業革命以前に比べて既に1.5℃以上高かったと言われる(パリ協定の長期目標が1.5℃であり、恒常的にこれを超えるのは現在の対策の破綻を意味する)が、2010年以前は1℃以下の上昇にとどまっていた。

ここで思うのが、温暖化は造礁サンゴの生育を強く妨げる条件を形成しつつあるのではないか、ということだ。

昨年今年と続いた夏の暑さはおそらく来年以後も続く。これはこの温暖化が太陽活動の周期的な変化ではなく、温室効果ガスが地球からの赤外線放射を妨げることで起きているからだ。太陽からのエネルギー量は変わらないのに平衡点が変わり、気温が上がる。地球温暖化とは太陽活動の周期性とは独立に平年気温だけが動いていく現象である。

こうした条件では、従来の造礁サンゴの生息域は生育に適さなくなる上に、分布が北に移動することが期待できない。なぜならサンゴが生育する条件を形成するのは第一に輻射エネルギー量であり、富栄養で暗い北の海での生育条件はほとんど良くなっていないからだ。

おそらく至適温度に近づく地域では多少活発になる個体群もあるはずだ。サンゴ全体としては分布が少し高緯度側に寄り、地方によっては多少の拡大も観察されるだろう。しかし、それだけだ。質的にも量的にも、減少分よりはるかに小さな増加にとどまるだろう。移動できずに絶滅する種は相当な数に上るだろう。

広く歴史的に捉えてみれば、産業革命以後、世界のサンゴ類は半分以下になっているという。今後はさらに足を早め、きわめて多くの造礁サンゴ類が地球から姿を消していく。現在の温暖化速度を鑑みれば、これは既定路線だ。

海に潜る機会があれば、潜っておいたほうがいい。それもできるだけ早く。

いまある珊瑚礁の景色は、いましか見られないものかもしれないから。

ひさびさに美ら海水族館に行ったら改装しまくってた

昔は年に5回くらい行ってた美ら海水族館に5年ぶりくらいで行きました。 ずっと不変だった部分がめちゃめちゃ変わってたので気づいたことを書いときます。

いざ入場

大胆な配置換え
  • 出口のところにあったアクアリウムショップが、出口のあとで地下に降りた総合休憩所(美ら海プラザ)に移動
    アクアリウムショップ新店舗
  • 記念写真撮影用の巨大なサメ歯も総合休憩所に移動
    元はサメ博士の部屋にあった巨大サメ歯
  • ヨシノボリやカエルやイモリといった渓流・水辺の生物たちの水槽は元アクアリウムショップの場所に移動
    ショップが消えててびっくり&淡水生物が消えてなくてホッとする
  • マナティ館は1階が閉鎖され地下のみを開放。右から入って左に出る配置に
    元は無人に近かったマナティ館地下

ウミガメ館やマナティ館が人で溢れてるのを初めて見ました。

オープン以来20年くらい人がまばらだったウミガメ館
ウミガメ館の上層

これは人流への配慮とスペースの有効活用という感じですね。順路に後戻りがあって迷ったり滞留して人が増えすぎる場所、逆にわかりにくくて過疎化する場所を全部1直線に繋いでる。そして滞留が必然であるミュージアムショップは広くて他の邪魔にならず水族館客以外も入れ、水族館から来たら最後にあるように見える総合休憩所(新しくて綺麗で過疎だった)に入れてます。

あと配置換えで、おや? と思ったのが大型エビカニ類が隅に追いやられたこと。

  • イセエビ水槽が目立たないところに縮小されたり
  • タカアシガニが居なくなったり

で整理されちゃった感が。強い人が退職?

解説パネルの液晶化

素晴らしい色再現
解説パネルの大部分を液晶ディスプレイに置き換えてます。これが輝度や色再現などが非常にマトモで素晴らしい。

正しい色と輝度を保ってる液晶は、単なる写真パネルと違って色褪せない、動きがわかる、切り替えられるために水槽にいる魚のかなりの部分がカバーできるなどメリットいっぱい。

これはたぶん全部同じ製品を使っていろんな経費を節減してます。そうやって無理やり統一すると逆に収まりが悪くなったりしがちなんですが、ここでは同じ製品を統一的に使っていながら過不足ないデザインになってるのも素晴らしいです。

オジサン推し

営業の効率化

個人的にこれが印象的でした。どんくさく非効率だった部分が大きく改善してる…。

  • 大水槽横のカフェが整理券入場になり待ち時間の有効活用が可能に
  • 超人気でトラブルも起きがちだった水槽際は40分500円の有料席に

大水槽横のカフェのシステム

  • 水族館出口と総合休憩所の結合を強化。そのまま全員降りる感じに
  • その上でアクアリウムショップを広々させて入りやすく買いやすく
  • 総合休憩所から出たところにキッチンカーが群れて「ここにしかないもの」を売りまくり
    シークヮーサーそばにサーターアンダギーアイス…食べるよりは売る方に回りたいw
  • ガチャはコラボとかしてる。従来のシリーズも価格据え置きで継続
    ガチャたち
  • 餌付けが大々的に。イルカのほかカメにも餌やりが出来るようになった

これはかなり頑張った感じ。カフェの整理券や水槽際の有料化は非常に良いと思った。逆にイルカの餌やりは人が多すぎて大丈夫かと思ったりする。

残念なもの

ふれあえないコーナー

  • ふれあいコーナー、鮫皮、深海水など触って楽しむ系のものが全廃

コロナ対策でしょうか? 生物のストレスがあったり標本の痛みも目立ってたりもあるとは思いますが、貴重な機会がなくなって残念。

こういうの、必要な子はそっと触るんだけど、生物に興味がない子が乱暴に触って問題になりがち。

たいへん残念なので何らかの形でだんだん復活してほしい…しかしいま水道のあったところの写真を見て思い出してきたんだけど、ふれあいコーナーは5年前にすでに廃止されてたような気もする。残念すぎて記憶が消去されてる。

これは完全に個人的な話なんですが、アクアリウムショップで売ってた長さ10cm弱のフェルトのチンアナゴマグネットとニシキアナゴマグネットが無くなってしまったのが大変残念です。

以前は年間パスポートを毎年買ってて、お客が来るたびに案内してました。それで行くたびにメンバーの人数分(男性分はチンアナゴ、女性分はニシキアナゴ)のマグネットを買って日付を書いて冷蔵庫に貼ってたため、ウチの大きい方の冷蔵庫のドアにはチンアナゴとニシキアナゴが数十本が生えてるんですが、終売によりもう増えることがなくなってしまいました。チンアナゴ・ニシキアナゴ製品はぬいぐるみ的なのしか売ってなくて買う気になれなかった…。

サイエンス推し

気を取り直してサイコーのことを書いときます。サイエンスを以前よりかなり前面に出すようになりました。

  • サメ博士の部屋でちゅらうみ関係で書かれた論文をずらっと並べる
    こんな論文出てますボードたち
  • 外部に依頼した3Dモデルなどのクレジットを完全表示
    オオメジロザメの鱗の3D出力模型
    クレジットが全部に付いてる
  • 生育域外保全活動のアピール
    生育域外保全活動の取り組み展示
    飼育陸貝
  • CTやエコー診断の活用して海洋生物の生理を調べてることの解説展示
    いろいろやってるみたい
    エコーとホルモン検査によるサメの性周期の研究
  • 深海生物採集用のROVや加圧水槽を公開(窓から見えるだけだが)
    深海生物のための設備展示
    ヤシガニ展示、かなり良かった。

めちゃめちゃ儲かってるお金を科学に注ぎ込んでる感じがあってステキ。


それにしても人が多かった。台風の平日なのに人流の隙間から生物を見る感じ。

パネルも色々充実してて(特に手作り系がちゃんとしてて良い)、空いたらゆっくり見たいなあ…と思うものが多いんだけど、空くことは永遠にないw

がんばって見るしかないのでがんばりましょうw

引き続きバスの無料化の話

9月の水曜日曜の沖縄全県バス無料。かなり浸透してて、めちゃめちゃ使われてます。

本日2024年9月15日も日曜なので無料デー。オレはそんなことは忘れてて、明日のピザ会のためにA-Price浦添店に行って一通りの材料を買ってました。

それから新しくって巨大なモール、サンエーパルコシティの成城石井に行ってサラダピザ用の生ハムを買ったろうと思い、海岸沿いの道に出て北上しました。まだまだ夏! の太陽が照りつけるド真っ直ぐな海岸通りをびゅーんと進んで右側にパルコシティが見えてきた…でも混んでるから通過…と思ったところで、モール前のバス停周辺に20人くらいの人影がいるのに気づきました。アシカのように思い思いの方角を向きリラックスして堤防の上にも乗っかってるけど、明らかにバス待ち。だってバス停以外になにも無いところだから。そして若者がめちゃめちゃ多い。

このバス停は那覇から来て宜野湾に抜ける32番や43番が停車するサンエーパルコシティ「前」です。今日バスで遠出しようと那覇バスターミナルから乗った方がいるんですが、パルコシティ方面向けは始発の那覇バスターミナルからいっぱいいっぱいだったらしい。バス停では那覇から来た人がたくさん降りて、北向きに戻る人がたくさん乗ったことでしょう。昭和みたいな景色です。

パルコシティに入る右折信号が2箇所ともぎっちり混んでたので、オレは2キロくらい先のコンベンションシティに回ることにしました。こちらもパルコシティの前にサンエーが作ったモールで規模は一回りも二回りも小さいんですが、おなじ生ハムが買えます。

そしたらコンベンションシティはコンベンションシティで、パルコシティ開店以来人が減り続けてたのは気のせいだったかと思うくらい人が多く、駐車場がいっぱい。中も人でいっぱい。連休の中日だからこういう場所が混むのは当たり前ではあるんだけど、普通に景気の良さを感じました。実に昭和っぽい。

人間は出かければカネを使ってしまうものなので、行きたいところに無料でどんどん行けることが景気に良い影響を与えるのは明らかです。

しかもこれには重複的な効果があります。低所得者ほど消費性向が高く、交通費の負担感が大きいからです。つまり、移動を激安にして負担なく消費の場に連れて行けば使いたいことに使えるお金が大きく増えるため、移動の動機そのものが増えるということ。未成年者に顕著だと思いますが、たとえば小遣い残り2000円で友達同士でどこかに行こうかとなったとき、バス賃で往復1000円取られるとなれば普通の選択は「出かけない」です。コンビニで500円消費してダベって終わる。ところが今日の高校生たちはパルコシティと海で遊んで2000円使い果たして帰るわけです。

これ、理論的には非常に当たり前のことなのに、やってみるまで気づかれてなかったことだと思います。

ていうか、オレがこれにちゃんと気づいてませんでした。台湾や中国で街がいつも人でいっぱいなのはそういうことだったのか! と今更ながら…台湾や中国を見てバスが安いのを素晴らしいと言い続けてきたこのオレ様が…「今更ながら」気付きました! こんなに効くなんて!!

もちろん今日みたいに爆発的に乗って出かけて消費するのは、無料が9月限りであると知れてる上に、バスで出かけたことがない人たちにとって初体験に近い物珍しいお出かけになるからです。それでも一過性ではない部分がしっかりあるのは、上の消費性向と交通費負担の関係からも明らかです。

人を連れ出すか連れ出さないかはすごく大きいです。消費という点だけではなく、気軽に出かければさまざまな刺激を受けて思わぬ発見もする。思わぬ出会いもある。家に籠もりっきりにならないという選択肢があらわれる。もちろん出かけたくない人は出かけなくてもよい。個人にとってはメリットしかない。

公共交通機関を安く充実させれば商売を含め「公共の福祉」になる。そういうことだと思います。日本以外の国で公共交通機関がきわめて安価なことと、日本以外の国がここ1/3世紀ほど着実に成長してきてることには少なくとも相関が存在する。

いやーすごいよ、この企画。

オレは実は九州旅行中に熊本で日曜無料デーに当たったことがあり、やってみて好評だったから続けてるといわれて、いまいちピンとこなかったんですよ。「これって誰が投資して誰が得をするの? 持続性あるの??」と思った。でも、地元でこれだけの変化を見せられてしまうと納得です。機能してなかった公共交通が機能して人が溢れてるのを見たら、なるほどここに投資できるんですねってなる。行政人も商売人も、人が実際に動くのを見れば何か手を出したくなるものなんだと思います。

あとはやはり、恒久的な値引き、それも8割や9割引いた状態を「あたりまえ」にすることがゴールじゃないでしょうか。中国のバスがだいたいこのくらいなんだけど、交通機関として非常によく機能してます。これが例えば半額だと、まだ自家用車のほうが安く移動可能なので本質的な変化は生まれないはずです。

自作の時刻表

バスのポテンシャルはなかなか大きい

懐疑的な人も多かった沖縄のほぼ全県バス無料乗り放題(9月いっぱいの水曜日曜)。オレも水曜に乗ってきましたが、まずは母集団拡大に一定の効果が得られていそうで慶賀の至り。

www.okinawatimes.co.jp

経済学的な側面でオレが面白いと思ったのは、このキャンペーンって効果(「バスに乗ってみる人数」)が増えても追加費用がなく、当初の宣伝費とバス会社への通常時収入への補填の他がほぼ不要なこと。

通常の取引では1単位の便益(売上、乗車、etc)の実現には一定の追加費用がかかる。たとえば食堂は材料がなければ売ることができず、これは1食を提供するたびにかかる費用となる。モノを売る商売はみんなこうだし、サービスの提供の場合なら人件費が変動費として加わりやすい。

ところがバスの無料化の場合、乗車数が増えても1人にかかる費用はゼロに近い。空荷と満車では燃料費が違うとか、遅れが出たので残業費が発生してるはずだとかの細かい費用はあるのだけど、1人あたりの固定的な追加費用がない。人が乗れば乗るほど宣伝効果という名の便益だけが増えていく。これは面白い側面。

そしてこの、一人あたりの追加費用が無に近いという性質は、バスという公共交通が最初から持ってるものだ。支出のほとんどが固定費で、乗客一人あたりの費用はこれを頭割りしたものとなるため、乗る人が増えれば増えるほど安くなる。大量輸送タイプの公共交通機関はみんなこうなってる。

いま沖縄のバスはかなり高く、中国に比べると8倍くらいの運賃だ。無料じゃないと乗らない人は多いと思う。では、運賃がどのくらい安ければ乗るだろうか。今回たくさんの人をバスに乗せて、あんがい速く移動できることを覚えてもらった。渋滞が無くなれば、さらに高速で予想可能な手段にもなりうるだろう。あなた、いくらなら乗りますか?

オレはこれ、自分でクルマを出すよりも、はっきり安いことが重要だと思ってる。現状ではクルマに1人で乗ったほうがぜんぜん安い。

具体的に計算しよう。ウチの近くの大謝名バス停から、定期路線バスの最北端、辺土名バスターミナルまで行ったとする。

まずはバスの場合。バスなら往復6,220円かかる。内訳は大謝名〜名護バスターミナルまでの58.7kmに1900円、名護バスターミナル〜辺土名バスターミナルまでの31.6kmに1,210円で合計片道3,110円だ。大謝名までバスで行くと往復380円くらいかかる分は入れてない。

クルマの場合は180kmのドライブとなる。長距離下道でガソリン代はリッター15km走る普通乗用車で12L、ハイブリッド車で1.5倍走ると8Lで済む。リッター160円で計算して往復1920円と1280円。まあ2000円以内で行けてしまうわけだ。クルマの購入費、車検、税金、運転者の時給等を勘案していくともっと上がるんだけど、現に持ってるクルマを走らせて自分のために行くなら追加費用だけが問題だから、これが限界費用となる。

というわけで、バスなら6,220円、クルマなら2,000円以下。1人で動いても1/3以下である。カップルだったら? 家族連れだったら? と考えると、沖縄ではバスが公共交通機関として機能しにくいことは明らかであろう。

クルマを持ってる人がバスに乗る気になるにはどのくらいならよいか。バスに乗りながら実感的に考えた感じとしては、ガソリン代の2000円より安ければ考える(けど、2000円じゃまだ乗らないかな。家から直接乗っていけるのが便利)、2割の1200円ならふつうに乗る…でした。ここまで補助すればしっかりした需要があり、渋滞緩和に大きな影響があるはず。

その実現費用は実は高くない。以前試算したことがあるんだけど、毎年の道路建設にかける費用よりはだいぶ少ない額(半分とか)で、路線バス事業の売上額がまかなえることがわかっている。

オレは完全無料というのはモラルハザードで濫用を招きやすいので名目的な運賃を取るべきだと思っているんだけど、そこで乗りやすい額、つまり上記のようないまの1/5とか、もっと出して1/10の額でバスに乗れるように補助するのは、すごく妥当なミニマムアクセス確保だと考える。

そもそも道路を作っても交通強者しか使えません。交通弱者の移動手段をちゃんと整備しないのは不公平。半々で分けたらよいのではなかろうか。

採算性の呪縛を外せば十分なポテンシャルがあることは今回よくわかった。交通の最適化のためにお金を出すのは十分に合理的じゃないんですかね〜。


ところで最初の記事の見出しなんだけど。「遠出は楽しかったけど、待ち時間が長くて大変」じゃなく「待ち時間が長くて大変だったけど、遠出は楽しい」って書けないもんかね。オレの感覚は完全にこっちだったんですけど。