梶ピエールのブログ

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岡本隆司『中国の誕生』


 沖縄(琉球)の問題とチベットの問題は実はつながっている!このご時世に不用意にこんなことを言おうものなら、ただちにネトウヨ認定されてしまうかもしれない。確かにグーグルで「沖縄」+「チベット」で検索すると、「米軍基地の問題で沖縄に自己決定権なんて認めたら、チベットみたいに中国に侵略されてしまう!」などといったネトウヨの主張がわんさかとヒットしてくる。しかし、もちろんここではそんな主張がしたいわけではない。

 既に近代中国外交史、経済史の分野で数多くの著作を著してきた岡本隆司の近著『中国の誕生―東アジアの近代外交と国家形成―』は、近代中国が周辺部との関係を変化させていく中で、その「境界」を確定し、認識していく過程を中国自身の、というより「漢語」の世界からみた対外関係とその変容、という観点から読み解こうとした書物だ。琉球、チベットを含め、ヴェトナム、朝鮮、モンゴル、新疆といった周辺地域との関係性の変化が、いかに相互に深く影響を及ぼしていたのか。外交資料の緻密な読解によってこの「問い」に徹底的にこだわった本書から、読者は良質のミステリーを読んでいくような満足感が味わえるだろう。

 ポイントを非常に単純化してまとめるなら、次のようになるだろう。清朝末期、いわゆるウェスタン・インパクト以降の欧米列強との交渉の中で、それまでの「朝貢」や「藩部」「藩属」といった漢語による国際関係の概念は「主権」「領土」「宗主権」といった西欧由来の言語による世界観に次第に置き換えられていく。その過程で、朝貢を行う「属国」であったはずの琉球、ヴェトナム、朝鮮を清朝は次々と失っていく(「瓜分」)。その一方で、西方の「藩部」、すなわちモンゴルやチベットで清朝は直接的な支配を強め、かの地への「主権」を主張していく。しかしそれが現地政権の反発を招き、20世紀初頭の「独立」への気運を高めることにつながる。こういった一連の国際秩序の変容において、明治日本による琉球処分はそれ以降の清朝の周辺地域との関係に決定的な影響を及ぼしている。その意味で確かに「沖縄(琉球)の問題とチベットの問題はつながっている」のだ。

 前近代における中国の歴代王朝を中心とする国際秩序について、国民国家間の「条約」に規定されたウェストファリア的な秩序とは異なる、領域や取り決めのはっきりしない「ゆるやか」なつながりだと表現されることが多い。それはあながち間違いではない。ただ、その取り扱いには注意が必要である。それらの「周辺地域」の位置づけは、漢語圏に属しており、外交文書も漢語という共通言語で行われた「朝貢国」(琉球、ヴェトナム、朝鮮)と、漢語という言語を共有しない内陸部の異民族地域=「藩部」である新疆、チベット、モンゴルとではそもそも全く異質なものであったからだ。

 また、清朝の対外関係を表す概念として、もう一つあまり知られていないが重要なものに、「互市」がある。明朝は儀礼をベースとした朝貢と貿易を一元的に結び付け、朝貢を行う属国にしか公式の貿易を認めなかったが、その結果倭寇による密貿易が横行し海域の治安が悪化した。そこで清朝は冊封・朝貢と抱き合わせた貿易体制を撤廃し、朝貢の儀礼抜きで通商のみの関係を取り結ぶ外交ルートを設けることにした。これがいわゆる「互市」である。よく知られているように、アヘン戦争後の南京条約以降、沿海部の開港都市において、欧米諸国との間に条約を通じた自由貿易が結ばれるようになる。ただし、それはあくまでも欧米の世界観による事実の解釈であり、清朝の側からすればそれらの自由貿易も、王朝が恩恵的に認める「互市」の枠組みの中で理解可能であった。

 本書の記述を借りれば、「清朝の対外秩序は、このように「全体として一つのシステムをなしたものではなく、各々の状況・情勢に応じて「二国間の関係」を「別個」に結ぶことで成り立っていた」。「それぞれは「藩部」「朝貢」「互市」という三つのカテゴリーに大別でき、各々併存しながらも、互いに関連を有していたわけではない。けれども個々の最終的な相手が、清朝皇帝ただ一人だということで、すべてが「束」ねられたように見えたのである。(414ページ)」。

 19世紀後半になると、欧米諸国との条約による開港と外国商品・銀貨・資本等の流入により、上記のような微妙なバランスを保っていた対外関係のうち、「互市」の部分が拡大しすぎて、漢語を通じた中華世界の秩序における建前との間に齟齬が生じるようになる。ただ、この段階ではあくまでも矛盾が大きくなってきたというだけで、旧来の秩序の決定的な崩壊には至らない。
 周辺国との関係において、それまでの中華世界の秩序が決定的に崩壊するきっかけになったのが、明治日本の近代化、そしてその後の琉球処分である。欧米諸国との間に結ばれた条約は、そもそも互市国との間に限られており、それは中華世界のその他の部分には無関係であるはずだった。それが日本との条約成立をきっかけとして、次第に朝貢国(属国)(琉球、ベトナム、朝鮮)そして藩部(モンゴル、チベット、新疆)に影響を及ぼすようになる。諸外国との間に条約を結ぶとき、通商だけでなく安全保障の観点が盛り込まれることで、これらの周辺部と清朝との関係性が、必ず問題になるようになったからである。

 その意味で象徴的なのが「宗主権(suzerainty)」と「主権(sovereignty)」をめぐる清朝の態度変更の経緯である。当初清朝は、琉球、ヴェトナム、朝鮮といった中華圏に属する朝貢国に対し、その帰属をめぐって日本や西洋諸国と交渉する際、それらは清朝の「属国」であり、実際の国家運営は現地政権の「自主」にゆだねられているとしても、外交・安全保障面では清朝の「保護」下にある、というロジックで臨もうとする。このことは、ウェストファリア的な条約の文脈では、清朝がそれらの「属国」に対し「宗主権」を主張する、ということを意味した。しかし、この「属国」への「宗主権」を通じた影響力の行使、という形での、旧来の国際秩序を維持する試みは、日清戦争での敗北と朝鮮(大韓帝国)の独立によって挫折を余儀なくされる。

 この「外交的敗北」への痛切な反省から、清朝は西方の藩部、すなわちチベット、(外)モンゴルについては、その帰属をめぐるイギリス・ロシアとの交渉の中で「宗主権」ではなく、「主権」を行使しうる「領土」であることを強く主張していくことになる。しかし、その当時の清朝政府にとって、チベットやモンゴルに対しそのような「主権」を主張できるような実体は何も存在しなかった。そこで、清朝、およびその版図を受け継いだ中華民国政府は外交上必要とされた「主権」の主張を「実体化」すべく、チベット、モンゴルに対する軍事的・政治的介入を強めていく。しかし、その支配の強化は当然のことながら現地政権の反発を招き、その「独立」志向、引いては英・露への外交的接近という事態を招くことになる。西方の「藩部」がこのようないびつな―現地の人々の意向を無視した―形で中国の「主権」「不可分な領土」と認識されたことは、その後もこれらの地域における中国政府の統治に影を落としていく。

 この10年ぐらいの情勢を振り返ってみても、東アジアの国際関係はチベットや新疆における宗教活動の締め付けとそれに対する反発、朝鮮半島情勢の不安定化、沖縄の基地問題をめぐる矛盾の深刻化、南シナ海における緊張の高まり、といったようにこれまでにない様々な火種を抱え、不安定さを次第に増してきている。もちろん、日本の安全保障をめぐる国内の議論もそれと連動する形で生じている(そのことが十分に意識されているかどうかはともかく)。このような不安定さは、もちろん直接的には冷戦の崩壊や中国の台頭、アメリカの相対的な地位の低下などによって引き起こされたものかもしれない。だが、本書の議論は、問題の根源はもっと深いところにあることを教えてくれる。少なくとも現在の中国政府の周辺地域に対する強硬な姿勢を理解するためには、19世紀以降の「瓜分」の歴史の中で清朝の指導者が何を考え、どのように事態に対処しようとしたのかに立ち入って考えてみる必要があるだろう。その意味では、本書は日本の外交や安全保障に関心のある人々にこそ熟読されるべき書物だと思う。