チャップリン&黒沢明・格安DVD販売訴訟決着。

最近、とんと知財関係判例のフォローを怠ってしまっている当ブログであるが、さすがにこれは大きい話なので、タイムリーに取り上げておくことにしたい。

「格安DVD販売をめぐり、喜劇王チャップリン(1977年死去)の映画「独裁者」など9作品の著作権の保護期間が継続しているかが争われた訴訟の上告審判決で、最高裁第1小法廷(宮川光治裁判長)は8日、「保護期間が継続している」との判断を示し、DVD制作会社の上告を棄却した。DVDの販売差し止めと約1000万円の損害賠償を命じた二審・知財高裁判決が確定した。」(日本経済新聞2009年10月8日付夕刊・第16面)

「黒沢明監督(1998年死去)の映画12作品の格安DVDを販売するDVD制作会社に対し、著作権を持つ東宝など3社が販売差し止めなどを求めた訴訟の上告審で、最高裁第1小法廷(宮川光治裁判長)は8日、制作会社側の上告を棄却する決定をした。販売差し止めなどを命じた一、二審判決が確定した。」(日本経済新聞2009年10月9日付朝刊・第38面)

これまで、当ブログでは、チャップリン作品をめぐる事件について、

第一審・東京地判平成19年8月29日
http://d.hatena.ne.jp/FJneo1994/20070914/1189784014
控訴審・知財高判平成20年2月28日
http://d.hatena.ne.jp/FJneo1994/20080319/1205981602

黒沢明監督作品をめぐる事件について、

第一審(東宝・角川)・東京地判平成19年9月14日
http://d.hatena.ne.jp/FJneo1994/20071001/1191176360
第一審(松竹)・東京地判平成20年1月28日
http://d.hatena.ne.jp/FJneo1994/20080211/1202749410

と、それぞれ取り上げてきた*1。


そして、いずれのエントリーにおいても、旧著作権法の解釈に則って、「監督個人=著作者」とし、監督個人の死後から存続期間の終期を起算した(そしてその結果として、権利者サイドを勝訴させた)判決の考え方に対してはは、ある種の疑念を投げかけていたつもりである。


だが、最高裁は、知財高裁までの流れを覆すことなく、それまでの裁判所の判断をほぼ追認した。


控訴審までの事実認定を前提として判断を下さざるを得ない最上級審の位置づけを考えると、当然に予想された結末、ということもできる今回の判決(及び決定)であるが、念のため、その中身を見ておくことにしたい。

最一小判平成21年10月8日(H20(受)889号)*2

本件における最大の争点は、著作物の保護期間の存続期間の終期を「映画監督個人の死後」から起算するのか(旧法3条)、それとも、「公表時」から起算するのか、という点にあった。


そして、控訴審段階になると、上記存続期間を判断する前提として、旧著作権法の下での「映画の著作物の著作者」が誰か(監督個人なのか、それとも映画製作者(法人)なのか)という問題についても、激しく争われるようになってきていた。


これに対し、最高裁は、旧著作権法下における「映画の著作物の著作者」の判断基準について、

「旧法の下において,著作物とは,精神的創作活動の所産たる思想感情が外部に顕出されたものを意味すると解される。そして,映画は,脚本家,監督,演出者,俳優,撮影や録音等の技術者など多数の者が関与して創り出される総合著作物であるから,旧法の下における映画の著作物の著作者については,その全体的形成に創作的に寄与した者がだれであるかを基準として判断すべきであって,映画の著作物であるという一事をもって,その著作者が映画製作者のみであると解するのは相当ではない。また,旧法の下において,実際に創作活動をした自然人ではなく,団体が著作者となる場合があり得るとしても,映画の著作物につき,旧法6条によって,著作者として表示された映画製作会社がその著作者となることが帰結されるものでもない。同条は,その文言,規定の置かれた位置にかんがみ,飽くまで著作権の存続期間に関する規定と解すべきであり,団体が著作者とされるための要件及びその効果を定めたものと解する余地はない。」(2-3頁、強調筆者、以下同じ。)

と判示し、「全体的形成に創作的に寄与した者が誰か」という実質的な著作者判定基準を採用することを明らかにしたうえで、

「これを本件についてみるに,上記事実関係によれば,本件各映画については,チャップリンがその全体的形成に創作的に寄与したというのであり,チャップリン以外にこれに関与した者の存在はうかがわれないから,チャップリンがその著作者であることは明らかである。」

と簡単に結論を導いている。


そして、続く存続期間の終期の起算点の問題については、

「旧法の下において,独創性を有する映画の著作物の著作権の存続期間については,旧法3〜6条,9条の規定が適用される(旧法22条ノ3)。旧法3条は,著作者が自然人であることを前提として,当該著作者の死亡の時点を基準にその著作物の著作権の存続期間を定めることとしている。しかし,無名又は変名で公表された著作物については,著作者が何人であるかを一般世人が知り得ず,著作者の死亡の時点を基準にその著作権の存続期間を定めると,結局は存続期間が不分明となり,社会公共の利益,法的安定性を害するおそれがある。著作者が自然人であるのに団体の著作名義をもって公表されたため,著作者たる自然人が何人であるかを知り得ない著作物についても,同様である。そこで,旧法5条,6条は,社会公共の利益,法的安定性を確保する見地から,これらの著作物の著作権の存続期間については,例外的に発行又は興行の時を基準にこれを定めることとし,著作物の公表を基準として定められた存続期間内に著作者が実名で登録を受けたときは,著作者の死亡の時点を把握し得ることになることから,原則どおり,著作者の死亡の時点を基準にこれを定めることとしたもの(旧法5条ただし書参照)と解される。そうすると,著作者が自然人である著作物の旧法による著作権の存続期間については,当該自然人が著作者である旨がその実名をもって表示され,当該著作物が公表された場合には,それにより当該著作者の死亡の時点を把握することができる以上,仮に団体の著作名義の表示があったとしても,旧法6条ではなく旧法3条が適用され,上記時点を基準に定められると解するのが相当である。」(3-4頁)

と、やや分かりにくい表現ながらも*3、「団体の著作名義の表示」如何にかかわらず、「真の著作者である自然人の実名の、『著作者としての』表示」があれば、旧法3条が適用される旨を判示しており、本件については、

「本件各映画は,自然人であるチャップリンを著作者とする独創性を有する著作物であるところ,上記事実関係によれば,本件各映画には,それぞれチャップリンの原作に基づき同人が監督等をしたことが表示されているというのであるから,本件各映画は,自然人であるチャップリンが著作者である旨が実名をもって表示されて公表されたものとして,その旧法による著作権の存続期間については,旧法6条ではなく,旧法3条1項が適用されるというべきである。団体を著作者とする旨の登録がされていることや映画の映像上団体が著作権者である旨が表示されていることは,上記結論を左右しない。」(4頁)

とした。


そして、これらの帰結として、当然に「本件各映画の著作権は,その存続期間の満了により消滅したということはできない」という判断に至ったのである。


なお、チャップリン、黒澤事件以前に一世を風靡していたシェーン事件最高裁判決*4との関係については、

「所論引用の最高裁平成19年(受)第1105号同年12月18日第三小法廷判決・民集61巻9号3460頁は,自然人が著作者である旨がその実名をもって表示されたことを前提とするものではなく,旧法6条の適用がある著作物であることを前提として平成15年法律第85号附則2条の適用について判示したものにすぎないから,本件に適切でない。論旨は採用することができない。」(5頁)

と、単に「事案を異にする」とした知財高裁とは異なる、巧みな表現で切り返しており、この辺にも最高裁の叡智(悪く言えば狡さ(笑))を見てとることができる*5。

最高裁判決に思うこと。

以上のとおり、最高裁は、著作者の判定、名義の表示の解釈(→適用する旧法規定)のいずれについても、実質的な判断基準を採用した。


「全体的形成に創作的に寄与した者は誰か」、「それが映画においてどのように表示されているか」ということに関しては、よほどのことがなければ原審までの事実認定を覆しようがない、というのが最高裁の宿命だし、「チャップリン」という稀代のエンターテイナーが主役になっている本件事案に関して言えば、著作者は誰が見ても「チャップリン」というほかないから、上記のような基準によったとしても、法的安定性は一応確保できる*6。


それゆえ、本件の結論そのものに関して言えば、最高裁にそうそう難癖を付けるわけにはいかない。


だが、「実質的判断」という基準による限り、どうしても素人目には判断できない場合というのは出てきてしまう。


映画における表示の問題ひとつとっても、「総監督」、「監督」、「総合監修」等々、大人の事情ひとつで、一見して誰が「著作者」か分からなくなるような事態は生じ得るのだ*7。


「「監督」の名義が付された自然人は当然に「著作者」となり、その死亡時が存続期間の終期の起算点になる」というルールでも立ててくれていれば、まだ実務的には動きやすかったと思うのだが、全面的に「実質的判断」ということになると、いかにも危うい。


権利関係の明確化、著作物の円滑な利用促進、という観点から、現行法の法人著作要件(15条1項の「(法人等の)自己の著作の名義の下」要件)を形式的に解する見解*8が唱えられていること等とも考え併せると*9、もう少しいろいろな場面を想定して規範を立ててくれた方が、有難かったなぁ・・・というのが、率直な感想である。


現在の著作権の下では既に解決している問題だとはいえ、一体この先何年、チャップリン&黒澤映画&同時代の映画作品の著作権が延びていくのか、ということは、誰にも分からないのだから・・・。

*1:本当は、黒澤監督の事件は知財高裁の判決まで出ているのだが、フォローし切れていない・・・。

*2:宮川光治裁判長、http://www.courts.go.jp/hanrei/pdf/20091008110546.pdf

*3:「自然人が著作者である旨がその実名をもって表示され」ている場合、というのが具体的にどういうものなのか、一読しただけで理解するのは困難であろう。これに続くあてはめ部分等から推測して善解するなら、「全体的形成に創作的に寄与した自然人の名前が、著作物のどこかに、然るべき「肩書」とともに出てきていること」を意味する、といったような理解になると思うのであるが・・・。

*4:http://d.hatena.ne.jp/FJneo1994/20071218/1198021113参照。

*5:端的にいってしまえば、シェーン事件で問題になった作品も、チャップリン事件で問題になった作品の一部も、監督以外の「団体」名義の著作物として登録、公表されていた、という点においては事案は全く同じである。シェーン事件の審理の際に、裁判所がチャップリン事件において原告が主張したような法律構成をどの程度意識していたのかは分からないが・・・。

*6:著作名義が団体の名義になっていたとしても、念のためチャップリンの死亡年を確認して、存続期間の有無を照会させるような手間をユーザーに負わせることは、決して不当とはいえないだろう。

*7:その意味で、チャップリンよりもより難しい判断になる可能性があった黒澤明作品の事件が「決定」で終わってしまったことは残念なことと言わざるを得ない。

*8:田村善之『著作権法概説』[第2版](有斐閣、2001年)383-386頁

*9:筆者個人の見解は必ずしもこれと一致しているわけではないが。

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