朝のコーヒーと練習後のコーラ、RDR2とシェンムー

面倒くさい日常が成し遂げたこと

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『レッド・デッド・リデンプション2』で僕が何よりも楽しめているのは朝のコーヒーの時間です。

激しい銃撃戦、伝説の動物の狩り、銀行強盗、汽車の略奪、馬で西部アメリカを駆け巡る。これだけで自由度が高く、さまざまなアクティビティが用意されているゲームなのに、1番好きなものはコーヒーを飲むという地味なインラクションですって? はい、そうです。だって、僕はシェンムー脳だもん。

現実世界で体験できないことがゲームでやりたいという欲求もわかる。でも僕は逆に現実世界でもできることがやりたい。まあ、かく言う僕も、コーヒーは苦くて好みじゃないし、飲み物は氷でキンキン冷えたものに限ると思っているので、現実世界でできないことをやっていることに変わりはない。でもちょっとベクトルが違いますね。それは認めます。

ロックスターのゲームほど世界的に絶賛されているものはほとんどない。だけど、『GTA』シリーズや前作『RDR』の魅力を理解できても、個人的にあまり楽しめなかった。暴力を前提としたインタラクション、自由にハチャメチャできるゲーム世界。ロックスターの作る膨大なオープンワールドは確かに随一の作り込みを誇るものだけど、それはプレイヤーのために都合よく作られた世界でした。よく言えばサービス精神たっぷりで、現実世界の面倒な部分が適度に割愛されていた。しかし、リアリティを作り出すのに「面倒くさい日常」は必須の材料だ。『シェンムー』が20年前に教えてくれました。

だって、『シェンムー』は「面倒くさい日常」の世界チャンピオンだもの。

「面倒くさい日常」なら『RDR2』にはたくさんあります。まず、ゲームを始めると気づくのは、主人公アーサーの動きが鈍いこと鈍いこと! 馬を駆けるにしても、とにかく移動に時間がかかる。馬を呼び出す場合、昨今のオープンワールドでは馬がひょっとプレイヤーの後ろからすぐさま現れるし、『ゼルダの伝説 ブレス オブ ザ ワイルド(以下、BotW)』ではなんとテレポートしてくれます。便利な時代になったものです。でも『RDR2』ではそうはいかない。馬が本当にいた場所からやってくるので、待たされてしまうことが割とあるし、遠すぎると馬には聞こえないので、大変な目に遭うこともしばしば。こんな理不尽なゲームをよく世界のメディアが大絶賛してくれたものだと、正直驚いています。それなら『シェンムー』をもっと評価してくれよ、とも思ってしまう。だって、『シェンムー』は「面倒くさい日常」の世界チャンピオンだもの。


もちろん、僕は理由もなしにただ単に「面倒くさいものが好き」というわけではありません。

呼んだ馬がやっと現れて、目的地まで10分くらい、西部アメリカの大自然を駆ける。到着して、馬を縄でつなぎ木に繋ぐ。ここが大事です。ほとんどのゲームで、馬を停める場所など考えもせずに適当に降りるだろう。弊誌今井のように、馬をまだ全速力で走らせているのに飛び降りる人もいるくらいですから。

リアルなアニメーションでアーサーが縄を引いてつなぎ木に掛ける。早くしてほしい気持ちもわからないでもない。でも、縄で繋いだその感覚がプレイヤーの肌に伝わり、僕はまるで手に少し泥がついたような気がしてしまったのである。そして手に泥がついた感覚は、それまでの旅路で見た美しい西部アメリカの景色やそこで暮らす人々にさらなる説得力を与えていった。かつて、芭月涼が横須賀市でバスにいちいちコインを投入して、帰宅すると靴を脱いだのと同じように。細かいディテールを丁寧なアニメーションで描くのは『RDR2』と『シェンムー』が共通しているポイントで、そうすることで他のゲームでは到底かなわないリアリズム、言うなれば手に取れるような日常が作り出されている。


『BotW』のデザイン哲学はこれらと対照的だ。弊誌で掲載している「『BotW』で犬を撫でることができない理由」というインタビュー記事を読んでみてほしい。

「BotWは自由になんでもできるようで、実は限られた数のアクションを組み合わせることでいろんなことのできるゲームなんです。犬を撫でるという動作はそれだけのために存在するものになってしまい、他ではあまり使えないです。それはBotWの作り方やそのデザイン哲学とは合わないものでした。今回はできるだけ少ない数のアクションを組み合わせることでいろんなことができるというコンセプトだったので」と任天堂の藤林秀麿氏は説明したのです。


ところが、涼がガチャガチャのレバーを回したり、冷蔵庫を開けたり、単3電池をコンビニの商品棚から取ったりするアニメーションはそのシチュエーションでしか使えないものだし、アーサーがキャンプの寄付箱にお金を入れたり、シチューをお皿に装ったり、動物の革を剥いだりするアニメーションもしかりだ。

正直に言おう。ゲームプレイの面白さに関して言えば、『RDR2』と『シェンムー』は『BotW』にまったくもってしてかなわない。次元が違う。豊富なアニメーションはゲームプレイのために働いているというよりはむしろ、ゲームを遅らせているのだし。

セガの生放送で、『シェンムー』のプランニングディレクターを務めた笠原英伍氏は言った。

あなたの手に泥がついてしまうこともある、面白さが平気でリアリティの犠牲にされるような世界。

「ゲーム的に『面白い! こういう風に作りたい!』と言ったとしても、『リアリティがない』と言われた時点でNGになってしまう」と当時の開発方針を紹介してくれている。普通に聞いたら驚くような発言だが、『シェンムー』を遊んだことのある人なら「やっぱりね」となるわけです。

本来、ゲームは面白さが大前提にあるはずだが、『シェンムー』に限ってはそうではなかったのだ。そして、同じことが『RDR2』についても言えるんじゃないかと僕は思います。

「あのアメリカ西部はもう、ロックスターのサービス精神たっぷりのおもちゃ箱ではない。あなたの手に泥がついてしまうこともある、面白さが平気でリアリティの犠牲にされるような世界なのです」

このようなキャッチコピー、悪くないと思うのだけど、さすがに公式宣言できることではない、か。

ところで、先日は弊誌千葉と一緒に『JUDGE EYES』の実況プレイをやった。そこで千葉は僕のプレイスタイルに驚いたという。僕は1つひとつの空間やオブジェクトを凝視するし、移動は「走る」のではなく「歩く」ことについても違和感を覚えたらしい。これもまた、シェンムー教育なんでしょうね。


涼はかなりたくさんのオブジェクトを手に取れるし、『シェンムー』はとにかくインタラクションの豊富なゲームだから、他のゲームでもついつい物事を細かく見る癖がついてしまった。環境へのインタラクションは、その後に『Gone Home』のようなウォーキングシミュレーターや『HEAVY RAIN』に『Life is Strange』といったアドベンチャーゲームが引き継いで、それをストーリーテリングの道具として利用するようになりましたね。

「走る」よりも「歩く」で思い出すのは、『シェンムーII』をドリームキャストで遊んでいた頃のエピソードです。太老街という(ゲーム内の)香港の地区のある階段を降りていると、涼が通り過ぎる飛行機を見上げるシーンがときどき発生する。僕は当時からインターネットで他のシェンムーファンと隠し要素を報告し合っていたが、僕のように飛行機のシーンをしょっちゅう見る人と、見たことがないという人がだいたい半分ずつでした。その原因とは何か、当時は誰にもわからなかった。一部のディスクだけに仕込まれたシーンなのかもしれない、とまで推測を立てた記憶があります。でももちろんそうではなかった。

ずっと後になって、理由が判明した。飛行機のシーンは、走っていると絶対に見られないのです。このシーンはプレイヤーに、急がないでゆっくりと歩くことを推奨しているように、僕には感じた。そりゃ確かに、忙しく走り回っていると飛行機が通り過ぎることにいちいち気がつかないよね。だから僕は歩くんです。アーサーみたく不便なところまでリアルな歩き方をするキャラクターは大好きだし、『RDR2』のキャンプで走れない仕様も当たり前だと思ってしまいます。

キャンプで言うと、これもまた『シェンムー』と重ねてしまう自分がいる。キャラクター1人ひとりに個性があって、時間帯によって違う行動をとり、物語の進行と合わせて台詞も変化します。その作り込みは横須賀市の住民とよく似ている。『RDR2』の膨大なオープンワールドでそれをすべてのNPCに対してできない変わりに、キャンプという小さなコミュニティをとことんと作り込んだのはまさに鈴木裕さんが考えそうなことだ。『シェンムーII』でも通常のNPCを前作のように作り込む余裕がなくなったわけだが、白鹿村も似たような「作り込まれた小さなコミュニティ」になるはずだったのだろう。それは莎花とのインタラクションですでに少し始まっていたように思う。あっ、『シェンムーII』をクリアした人にしかわからない比較ですみません。

冒頭の、コーヒーの話しに戻るとしよう。

『シェンムー』では横須賀や香港の街角のところどころに自動販売機が配置されていた。ゲームのシステム上は基本的に意味をなさないのだが、コインを投入して好きなものを選び、涼がコーラだのファンタだの飲み干すところを見守ることができる。もちろん、コーヒーだってある。公園で武術の修行をして、僕は一汗を流したところで決まって自動販売機で涼にコーラを飲ませるようにしている。缶の冷たいスチールが、汗で湿った手に収まる感触が『RDR2』の泥のように伝わると、僕は今でも感動してしまう。今から17年ほど前、僕はオランダ人のごく普通の中学生だった。でも、初めて涼としてコーラ缶を手に握りしめると何かが変わった。

前日、涼の声優・モーションキャプチャーを担当した松風雅也さんに聞いた話だが、同じ「ジュースを飲む」でも、飲み物ごとに違ったボイスを収録したらしい。特に炭酸系の飲み物はなかなかOKが出ず、何回もやりなおされたとか。ちょっとついていけないところまでこだわっちゃってますが、だからこそ僕みたいな少年に日本を見せることができたのだと思う。

飲み物や食べ物の摂取は『RDR2』が『シェンムー』よりもさらにうまい。ステータスなどで意味をつけている部分について言っているのではない。とにかく、20年も経過すればアニメーションやグラフィックスが可能にしてくれたリアルな描写は桁違い。コーヒーからほどよい湯気が出て、それが霧のフォグ演出とまた違ってみえるのだからすごいの一言です。薬缶からコップに注いだり、啜って飲んだりするアニメーションも絶品。そして、何よりも感動してしまうのは、コーヒーを飲み歩きできてしまう点だ。朝のコーヒーを手にキャンプをほっつき歩いて、仲間に「おはよう!」と声をかけながら少しずつコーヒーが飲めるゲームとか、鈴木裕さん以外の誰かが思いついてくれるとは!

問題を起こしてしまい、キャンプが湖に面した場所に移動してから、僕はまたちょっと違ったコーヒーの飲み方をするようになりました。起床して、コーヒーを注いでから誰にも挨拶せずに湖の畔まで歩き、桟橋に上がって、朝もやに包まれた湖をボーッと眺めながら飲むようにしている。孤高なアーサーにぴったりの飲み方だと思いませんか?

服に汚れがつき、酒場のバーテンダーが自分の顔を覚えてくれるともなれば、カウボーイがかつて実在したことを信じるしかない。

『RDR2』をプレイして、31才の僕はさすがにこれをきっかけにカウボーイになったりしないと思う(たぶん)。でも、アメリカ西部にかつてカウボーイやアウトロー、それから保安官に賞金稼ぎがいたという事実が初めて伝わった。映画や漫画で見たカウボーイ物語はただのフィクションだった。しかし、服に汚れがつき、酒場のバーテンダーが自分の顔を覚えてくれるともなれば、信じるしかない。……あっ、そこでひとつ思い出した。

酒場などで騒ぎを起こして、再度訪れるとバーテンダーに怒られて感動したというあなた。『シェンムー』ファンとして言わせていただこう。


「10年どころか、20年早いんだよ!!」

……まあ、あくまでスクリプトされた場面だけどね。

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