どうして図書室にお金が流れないのか

asahi.com:学校図書館の図書購入費、2割強44億円が別の用途に - 社会(魚拓)

 公立小中学校の図書館の図書購入費として国が07年度、各自治体に財政措置した約200億円のうち、2割強の約44億円が他の目的に使われたとみられることが21日、文部科学省の初の調査でわかった。一般財源として一くくりで受け取るため目的外に使っても罰則はないが、文科省は「本は、調べ学習や、こころの教育にもつながる。本来の目的に使って欲しい」と、近くホームページで各自治体の予算措置率を公表し、取り組みを促す。

福田誠治先生(@都留文)が聞いたら嘆きそうなニュース。これだから日本の読解力は…という声が聞こえてきそうなニュースだが、ではどうしてこんなことが起きてしまうのか、多分他の人よりは現場の様子にいくらか通じてる者として、思うことをいくつか。


まず、大規模校などで学んだ方はご存じないこととして、中小規模の学校には長らく司書がいなかった、ということをまずあげておく。参考までに国の政策のかんたんなまとめ(秋田県の高校図書館=全国の状況があわせて書いてあり見やすい)。学校図書館法で司書を於かなければならないが「当分の間、おかないことができる」から始まった戦後の司書の位置づけ。その後中高では6クラス×3学年規模以上の学校(中規模)には段階的に配置が進みましたが、最終的に小規模校にまで予算措置ができず、苦し紛れに国は「司書教諭」の資格を一般教科の教師に取らせ、「司書教諭を配置する(司書教諭の資格を持った人間がいるようにする)」というやり方で名目だけ乗り切ることにした。かといって、その分の教師を加配したわけではないので、ただ司書教諭の資格「も」もっている教師がいる「だけ」であり、専門で図書室を運営できる人が配置されているわけではない(だから、そういう所では、基本的に図書室は放課後も含め開放されていない)。


さらにもっとひどいことに、中規模校でも司書がいないことがしばしば…という状況が長かったことから、司書として雇われているはずの人が事務室で事務を執り行っていることも田舎の学校ではしばしば見られる光景だ。本をそろえても誰も利用しない→図書室でぼーっとするだけでヒマ→じゃあ事務が忙しいから手伝って、となるわけで、これは学校図書室をきちんと利用できない教諭にも責任の一端がある。いずれにせよこのような状況で、「図書費の管理運営に関して、権力と責任をもって執り行う中心者の不在」が常態化し、必然的に図書費は削られていく。


だが所詮それも2割であって、図書の購入に用いられた8割のお金は適切に運用されているといってよいかというと、残念ながらそこにも問題がある。上記のような事情のもとでは、図書の購入に関する権限を持っている人間にそもそも読書習慣が無い、などという恐ろしいことが平気で起こりうる。そんな人間が適切に書籍を判別し購入などできるわけがない。そんなわけで大抵の場合上記の8割のお金も「生徒と教師の希望に沿って」愚にもつかない趣味関係のムック、ビジネス本、あとはせいぜいマンガを買うのが関の山。たき付けにするしかないような絵入りの「児童向けよみもの」やらハリーポッターでも買うなら、まだしもマシという程度。文科省が期待するような「調べものに使える本」やら「読むべき教養」、あるいは体系づけられた知的資産や残す価値のある財産としての書物、地元関係の研究資料や紀要など、どこを探しても見あたらない、ということになる。


結局の所、大人がまず本を読まないのが最大の問題だ。本を読むことの楽しさや価値を理解していない大人に取り囲まれているのに、本だけ与えれば子どもが本を読むだろうなどというのは妄想も甚だしい。子どもを本好きにしたいなら、図書室というハードもさることながら、まず教師をはじめ大人に本を読ませるために何が必要か考えるべきだ。総合学習のような『やりっぱなし』の政策にとどめるのではなく。