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中佐

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
2等空佐から転送)

中佐(ちゅうさ)は、軍隊の階級の一。佐官に区分され、大佐の下、少佐の上に位置する。北大西洋条約機構の階級符号では、OF-4に相当する。

  • 陸軍では主に大隊長副連隊長等を務める。また、現在では連隊を廃し旅団編制を基本とする傾向にあり、旅団長を大佐職とする国では副旅団長を務めている。
  • 海軍では主に駆逐艦やフリゲートのような中小規模の軍艦艦長や巡洋艦以上の大規模艦船の副長等を務める。
  • 空軍では主に飛行隊長等を務める。

歴史

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陸軍中佐

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欧米で中佐を指す“Lieutenant Colonel(英語、フランス語)”や“Oberstleutnant(ドイツ語)”は、“Colonel或はOberst(いずれも大佐・連隊長を意味する) の代理”という意味である。かつて大佐(連隊長)は自費で連隊を編成・維持していたため、能力や経験に関係なく、財力のある貴族が就任していた。そのため、少尉から叩上げた[注釈 1]、経験豊富な軍人が中佐となって連隊長を補佐し、場合によっては連隊の実務一切を取り仕切っていた。またイギリスでは、ジェントリー出身者が自費で連隊を立ち上げた場合、連隊長には任命されるが、最初に与えられる階級は中佐だった。

海軍中佐

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各国の呼称

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日本

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旧日本軍

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版籍奉還の後、1870年10月12日(明治3年9月18日)に太政官の沙汰により海陸軍大佐以下の官位相当を定めたときに海陸軍大佐の下、海陸軍少佐の上に海陸軍中佐を置き従五位相当とした[1] [注釈 2] [注釈 3] [注釈 5] [注釈 6]。 明治3年11月には太政官による海軍中佐の任官の例が見られる[注釈 8]

廃藩置県の後、明治4年8月[注釈 9]の官制等級改定[22]及び兵部省官等改定[23] [注釈 10]や明治5年1月の官等改正[31]及び兵部省中官等表改定など数度の変更があり[23] [注釈 11]、明治5年2月の兵部省廃止及び陸軍省海軍省設置を経て[33][注釈 12]、明治6年5月8日太政官布達第154号[35] [36]による陸海軍武官官等表改正で軍人の階級呼称として引き続き用いられ[注釈 17]西欧近代軍の階級呼称の序列に当てはめられることとなった[注釈 5] [注釈 18]

大日本帝国陸海軍の中佐並びに同相当官は高等官四等相当とされ、勲六等乃至三等に叙せられ、武功著しい場合は功四級乃至二級の功級に叙せられ金鵄勲章を授与された[46]

自衛隊

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陸海空共通して二佐 / 2佐(にさ)と略称される。2等陸佐・2等空佐の階級章は、2本線の上に桜星2つが並ぶ形状である。2等海佐の階級章は、金線3条に桜である。

陸上自衛隊においては、編制上1佐を長とする連隊・群等における副隊長等や駐屯地業務隊長職、大隊長・補給処支処長や方面・師団対戦車隊長、陸上総隊直轄部隊の教育隊長(水陸機動団水陸機動教育隊長)・職種学校(高射学校情報学校航空学校施設学校システム通信・サイバー学校武器学校需品学校衛生学校化学学校)の教導隊長、幹部候補生学校の候補生隊長・教導隊長他、司令部(陸上総隊・方面総監部)の課長・長等に就いているのが一般的である。一部において1佐(三)の補職(方面混成団陸曹教育隊長・団本部(第1空挺団水陸機動団第1ヘリコプター団システム通信団第1特科団高射特科団施設団富士教導団)の高級幕僚等)に就く場合もある(1佐(三)に昇任予定の2佐)。警察における所属長たる警視に相当し、中央官庁の本省課長補佐に相当する[47]

諸外国

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アメリカ合衆国
イギリス
フランス
ドイツドイツ連邦軍
  • 陸軍空軍Oberstleutnant (オーベルストロイトナント)
  • 海軍Fregattenkapitän (フレガッテンカピテン[注釈 19]
イタリア
中華人民共和国人民解放軍
中華民国
大韓民国
  • 中領
朝鮮民主主義人民共和国朝鮮人民軍
  • 中佐

有名な中佐

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  • 橘周太 - 大日本帝国陸軍中佐(少佐。戦死後中佐に昇進)、日露戦争の軍人
  • 加藤建夫 - 大日本帝国陸軍中佐(戦死後少将に昇進)、加藤隼戦闘隊
  • 瀬島龍三 - 大日本帝国陸軍中佐、大本営参謀、元伊藤忠商事会長
  • 西竹一 - 大日本帝国陸軍中佐(戦死後大佐に昇進)
  • 辻政信 - 大日本帝国陸軍中佐(最終階級は大佐)。『作戦の神様』の異名を持ち、ノモンハン・ガダルカナルなどの戦いを参謀として指導。戦後は衆議院議員・参議院議員を歴任した。
  • 油井亀美也 - 宇宙飛行士。元航空自衛隊2等空佐(中佐相当)
  • 岩崎貴弘 - 曲技飛行家。元航空自衛隊2等空佐(中佐相当)

脚注

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注釈

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  1. ^ 次男・三男といった財産を相続できない貴族の子弟や下級貴族のように、貴族ではあるが資産のない者が士官候補生から少尉になり、経験を積んで中佐まで昇進していった。また、少数ではあるが、平民出身で下士官・兵から少尉になり、中佐まで昇進する者もいた。
  2. ^ 法令全書では布達ではなく「沙汰」としている[2] [3]。また、第604号はいわゆる法令番号ではなく法令全書の編纂者が整理番号として付与した番号[4]
  3. ^ 1870年7月19日に普仏戦争が始まったことから、太政官は局外中立を徹底するために同年8月21日(明治3年7月25日)に赤塚源六中島四郎中牟田倉之助の3人に当分小艦隊指揮を命じて主な条約港の守衛と兼ねて海岸を護らせることにしたが[5]、兵部省が弁官宛に上申していた海陸軍大佐以下の官位相当表が未だに決定されていなかったことから、同年8月24日(同年7月28日)に兵部省は官位相当表を急ぎ決定するように催促した[6]。太政官は明治3年7月 (旧暦)に小艦隊指揮は従六位相当と定め[7]、同年9月 (旧暦)に海陸軍大佐以下の官位相当表を決定した。
  4. ^ 1870年6月1日(明治3年5月3日)には、横須賀長崎横浜製鉄場総管細大事務委任を命ぜられた民部大丞山尾庸三に対して、思し召しにより海軍はイギリス式によって興すように指示している[8]
  5. ^ a b 1870年10月26日(明治3年10月2日)に海軍はイギリス[注釈 4]、陸軍はフランス式を斟酌して常備兵を編制する方針が示されている[9]
  6. ^ 中佐は中国の古典語には存在せず清末以前の文献からも見つけられないため、日本語による造語である可能性が高いと推測される[10]。 荒木肇は、律令制の官職名が有名無実となっていたことを踏まえて、名と実を一致させる。軍人は中央政府に直属させる。などの意味合いから衛門府・兵衛府から佐官の官名を採用したのではないかと推測している[11]
  7. ^ a b c d 初めて任官するときにあってはすべて本官相当の2等下に叙位することになっていたため、従五位相当の中佐は2等下の従六位を叙位した[13]
  8. ^ 明治3年11月調べの職員録では、海陸軍の中佐として掲載されているものはまだ一人もいなかったが[12]、1871年1月7日(明治3年11月27日)に中島四郎と赤塚太郎を海軍中佐に任じており、そのときの沙汰では海軍中佐に任じてから中島海軍中佐や赤塚海軍中佐に従六位を叙位し[注釈 7]、翌日の1871年1月8日(明治3年11月28日)に中島海軍中佐に龍驤艦艦長を命ずる辞令を出しており、海軍中佐の階級と従六位の位階[注釈 7]と艦長の職とをそれぞれ区別している。ただし、赤塚太郎は不肖の身を以て海軍中佐の辞職を願い出ている[14]。 なお、1871年1月23日(明治3年12月14日)に中牟田倉之助を海軍中佐に任じたときは、海軍中佐の任官と従六位の叙位[注釈 7]は同じ辞令で行われた[15]。ただし、同日に中牟田倉之助の海軍中佐への任官は差し戻しとなり[16]、1871年4月3日(明治4年2月18日)に改めて海軍中佐中牟田武臣(倉之助)を兵学権頭に任じた[17]。明治4年4月調べの職員録では、海軍の中佐として中島佐衡(従六位守朝臣佐衡)が掲載されており、陸軍の中佐として掲載されているものは一人もいない[18]。なお、明治4年6月調べの職員録では、海陸軍の中佐は調査されておらず掲載されていない[19]
  9. ^ 陸軍では服役年の始期は明治4年8月を以って始期とするため、その以前より勤仕の者であったとしても総て同月を始期とした[20]。 海軍では服役年の始期について、准士官以上は明治4年8月以前は服役年に算入しない[21]
  10. ^ 1871年10月3日(明治4年8月19日)に赤塚真成を海軍中佐に任じた。このときの達では先ず赤塚真成を海軍中佐に任じ、海軍中佐赤塚真成に海兵を徴募するため東京丸へ乗組出張を命ずる辞令を個別に出しており、海軍中佐の階級と海兵徴募の職務を区別している[24]。 1871年11月15日(明治4年10月3日)付で海軍少佐の近藤真琴を海軍中佐兼兵学中教授に任じた[25]。 1871年12月31日(明治4年11月20日)に海軍少佐の柳楢悦を海軍中佐に任じ[26]、同じく海軍少佐の石井忠亮を海軍中佐に任じた[27]。 陸軍では廃藩置県があった明治4年7月や官制改定があった明治4年8月よりも後に陸軍中佐の任官が増えており、1871年11月1日(明治4年9月19日)に従六位[注釈 7]林清康と田中春風を陸軍中佐に任じた[28]。 明治4年12月調べの職員録には、海軍中佐の伊東祐麿、海軍中佐の真木長義、海軍中佐兼兵学中教授の近藤真琴、海軍中佐の柳楢悦、海軍中佐の石井忠亮、また、陸軍中佐の林清康、陸軍中佐の田中春風が掲載されている[29]。明治5年5月調べの官員全書(陸軍省武官)には、明治4年11月任陸軍中佐の大築尚志、明治4年10月任陸軍中佐兼兵学助の池田安正、明治4年12月任陸軍中佐の石井邦猷、明治4年12月任陸軍中佐の白戸隆盛、明治4年12月任陸軍中佐の高橋勝正、明治4年12月任陸軍中佐の武田成章、明治4年12月任陸軍中佐の小沢武雄が掲載されている[30]
  11. ^ これまでの順席では海軍を上、陸軍を下にしていたが、1872年2月28日(明治5年1月20日)の官等表から陸軍を上、海軍を下に変更した[32]
  12. ^ 明治5年5月調べの官員全書(陸軍省武官)には、陸軍中佐として林清康の他10人が掲載されており、明治5年正月任陸軍中佐の揖斐章、明治5年正月任陸軍中佐の品川氏章が加わった[30]。明治5年5月調べの官員全書(海軍省)には、海軍中佐として近藤真琴の他4人が掲載されており、明治5年正月任海軍中佐の河野通義、明治5年3月任海軍中佐の田中義廉、明治5年3月任海軍中佐の本山漸が加わった[34]
  13. ^ a b 明治3年に練兵天覧のため諸藩の兵を合併して連隊を編制する事になり[40]、1870年4月25日(明治3年3月25日)は高橋熊太郎、布施保に連隊司令を命じている[41]。また、明治3年10月には兵部省で歩兵連隊を編制している[42]
  14. ^ 中佐心得はその本官の職を取る。本官とは、大中佐は連隊長の職を取る[39] [注釈 13]
  15. ^ 准中佐並び職務は前項の中佐心得に等しいもの[39]
  16. ^ 准席はすべてその官相当の職を取っていたもの。即ち中佐は連隊長[39] [注釈 13]
  17. ^ 1873年(明治6年)5月以前に用いられた各種名義の軍人について、当時の官制に於いて規定した明文がないものの、例えば心得、准官のような名義の者であっても当時は戦時に際して上司の命令を以て実際に軍隊・官衙等に奉職しその任務を奉じたことから、明治25年5月に陸軍大臣の請議による閣議に於いてこれらを軍人と認定しており[37] [38]、これらのうち中佐に相当するものには明治3・4・5年の頃の中佐心得[注釈 14]、明治2・3・4年の頃の准中佐並び職務[注釈 15]、明治2・3・4年の頃の中佐准席[注釈 16]などがある[43] [39] [38]
  18. ^ 1872年2月20日(明治5年1月12日)に兵部省が定めた外国と国内の海軍武官の呼称によるとジューニヲル・ケプテインを中佐に対応させている[44][45]
  19. ^ a b c 直訳は「フリゲート艦の艦長」。

出典

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  1. ^ ウィキソース出典 太政官『海陸軍大中少佐及尉官及陸軍曹長權曹長ヲ置ク』。ウィキソースより閲覧。 
  2. ^ 内閣官報局 編「第604号海陸軍大中少佐及尉官及陸軍曹長權曹長ヲ置ク(9月18日)(沙)(太政官)」『法令全書』 明治3年、内閣官報局、東京、1912年、357頁。NDLJP:787950/211 
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  11. ^ 荒木肇陸軍史の窓から(第1回)「階級呼称のルーツ」」(pdf)『偕行』第853号、偕行社、東京、2022年5月、2023年11月12日閲覧 
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参考文献

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関連項目

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