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高坂昌澄

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
 
高坂昌澄 / 春日昌澄
時代 戦国時代
生誕 天文20年(1551年
死没 天正3年5月21日1575年6月29日
別名 源五郎(通称)、昌宣・信秀(別名)
主君 武田信玄勝頼
氏族 高坂氏(香坂氏・春日氏
父母 父:春日虎綱(高坂昌信)
兄弟 昌澄春日信達(高坂昌元)、昌定
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高坂 昌澄(こうさか まさずみ)は、戦国時代の武将。甲斐国武田氏家臣。『乾徳山恵林寺雑本』では実名を「昌澄」としているが不明。

略歴

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甲斐武田家の家臣

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天文20年(1551年)、譜代家老・春日虎綱(高坂昌信)の長男として生まれる。父と共に武田信玄武田勝頼に仕えた。

長篠の戦い

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信長公記』『甲陽軍鑑』に拠れば、天正3年(1575年)の三河遠征では、越後国上杉謙信の抑えとして出陣できない父の代理として出陣し、5月には長篠城を攻囲した(長篠の戦い)。

籠城する奥平軍の抵抗は頑強で早期陥落を果たせず、織田信長徳川家康の長篠城救援軍到達を許してしまう。武田軍総大将の勝頼は、織田・徳川の後詰軍との決戦を採択。籠城軍への警戒に若干の軍勢を残し、主戦力を設楽原へ移動させた。昌澄は警戒軍として長篠城の西岸・有海村での待機を命ぜられている。

決戦日の5月21日には、信長が派遣した家康の家臣・酒井忠次率いる織田・徳川連合軍の別働奇襲隊によって長篠城の南岸警備軍(鳶ヶ巣山の守備隊)が壊滅。奇襲隊は昌澄の有海村駐屯軍へも襲い掛かった。昌澄は抗戦するが兵数で圧し潰され、戦死した。