青山忠朝
表示
時代 | 江戸時代中期 |
---|---|
生誕 | 宝永5年7月16日(1708年8月31日) |
死没 | 宝暦10年7月15日(1760年8月25日) |
改名 | 七三郎(幼名)、忠朝 |
別名 | 刑部(通称)、幸堅、忠知 |
戒名 | 隆興院殿真空紹観大居士 |
墓所 |
兵庫県丹波篠山市東岡屋の幡竜庵 東京都品川区北品川の東海寺 |
官位 | 従五位下・伯耆守、因幡守、従四位下 |
幕府 | 江戸幕府 奏者番、寺社奉行、大坂城代 |
主君 | 徳川吉宗、家重、家治 |
藩 | 丹波亀山藩主、丹波篠山藩主 |
氏族 | 青山氏 |
父母 |
青山幸督、角田氏 青山俊春 |
兄弟 | 幸秀、忠朝、幸能 |
妻 | 榊原政邦娘 |
子 | 忠高 |
青山 忠朝(あおやま ただとも)は、江戸時代中期の大名・大坂城代。丹波国亀山藩3代藩主、丹波篠山藩初代藩主。官位は従四位下・因幡守。青山家宗家15代。
生涯
[編集]宝永5年(1708年)、摂津国尼崎藩3代藩主・青山幸督の次男として誕生した。
享保15年(1730年)、本家である丹波亀山藩の2代藩主・青山俊春が嗣子なく没したため、養子に入る。同年、従五位下・伯耆守に叙任された。延享元年(1744年)に奏者番となり、延享3年(1746年)、因幡守に叙せられる。
寛延元年(1748年)8月3日、松平信岑と入れ替わる形で丹波篠山藩に転封、同日寺社奉行に任ぜられた。
宝暦8年(1758年)に従四位下に昇叙。同年11月28日、大坂城代となる。
宝暦10年(1760年)、死去。享年53。跡を養子の忠高[注釈 1]が継いだ。