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院源

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
院源
天暦5年 - 万寿5年5月24日宣明暦
951年 - 1028年6月19日ユリウス暦〉)[注 1][1][2][3]
宗旨 天台宗
寺院 延暦寺法性寺崇福寺元慶寺[1]
良源覚慶[1][2][3]
弟子 源心実誓[4]
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院源(いんげん)は、平安時代中期の天台宗僧侶。第26世天台座主

経歴

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光孝平氏平基平[注 2]の子として生まれる[1][2][6]。若くして父を失ってのち比叡山得度し、良源覚慶[注 3]に師事[1][2][3][7]天元3年(980年)良源の中堂供養に加わり僧綱に連なる[1]永延元年(987年山科慈徳寺が創建されると、初代の阿闍梨の一人に選ばれる[7]正暦4年(993年山門派と寺門派の分裂では山門派として行動し、園城寺長吏勝算の横暴と、その弟子成算の逮捕を朝廷に訴え出ている[1][2]

長徳4年(998年)覚慶の天台座主就任に伴い、その後任として法性寺座主に就任。寛和元年(985年)には延命院七禅師に任じられる[7]長保3年(1001年)権律師に補せられ、翌年には内裏八講会供奉の賞として権少僧都に進む[2][6]寛弘2年(1005年崇福寺別当[8]。寛弘7年(1010年)には内裏での法華経千部会の講師を務めてその賞により権大僧都となるが、翌年には辞任して感神院検校に移る[6]。同年、一条院出家の戒師、冷泉院葬送の導師を務めた[1][2][3][9]長和6年(1017年法印に叙される[10]寛仁元年(1017年)には三条院の、同3年(1019年)には藤原道長皇后藤原娍子の出家の戒師を務めた[1][2][3][11]

寛仁4年(1020年)天台座主となり、同年に権僧正に進む[1][3][6]治安2年(1022年法成寺金堂の落成供養で導師を務める[2][6]。治安3年(1023年)僧正に転じ、また良源以来中絶していた法務を兼ねる[1][2][3][12]万寿元年(1024年脩子内親王出家の戒師を、翌2年(1025年藤原嬉子葬送の導師を務める[13]。同年には後一条天皇仁王経を講じ、その賞として輦車を聴される栄誉を得た[1][2][12]。万寿4年(1027年)に相次いで逝去した皇太后藤原妍子、藤原道長葬送の導師を務めた[14]。晩年は西塔北尾谷の西方院に住居し、翌万寿5年(1028年)入滅[1][2][15]

人物

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院源は弁舌に優れ、説教の名人として知られた。それが宮廷社会の要求を満たしたことから重く用いられ、王侯の招きでしばしば仏事を執り行っているほか、藤原道長を始めとして出家の戒師や葬送の導師をよく務めた[1][2][6]。『今昔物語集』には、源満仲とその郎党らが院源の説教を聞くや涙を流して発心し、たちまち主従出家したとする逸話を載せている[16][1][3]

参考文献

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  • 多賀宗隼 著「院源」、国史大辞典編集委員会 編『国史大辞典』 1巻、吉川弘文館、1979年。ISBN 978-4-642-00501-2 
  • 三橋正 著「院源」、朝日新聞社 編『朝日日本歴史人物事典』朝日新聞社、1994年。ISBN 978-4-02-340052-8 
  • 飯田悠紀子; 山本吉左右「多田満仲」『新編 日本架空伝承人名辞典』平凡社、2012年。ISBN 978-4-582-12644-0 
  • 上田正昭; 西澤潤一; 平山郁夫 ほか 編『日本人名大辞典』講談社、2001年。ISBN 978-4-06-210800-3 
  • 東京大学史料編纂所 編『大日本史料 第二編』 27巻、東京大学出版会、2001年。ISBN 978-4-13-090077-5 

脚注

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注釈

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  1. ^ 生年は天暦6年(952年)説もある[1]
  2. ^ 系図類や『僧綱補任』は名を「元平」とする。従四位陸奥守[5]
  3. ^ 母方の伯叔父にあたるという。覚慶は桓武平氏高棟の曾孫・平善理の子[7]

出典

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  1. ^ a b c d e f g h i j k l m n o p 多賀 1979.
  2. ^ a b c d e f g h i j k l m 三橋 1993.
  3. ^ a b c d e f g h 『日本人名大辞典』, § 院源.
  4. ^ 『大日本史料』, p. 132.
  5. ^ 『大日本史料』, pp. 128–129.
  6. ^ a b c d e f 『大日本史料』, pp. 127–128.
  7. ^ a b c d 『大日本史料』, p. 128.
  8. ^ 『大日本史料』, p. 130.
  9. ^ 『大日本史料』, p. 144.
  10. ^ 『大日本史料』, p. 127.
  11. ^ 『大日本史料』, p. 146.
  12. ^ a b 『大日本史料』, pp. 128–130.
  13. ^ 『大日本史料』, p. 147.
  14. ^ 『大日本史料』, p. 148.
  15. ^ 『大日本史料』, pp. 126–127.
  16. ^ 飯田 & 山本 2012, § 伝承.