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間島氏勝

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
 
間島 氏勝
時代 戦国時代 - 安土桃山時代
生誕 生年不明
死没 没年不明
別名 彦太郎、右兵衛
主君 豊臣秀吉秀頼黒田孝高
氏族 間島氏
父母 父:間島氏常
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間島 氏勝(まじま うじかつ)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将大名豊臣氏の家臣。播磨国福中城主、のち淡路国岩屋城主。姓は真島とも[1]

出自

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間島氏赤松氏の傍流で、宇野則景の子・景能を祖とする。嘉吉元年(1441年)の嘉吉の乱で赤松氏とともに没落するが、康正2年(1456年)、南朝より神璽を奪還し(禁闕の変)、お家再興を果たした。その後、赤松氏のもとで加賀国守護代を務めたが、応仁の乱後に本貫地である播磨国明石郡平野荘に戻った[2]

略歴

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播磨国大山館主・間島氏常の子として生まれる[3]天正8年(1580年)頃、播磨に侵攻した羽柴秀吉に臣従し、天正11年(1583年)4月、賤ヶ岳の戦いの後の論功行賞で淡路国岩屋城主に任ぜられた[1]

天正12年(1584年)、小牧・長久手の戦いに従軍し、天正14年(1586年)には方広寺大仏殿(京の大仏)の作事奉行を務める。その後、九州平定小田原征伐にも従軍し、文禄元年(1592年)の朝鮮派兵では肥前国名護屋城に駐屯[1]、最終的に1万石を領したが[3]、文禄4年(1595年)の秀次事件に連座した[2]

慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いでは西軍に加担したため没落するが、その後、同族のよしみをもって黒田如水に寄食したという[1]

脚注

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  1. ^ a b c d 阿部猛西村圭子『戦国人名事典 コンパクト版』新人物往来社、1990年9月10日、719頁。ISBN 4404017529 
  2. ^ a b 森岡浩『戦国大名家辞典』東京堂出版、2013年12月30日、483頁。ISBN 9784490108422 
  3. ^ a b 高柳光寿、松平年一『戦国人名辞典 増訂版』吉川弘文館、1973年7月20日、224頁。