鍋島直澄
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時代 | 江戸時代前期 |
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生誕 | 元和元年11月12日(1616年1月1日) |
死没 | 寛文9年3月5日(1669年4月5日) |
別名 | 千熊丸(幼名)、義峯(号)、正献院殿義峯宗眼(法名) |
官位 | 従五位下・甲斐守 |
幕府 | 江戸幕府 |
主君 | 徳川家光、家綱 |
藩 | 肥前蓮池藩主 |
氏族 | 鍋島氏 |
父母 | 父:鍋島勝茂、母:高源院 |
兄弟 |
市姫、元茂、鶴、満千代、忠直、直澄、 宝乗院、直弘、神代常利室、直朝、 永春院殿、卿公、鍋島元茂養女、 神代直長、超誉 |
妻 | 松平忠明の娘・牟利姫、安樹院(伊香賀氏) |
子 | 直守、直之、於千代、之治、之映、直称、之徳、松平好房正室 |
鍋島 直澄(なべしま なおずみ)は、江戸時代前期の大名。肥前国蓮池藩初代藩主。官位は従五位下、甲斐守。
略歴
[編集]兄の忠直の死後、その未亡人を娶った経緯から、鍋島宗家の家督相続の候補者に推されたが、継ぐことはできなかった。
寛永15年(1638年)、天草・島原の乱から帰参すると、父の勝茂は佐賀城本丸に入り、自らは三の丸に入った(兄の元茂は西の丸に入った)[1]。
寛永19年(1642年)、肥前国蓮池藩に5万2000石を与えられ初代藩主となった(立藩年次については異説あり)。
寛文5年(1665年)に塩田吉浦館へ隠居し、家督を次男の直之に譲る。寛文9年(1669年)3月5日、病のため塩田吉浦館で没した。
遺命により遺骨は吉浦至誠山、慶誾寺、潜龍寺(のちの宗眼寺)に分けて納められた。
系譜
[編集]父母
正室
側室
- 安樹院 ー 伊香賀貞知の娘
子女
- 鍋島直守(長男)
- 鍋島直之(次男)生母は恵照院(正室)
- 鍋島之治(三男)
- 鍋島之映(四男)
- 鍋島直称[注釈 2](五男)生母は安樹院(側室)
- 鍋島之徳(六男)
- 於千代、宝善院 ー 鍋島直條正室、鍋島光茂の養女
- 松平好房正室
脚注
[編集]注釈
[編集]出典
[編集]- ^ “佐賀城築城400年記念 歴代藩主と佐賀城”. 徴古館. p. 8. 2024年12月3日閲覧。