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鈴村久

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
鈴村 久
Hisashi Suzumura
基本情報
名前 鈴村 久
生年月日 (1939-10-15) 1939年10月15日(85歳)
身長 168 cm (5 ft 6 in)
体重 65 kg (143 lb)
国籍 日本の旗 日本
出身地 愛知県
経歴
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鈴村 久(すずむら ひさし、1939年10月15日 - )は愛知県出身のプロゴルファー

来歴

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名古屋工業高校卒業[1]

1962年にプロ入りし、1964年日本プロでは2日目に当時49歳の大ベテラン戸田藤一郎と共に2位タイに付け、最終日には橘田規が最初の9ホールで39と崩れ、石井朝夫と共に首位に立つ[2]。橘田がすぐに追いつくと、鈴村は9番で痛恨のダブルボギーで3位に終わる[2]

1965年日本オープンでは橘田・内田繁柳田勝司に次ぐと同時に藤井義将陳清波中華民国の旗 中華民国)・安田春雄杉原輝雄を抑えての6位に入り[3] [4]1966年には長崎オープンで石井裕士木本与・石井朝を抑えて優勝[5]

1967年中日クラウンズでは大会前に中村寅吉から指導を受け、初日に10番から13番にかけた4連続バーディを含む66をマークして単独2位に付ける[6]。2日目には好調なパットで68をマークし、通算6アンダー単独トップで終え、鈴村にとって初めてのトーナメントリーダーとなる[6]。3日目は1打差の通算5アンダーで石井冨士夫と共に2位タイに付けるが、最終日はビッグタイトルのプレッシャーからか、杉本英世と中村に挟まれて前日までのプレーができなかった[6]。1番のティショットを左のに入れボギー、4、7番のショートでもバンカーに入れるなどしてボギーを連発[6]。それでもアウトを終えた鈴村は7アンダーで依然首位をキープしたが、11番でバーディを奪った謝永郁(中華民国)が追い詰める[6]。謝が18番でバーディパットを決めた時、鈴村は17番で絶対に入れてはいけない左の深いバンカーへ落として無念のボギーとなる[6]。結局この1打が勝負の明暗を分け、この日65をマークした謝の逆転優勝[6]を許す2位と涙を飲んだ。 

1968年の中日クラウンズでは、2日目に佐藤精一・石井裕と共に首位の安田を2打差で追う3位に付け、3日目には安田と共に正確なショットで手堅くスコアをまとめ、安田と1打差の2位へと順位を上げた[7]。最終日は安田がミスをしてもすぐに取り返す気迫のプレーを展開し、鈴村も同様にしぶといゴルフでスコアを崩すことなく、互いに一歩も譲らぬ接戦を演じる[7]。安田が鈴村を1打リードして迎えた18番、安田が第1打を林に打ち込み痛恨のボギーとなり、鈴村は手堅くパーセーブして土壇場で追いつき、共にトータル2アンダーでホールアウトする[7]。優勝の行方は、10、17、18番の3ホールで争われるプレーオフにもつれ込んだ[7]。最初の10番、鈴村が1mに付けバーディパットを決めると、安田が1メートル半を外してパー。勝負が見えたかに思えたが、3ホール目の18番で安田がバーディを奪い返し、1番から1ホールごとの結果で勝敗を決めるサドンデス方式のプレーオフに突入[7]。1番ホールに舞台を移してからも、両者は全く互角の戦いを見せる。5番で鈴村が第2打を右ラフへ入れてボギーを叩くも、安田も第2打を左奥のへ打ち込んでボギー[7]。夕闇が迫る中、迎えた6番で安田は安定したショットで無難に2オンするが、鈴村は第1打をラフへ打ち込み、そこからの2打目をグリーン左の下に落してしまう[7]。3打目をに当てようやく4オン[7]したが、安田は2オン2パットのパーに収め、日本ゴルフ史上最長となる1時間40分、9ホールのプレーオフにようやく決着を見た[7]。鈴村は健闘空しく惜敗[7]し、2年連続2位に終わった。最後は当時28歳の鈴村と25歳の安田との体力差がくっきりと表れ、試合後に鈴村は「疲れた」と口にしたほか、あまりの長さに「両方優勝にしてやれ!」とギャラリーが声を出すほどであった[8]

1970年の日本プロでは初日に6アンダー、66をマークして首位に立ち、2日目も快調なプレーを見せていたが、終盤に急ブレーキがかかりパープレーの72と落とす[9]。最終日には第3ラウンド終了時に橘田光弘に並ばれ、杉本・安田、陳健忠(中華民国)、青木功矢部昭と共に7位タイに終わる[9]

1975年、初めて海外で開催された日本のトーナメント「クイリマ&タカヤマ・クラシック」[10]に出場し、鈴村照男とペアを組んだダブルスで2日目に石井裕&石井冨ペアと並んでの3位タイ[11]に浮上。3日目には吉川一雄&鈴木規夫ペアと並んでの4位タイ[12]とし、最終日には通算574で吉川&鈴木・鷹巣南雄&金井清一ペアを抑えて優勝[13] [14]

1978年中部オープン井上幸一の2位に入り[15]1980年の中部オープンで18年目にしてツアー初優勝を飾る[16]

1981年アジアサーキットタイランドオープンでは泉川ピートと並んでの10位タイ[17]1985年大京オープンでは優勝した金井清一と5打差、倉本昌弘渡辺司と並んでの2位タイ[18]に入った。

1989年の中部オープンを最後にツアーから引退し[19]、シニア転向後は5勝した。

主な優勝

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レギュラー

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  • 1966年 - 長崎オープン
  • 1975年 - クイリマ&タカヤマ・クラシック(ダブルス、鈴村照とのペア)
  • 1980年 - 中部オープン

シニア

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  • 1989年 - 第一生命カップ・秋
  • 1990年 - '90緑営グループ杯シニア
  • 1991年 - 五島昇メモリアルとうきゅうシニア
  • 1992年 - アイスターカップ’92
  • 1999年 - '99日本プログランドシニア

脚注

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  1. ^ 鈴村 久選手 プロフィール - 日本ゴルフツアー機構 - The Official Site”. www.jgto.org. 2023年6月11日閲覧。
  2. ^ a b 第32回日本プロゴルフ選手権(1964年)”. www.golfdendou.jp. 2023年5月29日閲覧。
  3. ^ 第30回日本オープンゴルフ選手権(1965年)”. www.golfdendou.jp. 2023年10月14日閲覧。
  4. ^ JGA 日本ゴルフ協会【日本オープンゴルフ選手権競技】”. www.jga.or.jp. 2023年10月14日閲覧。
  5. ^ 男子トーナメント年度別一覧表(1926年~1972年)”. www.golfdendou.jp. 2023年6月11日閲覧。
  6. ^ a b c d e f g 中日クラウンズの歴史”. hicbc.com. 2023年5月29日閲覧。
  7. ^ a b c d e f g h i j 中日クラウンズの歴史”. hicbc.com. 2023年5月29日閲覧。
  8. ^ 祝殿堂入り!9ホールに及ぶサドンデスを制してのプロ初V 伝説のプレーオフ7連勝の始まりだった【名勝負ものがたり】”. www.golfpartner.co.jp. 2023年5月29日閲覧。
  9. ^ a b 第38回日本プロゴルフ選手権(1970年)”. www.golfdendou.jp. 2023年5月29日閲覧。
  10. ^ 佐藤朗「着陸の日まで ―尾崎将司とその時代」幻冬舎2019年7月25日ISBN 4344923766、p138。
  11. ^ 毎日新聞縮刷版p629 昭和50年1月26日朝刊15面
  12. ^ 朝日新聞縮刷版p737 昭和50年1月27日朝刊19面「村上が急追 首位に立つ クイリマ・ゴルフ第3日
  13. ^ 毎日新聞縮刷版p677 昭和50年1月28日朝刊15面「村上"独走"優勝 クイリマ・ゴルフ
  14. ^ 朝日新聞縮刷版p767 昭和50年1月28日朝刊17面「村上隆、4打差で優勝 クイリマ・ゴルフ ダブルスは鈴村組
  15. ^ 朝日新聞縮刷版p538 昭和53年7月16日朝刊18面「井上が初栄冠 中部オープン
  16. ^ 山下和宏が今週も上位で週末へ 過去の“最遅”初勝利はだれ?”. golfdigest.co.jp. 2023年5月29日閲覧。
  17. ^ 朝日新聞縮刷版p322 昭和56年3月9日朝刊18面「羽川が2位 タイ・オープンゴルフ
  18. ^ 大京オープン 1985 - 日本ゴルフツアー機構 - The Official Site”. www.jgto.org. 2023年6月11日閲覧。
  19. ^ 鈴村 久選手 年度別大会成績 - 日本ゴルフツアー機構 - The Official Site”. www.jgto.org. 2023年5月29日閲覧。

外部リンク

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