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近代文学 (雑誌)

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近代文学』(きんだいぶんがく)は、第二次世界大戦後に刊行されていた日本文芸雑誌である。

来歴

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1945年昭和20年)、荒正人平野謙本多秋五埴谷雄高山室静佐々木基一小田切秀雄の7名の同人によって創刊され、1947年(昭和22年)7月に第一次同人拡大により久保田正文花田清輝平田次三郎大西巨人野間宏福永武彦加藤周一中村真一郎が加わった。その後も同人拡大が行われた。創刊当時の同人たちは、多くが戦前のプロレタリア文学運動の末端にいたが、戦時中の経験をとおして、文学の自律性を訴えることの大切さを主張とした。創刊号と第2号とで、小林秀雄蔵原惟人という文学的に対極にあると思われていた二人を座談に呼んだというのも、かれらの観点を示している。

その後、かれらの多くは新日本文学会に加入したが、会の主流であった旧プロレタリア文学の流れとは距離をおいた。荒・平野と中野重治との、(批評の人間性)論争は、そのあらわれであった。

1964年(昭和39年)に終刊。

1960年(昭和35年)に(近代文学賞)を設け、『近代文学』誌上に掲載された作品から優秀なものに授賞することとし、吉本隆明辻邦生たちが受賞した。終刊の1964年(昭和39年)まで、5回続いた。

掲載された主な作品

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  • 埴谷雄高『死霊』

座談会「コメディ・リテレール 小林秀雄を囲んで」

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GHQが公職追放令を発布して間もない1946年(昭和21年)1月12日、雑誌「近代文学」の座談会「コメディ・リテレール 小林秀雄を囲んで」[注釈 1]で小林は、出席者の本多秋五による小林の戦時中の姿勢への言及を受けて以下のような発言を行った。

僕は政治的には無智な一国民として事変に処した。黙って処した。それについて今は何の後悔もしていない。

大事変が終った時には、必ず若しかくかくだったら事変は起らなかったろう、事変はこんな風にはならなかったろうという議論が起る。 必然というものに対する人間の復讐だ。はかない復讐だ。この大戦争は一部の人達の無智と野心とから起ったか、それさえなければ、起こらなかったか。 どうも僕にはそんなお目出度い歴史観は持てないよ。僕は歴史の必然性というものをもっと恐しいものと考えている。

僕は無智だから反省なぞしない。利巧な奴はたんと反省してみるがいいじゃないか。

座談会「近代文學の反省」

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伊吹武彦主宰の雑誌『世界文學』1946年10月号に近代文學同人による座談会「近代文學の反省」が掲載された[注釈 2]

平野 近代文學を語る――といふ座談會のテーマは、世界文學の觀點からと、日本の近代文學といふ點からと解釋されるわけですが、まあ身近かな近代日本文學の成立ちその確立といふやうな問題から、世界文學的觀點まで押しひろめて行つたらどうかと思ふのです。ひとつ――プロレタリア文學運動における個人の位置、もつとひろくプロレタリア文學運動といふものが現在の立場から見て、どういふプラスとマイナスとを持つてゐたかといふ點で山室君、何か意見ない?

山室 マルキシズムの理論からいへば、だいたい個人の意識といふものは、社會の経済的政治的な發展の上部構造として、獨立な意識といふものをあまり認めないわけだね。さうなると、結果としては現實追随といふ傾きがどうしても出て来ると思ふ。そこで戰争になつたんだから仕方がない、なるべくソツとやりすごさうといふふうにも考へられるわけだがね。一方に……。

埴谷 うん。もつと理想的な形でいへば、戰争になつても戰争に反對しようといふ、もつと積極的な立場も一つの假定としてはとり得たわけなんだね。さういふことをしないで仕方がないんだといふ具合に受け流して來た。そこが非常にマイナスの面ぢやないかと思ふね。

佐々木 仕方がないとは考へてゐなかつたんだらう。やはり内心では戰争に反對してゐたわけだね。戰争は勿論嫌惡してゐたわけだよ。だけど、現實の努力として戰争に反對ができない、反戰運動もできないといふことにたいする痛切な自己批判ね、さういふものはなかつたんぢやないか。

埴谷 さうなんだ。僕が仕方がないといふのは、反對できないといふことにたいして、今度は反對できないならできないで、自分の個人にたいする再認識を明白にしなかつた點をいふのだがね。さういふことの淵源は、プロレタリア文學における個人、もつと具體的にいへば、プロレタリア文學の中における小ブルジヨア、インテリゲンツイアの自主的ないろいろな働き、さういふものにたいして傳統的に非常に輕く考へる、といふやうなことがあつたんぢやないかと思ふのだね。

佐々木 つまりこの戰争は帝國主義戰争である。フアシズムの侵略戰争である。だから理論的にいへば當然その反動に反對するといふ程度のこと、つまりおれは正しい理論を知つとるぞ、といふことだけでひそかに満足してゐなかつたか。

荒 さういふ政治的な割切れぬ反感、それを自分の生身に引寄せた感じ方をするといふところまでゆかなかつた。それはプロレタリア文學が、亞流文學あるひは政治的文學であつたところに原因があるやうに思ふのだね。

平野 とにかくプロレタリア文學運動といふものは、日本の近代文學に一應締括りをつけるわけだね。さういふ近代日本文學の一つの決着點であるプロレタリア文學運動が、昭和九年一應挫折して、さうして戰争になつたわけだが、それが今荒君が言つたみたいに弱點を戰争中露呈したといふことになれば……。

佐々木 つまりね、轉向問題が起つて……。

荒 轉向の初期においてはやはり皆心から良心的に惱んでゐるのだね。それが戰争になると初めからあきらめてしまつてゐる。だから轉向したといつても良心に疚しい思ひをしなくて済むといふふうになつてしまつた。

平野 さういふ自己批判の不徹底といふことね。それは例へば、プロレタリア文學運動が敗北して、その後に轉向文學が出て、一般にいへば不安の文學といふやうなものが發生したわけなんだ。あるひは主體的なリアリズムといふやうな、非常に個體的なものにアクセントを持つてをつたもの、それから行動主義といふふうなもの、浪漫派といふものが出て來た。プロレタリア文學の一應の枠が外づれたときに、混沌としたいろいろな芽が出て來たわけだ。その場合プロレタリア文學運動を擔當した主な人たちが、次に興つて來るいはゞ不安の文學といふふうなものをどういう風に見てゐたかね。………(以下略)

参考文献

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  • 本多秋五『物語戦後文学史』

脚注

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注釈

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  1. ^ 出席は、荒正人、小田切秀雄、佐々木基一、埴谷雄高、平野謙、本多秋五など、「近代文学」創立メンバー
  2. ^ 出席は、荒正人、小田切秀雄、佐々木基一、埴谷雄高、平野謙、本多秋五など、「近代文学」創立メンバー

出典

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