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藤戸寺

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藤戸寺
境内
所在地 岡山県倉敷市藤戸町藤戸57
位置 北緯34度33分36.36秒 東経133度48分34.14秒 / 北緯34.5601000度 東経133.8094833度 / 34.5601000; 133.8094833
山号 補陀落山(補陀洛山、補陀樂山)
宗派 高野山真言宗
本尊 千手観音
創建年 伝・天平年間(729年 – 748年
開基 伝・行基
正式名 補陀洛山千手院藤戸寺
別称 藤戸のお大師さん、お大師さま(おだいっさま)
札所等 児島八十八カ所46番
その他: 倉敷の歴史文化を訪ねるみち[1]
沙羅の花を観る会(6月)[2]
文化財 石造五重塔(県重要文化財)
法人番号 2260005004282 ウィキデータを編集
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漁師義太夫を殺す佐々木盛綱(歌川国芳画)

藤戸寺(ふじとじ)は、岡山県倉敷市藤戸町藤戸[3]に所在する高野山真言宗の寺院。山号は補陀楽山。本尊は千手観音。「藤戸のお大師様」、「源平合戦供養の寺」として知られる。

概要

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寺伝によれば、この地に寺院が建立された由来は以下の通りである。寺の周囲がまだ海であった慶雲2年(705年)に千手観音像が海中から浮かび上がり、それを安置したことに始まる。その約30年後、諸国を巡っていた行基により安置してあった千手観音像を本尊とし天平年間(729年 – 748年)に寺院を創建した。

寿永3年(1184年)12月、源平合戦藤戸の戦いで戦功を挙げた佐々木盛綱は、戦後、この寺院の周辺である児島郷を領地として拝領し、戦乱で荒廃した寺院を修復したとされる。

盛綱は合戦の際に若い漁師が道案内をしたことで武功を立てたが口封じのために殺害したと言われる。その漁師の霊と合戦の戦没者を弔うために当寺院で大法要を営んだと伝えられている。この伝説は謡曲「藤戸」としての演目の一つとなっている。以後、毎年、藤戸寺土砂加持法会において盛綱とともに供養されている。

寺院は応仁の乱以後、戦国時代に至るまで兵乱によりたびたび戦火に見舞われた。江戸時代岡山藩の領地になってようやく伽藍が整備された。本堂は岡山藩5代藩主池田治政の命により天明元年(1781年)に再建された。

平成14年(2002年5月6日に放送された水戸黄門第30部17話は、藤戸寺を中心とした話の構成となっていた。3月19日・20日に藤戸寺で撮影が行われた。当時の黄門役は石坂浩二

義太夫 藤戸の浦

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昭和44年(1969年東京国立劇場において公演となった義太夫である。原作は有吉佐和子。藤戸合戦の際に殺害された漁師の若者と若者の母を中心に、戦争と平和、母と子の愛情を主題としている。翌、昭和45年(1970年)には岡山公演が行われ利益は藤戸寺の修復に寄贈された。

野沢喜左衛門が作曲を担当。振付は藤間勘右衛門。若者を藤間勘右衛門、若者の母を吾妻徳穂が演じた。

文化財

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岡山県指定重要文化財

  • 石造藤戸寺五重塔婆
    高さ 355センチメートル。花崗岩製。本堂の北西に建っている。初重東面の輪郭下部に寛元元年十月十八日の銘がある。寛元元年は西暦1243年で、鎌倉時代中期の製作であると思われる。昭和33年(1958年4月10日指定。

参考文献

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  • 岡山県高等学校教育研究会社会科部会歴史分科会/編 『新版 岡山県の歴史散歩』 山川出版社 1991年 99ページ
  • 現地説明板

脚注

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