藤原宗俊
時代 | 平安時代中期 - 後期 |
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生誕 | 永承元年(1046年) |
死没 | 永長2年5月5日(1097年6月17日) |
官位 | 正二位、権大納言 |
主君 | 後冷泉天皇→後三条天皇→白河天皇→堀河天皇 |
氏族 | 藤原北家中御門流 |
父母 | 父:藤原俊家、母:源隆国の次女 |
兄弟 | 基頼、寛慶、宗俊、師兼、基俊、全子、宗通、堀川殿、俊範、寛澄、済観 |
妻 | 藤原実綱の娘、源俊房の娘 |
子 | 宗忠、宗輔、忠良、相命 |
藤原 宗俊(ふじわら の むねとし)は、平安時代中期から後期にかけての公卿。藤原北家中御門流、右大臣・藤原俊家の次男。官位は正二位・権大納言。松木家の祖。
経歴
[編集]後冷泉朝の天喜5年(1057年)従五位下に叙爵し、翌天喜6年(1058年)侍従に任官。康平2年(1059年)従五位上・左近衛少将に叙任されると、康平3年(1060年)正五位下次いで従四位下、康平6年(1063年)従四位上・右近衛中将、康平7年(1064年)正四位下と近衛次将を務めながら順調に昇進した。
治暦元年(1065年)蔵人頭に補されると、治暦3年(1067年)に参議に任ぜられて公卿に列す。議政官の傍らで引き続き中将を兼ね、後三条朝に入っても、治暦4年(1068年)従三位、延久2年(1070年)正三位と昇進を重ねた。白河朝の承保2年(1075年)従二位、承暦4年(1080年)権中納言に叙任され、寛治6年(1092年)権大納言に至る。
永長2年(1097年)5月5日薨去。享年52。最終官位は権大納言正二位兼按察使。
人物
[編集]逸話
[編集]宗俊は豊原時光の笙の弟子であった。時光が宗俊に対して大食調の入調を今に教えようといいながら、教えることがないまま年月を経ていた。雨が激しく降っていたある夜、時光が「今夜こそは入調を伝授したい」と来訪した。宗俊は喜ぶが、時光は「殿中では誰かに聞かれてしまうかもしれないので、大極殿に行きましょう。供は時光一人で。」と申し上げた。大極殿でまさに秘曲を伝授しようとした時、「このような所でも曲を聴こうとして誰か隠れているかもしれない」と言って、時光は松明を取って辺りを見回したところ、蓑笠を着た者が一人柱の陰にいた。誰かと問うたところ、笙の名人の武吉(武能)であった。そこでやむなく、時光と宗俊は伝授ができないまま帰ったという(『古事談』)
官歴
[編集]『公卿補任』による
- 天喜5年(1057年) 8月22日:従五位下(内給)
- 天喜6年(1058年) 正月10日:昇殿 4月16日:禁色 8月22日:侍従
- 康平2年(1059年) 正月5日:従五位上(馨子内親王御給)。2月13日:右近衛少将。2月15日:左近衛少将
- 康平3年(1060年) 正月6日:正五位下。2月21日:兼伊予介。11月28日:従四位下、還昇少将如元
- 康平4年(1061年) 12月8日:左近衛権中将
- 康平6年(1063年) 正月5日:従四位上。2月27日:右近衛中将
- 康平7年(1064年) 正月6日:正四位下(皇后宮御給)
- 康平8年(1065年) 3月29日:近江介。12月18日:蔵人頭(頭中将)
- 治暦2年(1066年) 2月8日:近江権介
- 治暦3年(1067年) 2月6日:参議、中将如元
- 治暦4年(1068年) 3月5日:兼讃岐権守。4月17日:従三位(隆國卿讓)
- 延久2年(1070年) 8月23日:正三位(春日行幸行事賞)
- 延久5年(1073年) 正月30日:讃岐権守。7月21日:皇太后宮権大夫
- 承保2年(1075年) 正月5日:従二位(民部卿讓、造大極殿行事賞)
- 承保4年(1077年) 3月27日:右近衛中将
- 承暦3年(1079年) 正月27日:備後権守
- 承暦4年(1080年) 正月28日:権中納言
- 承暦5年(1081年) 正月5日:正二位(参議時行幸春日社行事賞)
- 寛治6年(1092年) 4月26日:権大納言
- 嘉保3年(1096年) 正月24日:按察使
- 永長2年(1097年) 5月5日:薨去