藤原助
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時代 | 平安時代初期 |
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生誕 | 延暦18年(799年) |
死没 | 仁寿3年5月29日(853年7月8日) |
官位 | 正四位下、参議 |
主君 | 嵯峨天皇→淳和天皇→仁明天皇→文徳天皇 |
氏族 | 藤原北家 |
父母 | 父:藤原内麻呂 |
兄弟 | 真夏、冬嗣、秋継、桜麻呂、福当麻呂、長岡、率、愛発、大津、衛、助、収、平○○、恵須子、緒夏、紀有常室 |
子 | 是縄 |
藤原 助(ふじわら の たすく)は、平安時代初期の公卿。藤原北家、右大臣・藤原内麻呂の十一男。官位は正四位下・参議。
経歴
[編集]少判事・大学助等を歴任し、天長4年(827年)淳和天皇の蔵人を務める一方で、皇太子・正良親王の春宮少進を兼ねる。天長6年(829年)従五位下に叙爵する。天長8年(831年)には淳和天皇の側近として蔵人頭に任ぜられるが、春宮亮も兼ねて正良親王とも親しい関係を保つ。
天長10年(833年)正良親王が即位(仁明天皇)すると正五位下・右近衛権中将に叙任され、翌承和元年(834年)には従四位下に昇叙と、仁明朝初頭は順調に昇進する。のち、右近衛中将・左兵衛佐、右衛門督と武官を歴任し、承和10年(843年)参議に任ぜられ公卿に列す。仁明朝の中期以降は昇進面でやや停滞し、甥の長良・良相兄弟らに昇進で先を越されるものの、議政官として右衛門督・左兵衛督等の武官や、加賀守・下野守・信濃守等主に東国の地方官を兼帯した。嘉祥3年(850年)文徳天皇の即位後まもなく正四位下に叙せられている。
仁寿3年(853年)疱瘡に罹患したが十分に治癒しないうちに5月29日卒去[1]。享年55。最終官位は参議正四位下左兵衛督兼近江守。
人物
[編集]若くして大学に学び、史書を広く読んだ。性格は清廉で素直であり、世間の評判に憚る事はなかった。朝廷の官人というものは跼蹐(跼天蹐地の略。おそれつつしみ、からだを縮める事)であると言ったという[1]。
官歴
[編集]注記のないものは『六国史』による。
- 弘仁13年(822年) 9月:少判事[2]。11月:兵部少丞[2]
- 弘仁14年(823年) 2月:大学助[2]
- 天長元年(824年) 2月:出雲介[2]
- 天長4年(827年) 正月:蔵人[2]。正月:兼春宮少進(皇太子・正良親王)[2]
- 天長5年(828年) 閏3月9日:式部少丞[2]
- 時期不詳:正六位上
- 天長6年(829年) 正月7日:従五位下。正月13日:遠江介[2]
- 天長8年(831年) 6月7日:春宮亮[2]。7月:蔵人頭[2]
- 天長10年(833年) 2月29日:右近衛少将[2]。3月6日:正五位下(越階)。3月24日:右近衛権中将
- 承和元年(834年) 正月7日:従四位下
- 承和2年(835年) 7月30日:右近衛中将[2]
- 承和4年(837年) 正月12日:兼尾張守
- 承和6年(839年) 正月7日:従四位上
- 承和9年(842年) 7月11日:左兵衛督。7月25日:右衛門督
- 承和10年(843年) 2月10日:参議。11月16日:摂津班田使長官
- 承和11年(844年) 10月3日:摂津国班田使長官
- 承和12年(845年) 正月11日:兼加賀守
- 承和13年(846年) 正月13日:兼治部卿
- 承和14年(847年) 正月12日:兼下野守
- 承和15年(848年) 正月13日:兼左兵衛督。4月3日:兼弾正大弼
- 嘉祥3年(850年) 4月17日:正四位下
- 嘉祥4年(851年) 正月11日:信濃守
- 仁寿3年(853年) 正月16日:兼近江守。5月29日:卒去(参議正四位下左兵衛督兼近江守)
系譜
[編集]『尊卑分脈』による。